現在、環境思想はローカリズムに準拠するようになったとはいえ、依然として環境保護運動にコミットしている人々にほぼ限定され、受容されています。環境思想を、運動の先進部分以外へと敷衍するためには、環境思想を日常的な生活実感に即した水準において再解釈する必要があります。そのような問題意識にもとづき、発表では、まず、アメリカにおいてローカルな環境問題を主に扱う環境プラグマティズムが、環境保護運動家同士の議論の調整に特化されていることを概観しました。そして環境プラグマティズムが、非運動家における、生活的自然との身体的関わりへの視角を欠いていることを確認し、その側面を亀山純生の風土論により補いうることを提示しました。
風土論は、人間の活動・文化が自然条件によって決定すると見なす環境決定論と誤解されることもあります。確かに、和辻哲郎『風土 人間学的考察』(一九三五年)では、モンスーン型、牧場型、など気質や歴史、文化が類型化されて叙述されています。しかし、和辻自身は、風土概念を確立する際に、決定論へと陥りがちな主客二元論を注意深く避けつつ、風土を「自己了解の仕方」として位置づけており、そして和辻を批判的に継承する亀山も、風土を身体性を介した物質的・技術的関係として捉え、合意形成の規範根拠としています。
またその一方で、風土論に基づく環境思想は、単に生活的自然を五感と身体で受けとめることの重要性を主張するものと捉えられるかもしれませんが、そうではありません。亀山純生『環境倫理と風土 日本的自然観の現代化の視座』(二〇〇五年)では、経験を理論的に吟味するプロセス、さらに体験の中で「体験を吟味する理論」を再吟味する「試しの往復」を維持することにこそ要点があることが示され、その思想的背景には、デカルトの道徳論、フォイエルバッハの宗教論があります。天蓋的倫理が失調した時代において、環境思想がなお試しを往復する〈吟味する主体〉を希求するとき、これらの背景は示唆的に富みます。
今回は環境思想研究について詳しい方々が多くご参加されていたので、有意義なご質問・ご意見等をいただいきました。環境思想が常識common senseとなるということは、全員が何らかの形で運動に寄与しなくてはならないのか。亀山は風土を合意形成の規範と位置づけるときハーバーマスを採用しているが、デカルトの「良識」はどう考えられているのか。等々、いただいたご質問を梃子として博士論文の執筆のなかで考察を続けたいと思います。最後になりましたが、参加者の皆様、ありがとうございました。
風土論は、人間の活動・文化が自然条件によって決定すると見なす環境決定論と誤解されることもあります。確かに、和辻哲郎『風土 人間学的考察』(一九三五年)では、モンスーン型、牧場型、など気質や歴史、文化が類型化されて叙述されています。しかし、和辻自身は、風土概念を確立する際に、決定論へと陥りがちな主客二元論を注意深く避けつつ、風土を「自己了解の仕方」として位置づけており、そして和辻を批判的に継承する亀山も、風土を身体性を介した物質的・技術的関係として捉え、合意形成の規範根拠としています。
またその一方で、風土論に基づく環境思想は、単に生活的自然を五感と身体で受けとめることの重要性を主張するものと捉えられるかもしれませんが、そうではありません。亀山純生『環境倫理と風土 日本的自然観の現代化の視座』(二〇〇五年)では、経験を理論的に吟味するプロセス、さらに体験の中で「体験を吟味する理論」を再吟味する「試しの往復」を維持することにこそ要点があることが示され、その思想的背景には、デカルトの道徳論、フォイエルバッハの宗教論があります。天蓋的倫理が失調した時代において、環境思想がなお試しを往復する〈吟味する主体〉を希求するとき、これらの背景は示唆的に富みます。
今回は環境思想研究について詳しい方々が多くご参加されていたので、有意義なご質問・ご意見等をいただいきました。環境思想が常識common senseとなるということは、全員が何らかの形で運動に寄与しなくてはならないのか。亀山は風土を合意形成の規範と位置づけるときハーバーマスを採用しているが、デカルトの「良識」はどう考えられているのか。等々、いただいたご質問を梃子として博士論文の執筆のなかで考察を続けたいと思います。最後になりましたが、参加者の皆様、ありがとうございました。
太田和彦(東京農工大学大学院博士課程)
