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CV
上坂すみれ
史実情報
着艦識別文字は「ヒ」
飛龍は
蒼龍と共に、軍縮条約で割り当てられた空母保有量を踏まえて建造された、中型空母である。
とはいえ、設計段階で軍縮条約の破棄が決定したため、
蒼龍に比べ幾分か設計の自由度が増している。
さらに第四艦隊事件を考慮した設計変更も行われており、文献によっては蒼龍型ではなく飛龍型とされる場合もある。
外見上の特徴として、艦橋が左舷中央部に配置されていることが挙げられる。
これは、艦橋と煙突は両舷に分けて配置するべきという提言によるもので、建造面でも艦載機運用面でも利点があるとされた。
この改良は重量配分という点では好ましかったが、左舷の艦橋配置は乱気流を巻き起こし、着艦の難易度を上げる結果となってしまった。
飛龍の例を教訓として、以降の日本空母は全て右舷側前部に艦橋を配置されることとなる。
一部に問題はあったものの、
飛龍の設計は極めて優秀で、日本空母の決定版と言えた。
そのため後に
飛龍の設計を元にした量産型正規空母として、雲龍型航空母艦が量産されている。
飛龍は1936年7月8日、横須賀海軍工廠で起工。39年7月5日に竣工し、同年11月に第二航空戦隊を編成した。
その翌年の4月には、日中戦争に参戦し、中国福建省を爆撃している。40年11月には“人殺し多聞丸”こと山口多聞少将を二航戦司令に迎え、旗艦となる。
1941年4月、新設された第一航空艦隊に編入。7月にはインドシナ方面に出動。その後は日本に帰還し、対米戦の準備に入る。
同年12月8日、真珠湾攻撃に参加。飛龍は航続距離が短かったため、大量のドラム缶に燃料を入れて積み込んでいた。
この戦いで、山口司令は反復攻撃の継続を具申するも、司令部には受け入れられなかった。もっとも、これは当初からの決まりだったともいう。
その後、二航戦はウェーク島攻撃を支援。年末日本に帰投する。
年明けの1942年からは、南洋諸島への攻撃を開始。3月末から4月にかけてはインド洋に転身し、英国東洋艦隊と戦った。
5月27日、
飛龍はミッドウェー作戦に参加すべく、日本を出撃。今回は燃料入りドラム缶の代わりに、米俵を満載したという。
6月5日午前1時30分、各艦より第一次攻撃隊が発艦。
飛龍の友永丈市大尉が指揮を執った。
米軍は攻撃隊の来襲をレーダーで捉えており、迎撃機が上がっていた。空襲は不十分にならざるを得ず、友永大尉は「第二次攻撃の要あり」とした。
この連絡を受け、南雲司令部は兵装転換を決定する。しかし、午前5時20分に利根4号水偵より敵機動部隊発見の報が入る。
山口司令は、対地爆弾でも空母の甲板は破壊できるとして「ただちに攻撃隊発進の要あり認む」と即時攻撃を主張した。
しかし、南雲司令部は意見具申を却下、再度の兵装転換が行われた。
そして午前7時30分頃、米艦載機の攻撃を受け、
赤城・
加賀・
蒼龍は被弾し大炎上となる。
飛龍は魚雷回避の結果、三隻から離れていたため難を逃れたのだった。
この事態に、山口司令は即座に反撃を決意。対地装備の九九艦爆を発艦させ、米空母へ向かわせた。
艦爆隊は米空母ヨークタウンを攻撃し、爆弾三発を命中させた。続けて友永大尉率いる九七艦攻隊が発進。ヨークタウンに魚雷を命中させ、航行不能に追い込んだ。
なお、この攻撃で友永大尉機は被弾炎上し、ヨークタウンの艦橋に体当たりしたという。
しかし
飛龍の反撃もここまでで、艦載機は零戦10、艦爆5、艦攻4しか残されていなかった。
更に、午後2時3分には米艦載機が殺到。爆弾4発を被弾してしまう。この時前部エレベーターが吹き飛び、艦橋直前の甲板に突き刺さった。
被弾しても機関は健在だったのだが、舵用モーターが停止したのでバッテリーに切り替えたところ、艦橋との連絡が途絶。艦上部へ向かおうにも、満載した米俵が障害となり果たせなかった。
被弾炎上する飛龍。艦橋前の物体が、吹き飛んだエレベーターである。
午後6時半からは、
利根、
筑摩や駆逐艦からの消火活動が行われるも、火の手は収まらない。艦長は機関室全滅(誤報)の報を聞き、総員退艦を決めた。
6月6日午前0時15分、総員退艦命令が出され、生存者は駆逐艦へ移乗した。山口司令と艦長は退艦を固辞し、
飛龍に残った。
上記の様子を描いたイラスト
乗員の移乗完了後の午前2時10分、駆逐艦
巻雲が魚雷を発射し、命中。
巻雲らは沈没を見届けず、西方へ退避した。
この後、空母
鳳翔から発進した機が、漂流する
飛龍を発見。飛行甲板上に人がおり、帽子を振っていたことを報告している。
南雲司令は直ちに現場へ駆逐艦を向かわせたが、
飛龍を発見することは出来なかった。
飛龍は午前6時6分ごろ、左に傾き艦首から沈んでいった。
なお、漂流中の
飛龍からは、脱出の遅れた機関部生存者がカッターで退避しており、15日間の漂流後米軍に救助されている。
上記の帽子を振っていた人は山口司令と艦長だと言われていたが、生存者が否定している。
1999年10月29日、米国の深海調査会社が、ミッドウェー沖海底4800メートル付近に沈んでいる、飛龍を発見したと言われる。
艦歴 |
発注 |
第二次海軍軍備補充計画 |
起工 |
1936年07月08日 |
於呉海軍工廠 |
進水 |
1937年11月15日 |
|
竣工 |
1939年07月05日 |
|
|
1939年11月15日 |
第二航空戦隊へ編入 |
|
1940年09月17日 |
第一次仏印進駐を支援 |
|
1940年10月11日 |
紀元2600年特別観艦式に参加 |
|
1940年12月19日 |
第二航空戦隊旗艦を“蒼龍”より継承。司令官は山口多門少将 |
|
1941年07月10日 |
第二次仏印進駐を支援 |
|
1941年12月08日 |
ハワイ真珠湾攻撃を実施 |
|
1941年12月21日 |
第二次ウェーク島攻略作戦に参加 |
|
1942年01月23日 |
アンボン攻略作戦に参加 |
|
1942年02月15日 |
オーストラリア・ダーウィン攻撃作戦に参加 |
|
1942年04月05日 |
インド洋作戦(セイロン沖海戦)に参加 |
|
1942年06月05日 |
ミッドウェー海戦に参加。第一航空艦隊が壊滅する中、単艦奮戦し米空母“ヨークタウン”に致命傷を与える |
沈没 |
1942年06月06日 |
火災が沈火せず、山口司令が艦の放棄を決定。雷撃処分となる |
除籍 |
1942年09月10日 |
|
}台詞一覧
状況 |
台詞 |
関連する史実や元ネタ、解説など |
自己紹介 |
航空母艦飛龍です。空母戦ならお任せ。どんな苦境でも戦えます |
僚艦三隻を失いながらも果敢に反撃し、敵空母を大破せしめた |
秘書クリック会話① |
ん?敵空母が現れましたか? |
|
秘書クリック会話② |
めっ!艦載機が落ちちゃいますから |
|
秘書クリック会話③ |
多聞丸に怒られますよ? |
多聞丸は、第二航空戦隊司令・山口多聞少将の愛称 |
戦績表示時 |
赤煉瓦から提督に連絡があるみたい。 |
軍令部のこと。入居する海軍省庁舎が煉瓦造りのことから |
編成選択時 |
よし、二航戦出撃します! |
飛龍と蒼龍で構成される第二航空戦隊のこと |
装備時① |
よし、これなら一航戦にも負けませんね。 |
赤城と加賀で構成される第一航空戦隊のこと |
装備時② |
やったぁ!これでもっと戦える! |
|
装備時③ |
どうよ! |
|
(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通) |
ドック入り |
ちょっと飛行甲板を補修するね |
|
ドック入り(重傷) |
やれやれ、まっ、たまにはドック入りも必要だよね。 |
|
建造時 |
建造完了です。良い船だと良いですね。 |
|
艦隊帰投時 |
艦隊が帰投しました。次はMI作戦ですか? |
MI作戦は、ミッドウェー攻略作戦の作戦符号 |
出撃時 |
徹底的に叩きます。索敵も念入りにね。 |
|
戦闘開始時 |
第一次攻撃隊、発艦! |
|
航空戦開始時 |
例え最後の一艦になっても、叩いてみせます。 |
ミッドウェー海戦での史実 |
攻撃時 |
敵艦発見、砲戦用意して。 第二次攻撃の要を認めます。急いで! よし、友永隊、頼んだわよ。 |
「第二次攻撃~」は飛龍・艦攻隊の友永丈市からの打電「カワ・カワ・カワ」 |
夜戦開始時 |
よし!友永隊、頼んだわよ! |
|
MVP時 |
どうよ!ね、多聞丸、見ててくれた? |
第二航空戦隊司令官 山口多聞の事。ミッドウェー作戦で飛龍に乗った。 |
被弾小破① |
この程度ならカスリ傷よ! |
|
被弾小破② |
痛っ、まだ発着艦はできる? |
|
被弾カットイン |
やられた、誘爆を防いで |
|
撃沈時(反転) |
沈むのね…最後に月を肴に一杯やるかな… |
山口提督と「飛龍」艦長の最期のやりとりが元ネタらしい |
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