武将の設定にご協力ください

関東動乱では登場武将毎に出来るだけ説話等に基づいたステータス設定、装備になるようにしています。

有名どころはある程度設定を終えているのですが、未設定の武将がかなり残っており、
未設定の武将について装備やステータスがイメージ出来るような説話等あったら、こちらに書き込んでください。
戦闘関係でなくても例えば歌が上手かったとか、体が大きかったとか、なんでも構いません。
また、年齢も個々に設定していますので、1545年時点での年齢が分かる場合は是非お願いします。
(はっきり分からない場合は戦歴などからの推測年齢でも構いません)
説話の信憑性については問いません。そうしないと資料が足りないと思うので。
もし分かるなら家地(家紋)も書いて頂けると助かります。

↓以下未設定の武将リストです。武将名の下に自由に書き込んでください。
##大名##
  • 上杉憲政
北条氏康にボロ負けした河越夜戦や武田信玄(当時は晴信)にボロ負けした
小田井原の戦いなどがよく取り上げられるため、「臆病」「弱将」という評価を
されることが多い人物であるが、実際には越後の長尾家を頼った後も数度に渡って
北条家と交戦を続けるなど、一概にそうとは言い切れない部分もある。
また、関東最強のハイパーチートGこと長野業正は憲政の舅(妻の父)であり、
憲政が敗退を続け南上野の諸豪族が旗を巻き変えても自身は変わらず忠誠を誓い、
彼を筆頭とする箕輪衆(上野の諸豪族)達は憲政が上野を逃れ越後に逃れた後も
上野を死守し続けたことから、人望が全くなかったわけではない。(長野業正の義理堅さもあるだろうが)
家紋:竹に二羽飛び雀

  • 小田政治
常陸小田氏の15代当主に氏治という人物がいる。
彼の父小田政治は堀越公方と呼ばれた足利政知の子であり、
名君と呼んで差し支えない功績を挙げた人物だった。
小田氏の勢力を拡大した政治だったが、河越夜戦では足利晴氏に味方して敗れ、この頃から小田氏の衰退が始まった。
家紋:洲浜

  • 千葉昌胤
1495-1546
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/souke30.htm
自力で小弓城を奪還できず、北条方について奪還してもらう形になっているので
軍事・政治に関する能力は低いとも見れる?
家紋:月星

  • 宇都宮尚綱
伝承だが、はじめ宇都宮大明神の神宮寺慈心院院主であったといわれている。
本当に院主であったかは不明で、若い頃出家し、慈心院で過ごしていた可能性はある。
宇都宮興綱が天文元年(1532年)に、家臣の壬生綱房と芳賀高経、高孝らに迫られて
隠居されられた後、慈心院に住んでいたとされる俊綱は、彼らに担がれ当主となる。
家紋:右三つ巴

##武田家武将##
  • 板垣信方
1489-1548 ※生年は1492年説あり
家紋:花菱
武田二十四将、武田四天王の一人。
信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をしたという。
小田井原の戦いで関東管領軍を撃破し、敵将14、5人、兵3000を討ち取る大勝をおさめた。
武田信玄が家督を奪取して間もなく、詩会や遊興に耽るようになった信玄を諌める為、信方は病と称して暇を貰い詩歌を学んだ。詩会に出席した信方は見事な詩を五度も書いてみせた。信玄が機嫌を良くすると、信方はすかさず「父君は非道が過ぎたために追放されたのに、それから3年も経たずにこの有様では信虎様以上の悪大将であられる。腹立たしければご成敗ください。それがしは何時でも馬前で討ち死にする所存です」と諫言をした。晴信は感涙して、それ以後はよき大将になったという。
愛煙家だった?
「板垣死すとも自由は死せじ」なあの政治家のご先祖らしいです。

  • 甘利虎泰
家紋:花菱
1498年生まれ?
武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人である。
晴信による信虎追放の主導的役割を果たし、最高職位「両職」を務めた譜代家臣とされる。
家中第一の武辺者と言われ数々の戦場で活躍。山本勘助も虎泰の見事な采配ぶりに感嘆している。

  • 秋山信友(正確な名前は秋山虎繁?)
家紋:三階菱
生年:1527年(1545年時点で18歳)
武田二十四将。武勇のみでなく知略に優れており、美濃・岩村城を謀略にて無血開城させて城代となった。
三方ヶ原の戦いでは"武田の猛牛"と呼ばれて怖れられた。
エピソードと反映できそうなスキル
○20歳の時の福与城攻めで一番乗り、敵将生け捕りの功→敏捷性
○1568年の武田と織田の同盟の際にはその利を説き、諸将を説得→仏門
○信玄西上作戦の際には別働隊を率いて三河・東美濃へ侵攻→知性、戦略、経路探索
○武田方に寝返った岩村城のおつやの方(信長の叔母)と結婚→魅力

  • 小山田信有
http://www.rekishi.sagami.in/oyamada1.html
1519?~1552 数えで27歳 家紋:立ち沢瀉
武田氏の女子を母として誕生。武田家一門。知勇に優れ、特に投石(つぶて)部隊を指揮して多大な軍功を上げる。
小山田の投石の前に崩れない敵はいないとまで言われ、唯一、越後の上杉勢だけが、その攻撃に耐えたとつたえられる。
勝沼大善寺の大修復の際には、資金難の武田家の為に一考し、京から有名芸能人を呼び寄せて記念興業を行い資金を調達した。
信濃攻略では降伏の仲介を務めた。戸石城の村上義清を攻めるが攻城は難航し、10月1日には撤退するところを村上勢に追撃され敗退した。信有はこの合戦において負傷して後に死亡、家臣らも討死している。葬儀には国内外から10000人も参列したという。

  • 春日虎綱
家紋:九曜
1527~ 数えで19歳
農家出身でありながら武田重臣にまでなった大出世人。
第4次川中島の戦いでは妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという。
謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっている。江戸時代に成立した甲陽軍鑑の原本は虎綱の口述記録で、武田家の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣らに対する「諫言の書」として記したものだという。 三方ヶ原で撤退を進言する等、慎重な性格。
大変な美青年だったらしく逃げ弾正というのは追ってくる女性ファンから逃げるという意味もあったとか。
信玄は彼の事を(性的な意味でも)寵愛し、「浮気してごめんね(はあと」的な手紙をもらったりしてる。衆道は文化。
高坂昌信とも。


  • 横田高松
1487?-1550
武田の五名臣の一人。
弓の名手で各地で戦功をあげたという。
信虎が5倍の数を誇る今川の侵攻を撃退した際には、先陣を切り、決死隊にも参加するなど大活躍をした。
戦後、信虎から最高殊勲者として感状と新領地を与えられている。
信虎が国外に追放されたあとは、晴信に仕えて情報局長的な役割を勤め、元老職にあった。
http://www.weblio.jp/content/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E9%AB%98%E6%9D%BE
敵の動きを察知し、戦術を先読みすることに優れていたという。
その死は信玄を嘆かせ、後に近習の者に「武篇の者になろうとするなら、
原美濃、横田備中のようになれ」と言い伝えたと言われる。
家紋:隅立四つ目詰

##北条家武将##

  • 北条幻庵宗哲
  • 北条綱重

  • 北条氏尭
1522~1562 1545年時23歳。1168貫。
長尾景虎の関東進出により河越城に入城し、長尾軍攻撃を死守している。
伊達氏と外交交渉を行っているなど後北条氏において重要とされる将だった。

  • 北条氏繁
1536~1578 数え年で10歳
武勇に優れており、加島の戦いでは先鋒を務めて功を立て、今川氏を救援した際にも陣頭に立って活躍した。
上杉謙信・武田信玄の侵攻からも籠城して守り抜いている。また外交交渉にも携わっており、軍事・外交に長けた氏繁は氏康からの信任も厚く、下総国方面の軍権を任された。武人画家としても知られている。

  • 松田盛秀 妻は北条綱成の妹 小田原城の奉行と評定衆 地位:松田盛秀・憲秀父子の次に遠山綱景・笠原綱信・清水康英・石巻家貞
  • 遠山綱景
  • 太田康資
  • 北条綱成
1515~1587
いわずと知れた「地黄八幡」
北条氏綱に気に入られ、その娘を娶わせ、北条姓も与える。氏康の義弟。氏繁の父。
戦場では、常に先頭に立ち「勝った」と叫びながら突撃。川越夜戦をはじめ、第三次川中島では武田家の援軍として参戦し、謙信を撤退させる。国府台合戦では里見軍を粉砕。駿河深沢城の合戦では寡兵で武田軍を苦戦させ、信玄を嘆かせるほどの猛将。さらに結城家、足利長尾家、蘆名家との外交交渉もこなす。

  • 上田朝直 松山城 上杉方だが、河越の敗戦で寝返り 行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許された

  • 大石定久
 家紋:銀杏の二葉
大石氏は代々関東管領上杉氏重臣として武蔵守護代を任されていたが、川越野戦で大敗し没落した為、城・家督・役職を譲り、入道して隠居し北条氏に臣従した。隠居後も快く従属したわけではなく、上杉謙信や隣接する青梅の勝沼城一帯を領する三田綱秀らと誼を通じていたという。

  • 笠原信為
越前守。?~1557年 家紋:丸に三つ柏
文化的教養もあり、和歌・漢詩に精通して造詣が深かった。北条早雲、氏綱、氏康の3代にわたって仕えた宿老で、伊豆21家の筆頭格であり北条氏綱の時代には五家老を務め配下の小机衆を率いて、重用された。神大寺を建立した。

  • 大道寺盛昌
1495年~1556年 家紋:揚羽蝶
北条早雲の甥(厳密には従兄弟の子)にあたり、内政手腕に長けていたことから重用されたという。鎌倉の代官[1]や河越城の城代を務めた。里見義豊に焼かれた鶴岡八幡宮の再建のための造営総奉行に任じられて笠原信為とともに再建事業にあたった。河越夜戦でも戦功を挙げた。また、北条氏綱の次男為昌の烏帽子親および後見人となり、「昌」の字を与えている。

  • 清水康英 伊豆衆二十九人衆の筆頭 白備

  • 石巻家貞
 家紋:丸に蔦/丸に三つ蔦
早雲から氏綱・氏康・氏政の四代に仕えた宿老。
北条氏の奉行人・評定衆や相模西郡郡代などを務めた。御馬廻衆の筆頭として321貫文の知行高が記されている。
1527年から1569年までの42年間、経験豊富な実務者として活躍した戦国時代における代表的な内務官僚。
1569年に子の康保が評定衆になっているため、永禄11年6月から永禄12年の間に家督を康保に譲り隠居、または死去したと思われる。

##関管上杉##
  • 長尾当長(景長)
家紋:九曜巴
1527~1569
白井・惣社・足利の長尾三家の一つ足利長尾氏。足利城。関東管領家の家宰。
1545年に行われた足利藤氏の元服の功によって但馬守の受領名を受けた。
1560年上杉謙信により館林城の赤井氏没落後、館林城及び小泉領を拝領する。
由良氏から養子をもらい由良氏と提携し勢力を拡大し、越相同盟時には由良氏と共に交渉役となった。

  • 長野業正 箕輪城 信玄から生きている限り勝てないと言われたお方

  • 成田長泰
1495?~1574
家紋:竪三つ引両又は『関東幕注文』には、月に三つ引両
成田氏は代々山内上杉氏の被官。騎西城主小田朝興の兄。
河越合戦後に北条氏に下る。
1560年上杉謙信の関東進出に際して下るも小田原の戦い後に北条氏に鞍替えする。
この理由について鶴岡八幡宮で行われた関東管領の就任式で長泰が古礼に従い下馬をしなかったことで謙信に扇で烏帽子を打ち落とされ、罵られるという恥辱を受けたため、兵を率いて居城へ戻ったといわれている。
また小田原城の戦いの後、隣地である羽生領の帰属を巡って、謙信と衝突したためとも言われている。
関東幕注文においては「武州之衆」を率いる大名として把握されている。
1563年、謙信に忍城を攻められて降伏しするまで北条方として戦う。降伏後、隠居を命じられて嫡男の氏長に家督を譲る。


  • 太田資正
家紋:三つ頭巴
1410?~1569?
岩槻城 松山城主でもある 北条氏と戦い続けた

  • 沼田顕泰
家紋:三つ頭巴
1410?~1569?
1529年沼田城築城開始し2年後に完成する。
箕輪城主長野業政の娘を妻に迎え、嫡男朝憲らをもうけた。
上杉憲政が沼田城に身を寄せてきたため長尾憲景らと相談して、憲政を越後の長尾景虎のもとに逃れさせ、内紛と北条方厩橋長野氏の攻撃により越後へ亡命する。
上杉謙信の関東出兵により沼田城を奪還したが、しばらくして上杉家の城代が沼田城に置かれる。
1569年家督譲っていた正室の子嫡男朝憲を謀殺し、由良氏の上野国女淵城主をしていた末子景義に家督を譲ろうとしたが、沼田家家臣や上杉方の賛同は得られず、朝憲舅北条高広や白井長尾憲景らに攻められる。
よく防戦したものもついには大雪の中父子ともに同族の蘆名氏を頼って会津に逃亡し、まもなく没し、沼田氏は滅亡する。
この内紛については由良国繁の陰謀あるいは真田昌幸の陰謀という説もある。
斎藤憲広と共に土地横領を繰り返したと伝わり悪名高いこととなっているらしい。


  • 由良成繁
1506~1578
家紋:丸に二つ引両
由良氏の全盛期を築いた名将かつ善政を敷いた名君。
元の性は横瀬氏。岩松氏の家臣であったが、父泰繁の代の1530年主君の岩松守純の新田金山城を攻め落とし実権を奪い下克上をなす。
1536年、御家中と百姓仕置の法度を定めている。
1541年那波宗俊・長野賢忠・桐生助綱・成田親泰らの連合軍に攻撃を受けたが、よく撃退している。
京の足利幕府とも繋がりその関係強化をもって家格を高め支配統制を強化していた。
1553年に足利義輝から御内書と鉄砲が贈られ、1559年関東に下向した関白近衛前嗣を接待し、義輝から賞詞を賜っている。
また1563年には信濃守に任ぜられ、家伝文書によれば、将軍義輝は成繁を刑部大輔に任じ、御供衆に加えるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許されたと伝えている。
これらにより家格を高めたことで1565年岩松守純を桐生に幽閉し、完全に下克上を果たす。
1564年国府台合戦で敗れた岩槻城主の太田資正を牢人分として召し抱え千貫を与えたという。
1566年箕輪城が落城すると、上杉憲政の越後亡命以前から上杉方であった成繁は謙信に叛して後北条方へ転じた。
越相同盟の成立に際しては仲介交渉役と尽力を尽くす。
1572年代替わりして先代桐生助綱と異なり暗君であった桐生親綱を攻撃し、親綱を追放し、膳城、伊勢崎城などを降し、新田領内の一円支配を拡大していった。
成繁は桐生城を隠居城とさだめ、金山城を国繁に預けると、みずからは生城に移り住んだ。そして、鳳仙寺を建立し、また町屋を城下町として整備するなど民政に意を用いた。
成繁が死去すると佐野にいた桐生親綱は桐生に潜入して旧臣らを語らって桐生城奪還を図ったが、善政により満足していたためこの企てに応ずる者はなかった。
成繁の遺言は「兄弟仲良く、神仏を敬い、領民をいたわれ」というものであった。


  • 桐生助綱
家紋:五七の桐/三つ巴
1512~1570
桐生氏の全盛期を築いた人物。
1531年仁田山赤萩地方を回復、浪人で有能な里見上総介入道勝弘(新田氏一族、実堯の末裔とする)を仁田山赤萩城の主として取り立てた。
1544年細川内膳と膳因幡守を打ち破り、桐生氏の勢力を拡大。
1560年長尾景虎が関東管領・上杉憲政を擁して関東に出馬してきた。助綱はこの陣に参じ、古河に残った近衛前嗣、上杉憲政の警固にあたり、のちに京都に帰った前嗣から丁重な謝辞を贈られている。
養子に佐野昌綱の子を貰い受けており、そのためか景虎の陣に参じた際は佐野氏は桐生衆となっていた。
渡良瀬川北部の山岳地帯を桐生、南部の平原地帯を由良氏と分け合っているため対立していたが、由良成繁と桐生助綱双方ともが戦いになれば損失が大きいことを理解したため戦いは発生しなかった。
1566年上杉軍の臼井城の戦いでの敗戦から由良成繁の勧めもあって上杉方から北条・足利公方方に転じた。

  • 三田秀綱
家紋:三つ巴
1491~1563
秀綱ではなく綱秀の間違い。
三田氏は経済的に豊かで所領だけで1万3千石に匹敵し、多摩川の水運を利用した鎌倉への木材(良質なヒノキや杉の産地)の収入などもあった。
また京都様式や鎌倉様式を取り入れた社寺建築や文化人への交流もなされていた。
岩槻城主太田資正に従い上杉方に属し、奥多摩から背後の秩父にかけて広大な防衛線をはり居城勝沼城を放棄し、要害辛垣城を拠点に抵抗した。
1563年辛垣城は落城し、岩槻城主太田資正に頼る途中土民の落ち武者狩りにより戦死。

  • 金井秀景
家紋:団之内ニ松竹?(倉賀野氏家紋)
1520以前?~1590
淡路守。はじめは倉賀野行政麾下、倉賀野十六騎の一人として上杉憲政に従った。
1546年、行政が河越城の戦いで戦死すると、他の十六騎と共に病弱であった嫡男・倉賀野為広をよく助け城を守る。
1547年の小田井原の戦いでは為広の名代として西上野衆の大軍を率い先陣を務めたものも武田軍に将14、5人、兵3000を討ち取られ大敗。
1559年為広亡き後武田に鞍替えし、1570年倉賀野城主となり姓を倉賀野に改める。
武田氏滅亡後滝川一益に仕え、一益に重用され下野国・常陸国などの連絡の任に当たっていた
神流川の戦いで敗れ北条に下った後、秀景は一益との別れを惜しみ、真田昌幸等と木曾まで一益を警固している。
小田原征伐では北条方武将として小田原城に籠城し、早川口の守備についた。

  • 長尾憲景
家紋:九曜巴
1511~1583
白井・惣社・足利の長尾三家の一つ白井長尾家氏。上野白井城主。
憲政の越後出奔した時に越後長尾氏との同盟関係及び通路であったことからも尽力を尽くした。
上杉方で常にあり続け、上杉謙信の病没後の御館の乱で上杉景虎の敗死により武田に鞍替えする。

  • 長尾景房
家紋:九曜巴
1511以後?~?
白井・惣社・足利の長尾三家の一つ総社長尾氏。長尾憲景の弟。上野蒼海城主。
1563年、武田信玄の侵攻により総社城は落城し、上杉謙信に頼って落ち延びる。

  • 斎藤憲広
家紋:六つ葉柏
?~?
岩櫃城主。斎藤憲次の息子。
1558年、近隣土豪を従え、吾妻郡一郡を制圧する勢いであった。武田信玄配下の鎌原幸景は従わず、憲広は羽尾幸全らにこれを攻めさせ、鎌原城を奪ったが、1562年、武田信玄は以下の真田・甘利の軍により奪還された。
憲広は上杉謙信の助けを得て、1563年、常田俊綱の長野原城を奪ったが、三千騎の兵でも落とせなかった岩櫃城に対して真田の内応工作により岩櫃城は落城した。憲広と嫡男斎藤憲宗は越後国へ逃れた。
沼田顕泰と共に土地横領を繰り返したと伝わる。

  • 小田朝興
家紋:洲浜?(小田氏一族なので)
1500前後?~?(成田長泰から推測)
武蔵忍城主成田親泰の子で長泰の弟、騎西城主。
はじめ古河公方に仕え、のちに一旦兄成田長泰とともに上杉謙信の傘下に属すが、兄と共に離反したため謙信に攻められ、太田資正を通じて降伏した。

##古河足利##
  • 簗田晴助
家紋:水葵三本立ち
1524年~1594年
古河公方家の筆頭重臣。利根川水上交通の要地関宿城の城主。
古河公方家を支え、古河公方家が滅びるまで北条氏と対立し続けた。
第一次関宿合戦にて岩付城主の太田氏資を伏兵により撃退し、氏康に内宿まで攻め入られるも上杉軍の到来まで籠城に成功。
足利藤氏が没した際の北条氏との和睦交渉で相馬氏の守谷領を奪い取る。
第三次関宿合戦にて1年近く上杉・佐竹の援軍のないまま孤軍奮闘の末兵糧・弾薬が底をついて関宿城を明け渡す。

  • 佐野豊綱
家紋:左三つ巴
1504~1559
1558年多劫城攻めで戦死し、突如の当主の死により家中の混乱を招いた。

  • 那須高資
家紋:一文字
1520?~1551
喜連川女月坂の戦いで300騎の那須勢を率いて宇都宮勢二千余騎を打ち破り、所領を拡大した。
武勇に優れる一方で、独立性の強い家臣団の掌握化を行おうとして上那須衆と対立していた。
そのことを利用した芳賀高定の謀略により千本資俊に暗殺される。
その時には馬好きであった高資は駿馬が手に入ったとの口実で千本城に招かれ城内で殺される。

  • 広田直繁
家紋:片喰
1520年代?~1569?
弟木戸忠朝。初代羽生城城主。
兄弟協力して上杉方の最前線として北条氏と戦う。
1569年、戦功により館林城を領する。

  • 木戸忠朝
家紋:片喰
1520年代?~1574?
古河公方の側近木戸氏とは別系統で上杉家家臣で間違えた。ただし、1545年頃は古河公方とも親密な関係から羽生城城主であった。
父・祖父は太田道灌客将。兄は広田式部少輔直繁。河田谷右衛門大夫。
1560年上杉謙信により北条氏から羽生城奪還皿尾城奪取され、羽生城には兄の広田直繁が入り、自身は皿尾城に入り上杉方の最前線で戦う。
1574年の羽生城破却まで上杉方であり続け、謙信に「忠信」と賞される。

  • 大関高増
家紋:十六角の抱き柊
1527年?~1598年
大田原資清の長男で、福原資孝、大田原綱清の兄。
戦国でも屈指の謀略家。那須家中の有力一族の力を削ぎ、那須家中筆頭となり、小田原征伐にて秀吉に取り入り大名となる。
一方武将としても有能で、1585年薄葉原の戦いにて抜け駆けを戒めて川を渡って隊列を崩した宇都宮軍を打ち破る。
小田倉の戦いにて寡兵の主君を囮に使い伏兵を率いて蘆名・白河連合軍を打ち破る。

  • 福原資孝
家紋:一文字
1535年?~1614年
大田原資清の次男。兄大関高増。弟大田原綱清。三兄弟で那須家最大の勢力を誇った。
姉婿の佐久山義隆を暗殺した後、資孝が佐久山城を攻略し佐久山氏を追い落とした。
兄高増が那須氏離反したときにも兄と行動を共にしている。
三兄弟で千本氏を謀殺した後、遺領を分割し、千本氏に三男を養子として送り込んだ。
謀略を好むが、巧みな処世で豊臣・徳川に近づき、徳川家旗本として存続した。

  • 大田原綱清
家紋:丸に釘抜
1538年~1590年
大田原資清の3男。
喜連川五月女坂の戦いで初陣して戦功を挙げ、薄葉ヶ原の戦いにも参戦。
兄二人と協力して勢力を強めた。

  • 蘆野資豊
家紋:一文字に右巴
1529~1595
太田道灌に軍法を学んだと伝えられる蘆野資興の孫。
1552年、結城義親の拠る白川城を攻撃して結城勢を討ち取った。その功に対して佐竹義昭から石川・川上の二ケ所を賞として与えられている。
1560年小田倉の戦い、烏山川原表の合戦、薄葉ヶ原の戦いなどで功績を挙げる。
佐竹氏と那須氏の間を行き来した勢力。

  • 千本資俊
家紋:一文字
1519~1586
宇都宮氏の家臣・芳賀高定の謀略にかかり、主君・那須高資を千本城に誘殺した。
そのため一時、那須氏を追われたが、高資の死によって当主の座についた那須資胤に許され帰参、腹心として権勢を振るった。
1566年治部内山の戦いで佐竹・下那須衆・宇都宮連合軍を打ち破り東義堅を生け捕りにして撤退させるという功を挙げた。
また、1567年大崖山にて佐竹軍を打ち破り、武勇に優れた。
1572年に佐竹氏と那須氏の和睦を成し遂げ、両家の戦いを収束させた。
1585年大関氏によって嫡子共々謀殺された。

  • 伊王野資宗
家紋:一文字?
1517頃~1594
下野守。那須資晴とは従兄弟に当たる。那須氏に次ぐ領地を誇り、那須氏の同盟者。
1549年喜連川五月女坂の戦いで宇都宮本陣に突入し、家臣鮎瀬弥五郎実光が宇都宮尚綱を討ち取る功を成し遂げる。
1585年薄葉ヶ原の戦いで再び宇都宮本陣に突入したとき家臣鮎瀬が宇都宮国綱討とうとした際制して止めさせた。
その理由として北条氏の防波堤である宇都宮国綱を討つのは那須氏の不利益となるため功よりも実利をとった。
1585年大関高増により大半の領地を奪われる。

  • 佐久山義隆
家紋:一文字?
1520年代?~1563
猛将として知られ、その勇猛さを大田原資清に買われ、娘婿とされた。
のち資清が死去すると、資清の子の大関高増らに警戒されるようになり、永禄6年(1563年)5月21日、現在の栃木県矢板市にある境が峯にて、うずら狩りを装いおびき出されたところを、大関高増、福原資孝、大田原晴清の3兄弟の調略によって討ちとられ、佐久山氏は滅亡した。

  • 壬生綱房
家紋:三つ巴
1479~1555
宇都宮家宿老でありながら宇都宮家に対して下克上を成し遂げた人物。
永正年間(1504~20)頃には小山・皆川氏と組んで鹿沼氏を降し鹿沼城に父綱重が本拠に移り、鹿沼及び壬生を支配。
日光山の神領支配の責任者である惣政所の地位にあり、二男昌膳が日光山の中心座禅院の権別当で日光山を完全支配していた。
1526年結城氏に敗れ、留守を預かっていた芳賀興綱に宇都宮城に追い出された宇都宮忠綱を鹿沼城に匿うも興綱と謀って毒殺したとされる。
その後、主家乗っ取りの罪で興綱を隠居させ、宇都宮氏の家督を興綱の嫡男尚綱に継がせた。そして、その四年後、重臣らに自殺を強要された興綱は生害して果てた。
1538年権勢強化された綱房と対立した芳賀父子を殺害し、跡目に益子勝宗の三男高定を入れた。
1549年喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱の敗死の報せを聞くと留守を守っていた綱房は城内を制圧し占拠した。
その後、尚綱を敗死させた那須氏と和議し、さきに滅んだ芳賀高経の子高照を宇都宮城に招き、共同政治体制をしいた。
さらに壬生城に嫡男の綱雄を配し、鹿沼城には二男の周長を置き、周辺を固めるとともに、領内各地の城主らには本領安堵を約して宇都宮家への下克上を成功させた。
1555年遺児守って唯一抵抗した芳賀高定に高照を謀殺され、綱房も同年に急死した。

##結城家武将##
  • 結城晴朝
1534-1614
  • 小山高朝
家紋:二つ頭右巴
1508~1574(1545年時点数え年で39歳)
結城政朝の次男。
没落しかけていた小山家を立て直した。
親兄弟子供との仲が非常に良かった。

  • 小山秀綱
家紋:二つ頭右巴
1529?~1603?(1545年時点数え年で39歳)
小山家存続のため上杉と北条への寝返りを度々繰り返した。

  • 水谷正村(蟠龍斎)
家紋:三つ巴
1524~1598(1545年時点数え年で22歳)
「無敗」を謳われた猛将で初陣で敵将・侍大将含めて四十八の首級をあげる。
宇都宮との最前線に久下田城を築城した後自ら居城とし、攻めてきた三千騎を打ち破る。
策略にも優れ、父の法要を利用して敵方の奇襲を誘い、伏兵を置いて敵将を討ち取り城を奪う。
また太田三楽斎と益子を騙して笠間氏と田野城を奪い合わせ、消耗したところ田野城を攻め漁夫の利を得た。
その際益子方城主羽石時政を62歳で一騎打ちし、討ち取る。
戦だけでなく天下人となるであろう織田信長や徳川家康に鷹や駿馬を度々献上して親交を結んでいる。
領主としては不作の年には年貢を三分の一に減免し、足りない年貢は自らの伝家の宝刀を売り払って充当したなど話も伝わる。
人柄は死産した妻の思って出家し蟠龍斎と号し、生涯独身貫く。
敵方からは「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠竜なけりゃよい」と草取り唄に歌われ、雑草並みに厄介な敵と言われた。

  • 水谷治持
家紋:三つ巴
?~1579?(1545年時点数え年で46歳前後?)
結城家中きっての猛将で結城家の先陣を任された。
自立しようとした多賀谷氏を数度打ち破り、阻止した。

  • 多賀谷政経
?~1576(1550年家督継承と子供の生年を考えると水谷正村と同年代?1545年時点数え年で22歳)
家紋:木瓜に一文字
多賀谷氏は結城から自立し、戦国大名化を目指した。
結城氏や水谷治持によって離脱のたびに屈服される。
佐竹や北条、上杉の後ろ盾によって結城家に対抗したり、小田氏の所領を奪い徐々に力を付けていく。

  • 多賀谷経伯(弟)
家紋:木瓜に一文字
?~1580(討ち死にだけど4歳年下とすると1545年時点数え年で18歳)
兄政経とともに岡見頼忠の谷田部城を奪い城主となるが、北条家の支援を受けた頼忠と合戦になり、子の経明と共に自刃した。

  • 山川政貞
家紋:三つ巴
1489~1554(1545年時点数え年で57歳)
結城一門で多賀谷氏とともに結城氏を凌いだが、粛清により政貞の代には結城氏との力関係が確定する。
結城氏を盟主とした山川・多賀谷・水谷氏らの国人一揆のようで、多賀谷とは異なり自立の動きはない。

  • 山川直貞
家紋:三つ巴
1513~1560(1545年時点数え年で33歳)
結城家の主だった合戦に参戦し、結城軍の一翼を担っていた。

##佐竹家武将##
  • 大山義在
1515~1576
因幡守。通称孫次郎。佐竹義昭に起請文を提出して所領を安堵された。この頃、笠間家と争論している。

  • 小野崎成通
 家紋:左二つ巴
成通は佐竹義篤・義昭の二代に仕えたが、国人領主でもある小野崎氏の自立性はきわめて強かった。ところが成通は嗣子に恵まれなかったため、義篤の二男義昌を娘の婿としてむかえ家督を譲った。以後、小野崎氏と佐竹氏とは近い一族となり両家の一体化が強まった。しかし、それは小野崎氏の自立性を失うことでもあった。

  • 小田野義正
おそらくかなり高齢 家紋:右丁字巴
小田野氏の惣領。佐竹義昭の側近で重臣。
1504年、佐竹宗家と争って敗れた佐竹氏義を捕らえた他、側近として使者や取次等の務めを果たした。
義昭側近の筆頭として、甲神社に百疋を奉加したことが「甲神社文書」から知られる。

  • 小貫頼俊
家紋:左二つ巴?
1544~1603
年代的に父小貫頼俊が妥当だが、頼俊について不明なため息子を。
佐渡守。通称清三郎。
佐竹の外交交渉担当で、上杉謙信との同盟、武田家との不和解消を行っている。佐竹義宣時代には三奉行の一人。
大掾氏及び南方三十三館を滅ぼした後、その要衝である常陸南部堀之内大台城城代を任された。

  • 佐竹南義里
1515?~
佐竹南家始祖。天文から永禄年間に宛行状、一字状を発給。外交面で活躍があった。
東殿家の佐竹義堅や北殿家の佐竹義廉らと協力して若年の甥である佐竹義昭を補佐して国政を担当した。
那須氏の内紛に介入し、佐竹軍の総大将として出陣する。義里は義重の弟・佐竹義尚(那須資綱)を擁立しようとする大関高増を支援して那須資胤と戦ったが、烏山近郊の大川井山で大敗を喫した。後に那須氏の内紛が終結すると敗戦の責を問われ隠居した。


  • 佐竹東義堅
佐竹氏の分家である東家の当主として同じく分家である北家の当主佐竹義廉とともに本家の当主佐竹義昭の補佐を務め、国政を担当した。主に常陸国人の統制などで活躍したという。1566年、下野国の戦国大名那須資胤と高瀬で戦って大敗し、治部内山で降伏した。このため、治部内山は降参嶺と呼ばれるようになったという。

  • 鹿島治時
 家紋:三つ巴
?~1576年。1540年に武田かどこかと戦ってる?みたいなので1510年頃の生まれという事にしてしまうか?
鹿島治時は佐竹家に従い、鹿島城を回復、鹿島家中興の祖となった。
鹿島治時は配下の領主である烟田忠幹の危機を救ってやるべき立場でありながら、烟田忠幹に所領を失わせる結果をもたらした。これをきっかけとして烟田忠幹は鹿島家から自立する動きを見せるようになった鹿島治時は烟田忠幹の所領を二分する位置にある鉾田城を構え、三男鹿島義清を配して烟田忠幹を牽制した。

##小田家武将##

  • 小田氏治
  • 菅谷勝貞
  • 菅谷政貞
  • 岡見頼忠
15??~1586 家紋:洲浜
筑波郡谷田部城主。隣郷の下総下妻城主多賀谷政経とは連年抗争した。1570年、多賀谷政経は、父岡見頼忠の谷田部城を攻略した。多賀谷政経は谷田部城に弟の多賀谷淡路守政伯(経伯とも)に守らせて、小田家への押さえとした。1580年、北条氏照、北条氏邦を大将として牛久城の岡見治部少輔、足高城の岡見中務少輔、岩崎城の只越尾張守、板橋城の月岡玄蕃允らの兵3,000余で谷田部城奪還に向かい、多賀谷淡路守は討ち死にし谷田部城は落城、奪還された。しかしそこに多賀谷政経の後詰が到着、淡路守の死を知った多賀谷政経らは谷田部城を急襲し、再び谷田部城は多賀谷家の手に渡った。1586年、多賀谷政経の嫡男多賀谷重経に再び攻められ岡見頼忠は討死した。

  • 宍戸義綱
?~? 家紋:洲浜
茨城郡宍戸城主。国人領主。1556年「山王堂の戦い」は、小田家に奪われた海老ヶ島城を結城政勝が奪還しようとしたものであったが、下野国、武蔵国、常陸国の諸小大名・国人衆が参陣するなど大規模なものとなった。小田家の麾下に属していた宍戸義綱は、この戦をきっかけに佐竹家麾下の属した。「小田城の戦い」「小川台の戦い」「沼尻の戦い」などの重要な軍事行動には佐竹勢として参陣した。1585年、江戸家と大掾家が戦ったとき、江戸家方として大掾家と戦った。1588年、大掾家に宍戸領に侵入されることもあったが、一貫して江戸家方として行動している。その後、江戸家中に「神生の乱」が起こり、宍戸家は、神生方として参陣した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、佐竹家は小田原に参陣して羽柴秀吉に謁見した。宍戸義綱が真壁家らとともに参候し、太刀、馬、金を献上した。1591年、佐竹家、常陸国内統一を押し進め、江戸家の拠る水戸城も攻撃した。宍戸義綱は江戸勢として佐竹勢を迎え撃ち討死した。

  • 信太重成
 家紋:亀甲の内に葉菊
土浦城城主。小田氏治は負けるごとに土浦城へ走って、重成の庇護を受けたが、これは、土浦城が安全な場所であるということと、重成のことを気に入っていたためと思われる。

  • 土岐治英
 家紋:桔梗
常陸土岐氏当主。1543年、父より系図及び家宝を譲渡される。美濃を追い出された土岐頼芸から土岐氏の惣領としての立場を認められ、土岐氏再興の為に勢力を拡大する。佐竹氏との緩衝地帯を欲した小田氏と小田氏攻略を目論む佐竹氏の両方から綱引きされながら小田氏に傾く。治英は土岐領を分割して江戸崎城を中心とした地域と、龍ケ崎城を中心とした二つの行政単位を設定し、土岐領の安定的な支配を目論んだ。1560年代半ばから70年代の間に家督を譲り隠居している。

  • 真壁久幹

##千葉家武将##
  • 千葉利胤
1515~1547(数えで31歳) 家紋:月星紋
父の時代に結ばれていた後北条氏との関係を深めるために、氏康の娘を正室に迎えるなどしたが、千葉氏の家中では原胤清ら重臣の発言力が強かった。また、この頃に弟の臼井胤寿と争っていることが知られている。河越夜戦では、関東諸将で唯一北条方に参加したものの、家督を継いでからわずか1年で死去したため、あまり事蹟らしい事蹟はない。
常清山 妙楽寺を創立した。

  • 千葉胤富
1527~1579(数えで19歳) 家紋:月星紋
下総千葉氏の第27代当主。千葉昌胤の次男。外交手腕に秀でた。
室町幕府の奉公衆にならい、千葉一族や重臣などからなる森山衆を新設したといわれる。
胤富は後北条氏との関係を深めることで上杉謙信、結城氏や里見氏などの侵攻を撃退。
武田信玄、謙信、義氏、佐竹、里見等と合戦してことごとく勝利を収めた。
千葉常胤以来の千葉宗家の誇りを守った勇将と讃えられる。

  • 原胤貞
家紋:九曜に半月
1507~1569(1545年時点数え年で39歳)
原胤清の子。
外孫の臼井久胤の後見役として臼井城を統治し、善政でもって臼井家を傘下に収める。
正木時茂によって臼井城と小弓城を奪われるが、北条方に付いた第二次国府台合戦戦後に奪還。
東金酒井とともに土気城攻めるも敗北。
上杉謙信による臼井城攻城戦で白井胤治浄三と援軍により大敗させる。
軍事能力は高くないが、政治能力は高い?

  • 原胤清
家紋:九曜に半月
?~1556(1539年胤貞に家督譲渡。以後は千葉執権に専念?たぶん1470~1480生まれで、1545年時点数え年で70歳ぐらい?)
千葉筆頭家老。
1503年北条早雲、1510年里見、1513年北条氏綱・氏康、に対して千葉勢の総大将として撃退している。
燃え落ちた小弓城を再建し、生実城を築城。
千葉妙見社に直接関与するほど千葉宗家をしのぎ、「千葉は百騎、原は千騎」と言われた。

  • 高城胤吉
家紋:裾黒に井桁(『高城胤次申状下書』)、九曜(『諸家系譜』)
1484?~1565(1545年時点数え年で62歳)
原氏家老。妻は月庵桂林尼(千葉勝胤娘昌胤妹)
根木内城と大規模な小金城を築城 
原氏の軍事力を酒井氏と共に担っていて「原に高城、両酒井」

  • 高城胤辰
家紋:井桁に橘
?~1582(第一次国府台合戦を初陣として1523年頃生まれとすると1545年時点数え年で24歳)
父は高城胤吉
船橋の大神社・船橋大神宮の調停
第二次国府台合戦では約千騎を率いて北条軍に参加し活躍
領国経営に積極的で小金牧や行徳塩田なども経営

  • 酒井敏房
家紋:三つ巴
?~?(1510年代に生まれていると思われる。)
土気酒井の分家で東金酒井。
第一次国府台合戦で殿を務める。
第二次国府台合戦で土気酒井と共に敗走する里見軍を救う。

  • 酒井胤治
家紋:三つ巴
?~1577(次男が生年1547年であるから年齢低くとも1530年前後生まれのはず。生年1530年なら1545年時点数え年で16歳)
忠義を重んじる人物。
第二次国府台合戦で参陣に手間取っていることを北条氏康に「不忠之仁」と言われたため怒り、敗走する里見軍を救う。
1574年まで北条方を撃退し続けた。

  • 臼井景胤
家紋:月星(九曜)?
1496~1557(1545年時点数え年で50歳)
小弓公方の里見・真里谷に並ぶ最大勢力であったが、第一次国府台合戦により千葉氏に下る。
伝承も全くない。千葉氏に負けてそのまま原氏に乗っ取られただけ?

  • 木内胤倫
家紋:月星
1500~1566(1545年時点数え年で45歳)
千葉家家老
里見義弘との二度の戦いの勝利で、感状と恩賞に国俊の刀を二度も貰い受ける。
米野井城篭城戦で敗れるも三千の軍勢の囲みを突破し、落ち延びる。
久留里城を落城させたが、反撃され討ち死に。

  • 鏑木胤義
家紋:十曜/月星
年齢不詳(息子が1528年に寺建立と孫に1573年に家督を譲っているので、1500年前後?)
千葉親胤の後見職として軍勢を率いた。
本人のエピソードは特に無いが、息子胤定は正木氏相手に優勢に戦った。

##里見家武将##
  • 岡本安泰
 家紋:三つ巴?
僧籍にあったが還俗して父の跡を継ぎ、房総水軍を率いた。対北条の拠点として主君里見義弘に岡本城の譲渡を要請されると進んでこれを明け渡し、里見義頼の家老を務めた。

  • 秋元義久
 家紋:横木瓜
秋元義政の子。通称は小次郎。秋元家は宇都宮家の諸家で、江戸時代に大名となった秋元長朝の同族。里見家の麾下に属した。1563年「第二次国府台の戦い」で里見家が敗れると、北条氏康の命を受けた千葉胤富らの攻撃を受けるようになる。小糸城の西にあった里見義弘の居城佐貫城が北条勢に奪われると孤立無援に陥った。1565年、秋元義久は激しく抵抗したものの小糸城は陥落して秋元義久は討死した。

  • 安西実元
家紋:三つ板屋貝/螺貝?
伊予守。第二次国府台合戦で馬を射られた主君・義弘に自分の馬を与えて 戦場から離脱させた後、義弘の影武者となって敵陣に突入して戦死した。

  • 堀江頼通
  • 山本親満
  • 村上信清
村上信濃守の息子。官途は長門守。
父は足利成氏家臣。久留里城主。足利成氏の病没後、小弓御所足利義明に仕えた。
1538年、「第一次国府台の戦い」で足利義明が討死すると里見義康の麾下に属した。1554年、北条氏康の攻撃により討死した

##宇都宮家武将##
  • 芳賀高定
家紋:左三つ巴/陰左三つ巴
1521~1588(1545年時点数え年で25歳)
益子勝宗の三男で名跡清党を継いだ。
若い頃に水谷政村によって旗下の国人二人を討ち取られ、3千騎を派遣させたが敗北する。
宇都宮尚綱が那須氏によって敗死すると、幼い主君広綱を守り主君の仇を討ち宇都宮城を奪還して主家再興させた忠義の人物。
宇都宮当主芳賀高照を謀殺し、佐竹、那須、江戸、小田、足利、そして簒奪した壬生氏に協力していた北条をも味方に付けて孤立させ、宇都宮城を奪還。
また佐竹と主家の婚姻を成立させ、下野支配を確立させた。

  • 芳賀高継
家紋:左三つ巴/陰左三つ巴
153?~1592?(1545年時点数え年で15歳?)
忠誠心が篤い人物で養育されたことのある益子氏を主家の反抗から攻め滅ぼす。
筆頭家老として幼君国綱を外交を駆使することで主家を守った。
宇都宮城から移転後の対北条用の大規模な山城の多気城築城を主導した人物?

  • 笠間高広
家紋:藤巴/三つ巴
?~?(1545年時点数え年で45歳以上?)
佐白山宝塔新築のため長福寺に如意輪観音像を寄進した。笠間氏代々は信仰心の篤かったことが知られる。
宇都宮尚綱に従って那須高資と早乙女坂に戦った。この戦いは、圧倒的な軍勢を有する宇都宮勢が有利であったが、総大将の尚綱が矢にあたって戦死したことで宇都宮軍の大敗に終わった。敗戦のなかで、笠間氏の重臣満川民部大輔が討死している。

  • 壬生綱雄
15??~1562(1545年時点数え年で35歳?) 家紋:三つ巴
宇都宮家中で主家を凌ぐほど権力増大し、隣領の小山高朝が心苦しいとの書状を送ったほど。
宇都宮尚綱が討ち死にすると、宇都宮城及び宇都宮領大半を占領し、芳賀高照を宇都宮当主として迎え傀儡とした。
下野最大勢力を誇ったが、芳賀高定の外交手腕で孤立無援となり、屈服し、最後は暗殺される。

  • 益子勝宗
1529?~1593 家紋 左三つ巴
兄の益子勝家を攻め滅ぼし家督を継承する。その際、勝家の子で七歳になる一郎丸も殺しており、その残忍さがうかがえる。
勝宗は高館城、七井城に旧領の益子と領地を広げた。
永禄年間から武田信玄と誼を通じている。長男の元服の折に、武田信玄から「信」の字を拝領し、信勝と名乗らせた。祝いの品として、刀や酒ももらっている。他家と通じるのが好きだったのか、先見の明があったのか、または重臣クラスのため、他家から頻繁に声がかかっていたのか、はたまた利用しやすいと思われていたのか定かではないが、田舎大名の家臣としては交流が広い。

  • 横田綱久
 家紋:三つ巴/矢車
宇都宮一門として宗家宇都宮氏に仕えた。しかし、宇都宮国綱が秀吉によって所領没収の憂き目にあうと、横田一族は佐竹氏に仕える者、武士を捨てて帰農する者とに分かれたといわれ、鎌倉初期以来、横田郷の領主として続いた横田氏も終焉のときを迎えた

  • 皆川忠宗
 家紋:左三つ巴
駿河守。成勝の従兄弟にあたる。
当主に匹敵する権力をもち、成勝・俊宗期の皆川氏は「皆川両人」と記され、当主と忠宗の権力の二重構造を有していた事が知られる。
皆川俊宗
塩谷義孝
今泉泰光
多功長朝


##越後上杉##
  • 長尾政景
  • 甘粕景持
1550~1604年。近江守。
柿崎景家と並ぶ武勇を誇る。
謙信と伊勢姫の悲恋話にも登場し、政治的な理由で二人を別れさせようとする柿崎景家に対して、
二人の気持ちを尊重して逆に二人をくっつけようとしている。

  • 本庄繁長
  • 中条藤資
  • 水原親憲
  • 千坂景親
  • 竹股朝綱
  • 山吉豊守
  • 本庄秀綱

##織田家武将##
  • 織田信忠
1557~1582
幼い頃から家督相続を約束されていた信忠は、信長から雑用を一切させないなどの待遇を受け、武将として出陣する前から信長の戦に連れられ、闘いを学んでいた。 父に忠実だったイメージが強いが、播磨三木城攻めの時には督戦に来た信長に作戦をめぐって抗弁した。また信忠は能狂言を異常なほどに好んだ。徳川家康を通じ、稀少であった世阿弥の著作を入手したりもしている。 高遠城に攻め入る際に、信長に武田氏の深追いは避けるよう託けされていたが、現地での情勢を見た信忠はこの命を破り、深く攻め入った。結果、最終的に武田氏を滅亡に追いやった。このことで信長は信忠の武才を認めたという。

  • 北畠信意
1558~1630
当時の織田家中では、信雄の失態について「三介殿(信雄)のなさる事よ」と呆れ気味に評しており、一般には「暗愚の将」とされる。無断で始めた伊賀侵攻戦で大敗した際、信長は譴責状を送って叱責したばかりではなく、一時は親子の縁を絶とうとしたと伝えられる。小牧・長久手の戦い後の単独講和や、秀吉に反して改易(これは家康を気遣っての義理でもあるが)されるなど、時流を見る目の無さに基づく失敗が多い。 織田一門の席次は、信忠、信雄、信包、信孝の順であり、信孝の上位に配されていた。 能の名手と伝わる。

  • 神戸信孝
1558~1583
織田家の四国攻めでは総大将を務める。本能寺の変後は「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、総大将として山崎の戦いに参戦。秀吉と対立して柴田勝家が敗れた後、自害させられたが、その切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと,床の間にかかっていた梅の掛け軸に投げつけたといわれている。
その人格は高く評価され、思慮あり、緒人に対して礼儀正しくまた大なる勇士である。智勇人に超えたり、と讃えられている。
領地とした神戸では神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、神戸は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。

  • 津田信澄
1555?~1582
信長の甥、謀反を起こした信勝の子。柴田勝家に養育された。
信澄は信長の側近としての役割も果たし、信長から信任されて特別扱いされていた。
織田家では信長の息子である信忠、信雄、信孝や信長の弟の信包に次いでその待遇は厚かったという。
「異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」「一段の逸物也」など、武将としての評価が極端に分かれている。

  • 丹羽長秀
1535~1585 家紋:直違い
長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていた。 織田四天王、織田五大将の一人であり、柴田勝家と並ぶ猛将としても知られ、その武者振りから鬼五郎左と称される。織田家中では、「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があり、このうち米五郎左は丹羽長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在であるというような意味である。方面軍司令の地位こそ得られなかったが安土城の普請奉行などの畿内の行政の仕事をそつなくこなし、また各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど行政と軍事両面で米五郎左の名に恥じない働きを続け、信長の信頼も変わらなかった。


  • 細川藤孝
1534年~1610年 家紋:九曜
近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。剣術等の武芸百般、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などの造詣にも深く、当代随一の教養人でもあった。剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘・吉田雪荷から弓術の印可を、弓馬故実(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸にも高い素質を示した。膂力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。
幕臣として将軍・義輝に仕えるが、義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、足利義昭の将軍任官に奔走した。織田信長が義昭とを連れて上洛した後は信長に従い近畿圏を転戦した。義昭が信長と袂を分かつと信長に恭順し、後、織田家臣として活躍する

  • 池田恒興
1536~1584 家紋:揚羽蝶
信長とは乳兄弟であり同時に義理の兄弟にあたる。滝川一益は従兄弟。幼少の頃から小姓として織田家に仕え、桶狭間の戦い、美濃攻略、姉川の戦いで活躍し、比叡山焼き討ち、長島一向一揆、長篠の戦いなど信長の主だった戦に参陣、小牧長久手の戦いで戦死するまで武功を上げ続け、最終的には13万石の大垣城主となった。

  • 蜂屋頼隆
1534?~1589 家紋:桔梗
美濃の豪族出身ではじめ土岐氏、次いで斉藤道三に仕える。織田信長の美濃攻めに前後して信長の家臣となる。
信長の元で武功を重ね、秀吉に認められて豊臣の本姓を授かる。足軽から4万石の大名となっており、かなりの出世頭。連歌に傾倒しており、和歌についても細川幽斎・古田重然らと並ぶ当時の「好士」として挙げられる腕前であったという

  • 佐久間盛政
1554~1583 家紋:丸の内に三引両
柴田勝家の甥。身長6尺の巨漢で勇猛さから鬼玄蕃と称された。
本能寺後は柴田勝家につき、賤ヶ岳の戦いの後、秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘ったが断って斬首される。娘の虎姫は豊後中川家に嫁ぎ、父盛政の菩提寺と佐久間家の復興を悲願としていたが、その願いは彼女の死後、夫の中川秀成によって為された。

  • 羽柴秀長
1540年~1591年
豊臣秀吉の異父弟。豊臣秀吉の片腕として辣腕を揮い、軍事・外交・政務あらゆる面で秀吉の偉業を助け、天下統一を成し遂げた。最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内の一部を加え、大和郡山110余万石の大大名になる。その領地と官位から大和大納言と尊称された。何かと暴走しがちな秀吉を抑え、秀吉の華々しい活躍の裏でそれを支え続けた豊臣政権の支柱。


##王位要求者##
  • 武田信虎 数えで51歳
1494~1574
武田家第十八代当主、躑躅ヶ崎館を築き城下を整備して後の武田家の基盤を作った。
今川氏など対外勢力と戦いながら国人衆らを降し、甲斐の国を平定。
今川氏で起きた家督争いによる花倉の乱で今川義元を支援。
長らく争ってきた今川氏と同盟を結ぶ事に成功する。
今川義元の元を訪れている時に強制的に隠居させられた。
『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。
天文12年(1543年)6月には上洛し「京都南方」を遊覧している。晴信は今川氏、後北条氏と甲相駿三国同盟を形成すると信濃侵攻を本格化させ越後国の上杉謙信との川中島の戦いを展開しているが安定した領国支配を行っており、この頃に信虎は出家して「無人斎道有」を名乗っていることからも信虎は甲斐国主への復権を諦め隠居を受けいれていたと考えられている。

  • 扇谷上杉憲勝
松山城主。はじめ七沢七郎を名乗って奥羽を浪人していたという。朝興の子である朝定(後者の説に従えば、憲勝の兄)が川越夜戦で戦死して扇谷上杉氏の嫡流が滅亡すると、太田資正に擁立されてその跡を継ぐ。太田資正が北条氏康から松山城を奪還すると、城主として入城する。しかし、2年後には北条・武田連合軍に包囲されて降伏した。降伏の知らせを聞いた上杉輝虎は激怒し、人質に取っていた憲勝の子を斬り殺したという。その後、氏康の家臣となり、300貫を与えられた。


  • 上杉憲寛
?~1551 家紋:竹に二羽飛び雀
関東管領。古河公方足利高基の次男。上杉憲房の養嗣子となる。憲房が死去した時、実子の憲政は幼少だったことから、跡を継いで関東管領となった。憲政を支持する家臣らに攻められ、管領職を奪われて追放される。以上の経緯から古河に戻ることが出来ず、義明の支配下にあった上総宮原に移住して、同地で死去した。

  • 足利頼純 数えで14歳
1532~1601
父・義明が戦死すると、安房国の里見氏を頼って落ち延び、その庇護を受けた。幼時には石堂寺に預けられたとみられている。成人後は小田喜城に滞在したとも、後に諸国を流浪したともいわれているが詳細は不明。里見義頼と梅王丸の家督争いの際には義頼に偏諱を与えたとする見方がある一方(佐藤博信説)でそれに続く義頼と正木憲時の争いの時には後者についたとする見方があって(千野原靖方説)詳細は不明。北条氏が豊臣秀吉による小田原征伐によって下総国から撤退すると、その機に乗じて里見義康とともに父が住した小弓城を奪還した様であるが詳細は不明。娘の月桂院が秀吉の側室となったことと、足利氏の血を引くことから大名として復帰を許され、嫡男の国朝が下野国喜連川城を領した。

  • 部垂義子
  • 里見豊姫

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2015年02月16日 22:33
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。