「西本願寺」(2010/09/09 (木) 16:44:32) の最新版変更点
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){西本願寺}(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある[[浄土真宗]]の寺院で[[浄土真宗]]本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は&bold(){本願寺}である。本尊は[[阿弥陀如来]]、開基(創立者)は[[親鸞]]の末娘の覚信尼。宗門の地方寺院数は約10,000箇寺、在籍僧侶数は約30,000人を数える。現在も創建以来の数多くの名宝を有し、[[古都京都の文化財]]の一部として世界遺産に登録されている。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
[[浄土真宗]]の宗祖[[親鸞]]の入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の[[知恩院]]の崇泰院あたりに廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後8代蓮如が本願寺を大教団に育てた。当時の本願寺は[[天台宗]]の末寺という位置づけだったため、本願寺の活況は[[延暦寺]]宗徒の反感を買い、堂舎はたびたび破却され、各地に移転を繰り返した。蓮如は越前国(福井県)吉崎から京都の山科へと移りながら、平易な御文章(ごぶんしょう)の述作など独自の布教を続ける。天文2年(1533)に山科本願寺は六角氏や[[法華宗]]徒の焼き討ちに遭い、大坂の石山に拠点を移す。そこで11代の顕如が織田信長と対立し、11年におよぶ石山戦争が勃発。最終的に信長と和睦した本願寺は石山を退去し、天正19年(1591)に[[豊臣秀吉>豊臣氏]]からの寺地の寄進を受け、現在の本願寺の寺基である堀川六条に移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。顕如の死後、長男の教如が[[秀吉>豊臣氏]]により隠居を余儀なくされ、弟の准如が12代として継いだ。一方、慶長7年(1602)に教如が[[徳川家康>徳川氏]]から本願寺の東に寺領を与えられ、本願寺を別立することになった。このため本願寺が西と東のふたつに分かれることとなり、教如の開いた寺を[[東本願寺]]、それまでの本願寺は西本願寺と通称されるようになった。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***御影堂(大師堂)
寛永13年(1636)に造営された。中央に宗祖[[親鸞]]の木像坐像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置するため御影堂(ごえいどう)もしくは大師堂と呼ばれる。南北62m、東西48m、高さ29m、支柱の数は277本、734畳敷きの巨大な建造物である。現在、「平成大修復」中につき、平成20年(2008)まで拝観できない。
***阿弥陀堂
宝暦10年(1760)に造営された西本願寺の本堂。入母屋造、本瓦葺で内陣に本尊の[[阿弥陀如来]]像を安置する。本尊の左右にはインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されている。 南北45m、東西42m、高さ25mと御影堂に続く大きさを誇る。現在、御影堂の修復工事に伴い、阿弥陀堂の南(左)余間を「仮御影堂」として使用しているため、阿弥陀堂は「総御堂」と称されている。
***飛雲閣
西本願寺の境内南東隅に位置し、[[名勝>名勝・特別名勝]]指定の庭園「滴翠園」と滄浪池を前にした3層の楼閣建築。[[豊臣秀吉>豊臣氏]]の[[聚楽第]]から移築したと伝わる。初層内部には紹賢殿、八景の間、舟入りの間、茶室がある。[[狩野永徳>狩野派]]筆と伝わる「雪柳図」が襖に描かれている。二層は屋根に軒唐破風を付け、内部の天井には葡萄やリスが描かれ、杉戸や壁には三十六歌仙が描かれた歌仙の間がある。筆者は[[狩野山楽>狩野派]]と伝わる。三層は8畳の間に花頭窓をあしらった茶室風の造り。また廊下伝いには飛雲閣の西側にある浴室の「黄鶴台」とも繋がっている。拝観は申込み制(通常非公開)だが、飛雲閣の内部は拝観できない。
***書院(対面所・白書院・虎渓の庭など)
対面所は203畳敷きの大広間で、上下段の境の欄間に雲中飛鴻の彫刻があるので「鴻の間」とも呼ばれる。上段の床には中国前漢の人、張良が四賢人を率いて二代皇帝の恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれている。障壁画は[[狩野派]]の渡辺了慶の筆。下段左右の襖絵と上段床の絵の絵の具にはすべて鉱物質が使われているため(金、銀、白は水晶、赤は珊瑚、緑は銅のサビ)、400年の年月を経た現在でも美しい色を残している。
白書院は対面所の北裏にある賓客を迎える正式の書院で、一の間、二の間、三の間からなる。一の間は紫明の間ともいわれる最重要の間で、上下段に分かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜(ぎょうしゅん)に関する故事が描かれている。また、三の間には華麗な孔雀を描かれているため、孔雀の間とも呼ばれ、畳を取り除くと能が演ぜられるよう工夫されている。
虎渓の庭は、中国廬山(ろざん)のふもと虎渓を模して造られた江戸初期の[[枯山水庭園]]。巨大な色石やソテツが配され、御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れている。国の[[特別名勝>名勝・特別名勝]]及び[[史跡>史跡・特別史跡]]に指定されている。
すべて拝観は申込み制(通常非公開)となっている。
***黒書院
黒書院は明暦3年(1657)、13代良如のときに建立された。白書院の華麗さとは対照的に、数奇屋風の佇まいで、歴代門主が寺務をとった場所。一の間(門主室)と二の間を中心に、茶室、鎖の間、広敷などがある。幾何学絞様の欄間や、[[狩野探幽>狩野派]]筆の襖・貼附の墨絵等は清楚な趣きを漂わせ、一の間の床・違棚の配置、釘隠の意匠にも特殊な考慮がなされている。白書院と同様に、拝観は申込み制(通常非公開)。
***能舞台
西本願寺には北と南のふたつの能舞台が現存する。北能舞台は日本最古の能舞台として著名。屋根の破風につけた懸魚(けぎょ)に天正9年(1581)の墨書きがある。前庭の石はすべて舞台の方向を向いており、音響効果のため、さざなみを意味する、などの諸説がある。国宝に指定されているため、北能舞台では演能されることはほとんどない。
南能舞台は白書院対面所の南側に位置する、現存する最大の能舞台であり、重要文化財に指定されている。毎年5月21日の宗祖降誕会には祝賀能が演じられている。
いずれも拝観は申込み制(通常非公開)である。
***唐門
[[伏見城]]の遺構と伝わり、豪華な装飾彫刻が施された桃山文化を代表する門。檜皮葺、入母屋造、前後を大唐破風とした四脚門で、勅使門とも呼ばれる。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「日暮門(ひぐらしもん)」の異称もある。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
飛雲閣 書院(対面所及び白書院) 黒書院 北能舞台 唐門 紙本墨画[[親鸞]]聖人像 熊野懐紙 三十六人家集 観無量寿経註 阿弥陀経註
***重要文化財(建造物)
御影堂 阿弥陀堂 玄関、波の間、虎の間及び太鼓の間 浴室(黄鶴台) 鐘楼 南能舞台
***重要文化財(美術工芸品)
紙本著色慕帰絵詞 絹本著色雪中柳鷺図 紙本著色[[親鸞]]・如信・覚如三上人像 絹本著色聖徳太子像 銅鐘ほか多数
***特別名勝
本願寺大書院庭園(虎渓の庭)
***名勝
本願寺滴翠園
***史跡
本願寺大書院庭園(虎渓の庭) 本願寺境内
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市下京区堀川通花屋町下ル
電話番号 075-371-5181
拝観時間 1.2月 6:00~17:00、3.4月 5:30~17:30、5~8月 5:30~18:00、9.10月 5:30~17:30、11.12月 6:00~17:00
拝観料 境内自由、書院と飛雲閣は要申込み(拝観は無料)
アクセス 市バス「西本願寺前」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(無料)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
1月1日 元旦会(修正会)
1月8日 大御身(おおごしん)
1月9日~16日 御正忌法恩講法要
1月9日 本山成人式
3月春分の日を中心に7日間 春季彼岸会
4月8日 花祭り(灌仏会)
4月13日~15日 立教開宗記念法要
4月17日~18日 大谷本廟永代総追悼法要
5月20日~21日 宗祖降誕会
6月25日~28日 大谷本廟納骨、永代経法要
8月6日~10日 朝の法座(大谷本廟)
8月14日~15日 盂蘭盆会
8月15日 戦没者追悼法要
9月18日 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京・国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑)
9月秋分の日を中心に7日間 秋季彼岸会
10月15日~16日 龍谷会(大谷本廟報恩講法要)
11月22日~23日 全国門徒総追悼法要、本願寺献菊展
12月20日 お煤払い
12月31日 除夜会
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「西本願寺は宗祖親鸞の娘( )が建てた東山の大谷廟堂に始まる。(中略)天正19年に( )が現在地に寺地を寄進し(中略)飛雲閣は( )の遺構と伝えられ(中略)三層は( )と呼ばれる。」
「西本願寺の「松と鶴図(国宝)」の作者は誰か。 (ア)土佐光信 (イ)石川丈山 (ウ)尾形光琳 (エ)渡辺了慶」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「明治4年(1871)に京都で行われた日本最初の博覧会の会場はどこか。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
西本願寺オフィシャル http://www.hongwanji.or.jp/
----
#amazon(text,image,4473033708)
&sizex(6){&bold(){西本願寺(本願寺)}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
&ref(nishihonganji.jpg) &ref(nishihonganji2.jpg) &ref(nishihonganji3.jpg) &ref(nishihonganji4.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){西本願寺}(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある[[浄土真宗]]の寺院で[[浄土真宗]]本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は&bold(){本願寺}である。本尊は[[阿弥陀如来]]、開基(創立者)は[[親鸞]]の末娘の覚信尼。宗門の地方寺院数は約10,000箇寺、在籍僧侶数は約30,000人を数える。現在も創建以来の数多くの名宝を有し、[[古都京都の文化財]]の一部として世界遺産に登録されている。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
[[浄土真宗]]の宗祖[[親鸞]]の入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の[[知恩院]]の崇泰院あたりに廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後8代蓮如が本願寺を大教団に育てた。当時の本願寺は[[天台宗]]の末寺という位置づけだったため、本願寺の活況は[[延暦寺]]宗徒の反感を買い、堂舎はたびたび破却され、各地に移転を繰り返した。蓮如は越前国(福井県)吉崎から京都の山科へと移りながら、平易な御文章(ごぶんしょう)の述作など独自の布教を続ける。天文2年(1533)に山科本願寺は六角氏や[[法華宗]]徒の焼き討ちに遭い、大坂の石山に拠点を移す。そこで11代の顕如が織田信長と対立し、11年におよぶ石山戦争が勃発。最終的に信長と和睦した本願寺は石山を退去し、天正19年(1591)に[[豊臣秀吉>豊臣氏]]からの寺地の寄進を受け、現在の本願寺の寺基である堀川六条に移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。顕如の死後、長男の教如が[[秀吉>豊臣氏]]により隠居を余儀なくされ、弟の准如が12代として継いだ。一方、慶長7年(1602)に教如が[[徳川家康>徳川氏]]から本願寺の東に寺領を与えられ、本願寺を別立することになった。このため本願寺が西と東のふたつに分かれることとなり、教如の開いた寺を[[東本願寺]]、それまでの本願寺は西本願寺と通称されるようになった。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***御影堂(大師堂)
寛永13年(1636)に造営された。中央に宗祖[[親鸞]]の木像坐像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置するため御影堂(ごえいどう)もしくは大師堂と呼ばれる。南北62m、東西48m、高さ29m、支柱の数は277本、734畳敷きの巨大な建造物である。現在、「平成大修復」中につき、平成20年(2008)まで拝観できない。
***阿弥陀堂
宝暦10年(1760)に造営された西本願寺の本堂。入母屋造、本瓦葺で内陣に本尊の[[阿弥陀如来]]像を安置する。本尊の左右にはインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されている。 南北45m、東西42m、高さ25mと御影堂に続く大きさを誇る。現在、御影堂の修復工事に伴い、阿弥陀堂の南(左)余間を「仮御影堂」として使用しているため、阿弥陀堂は「総御堂」と称されている。
***飛雲閣
西本願寺の境内南東隅に位置し、[[名勝>名勝・特別名勝]]指定の庭園「滴翠園」と滄浪池を前にした3層の楼閣建築。[[豊臣秀吉>豊臣氏]]の[[聚楽第]]から移築したと伝わる。初層内部には紹賢殿、八景の間、舟入りの間、茶室がある。[[狩野永徳>狩野派]]筆と伝わる「雪柳図」が襖に描かれている。二層目は屋根に軒唐破風を付け、内部の天井には葡萄やリスが描かれ、杉戸や壁には三十六歌仙が描かれた歌仙の間がある。筆者は[[狩野山楽>狩野派]]と伝わる。三層目は8畳の間に花頭窓をあしらった茶室風の造り。また廊下伝いには飛雲閣の西側にある浴室の「黄鶴台」とも繋がっている。拝観は申込み制(通常非公開)だが、飛雲閣の内部は拝観できない。
***書院(対面所・白書院・虎渓の庭など)
対面所は203畳敷きの大広間で、上下段の境の欄間に雲中飛鴻の彫刻があるので「鴻の間」とも呼ばれる。上段の床には中国前漢の人、張良が四賢人を率いて二代皇帝の恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれている。障壁画は[[狩野派]]の渡辺了慶の筆。下段左右の襖絵と上段床の絵の絵の具にはすべて鉱物質が使われているため(金、銀、白は水晶、赤は珊瑚、緑は銅のサビ)、400年の年月を経た現在でも美しい色を残している。
白書院は対面所の北裏にある賓客を迎える正式の書院で、一の間、二の間、三の間からなる。一の間は紫明の間ともいわれる最重要の間で、上下段に分かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜(ぎょうしゅん)に関する故事が描かれている。また、三の間には華麗な孔雀を描かれているため、孔雀の間とも呼ばれ、畳を取り除くと能が演ぜられるよう工夫されている。
虎渓の庭は、中国廬山(ろざん)のふもと虎渓を模して造られた江戸初期の[[枯山水庭園]]。巨大な色石やソテツが配され、御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れている。国の[[特別名勝>名勝・特別名勝]]及び[[史跡>史跡・特別史跡]]に指定されている。
すべて拝観は申込み制(通常非公開)となっている。
***黒書院
黒書院は明暦3年(1657)、13代良如のときに建立された。白書院の華麗さとは対照的に、数奇屋風の佇まいで、歴代門主が寺務をとった場所。一の間(門主室)と二の間を中心に、茶室、鎖の間、広敷などがある。幾何学絞様の欄間や、[[狩野探幽>狩野派]]筆の襖・貼附の墨絵等は清楚な趣きを漂わせ、一の間の床・違棚の配置、釘隠の意匠にも特殊な考慮がなされている。白書院と同様に、拝観は申込み制(通常非公開)。
***能舞台
西本願寺には北と南のふたつの能舞台が現存する。北能舞台は日本最古の能舞台として著名。屋根の破風につけた懸魚(けぎょ)に天正9年(1581)の墨書きがある。前庭の石はすべて舞台の方向を向いており、音響効果のため、さざなみを意味する、などの諸説がある。国宝に指定されているため、北能舞台では演能されることはほとんどない。
南能舞台は白書院対面所の南側に位置する、現存する最大の能舞台であり、重要文化財に指定されている。毎年5月21日の宗祖降誕会には祝賀能が演じられている。
いずれも拝観は申込み制(通常非公開)である。
***唐門
[[伏見城]]の遺構と伝わり、豪華な装飾彫刻が施された桃山文化を代表する門。檜皮葺、入母屋造、前後を大唐破風とした四脚門で、勅使門とも呼ばれる。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「日暮門(ひぐらしもん)」の異称もある。
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***国宝
飛雲閣 書院(対面所及び白書院) 黒書院 北能舞台 唐門 紙本墨画[[親鸞]]聖人像 熊野懐紙 三十六人家集 観無量寿経註 阿弥陀経註
***重要文化財(建造物)
御影堂 阿弥陀堂 玄関、波の間、虎の間及び太鼓の間 浴室(黄鶴台) 鐘楼 南能舞台
***重要文化財(美術工芸品)
紙本著色慕帰絵詞 絹本著色雪中柳鷺図 紙本著色[[親鸞]]・如信・覚如三上人像 絹本著色聖徳太子像 銅鐘ほか多数
***特別名勝
本願寺大書院庭園(虎渓の庭)
***名勝
本願寺滴翠園
***史跡
本願寺大書院庭園(虎渓の庭) 本願寺境内
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住所 京都市下京区堀川通花屋町下ル
電話番号 075-371-5181
拝観時間 1.2月 6:00~17:00、3.4月 5:30~17:30、5~8月 5:30~18:00、9.10月 5:30~17:30、11.12月 6:00~17:00
拝観料 境内自由、書院と飛雲閣は要申込み(拝観は無料)
アクセス 市バス「西本願寺前」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(無料)
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1月1日 元旦会(修正会)
1月8日 大御身(おおごしん)
1月9日~16日 御正忌法恩講法要
1月9日 本山成人式
3月春分の日を中心に7日間 春季彼岸会
4月8日 花祭り(灌仏会)
4月13日~15日 立教開宗記念法要
4月17日~18日 大谷本廟永代総追悼法要
5月20日~21日 宗祖降誕会
6月25日~28日 大谷本廟納骨、永代経法要
8月6日~10日 朝の法座(大谷本廟)
8月14日~15日 盂蘭盆会
8月15日 戦没者追悼法要
9月18日 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京・国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑)
9月秋分の日を中心に7日間 秋季彼岸会
10月15日~16日 龍谷会(大谷本廟報恩講法要)
11月22日~23日 全国門徒総追悼法要、本願寺献菊展
12月20日 お煤払い
12月31日 除夜会
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***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「西本願寺は宗祖親鸞の娘( )が建てた東山の大谷廟堂に始まる。(中略)天正19年に( )が現在地に寺地を寄進し(中略)飛雲閣は( )の遺構と伝えられ(中略)三層は( )と呼ばれる。」
「西本願寺の「松と鶴図(国宝)」の作者は誰か。 (ア)土佐光信 (イ)石川丈山 (ウ)尾形光琳 (エ)渡辺了慶」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「明治4年(1871)に京都で行われた日本最初の博覧会の会場はどこか。」
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