ウェストファリア条約は、三十年戦争の講和条約。主権国家体制を確立させたヨーロッパ初の近代的国際条約である。
近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し、民主主義が成長した反面、各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは,国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし、対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方、国際法を制定したり、国際機関を設立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。
このように戦争を助長したり、あるいは戦争を抑制したりする傾向が、三十年戦争、フランス革命戦争、第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのか、少し概観してみる。
このように戦争を助長したり、あるいは戦争を抑制したりする傾向が、三十年戦争、フランス革命戦争、第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのか、少し概観してみる。
ざっくりキーワードを図示すると、以下のような感じ。
三十年戦争 | ウェストファリア条約,「戦争と平和の法』 |
フランス革命戦争 | ナショナリズム,徴兵制 |
第一次世界大戦 | 総力戦,平和に関する布告,十四カ条,国際連盟 |
三十年戦争、つまりドイツ国内の宗教戦争が、なぜこんなに長引いた(1618年から1648年まで続いた。ちなみにこの頃、日本は鎖国を始めている)かといえば、その原因は3点。
- 普遍的権威の喪失 ・絶対主義国家の国益追求 ・傭兵の使用
こんな戦争がばしばし起こっちゃ適わないので、抑制策として、ウェストファリア条約と、主権国家体制確立を前提とした国際法理念の採用が望まれることとなった。
※「ドイツ国内の宗教戦争」と書いたが、適切な表現ではない。
1648年、ウェストファリア条約締結時の神聖ローマ帝国は諸侯が支配する(1)領邦国家と(2)自由市が、300ほど寄り集まった所帯だった。
160年後の1806年には、ナポレオンがプロイセンとオーストリアに対抗するために、西南ドイツの諸邦にライン同盟を結成させたりしたけど、まだ「国」ではない。そして1815年,ナポレオンが没落し,ウィーン会議によって、ドイツ地方は35の君主国,4つの自由都市から成るドイツ連邦となる、が、まだ「国」ではない。
そんなわけで、「ドイツ国内」という呼び方がなされるには、三十年戦争のときからあと200年以上待たなければならない(普仏戦争のあたりまで)。
1648年、ウェストファリア条約締結時の神聖ローマ帝国は諸侯が支配する(1)領邦国家と(2)自由市が、300ほど寄り集まった所帯だった。
160年後の1806年には、ナポレオンがプロイセンとオーストリアに対抗するために、西南ドイツの諸邦にライン同盟を結成させたりしたけど、まだ「国」ではない。そして1815年,ナポレオンが没落し,ウィーン会議によって、ドイツ地方は35の君主国,4つの自由都市から成るドイツ連邦となる、が、まだ「国」ではない。
そんなわけで、「ドイツ国内」という呼び方がなされるには、三十年戦争のときからあと200年以上待たなければならない(普仏戦争のあたりまで)。