応仁の乱 - (2008/09/09 (火) 13:26:51) の編集履歴(バックアップ)
応仁の乱(応仁・文明の乱)
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概略
応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代、8代将軍足利義政のときに起こった内乱である。室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(出家して宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大し、日本が戦国時代に入るきっかけとなった。応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代、8代将軍足利義政のときに起こった内乱である。室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(出家して宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大し、日本が戦国時代に入るきっかけとなった。応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
乱の推移
義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭して幕政は実力者の管領家細川勝元・四職家山名宗全、正室日野富子に左右されていた。一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、29歳になって後継男子がないことを理由に将軍職を僧となっていた実弟の義尋に譲ることを思い立った。義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けたが、「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させない」と説得し、寛正5年(1464)、還俗して名を足利義視と改めると細川勝元の後見を得て今出川邸に移った。翌年、義政と富子との間に足利義尚が誕生すると、実子義尚の将軍職擁立を切望する富子は山名宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し、将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。
義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭して幕政は実力者の管領家細川勝元・四職家山名宗全、正室日野富子に左右されていた。一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、29歳になって後継男子がないことを理由に将軍職を僧となっていた実弟の義尋に譲ることを思い立った。義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けたが、「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させない」と説得し、寛正5年(1464)、還俗して名を足利義視と改めると細川勝元の後見を得て今出川邸に移った。翌年、義政と富子との間に足利義尚が誕生すると、実子義尚の将軍職擁立を切望する富子は山名宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し、将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。
この頃、三管領のひとつ・畠山家では畠山義就とその従兄弟の畠山政長との家督継承権をめぐる闘争が激化していた。康正元年(1455)頃、政長と手を組んだ細川勝元の策謀によって、畠山家総領であった義就は追放され、政長が畠山家総領を継承していた。一方義就は宗全を頼って復権を願い出ていた。文正2年(1467)、宗全に懐柔された義政が、政長や勝元の断りなしに、花の御所に義就を招いてこれを赦免、義就の畠山家総領を認め、政長に屋敷の明け渡しを要求する。政長は反発して管領を辞任し、勝元は義政から義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を集め、内裏と花の御所を囲み、義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放は認めなかったが、諸大名が加担しないことを条件に義就による政長への攻撃を認めた。義政から廃嫡され賊軍扱いされた政長は、勝元に援軍を求めたが、勝元は後日の反撃を期してこれを断った。政長は自邸に火を放つと兵を率いて上御霊社?に陣を敷いた。上御霊社?は竹林に囲まれ、南には相国寺の堀があり、戦うのに適した立地であった。参戦を禁じられた勝元と宗全だが、命を守った勝元に対して、宗全は義就に加勢し出兵、政長軍を攻撃した。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走、勝元邸に匿われたという。
合戦の後、勝元はしばらく鳴りを潜めていたが、四国などの自領の兵を京都へ集結させると電撃的に動く。花の御所を押さえて義政らを確保し、自邸今出川邸に本陣を置いて宗全追討の命を義政に要請。遅れを取った宗全は五辻通大宮東に本陣を置いたため、両軍の位置関係から細川方は「東軍」、山名方は「西軍」と呼ばれた(現在、西陣?と呼ばれる地域はこれに由来する)。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されている。開戦当初は東軍が優勢で洛中から西軍を駆逐する。しかし山名軍8万が上洛し、周防国(現山口県)から大内政弘が水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復。花の御所に攻め入って将軍を奪還しようと進軍し、相国寺周辺で激戦となった。戦いは両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。
その後、突然義視が東軍を出奔する。義視の出奔は義政や後見人の細川勝元が義視の廃嫡と義尚の将軍職就任に傾いたことが大きな原因であったと見られている。勝元や義政に説得されて義視は一旦東軍に帰陣するが、再度出奔して比叡山に登った。勝元が義視を事実上追放したのである。西軍は東軍に対抗するために、比叡山から義視を迎え入れて新将軍として擁立する。対立構図が180度入れ替わり、諸勢力は自己の利に従って離散集合をくり返した。このような状況下で身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東軍の骨皮道賢のように盗賊や凶悪人を多く含んだ集団が跋扈し、京都の市街地は放火・略奪を繰り返されて荒廃した。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名らが獲得を目指した幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかった。こうして応仁の乱は大義名分を失い、東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになる。
文明5年(1473)に宗全、勝元が相次いで死去し、義政が遂に将軍職を譲って隠居したため、翌年に宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていたが、文明9年(1477)に大内政弘が撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束した。延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつかなかった。西軍の解体はわずか1日で終わったと伝えられている。
乱後の社会の変化
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は、京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった都市に疎開していった。文明11年(1479)に室町殿や内裏の復興が開始されたものの、都市の荒廃による環境悪化によって、疫病や火災、盗賊、一揆などが頻発し、幕府による京都の再建は順調とは言えなかった。再興の真の立役者となったのは商人を中心とする新興の市民階層、町衆である。明応9年(1500)には彼らの手によって疫病平癒の祭、祇園祭?が再興される。煌びやかに飾り立てられて町を練り歩く山鉾は、京都の復興のシンボルであった。社会は真の実力者が支配階級を駆逐するという下克上の風潮が大勢を占め、力を失った守護大名は没落してゆく。下克上は全国に拡散され、日本は戦国の乱世に突入する。形骸化した室町幕府は乱終結から100年足らずで滅亡することになる。
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は、京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった都市に疎開していった。文明11年(1479)に室町殿や内裏の復興が開始されたものの、都市の荒廃による環境悪化によって、疫病や火災、盗賊、一揆などが頻発し、幕府による京都の再建は順調とは言えなかった。再興の真の立役者となったのは商人を中心とする新興の市民階層、町衆である。明応9年(1500)には彼らの手によって疫病平癒の祭、祇園祭?が再興される。煌びやかに飾り立てられて町を練り歩く山鉾は、京都の復興のシンボルであった。社会は真の実力者が支配階級を駆逐するという下克上の風潮が大勢を占め、力を失った守護大名は没落してゆく。下克上は全国に拡散され、日本は戦国の乱世に突入する。形骸化した室町幕府は乱終結から100年足らずで滅亡することになる。