夢現聖杯儀典:re@ ウィキ

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 自分の、自分たちの生きてきた人生は嘘なんかじゃなかった。
 永遠のような一瞬を駆け抜け、ただ消え行く刹那に、それでも本物の人生を生きることができたのだと。
 欺瞞でも慰めでもなく、自分はそう信じている。

 ある人には、過去に立ち向かう勇気が必要だった。
 ある人には、夢を叶える努力が必要だった。
 ある人には、永い時間と仲間が必要だった。
 それは、彼らが願いを果たすためのモノ。必要だったのは、真実たったのそれだけで。
 どこにでもあるような、どこにでもいるような。言葉にしてみればすごく"当たり前"なことを携え、やり遂げて、みんなはあの世界を卒業していった。

 それで良かったのだ。
 かつての生で成し得なかったことを、彼らは確かにやり遂げたのだから。あり得なかった青春を、一瞬でも過ごし楽しむことができたのだから。

 ……最後に想いを聞くことができて。
 あの人が信じてきたことを、自分も信じることができたのだから。

 ―――それで良かった、はずなのだ。





   ▼  ▼  ▼










『こんにちは―――』
『きみは、わたしを夢見たきみ達は』
『ここで終わるかな』
『ここで朽ちるかな』

『―――それとも?』










   ▼  ▼  ▼





 音無結弦という学生について尋ねられたら、恐らく大抵の人は好漢と答えるのだろう。
 そんなことを、他ならぬ彼を横目にしながら前川みくはふと思った。

 音無結弦。みくの通う高校の最上級生にして生徒会長。成績優秀でスポーツ万能、行動的で模範的。他人の頼みを断らないし見捨てない。利発そうな外見を裏切らない秀才かつ、人間的にも自分と同年代とは思えないほどによく出来ている。
 それが、前川みくが彼に抱く印象の全てだった。無論彼と会話したことなんて今日が初めてだが、直接顔を合わせずとも噂は嫌というほどに飛び込んでくるものだ。そうでなくとも彼が僅かな時間を惜しんで風紀の見回りをしたり、誰かの相談に乗っている姿を幾度も見かけているのだからその印象も当然だろう。
 長いことつらつらと人物評を行ったが、つまり何が言いたいのかというと、音無結弦は前川みくにとっては遠いどこかの世界の住人だったということだ。
 控えめに言って完璧超人。常に自分を律してなければ簡単に折れてしまう自分とは何もかもが違う人気者。およそ欠点など見当たらない、そんなのはどこかのフィクション作品でしかお目にかかったことがなくて、だからこそみくにとっては異世界の住人に思えるのだ。
 現に今だって、本当なら関係ないはずなのに自分と一緒に「引きこもりの生徒」の様子を見るためにわざわざ出向いているのだから、善人これ極まれりというものだろう。ルーザーに言わせれば、これこそ彼にとって唾棄すべきエリートの象徴なのではないかとさえ、みくは思うのだ。

(ほんと、色々と迷惑かけちゃったな……)

 そんな彼の横顔をちらりと見遣り、誰ともなく心の中で呟いた。恐らく、いや間違いなく、彼の労わりは無駄骨となるだろう。なんせ自分たちが訪ねようとしているのはここ数日の熱心な説得でも姿すら見せない筋金入りなのだから、生徒会長が来たというだけで何かが変わるわけでもない。
 だから、最初から駄目と分かっていることに付き合せてしまって申し訳ないという、ちょっとした罪悪感をみくは抱いていた。しかし表情にはおくびも出さず、音無がインターホンを鳴らすところを、ただ黙って静観していた。

「……出てこないな」
「ですね」

 お決まりの高い音の後に、耳鳴りがするほどの静寂がその場を包む。所在なさげに呟く音無に、みくもまた短く返した。

 はっきり言ってしまえば、非常に気まずい状況だった。初対面にも近い先輩と二人、言葉もなく立っているだけというのはどうにも落ち着かない。
 これが同業者やスタッフの人たちならばいくらでも割り切れるのだけど、と思いつつ1分2分と時間が過ぎて。

「……あ」

 ガチャリ、と金属製の音が小さく響いた。

 開いた扉の向こうには、こちら以上に気まずそうな表情を浮かべた未央が、ドアノブに手を掛けた姿勢で立っていた。





   ▼  ▼  ▼





 通されたのは二階のとある一室、未央の部屋だった。
 少し前まえで年相応に女の子らしかったはずの部屋は、しかし今は乱雑に散らかった生活品に満ち溢れ足の踏み場もない。机には埃の被った電気スタンドだけが放置され、プリントもノートも教科書もどこかへポイだ。閉じられたカーテンは薄暗がりだけを演出して、初夏の陽射しの暑さを酷く陰鬱なものに変えていた。
 有体に言ってしまえば、年頃の女子高生が過ごすような場所ではなかった。一人暮らしのダメOLじゃあるまいに、と呆れたように口にしたみくに対して、未央は反論せずただ曖昧な笑みを浮かべるだけだった。

「それで」

 でん、と構えたみくが腕組みして座っている。部屋は申し訳程度に片され、余計なものは全部部屋の隅っこに押しやられていた。背筋を伸ばして腕を組み、如何にも「私怒ってます」と言いたげな表情だ。
 対する未央は正座で、ちょっと引き攣った顔をしている。押し掛け女房の如く部屋を掃除するみくの剣幕に、少し気圧されていた。

「未央チャン、何か言い訳はある?」
「……えぇっと、みくにゃんもしかして怒ってる?」
「自分の胸に手を当ててよーく考えるにゃ! 今まで散々ズル休みして、本当に心配したんだからね!」
「ハイ、あなたの言う通りです。面目ありません」

 全面降伏ですと言わんばかりに平伏する未央に、みくはそれこそ深々とため息をついた。そこには額面通りの呆れ以上に、心配事が解消された安堵の気持ちが多分に含まれていた。
 ちなみに、玄関までまでみくと一緒にいた音無は既に席を外している。彼に曰く「素直に出てきたなら俺の出番は終わりだ」とのことで、後は友人のみくに任せると、つまりはそういうことらしい。気さくで付き合いやすい上にきちんと空気も読んでくれたようで、こちらとしては頭が下がる思いであった。明日学校で会ったら、改めてお礼を言うべきだろうと考える。

「けど、なんだかんだ元気みたいで安心したにゃ。休み始めた頃なんて、それこそこの世の終わりみたいな調子だったし」
「……うん、心配かけて本当にゴメンね」
「いいのいいの。だって私達は友達なんだし」
「……だね。ありがとう、みくちゃん」

 告げる感謝の言葉は本心だ。自分たちは仲間で、クラスメイトで、親友であると。それを改めて聞けたというだけでも、少し救われた気分になる。
 ほんの少しだけ、前を向いていこうという気持ちにも、なる。

「でも、未央チャン今日に限って凄く素直だにゃ。何かあったの? それとも今までの行いを悔い改めたり?」
「いやいや、別にそんなことは……いえ嘘です反省してますごめんなさい」

 とはいえそんなことは自分の中で思うだけで、わざわざ言葉にしてみくに伝えることはない。そも自分が"こう"なった原因のことを、NPCである彼女が知るはずもないのだから、口にしたところで不審がられるだけだろう。
 冗談めかした言葉を受けて瞬時に変化するみくの表情を前に、未央は即座に白旗を振って降参した。基本、人に怒られるというのは勘弁したいのだ。

「……えっとね。なんというか、私もそろそろ少しは前向きにならなきゃな、って。
 まだ大丈夫ってわけじゃないけど……でも、いつまでも甘えたままじゃ駄目だもんね」

 だから、伝えられるのはこんなありふれた曖昧なことだけで。
 それでも、みくは嬉しそうに頷いてくれた。

「そっか。うん、なんだか肩の荷が下りた気分。あんなダメダメだった未央チャンがきちんと更生してくれてみくは嬉しいにゃ」
「えぇー、みくにゃんなんか酷くない?」
「自業自得だにゃ」

 気安く軽口なんか叩いて、そこで指し合わせたように二人は笑顔になった。心の底からの笑いではなかったが、それでも虚構ではない笑みが、二人に浮かんでいた。

 それは確かに、未央の従僕たる武骨な男の望んだ情景でもあって。



 ―――マスター、悪ぃが今からちょっと出てくる。
 ―――だから少し待っててくれないか? すぐ戻ってくるから、それまでは誰も家に入れないでおいてくれ。

 ふと、彼と交わした会話が想起された。
 それはみくをこの部屋に招く直前のこと。和気藹々とした雰囲気から突然、張りつめた顔つきで出て行った彼の姿が思い出される。
 近くに敵でもいたのだろうか。誰も家に入れるなという彼の言葉は、鈍い未央でもその意味を察することができて。

(……でも、こうして来たの、みくにゃんだったし)

 もしも彼女以外の誰かだったならば。訪ねてきたのが、今まで何日も未央のことを心配して見舞いに来てくれた彼女でなかったならば。
 未央は門戸を開けることはなかっただろう。けれど、現実にそうはならなかった。
 玄関の前に立つみくの姿を見た瞬間に、思ったのだ。

 今まで自分が目を背けてきたことに向き合うことこそが。
 振り払ってしまった手を、叶うのならばもう一度掴むことこそが。
 "やり直したい"という未央のすべき、第一歩なのではないかと。

(そう……だね。あんまり心配かけちゃいけないよね)

 未央は心の中で思う。自分は未だに迷ったままだ。ここで何をすべきで、何を目指せばいいのかもわからない。自分のサーヴァントにもしっかり向き合えず、本物の笑顔を取り戻すこともできていないけれど。
 それでも、自分にやれることはあるはずなのだ。だからそのために、勇気を持って踏み出そう。
 そのことを、彼は自分に教えてくれたのだから。

「ね、みくにゃん。私、明日から……」

 だから、一抹の決意を込めて、今までの自分と決別するように。
 目の前の彼女に何かを言おうとして。



「――――未央チャン……?」



 みくの表情が、ポカンとしたものに変わった。
 一体何を驚いているんだろうと不思議に思って、ふと自分の声が途絶えていることに、そこでようやく未央は気付いた。
 口は動いて、声も出しているつもりだけど。それでも意味を持った言葉を紡ぐことができていない。
 ひゅーひゅーと、空気が漏れるような音が聞こえてきた。それは不思議と声を出そうとする動きと連動していて、どうなってるんだろこれ、などと場違いなことまで思って。


 一瞬の静寂の後、液体の噴出する凄まじい音が、部屋中に響いた。
 それは未央の右首から溢れて、赤い何かが天井にまで届く勢いで飛び散った。

 ぱたぱたと、生温い飛沫がみくの顔に当たった。生臭いそれが重力に引かれて頬を伝う感覚が、どうしようもないくらい気持ち悪かった。
 網膜に映る全てが夢のようで、それでも拭えない血液の暖かさが嫌でも意識を引き戻し、分からせた。

 これは紛れもない現実で。
 決して夢なんかじゃなく。
 目に映る全てが真実なのだと。

 充満する血錆の濃密な臭いの中に、ふと枯草のような匂いが混じっていたことに、二人が気付くことはなかった。





   ▼  ▼  ▼





『へえ、きみが彼女のサーヴァントなんだ』
「…………」

 時を少し巻き戻して。
 本田未央宅から少しばかり離れた、路地を挟んだ小さな空地にて、二騎の英霊が静かに相対していた。
 二人は学生服の少年と拳法着の偉丈夫だった。意図の読めない喜色を顔面に張り付けた少年とは裏腹に、偉丈夫はただ凶眼で以て向かい合う。
 だが、偉丈夫の向けるそれは刃のように冷徹な殺意ではなく。
 正体不明の何者かに向ける、疑念と警戒の視線であった。

「てめえは……」

『やあ』
『初めましてカンフーくん』
『僕の名前はルーザーだよ』

 学生服の男―――ルーザーは気取ったような語り口に、偉丈夫こと加藤鳴海は油断なく相手を見据えることで応える。
 ルーザーはどこまでも奇妙な相手だった。纏う覇気はおよそ英霊のそれではなく、反英雄どころか屍人や悪霊と言われたほうがまだ納得ができるというほど。
 しかしその醜悪さは、絶対値として低劣というわけではない。むしろ発する圧は異常な濃度を保っており、だからこそ尚のこと気持ちが悪い。

 思わず、無意識に鳴海は後ずさった。言葉が詰まる。
 後退したのは恐怖ではなく嫌悪感から。敗北者(ルーザー)などという、その名自体が示す異常性を前に吐き気が止まらない。
 まるで悪夢そのものだ。夢の中で垣間見た醜悪さを切り抜き、現実の空間へ糊付けしたような違和感。
 存在そのものが、存在してはいけないマイナスなのだと感覚で理解できる。

「……彼女、とか言いやがったな。さっきオレのマスターを訪ねてきたのが二人いた。てめえ、そいつらのサーヴァントか」
『せっかちだなぁ、何をそんなに焦ってるんだいカンフーくん。生き急いだって死ぬのが早くなるだけだぜ?
 とはいえ、今回ばかりは僕も同じか』

 張り付けたような笑みのルーザーが、しかしその口元を一瞬だけ不快げに歪めたのを、鳴海は見逃さなかった。
 すっ、と右手を上げて、ルーザーは軽口のように言葉を続ける。

『こっちとしても、ここできみなんかとばったり遭遇なんて想定外だったんだ』
『ようやく痺れが治って急いで駆け付けたら、君みたいな筋肉ダルマがいるんだもん。僕みたいなインドア派にはきつい展開だよねぇ』
『ま、そんなことになったのはあの目つきの悪いピカチュウもどきのせいだし』
『僕は悪くない』

 みしり、と。
 砕けた関節を無理やり折り曲げるような笑みを浮かべて。

『というわけで僕のこと見逃してくんない?
 代わりに僕もきみのこと見逃してやるから(笑)』

 ―――お断りだ。そう告げる代わりに、鳴海は躊躇せずその剣を抜いた。
 戦意の有無に関係なく、こいつに先手を取らせてはいけないと確信した。第六感にも酷似した直感によりそう判断し、表皮を引き裂いて人形破壊の剣を抜き放つ。
 地を踏みしめる震脚は音の壁すら置き去りにして、斬首を狙った剣閃が何ら減衰することなく一直線に走り―――

『―――っと、あっぶないなぁ』

 空転する手ごたえだけを残し、鳴海の腕は盛大に空振った。空を斬る感触すら、そこにはなかった。
 何故なら、その腕にあったはずの「斬るためのもの」が、根こそぎ消失していたのだから。

『他人に暴力振るっちゃいけませんってお母さんに習わなかった?』
『母親のいない僕が言うことじゃないけど、人並みに幸せな生まれを持つ奴は人並みに常識を弁えるべきだぜ?』
『そういうわけで、きみの【剣】を【なかったこと】にしました。話は最後まで聞けよカンフーくん』

「ッ、てめえの話なんざ―――!」

 不快なにやけ面を隠そうともしないルーザーを前に、それでも鳴海の戦意は一切減じていない。剣を無かったことにしたという正体不明の現象すら頓着せず、再び撃滅のための拳を振るう。
 原理など知らない。こいつの正体など知りたくもない。ただ倒し、この世界を脱するための一歩とするため、破城鎚をも幻視させる威力の剛拳がルーザーの顔面に吸い込まれるように―――

『うわおっ、猛烈ゥ―――でもないか』

 放った拳は当然のように力を失った。いや、腕だけでなく足も支えを失ったように萎え、握りしめた拳はルーザーに届くことなく地に落ちる。
 痛みは無かった。感覚が消されたというわけでもなかった。ただ両の手足がそこだけ霊体化したかのように存在感を失い、物質的な干渉力を喪失していた。
 何をされたか分からないが何かをされた。直感に頼るまでもなく、鳴海は悟った。

「ぐ……くそ、何しやがったッ!?」
『なにって、きみの【両手足】を【なかった】ことにしただけだよ。きみもさ、もうちょっと人の話ちゃんと聞けるようになろうぜ』

 事もなげに言ってのけるルーザーを前に、鳴海は今度こそ言葉を失った。比喩か何かだと思っていたそれは、まさか本当に文字通りの物であるなどと。
 そして同時に、これまでに倍する拭いがたい忌避感を、この男に抱いた。嫌うという形ですら関わりたいとは思えない。こいつを不快に感じているというその事実すらも不愉快極まりない。
 こいつは駄目だ。成り立ちからして自分たちとはまるで違うのだと、これ以上なく実感と共に思い知った。全てを無かったことにするという異能さえも、これが存在することに比べれば些事でしかない。

『さて、これできみは僕に対して何の抵抗もできなくなったわけだけど』

 ぞくり、と背筋を走る冷たいものがひとつ。
 のっぺりとした黒色に、歪んだ三日月が張り付いたかのようなルーザーの面が、深いクレパスを見下ろすかのような仕草でこちらを睥睨する。
 その視線に、鳴海は一瞬だが忘我の感触を味わって。
 闇そのものに覗きこまれたような、そんな錯覚を―――

『親切心を仇で返すってことは、つまりやり返されても文句は言えないってことだよな?』
『そういうわけで、覚悟はいいかい半端者』
『君みたいに視界の端(げんじつ)から目を逸らして偉ぶってる強者なんか、僕が螺子伏せてやるよ』

 ―――諸手に巨大螺子を携えたルーザーが、書割めいた影を揺らして近づく。
 今ここに全ての希望は息絶えたのだと、そこでようやく鳴海は気付いた。





   ▼  ▼  ▼





 澱んだ空気の家を出て、傾きつつある太陽が照らす通りを歩く。

 足取りは重い。何時の間に自分の足は鉛になったのだろうか。絶好の機会を逃した焦燥の念で胸を掻き毟りたくなるのを抑え、無理やりに歩を進める。
 絶好の機会……だったはずだ。事前にアリバイ工作は終え、人の体が残す痕跡を極力減らす準備も整えた。対象の情報はそのサーヴァント含め丸裸。今朝方の戦闘であやめの存在に気付かなかった以上は気付かれる危険性もほぼ0で、失敗する要因など皆無である。
 たとえ家に閉じこもろうが、SSSの作戦で住居侵入だの施錠解除だのはやり飽きている。そして、それらの行為が生み出す物的証拠の隠滅も、また。
 だから、本来であるならばそれこそ容易く、自分は本田未央を殺めることができたはずなのだ。しかし。

「はあ……」

 歩きながら、無意識に漏らすのは落胆の溜息だ。
 結果を言おう。自分は今回の暗殺を一旦諦めた。その最たる原因と言えば、先ほどまで自分と一緒にいた不確定要素の存在にあった。

(前川みく……本田未央のクラスメイトで同期。毎日見舞いに通い詰める真面目で心優しい女の子、か。面倒だな)

 音無が彼女と遭遇したのは全くの偶然だった。全ての準備を整えて、いざ本田未央の住居を目の前にしたとき、その正面でばったりと出くわしたという、ただそれだけ。
 互いに一瞬驚いて、どちらからともなくここに来た理由を告げあった。見舞いという訪問理由を困ったような顔と口調で語るみくを前にして、音無は表面上感心した風を装いながら、しかし心の中で短く毒を吐いた。

(あやめが言うには、サーヴァントの気配は本田の家から一つだけらしいけど……それでも油断なんかできたもんじゃない。こっちと同じアサシンが潜んでる可能性だってあるんだ)

 音無の危惧するところは、前川みくもマスターなのではないかという可能性についてだった。勿論根拠なんてないし、冬木の人口を鑑みればその可能性は限りなく低くはある。けれど自分たちはひとつのミスで容易くその立場を危うくする弱小主従、常に綱渡りじみた行軍を強制された寡兵故に、慎重になりすぎるということはない。
 仮に前川みくがマスターで、従えるサーヴァントがアサシンだったならば、当然だがこちらにそれを感知する手段は皆無だ。あやめは自身の存在感を失くされているというだけで、消された気配を見つける力を持つわけではない。
 前川みくがここに来た理由が襲撃ならば、そのサーヴァントはやはり自分たちと同じく機を伺って身を潜めているだろう。早まって自分たちが暗殺を仕掛ければ、そこに生じた隙を突かれる可能性とて存在する。
 同盟関係にあるなら尚のこと手出しできない。防衛に徹するサーヴァントが、異常を感知して無差別に攻撃でもしたら逃走手段のない自分たちは呆気なく巻き込まれて一巻の終わりなのだから。

 撤退の理由はそんなものだった。無理に今仕掛けなくとも、居場所が分かっているのだからいつだって暗殺は可能なのだ。焦る必要はどこにもない。


 そう必死に言い聞かせ、音無は帰路についていた。無論その心中は穏やかではなく、思う事柄は言い聞かせる内容とはまるで逆。早く終わらせろ、逃がしていいのか。自分の覚悟は、決意はそんなものかと自問するばかり。
 それはある種の迷いなのだろうか。ただひとつの願いのためにこの手を赤に染めようと決意したあの瞬間、その決意はただ願いの大きさに錯覚しただけで、実は自分には誰かを殺す度胸などないのではという。それは疑念であった。
 そして同時に、焦りの感情も存在した。この世界は七日しか保たない。時間が無限にあるならば、隠蔽に特化した自分たちはいつまでも隠れ潜み、最後の一組を背中から一突きにしただろう。けれどそうではない。一週間という刻限が定められている以上は何もしなければ残った主従と共倒れするしかなく、故に自分たちも積極的に動かねばならない。
 だからこその焦燥。目に見える形で何かを成し遂げなければ安心することすらできない、小市民な心の表れ。ひとつでも多くの主従を一秒でも早く落としてしまいたいという浅はかな欲求だった。

(ああ、分かってるさ。何も全部、俺たちが殺す必要なんてないんだ。他の連中同士で戦わせて、俺たちはその間を上手く立ち回ればいい。なんせ俺たちは絶対に"気付かれない"んだから)

 戦わずして目的を果たす。やらなくていいことはしない、保身優先で物陰から他人のバトルを実況して隙を突くのが賢いやり方。
 常識的に考えればそうなのだろう。それでも、目の前に転がった好機を逃すということは、少なからず音無を落胆させていた。
 自分がやらなければならないという歪んだ使命感、時間がないという秒刻みの焦心。それは徐々にではあったが、音無の精神を削り取っていたのかもしれない。

 だから、先走る気持ちを必死で抑えていた理性の殻は。

(―――ますたー)

 たったひとつの事態の好転で、呆気なく砕け散ることになった。





   ▼  ▼  ▼





 アサシンが持つクラススキルに「気配遮断」がある。
 その効果は文字通り「自分の気配を消す」というものだ。ここで言う気配とは、万物が持ち得る漠然とした存在感の他に、サーヴァントとしての気配も含まれる。
 サーヴァントは、一部の例外を除けばただ存在するだけで、自らの存在を周囲に喧伝しているとも称せるほどに強い存在感をまき散らす。それは極めて高い魔力反応でもあり、サーヴァント同士であるならば数百m単位で互いの気配を察知することが可能となる。
 広大なエリアを戦場とする聖杯戦争において、誰も見つけず見つからないまま千日手で終わらないのはこのためだ。両者が一定距離まで近づけばそれだけで互いに相手の存在が分かってしまうために、サーヴァントは半ば強制的に戦闘を開始しなくてはならなくなる。

 ここで例外となるのが、気配遮断を持つアサシンの存在だ。彼らは暗殺者であるために平均して戦闘能力には恵まれないものの、「サーヴァントは互いの存在を感知できる」という不文律から自分だけ逃れることができ、故にクラス名通りの隠密行動と暗殺を得意とする。
 勿論、気配遮断スキルにも欠点は存在する。それは攻撃時にランクが大きく下がってしまう、つまり攻撃体勢に移行した瞬間このスキルはほとんどの効力を失ってしまうというものだ。
 考えるまでもなく、この欠点は致命的だろう。当然だが攻撃しなければ敵を殺害することはできず、にも関わらず攻撃体勢に以降した瞬間スキルが意味を為さなくなるのだからやってられない。
 例え至近距離からの攻撃に移ろうとも、平均したアサシンではセイバーを初めとする三騎士などが相手では初撃を放つ隙もなく一刀の下に斬り伏せられてしまう。そのためアサシンの常道は敵サーヴァントがマスターの元を離れた瞬間を狙うというものだが、当然それは他のマスターも重々承知であるために中々好機は訪れない。
 結論として、アサシンは最終的な勝利を得ることが極めて難しいクラスであると言えるだろう。一点特化の能力と言えば聞こえはいいが、それは地力の不足を意味するために一度逆境に陥ってしまえば立て直すことができず、対策を立てられてしまえばそこまでという出来損ない。
 かつて行われていたという七騎のサーヴァントによる聖杯戦争において、アサシンはキャスターに並ぶ"外れ"として知られていたという。暗殺しかできないという柔軟性の無さこそが、彼らに共通する陥穽なのだろう。

 ならば、そうしたアサシンの特徴である隠密というカテゴリにおいて、最も優れた能力とは一体何であるのか。
 攻撃体勢に移ろうとランクが下がらない、見つかろうが関係ないほど純粋に強い、遠隔であろうと暗殺が可能な攻撃手段を持つ。
 確かにそれらは強力だろう。どれもがアサシンとしては破格の能力であることに疑いはない。しかし、それはあくまでサーヴァントとしての強さであり、アサシンひいては気配遮断というカテゴリにおいて最上のものではない。

 隠れ潜むのに最も優れた能力。
 それは、"何をしようが気付かれない"という、認識阻害に他ならないのだ。





 自分は今、透明な世界にいる。

 そんな、子供の空想じみた感慨を、しかし夢想ではなく現実の感覚として音無は認識していた。


 本田宅を離れて数分、霊体化したあやめの言により"本田宅へ向かうサーヴァントと、それに合わせるように飛び出ていったサーヴァント"の気配を確認した音無は、即座に考えを巡らせて行動に移った。
 すなわち―――襲撃。現在本田宅にサーヴァントが存在せず、また正体不明のサーヴァントが近くに存在する以上は、仮に更なるサーヴァントがいようともそちらに注意を向けざるを得なくなる。ならばこれは紛れもない好機であり、無防備となったマスターを殺害するチャンスであると考えたのだ。

(……疑ってたわけじゃないけど、ここまでなんてな)

 そして現在。階上から聞こえる微かな雑談の声を横目に、音無は薄暗い廊下に立ち密かに舌を巻いた。

 音無はここに来るまでずっと周囲を警戒してきたが、結局何者かの尾行や襲撃はおろか、道行く人々の視線すら向けられることはなかった。
 宝具の力を解放し、魔力を爆発的に高めたことさえも、近辺に存在するはずのサーヴァントは気付かなかったようだ。すれ違う通行人からも透明人間の如く無視された。印象的だったのは民家の窓にいた飼い猫が、じっ、とこちらを目で追っていたことだ。それ以外には誰も、音無たちに目を向ける者はいなかった。
 異様な経験だった。
 まるで、幽霊にでもなった気分だった。
 その"理由"である少女は、今は音無の後ろ脇で所在無げにしていた。こちらと階段向こうを交互に見比べ、時折不安そうな視線を音無によこす。


 ―――"隠し神"の権能。


 とうとう音無は、ここに来てその真価の一端の発揮を決断した。
 そして音無が命じ、あやめが一編の詩編を口にした瞬間、音無の姿は事実上この世界から消え失せたのだ。姿だけが一瞬にして『異界』に取り込まれ、現界からは知覚できなくなった。
 とんでもないと、そう思う。改めてこの儚げな少女が人外の存在であると思い知った。けれど今はそんなことを考えている場合ではない。今の自分には、やることがある。

 尚も不安そうな視線を向けるあやめをなだめ、音無は一直線に声の出所である二階の一室へと向かった。ガチャリ、とドアを開ければ、二人の少女が和やかな雰囲気で歓談していた。先ほど別れた時と何も変わらない、等身大の少女たちの姿がそこにはあった。
 ドアを開ける金属質の音は、確実に聞こえているはずだ。突如として開かれたドアの姿も然り。しかし二人はまるで気付かないまま話を続ける。隠し神の力は単なる不可視に留まらないと、そういうことなのだろうか。

 懐から、あらかじめ忍ばせておいた出刃包丁を取り出す。自前で用意したものではない、これは階下のキッチンにあった本田宅の所有物だ。指紋が残らないようしっかりと手袋をして、ゆっくりと刃を未央の首へと当てる。
 ……そこで、動きが止まった。震える手を意志力で押さえつけ、一旦深呼吸。浮き出る脂汗をそのままに、握る柄に力を込める。

 殺人行為自体は慣れたものだった。元々いた死後の世界では"それ以上死なない"ために、単なる妨害行為にすら殺傷を用いることが多々あった。銃で撃ち、ナイフで斬り、大仰なトラップで惨死する仲間の姿もそれほど何回も目にしてきた。
 だから今だって躊躇する理由はないはずなのに。それでも手の震えは止まってくれず、切っ先はようとして狙いを定めることができない。
 ガチガチという音がして、何かと疑問に思えば自分の歯が鳴っていたのだと気付く。やろう、やろうと心に決めて、しかし刃は首に触れる直前で固まったように動かない。
 すぐ傍で寄り添うように手を添えるあやめに何かを言う余裕さえ無かった。最後に残された願いのためならなんだってやってやると意気込んでいた自分が嘘のように、怯えが漏れ出て止まらない。


 何故、何故だと考えて、そこでようやく思い至る。
 思えば、自分は今までに一度だって、取り返しのつかない何かを"無かったこと"にしたことがないのだと。
 かつて生きる意味を知って、死後の世界で生の喜びを知って。自分たちのように、人生に悔いを残す者がいなくなればいいと願って。
 その果てがこんな有り様なのかという、腐れ切った矛盾を。
 その時ようやく、ようやく音無は自覚した。

「……はは、とんだ臆病者だな、俺は」

 自覚さえしてしまえば、あとの話は簡単だった。
 自分は今から取り返しのつかないことをする。死んでも生き返る命じゃなく、失えば二度と取り戻せない命を奪うのだと、改めて心に決める。

 決断は一瞬、脳裏に浮かぶのは彼女の姿。
 遠い残照に想いを馳せる。たったそれだけで、体の震えは嘘のように停止した。

 必要なのはただ一つ。恐れぬ心、鋼の意思。
 エゴだろうと、愚想だろうと、この選択こそがたった一つの美しいものだと信じ駆け抜けるのだという希求。
 自分勝手な開き直りにも近しい我執こそが今の自分には必要なのだと、そう強く思ったがために。

「……悪いな、本田」

 申し訳なく思う気持ちはある。偽善と自覚してはいるが、それでも失われる命に何も思わないほど自分が冷血だとは思っていない。できるならば殺したくないという気持ちは本物だ。
 けれど、互いに譲れない想いがあって、そのために選べる手段がこれしかなくて、それで互いの道がぶつかるならば後は単純な椅子取りゲームだ。
 勝つか、負けるか。敗北の代償が命だろうと、そもそも聖杯戦争へ参加するという道を選んだのはこいつ自身なのだから、今更文句を言えるような立場ではないだろう。

 ああつまり。
 これは、この戦いは、俺たちのどちらがより強いエゴを持ってるかの勝負なわけで。
 だったら。

「俺の願いのために、死んでくれ」

 俺たちが抱くこの願いを、偽物だなんて言わせない。


 添えていた刃を、更に深く抉りこむように配置して。
 迷わず、一気に引き抜いた。


 がりっ、と鈍い金属の刃が押し込まれ、薄い肉と硬い骨を押し切る一瞬の感覚。同時にぷつぷつと細い線を連続して断ち切る細かな振動が指先を伝った。
 単一の肉を裂くのではなく、中に色々な線や管が詰まったものを裂く奇妙な手ごたえ。
 骨を削られ、薄い肉と組織と神経を切り潰された断面から、一瞬遅れて大量の血が溢れだす。ホースから飛んだ水のように、血は壁を深紅に染める。
 咽返るほどの臭気が、一瞬にして部屋中に充満した。空気に質量を感じるほどの濃密な血の臭いに、もっと重く腥い脂と体液の臭いを感じ取っても、しかし今度こそ音無は表情を変えることはなかった。

 対照的に未央とみくは、そのどちらもがポカンとした表情だった。今起こった事実を認められない、いや、認識できないまま、何も知らずに死んでいく。そんな顔。

 音無は目を逸らさなかった。自分がしたことを確りと焼き付けるために。これから先、二度と迷わないために。
 あやめも、怯えた表情ではあれど、目を逸らし覆い隠すことはしなかった。


 ―――終わったんだ、これで。


 達成の喜びもないままに音無は思う。くたりと血の海に倒れ込み、力なく腕を投げ出した未央を見下ろしながら、ああこれは確実に死んだな、などと場違いなほど冷静に思考する。
 終わった。これ以上なく確実に、本田未央は死ぬ。自分たちの行動はとうとう実を成したのだと、感慨もなく実感する。

 本田未央は倒れ。
 前川みくは自失し。
 音無結弦は確信し。
 あやめはただ傍に寄り添って。


 ここに、一人の男の願いをかけた、一世一代の略奪劇が幕を開けたのだ―――



































『おっほん』

『それではみなさんご唱和ください』

『It's All Fiction!!』



































 正は負へ。
 悲劇は喜劇へ。
 現実は虚構へ。
 万物は無へ。

 あらゆる属性が反転し、想いは破滅へと向けて転がり始める。


 愛した女を求める略奪劇は、確かに一旦幕を上げて。
 しかしここに、そんな願望の全てをお笑い劇(だいなし)にする悪意仕掛けのマイナスが現出したのだった。





   ▼  ▼  ▼





 そこには誰もいなかった。無謬の空間だけが広がり、物も、人も、生活の音すらも、そこには微塵も存在しない。
 ただ風の音だけがあった。風は世の事情など素知らぬ顔で吹きすさび、感傷だけを運んで消える。

 そこには誰もいなかった。音を出す者は、誰も。
 ただ一人、地に伏せ言葉もなく怒り猛る男を除けば、誰一人として。

「…………ッ!」

 音は無かった。言葉も無かった。そこにはただ、憤激と悔恨だけが存在した。
 凶念の発生源は手足のもがれた人影だ。芋虫のように這いつくばり、何をすることもできない無力に自分で自分を殺したくなるほど激する男だった。

 何もできなかった。ルーザーを名乗るサーヴァントを、止めることも倒すことも自分はできなかった。
 何もされなかった。ルーザーは自分を殺すことはなく、ただこの世の虚無を煮詰めたような黒曜の瞳でこちらを見るだけで、何ら手出しすることなく姿を消した。
 何もできていない。たかが手足を失っただけだというのに、今の自分は地を舐めることしかできない。その不甲斐なさこそが最も許せない。


 ―――本当ならここで却本作りの一つでも螺子込んでやってもいいんだけどさ。僕ときみのマスターはどうやら友人同士らしいし、そのよしみで見逃してやるよ。

 ―――良かったね下手くそピエロくん。か弱い女の子のおかげで助かることができてさ。


 ルーザーの言葉が思い出される。それだけを最後に、心底どうでも良さそうな顔で、かの男はこちらを顧みることなく姿を消したのだ。ひたすらに無意味で、どこまでも無慈悲で、それ故に無感動な捨て台詞だけを残して。
 屈辱だった。哀れな道化には何もできないと、そう告げられたようだった。
 いや、事実その通りなのだろう。実際鳴海は何もできていない。空回って取りこぼすだけの道化でしかなく、守ろうとした少女のおかげで自分が助かったなどと、これ以上ない恥辱である。
 結局、後にあったのは、ただ歯噛みするしかない鳴海の姿だけ。それだけが、此度の邂逅で生み出された残骸だった。

「駄目だ、早く行かねえと……畜生……!」

 猛る思いが肉体を動かし、しかし精神だけが先行して肉体が地を蹴ることは許されない。
 如何に木石の腕で気を放つことができようとも、手足そのものが無ければそれを動かすことはできない。気合や根性ではなく、それは物質としての当たり前の結果だった。

 立ち去ったルーザーがどこに行ったのか、それが分からないほど鳴海も愚かではない。自分たちのマスターは友人同士だと奴は言った。ならばその行先など火を見るより明らかだろう。
 動けない自分を見逃した真意がどこにあるのか、それは分からない。けれどあれは駄目だ。あんな負完全なモノと遭遇すれば、自分のマスターは耐えることができない。
 殺される。いいや、もしかすればそれより酷い末路を歩むかもしれない。

 理屈ではなく直感としてその結末が想起されるほどに、あの男は異様だった。燻る戦意とは裏腹に、奴を不快と感じる胸の灼熱は収まりが尽きそうにない。
 それでも、いいやだからこそ。
 彼女を守ると誓ったこの身は、一刻も早く彼女の元へ赴かなければならないのに。

「動け、動けよオレの体……!
 こんなところで、オレは……ッ!」

 早く、早く、早く。
 ただそれだけを祈って、願って、ありもしない腕と足に力を込めて。
 一歩でも、前に進もうと―――

「―――って、うおッ!?」

 瞬間、伏せていた地が爆発したように爆ぜた。
 ひたすらに重く体の芯に染み込む重低音が轟き、直下の大地が貫かれたように砕け散る。噴き上がるマグマのように砂塵が舞い、閑静な住宅街に一瞬の戦音を響かせた。
 一体何が起こったのか、事の中心にいた鳴海さえも数瞬分からなかった。自分はただ無い腕を振り回していただけ。それで破壊が起こる道理などないのにと。

 ふと、右手があったはずの箇所に、何かを殴り抜いたような重い触覚が感じられた。目を向ければそこには確かな自分の腕を見てとれて、地面を掘り殴ったような土の質感と痕跡が、握られた拳に残っている。
 もしやと思い足だった箇所を動かせば、つられて本物の足も思い通りに動かせた。幻ではない実体が、確かに存在して鳴海の制御下に動作していた。

 爆発の原因は、自分の腕。
 いつの間にか元に戻っていた腕が、滅茶苦茶に振り回されて地面を殴ったという、それだけの話だったのだ。

「……おし」

 グーパーと実存を確かめていた手を強く握りしめ、鳴海は言葉少なく頷いた。理屈は知らないが手足が戻ったというなら話は早い。かつて晒してしまった無様を、今こそ返上しようと足掻く。
 取り戻した足は渾身の力で地を穿ち、空を切る感触と共に最速かつ一直線に目的の場所に向けて疾走する。
 目指すべきはただひとつ。マスターの待つ家路の一室。





   ▼  ▼  ▼





 ―――降り注ぐ螺子の音と共に。
 ―――その声は、不吉を届けるかのように響き渡った。



大嘘吐き(オールフィクション)

『すべての"虚飾"を【なかったこと】にした』



 その瞬間、世界が"ひっくり返った"。

 急に全身に現実感が戻った。ぐるりと景色が回転し、今まで見えていた風景がそっくり同じまま、しかし致命的に違う風景に入れ替わった。心臓は早鐘のように鳴り響き、体は抑えのきかない震えに包まれている。
 夢のような惨劇は、しかし悪夢のような現実へと姿を変えた。異様な感覚、異様な金属音、悲鳴と怒号が耳に届く。
 その中心に佇むのは、酷く見慣れてしまった"彼"。
 ルーザー、球磨川禊

『やあ、みくにゃちゃん久しぶり』

『僕だよ』

 白々しい嗤いを浮かべる彼に、しかしみくは何の言葉を返すこともできない。
 状況の変化に頭がついてこなかった。目まぐるしく入れ替わる現実に、平時の彼女の思考能力が追い付けていない。
 けれども、今の彼女が抱える最も大きな懸念を挙げるとするならば。
 力なく倒れたままの親友の姿と。
 "壁に縫いとめられた一組の男女"の影。

「え、これなに……未央チャンが、でも血は……それに音無さ、ん……?」

 視線の先にあるのは、四肢と胴体に楔を螺子込まれた二人の男女の姿。
 今や奇怪なオブジェとなったそれは、しかしみくの知るままの顔と声で何かを叫んでいて、見間違いでも何でもなく、彼が音無結弦だと如実に示していた。
 けれど、その隣で同じように縫いとめられている小さな女の子は。
 怯えと混乱が同居してフリーズしたような顔をしている少女は、今まで見たこともなくて。

 ―――何故かは分からないけれど。
 ―――儚げなその姿に、ルーザーに感じるものと同じ違和感を覚えた。

『なんだいみくにゃちゃん、猫がマタタビでぶん殴られたみたいな顔しちゃってさ』
『僕はきみが危ないところを助けてやったんだぜ?』

『笑えよ』

『いつも何度でもへらへら笑ってろよ。それがシンデレラガールの条件なんだろ?』

 相も変わらず滲み出る嫌悪感に、そこでようやくみくは手足の動かし方を思い出した。分からないことは多いけれど、今の自分がすべきことは理解できる。「未央チャン!」と叫んで弾けるように飛び出し、倒れる彼女へと駆け寄った。慌てて肩を掴み呼びかける。返事はなく、けれど何故か、その首に一切の傷は存在しなかった。

 抱き起した未央は、さながら昼光に午睡する少女のように、穏やかな顔で眠っていた。
 突然血を噴き出した彼女は、けれど死んではいなかった。

「ぁ……良かった、未央チャン生きてるよぉ……」

 安堵の感情と共に体から力が抜ける。へなへなと崩れるように、ぽすん、と尻餅をついた。

『……うん、感動のご対面ってところかな。いつもの猫語はどうしたのさ、どうでもいいけど』
『さて、女の子同士の麗しい友情はあっちに任せるとしてだ』

 そんなみくの普遍的な感情の揺れを理解してかしないでか。
 球磨川はただそれを睥睨して、にやけ面の影を更に強く濃く浮かび上がらせた。

『そろそろ僕たち男同士の殺し殺されな友情も深めようぜ。なあ、色男』

 ぐるり、と擬音がつきそうな動作で、球磨川は背後の壁を振り返る。
 向けられた視線の先にいるのは、磔にされた音無結弦。

(どういうことだ、何が起きた? こいつ一体何者なんだ……!?)

 彼は未だ、冷静な思考を取り戻せてはいなかった。
 答えの出ない問いがぐるぐると頭の中を駆け巡る。眼前の男が一体何者なのか、音無の視点ではまるで理解することができない。

 ―――この男は、意味の分からない言葉と共に現れた。
 本田未央の首を包丁で掻っ捌いた瞬間に声が聞こえて、物凄い勢いで視界が後退した。何事かと見遣れば自分の全身はあやめ諸共巨大な螺子で壁に縫い付けられ、目の前には一瞬前までいなかったはずの男の姿。

 意味が分からない。何故、こちらの存在に気付けたのか。何故、攻撃される寸前まであちらの存在に気付けなかったのか。
 考え得る最悪の想像―――透視能力を持ったアサシンかとも思ったが、違う。そもそもこいつがサーヴァントなのかすらも、音無には判別がつかなかった。

 何故なら男からは、サーヴァントならば見えるはずのステータスが一切視認できないのだから。

『なんでって顔してるけどさ、逆に聞くけど気付かれないとでも思ったのかい?
 あんな分かりやすい(よわさ)を曝け出してりゃ嫌でも気付くってもんさ。それが過負荷(ぼく)なら尚のこと』

 球磨川が音無の凶行に気付けた理由は、言葉にすれば酷く簡単なものだ。それは、単に「みくと一緒にここに入る音無の顔を見たから」という、ただそれだけ。
 みくと音無が出くわしたのと、球磨川と鳴海が出くわしたのは、実際かなりぎりぎりのタイミングだった。
 だから分かったのだ。例え視認できたのが遠目からの小さな影であったとしても、あらゆる弱さは球磨川禊から逃れることはできない。
 音無結弦がその身に抱えた弱さ、渇望、身勝手なまでの醜悪な我執。その全てを、言われるまでもなく球磨川禊は理解したから。
 だから、音無がここで何かやらかすだろうと、球磨川は最初から察することができていたのだ。わざわざ事前に「サーヴァントとしての気配」を【無かったこと】にしてまで、彼はそれを防ごうと努めていた。
 向かう途中に拳法使いのサーヴァントに邪魔された結果遅刻して、結局は見るも無残なことになったという過負荷お馴染みの結末(はいぼく)を辿りはしたけれど。

 球磨川があやめの気配遮断能力を突破できた理由はもっと単純だ。彼らが何かをするのは分かっていたが、何をするかまでは分からない。ならば話は簡単である、文字通り全てを無くしてしまえばいい。
 "この部屋におけるあらゆる虚像、隠蔽、虚飾。すなわち虚構"。それら一切合財を纏めて零にした。策もへったくれもない力押し、なるほど白痴を自称する球磨川に似合いの手段である。

 種を明かせばこんなものだが、ともかくとして状況は明らかだった。今この場で自由に動けるのは球磨川禊ただ一人。本田未央は血に倒れ、前川みくは自律行動できるほど我を取り戻さず、音無とあやめは言うまでもなく壁へと螺子込まれた。
 この空間の主導権は、球磨川禊に握られていた。

『ああそれと―――令呪なんて使わせるつもりはないから、そこんとこよろしく』
「が、ぐぅあッ!?」

 命令を口に出そうとした瞬間、張り付けられた音無の右手に衝撃が走り、次いで焼けるような熱が体の芯を貫いた。
 突き刺された。螺子を、気味が悪いほど気配もなく距離を詰めた球磨川の手で。文字通りの磔の如く、僅かな挙動も見逃さないと言うかのように。
 球磨川禊は、ただ嗤う。

『これからきみは、サーヴァントに何を命令することもできません』
『逃げることも』
『戦うことも』
『殺すことも』
『死なせることも』
『きみがすること全部、徹底的に否定してやる』

『残念だったね色男くん。これは弱さを鎧じゃなく武器にしたきみ達の失策だ』
『弱点を纏うのは僕たちに最も有効な暴力だけど、きみ達は手にした手段だけに弱さを纏わせた。だからほら、こんな簡単にやられちゃう』

 嗤いが、深まる。

『それとも、まさか自分の身だけは綺麗なままで勝ちたいとか、そんなことでも考えてたのかな?』

 深まる。ただ、嗤う。

『甘えよ』
『その甘さ、正直好きになれないな』

 ―――掲げられた螺子の先が、こちらの顔面を照準する。

 万策尽きた、音無はそう悟った。令呪を使おうにも、そんな「逃れたいという弱さ」をこいつが見逃すとは思えない。
 自分は魔術師ではない。格闘家でも、怪物でも、英雄でも神でも悪魔でもない。だから抗する術は無く、順当にここで終わりを迎える。
 そして、あやめもまた。


「……いや……私、は……」


 ―――ふと、自分の隣で慟哭する少女の嘆きが聞こえてきて。
 ―――悲哀の表情が何故か、初音の笑顔とダブって見えて。
 相反する二つの光景が、どうしても許せなくて。

「……あ、あぁ、あ」

 諦観と窮境の極致。招いたのは抱いた慢心のツケか。胸に去来する慟哭の過去は無限に溢れ出て、拙い心を締め上げるように圧迫する。

 ……駄目だ、まだ死ねない。俺たちはこんなところで、終わるわけにはいかないのに―――!

「ちッ、くしょぉお――――――ッ!」

 動かない腕を、それでも無理やりに動かそうとして。
 祈りは届かない。手は届かない。声は届かない。
 愚かな自分は、弱い自分は、何を為すこともできなくて。

 ―――けれど。

 少女の嘆きに、音無の絶叫に。
 気を取られたのか、はたまた気まぐれか、球磨川の視線があやめへと移り変わって。

『…………うげ、マジかよ』

 呟かれた、瞬間。

「よお、借りを返させてもらうぜ」

 ―――部屋の壁が轟音と共に砕け散り、飛び込んでくる男の影がひとつ。
 それは、壁ごと球磨川の顔面を打ち貫き、極大の破壊を打ち込む。丸太のように屈強な脚で。

「令呪を以って命じる―――ッ!」

 だから、生じた間隙を逃すことなど、絶対にできるはずもなく。
 音無結弦は絶叫を迸らせ、一心不乱の遁走を選択したのだ。





   ▼  ▼  ▼





 蹴り飛ばされた球磨川の体が、錐揉みしながら反対側の壁に激突する。制服がかけられている衣装立てや吊るし掛けの写真がけたたましい音を立てて巻き込まれ、敗れたポスターがひらひらと宙を舞った。
 どしゃり、という間の抜けた擬音が耳に届く。肌に当たる風圧も、飛び込んでくる光景も、突然の闖入者も、何もかもが冗談みたいな出来事だった。自分に理解できないことばかりが、この部屋で起こり続けている。
 そして。

「―――――……」

 ―――悪鬼羅刹がそこには立っていた。

 立ち塞がる偉丈夫に、崩壊した壁面を泰然とした歩調で踏みしめ跨ぐ巨躯に、激し猛ったその気勢に。比喩でもなく、みくは鬼神の姿をそこに見た。
 歪んでいた。熱していた。激烈なまでの熱情に、武骨な形相が憤怒の色に染まっていた。見た目こそ普通の人間だが、放たれる存在圧が桁違いだ。覇気が、敵意が、凄味が違う。是なる者は正しく超常、サーヴァントなる異形の超越者であると、どんな言葉よりも雄弁に、その威容は語ってみせた。
 自分の身が震えていることに、しかし空白となった思考すら満足に働かすことのできないみくが気付くことはなかった。端的に言えば、"中てられて"いた。15年という短い人生ではただの一度も経験したことがない、そしてこれからの人生でも終生味わうことのなかったであろう鬼気を、間近で一身に浴びていたのだ。
 彼女自身は言葉を借りれば、心を軋ませる存在感などルーザーで十分に味わっている、と言うのだろうが。けれどこれは、絶対値としての強さはともかく、内包する性質はまるで違う代物だ。ルーザーのそれが心身を蝕む毒沼と例えるならば、眼前の男が放つのはひたすらに熱量を増大させたマグマの如き気配放出。
 だからこそ動けない。生まれて初めて感じる純粋なまでの「命の危機」に生存本能すらも圧倒されて、悲鳴を上げ逃げ惑うことすら彼女は為すことが許されない。抱きかかえた未央の体を取り落とさなかったことが或いは、彼女に残された理性が為した最後の抵抗だったのかもしれない。

 ……男の手が、伸ばされた。
 吹っ飛んだルーザーにではない。それはこちらに、そして抱える本田未央に向けて。攻撃の意がそこにあったのか、みくには分からなかった。けれど、ただ手を向けられたというそれだけで、彼女の心は最大級の軋みをあげた。
 漂白されかかった意識が、粉みじんになりそうだった。
 言ってしまえば、みくの精神は限界だった。この部屋で起こったこと全て、どれ一つ取っても平時ならば泣くか数日は引きずる類のものばかりで、彼女自身にも分からないほど高速に、その心は容易く限界値を迎えていた。
 そしてトドメにこれだ。常人ならばチビるどころか即座に昏倒しかねない覇気を、しかしなまじ異常に慣れてしまっていたせいで気絶することもできず正面から晒されることになった彼女は、まさしく"負"運だったとしか言いようがない。

 ―――あ、もうだめだ、これ。

 そして当然、こうなる。強風に煽られた細木が折れ倒れるように、大波に晒された砂城が容易く崩れるように。あまりに呆気なく、かつ順当に、その精神は限界を超えて―――



『おい』
『ちょっと待てよ下手くそ道化』
『僕はまだここにいるぜ?』

 ―――恐慌に倒れ掛かる精神を、それ以上のマイナスが無理やりに立て起こした。
 瞬間、みくたちに差し伸べられようとしていた腕はその脇を素通りし、背後に立っていたであろう"彼"を違うことなく打ち据えた。
 くぐもった呻きが聞こえ、次いで人間大の重さを持つ何かが崩れ倒れる音が一つ。碌に反応できなかったのはみくも彼も同じことで、勝負にもならない勝負はあっさりと決着がついた。

『だからさぁ』
『ちょっと待てって言ってるんだよ、僕は』
『人の話はちゃんと聞けっての』

 ……いや。
 終わってなど、いなかった。

 ゆらりと、幽鬼じみた動きで立ち上がる彼を、そこでようやく反応できたみくの瞳が捉えた。
 満身創痍だった。傍目から見ても戦闘どころか何故動けるのかすら分からないほどに、彼の肉体はボロボロだった。たったの二撃、ただそれだけでルーザーの戦闘能力は根こそぎ奪われていた。
 それでも、立っていた。
 どこにそんな余力があるのか。
 どこにそんな気力があるのか。
 皆目見当はつかないけれど、それでも彼は倒れない。
 幾ら殴られようが、貶されようが、死にかけようが。
 それでもヘラヘラ笑いながら、彼は立ち上がるのだ。

「……オレはな」

 しかし、それでも。

「てめえの言葉なんざ、もう聞く気はねえよ」

 ―――マイナスではプラスを止められない。
 そんな当たり前の道理を拳に叩き込んで、鳴海の剛拳がかぶりを振り―――

『……僕が、きみのマスターの命の恩人でも、かい?』

 ピタリ、と。
 当たる直前に、絶死の拳は唸りを止めた。
 付随する風圧だけが、球磨川の頭を撫でていった。舞い上がる前髪がふわりと戻り、一息ついて言葉を続ける。

『僕の過負荷(スキル)は、きみも既に知っているはずだ。
 【3分間だけ全てを無かったことにする】。きみの剣も、両手足も、3分経ったら元に戻っただろう?』
「……それが、一体どうしたってんだよ」
『きみのマスターが負った傷を、そのスキルで一時的に癒したってことだよ。
 魔法が解けたら当然元に戻る。十二時のシンデレラみたくね』



「……………………え?」



 その言葉に、最も衝撃を受けたのは蚊帳の外にあったはずのみくだった。
 思いがけぬ言葉に一瞬だけ面食らって、直後に不安と恐怖が加速度的に上昇した。
 そうだ、冷静になって考えれば当たり前のことだった。あの時見た未央は、確かに致死量に近しい血液をその首から噴出していた。それは見間違いなどでは断じてなく、こうして全てが【無かったこと】になっている現在こそが異常なのだ。
 ならば、そうだとすれば。
 こうして穏やかな顔で眠っている本田未央は。
 もう1分足らずの命しかないと、そう言うのか。

「それを……!」
『信じるか信じないかはそりゃ自由さ。でも、きみにそれを否定できる材料はあるかい?
 この部屋の惨状と、大量にぶち撒けられた血痕を見てもさ』

 大仰に芝居がかった身振りで辺りを指し示す球磨川の言葉は、尤もだった。部屋の壁には一面に新鮮な血痕がへばり付き、未だ乾いてもいない有り様だ。
 この部屋で、誰かが傷を負ったのは確かだ。そして付着具合とばら撒かれ方を見るに、血液の出所は血の海の中心で倒れる本田未央で―――

「これは、てめえがやったんじゃねえのか」
『違う違う、やったのは別の奴さ。確か……音無結弦とか言ったっけ? 生徒会長なんか勤めてる奴だから不思議と名前覚えちゃってさ。まあとにかくそいつの仕業だよ。全く酷い奴だよね、女の子の首をいきなり掻っ捌いちゃったりしてさ。
 そういうわけで、僕らはただここに居合わせただけ』
『だから僕は悪くない』
『今回ばかりは、本当にね』

 一拍置いて、気を取り直すように。

『そしてさ』
『僕なんかが言うことじゃないかもしれないけど、きみがすべきなのは戦うことよりも自分のマスターを助けることなんじゃないかな?』
『ああ、別にいいんだぜ? きみが子供を見捨てるような薄情者なら、その時は僕だって腹括ってやる』
『で、きみの決断は?』

 ……一瞬の沈黙が、場を満たした。
 鳴海は、拳を下ろしていた、数瞬前まで場を支配していた闘争の空気も、最早欠片も残ってはいなかった。
 ―――球磨川の口元が、弦月に歪んだ。

『OK、それじゃあ僕らはここいらでお暇させてもらうってことで。
 ほら何してんのみくにゃちゃん、こんな物騒な場所とはさっさとオサラバだぜ』
「え……ちょ、ま……!」

 呆然としていたみくを小脇に抱えた球磨川が、先ほどまでの満身創痍など嘘だったかのように駆け出し、窓枠を蹴って豪快に宙へと身を躍らせた。事態についていけない様子のみくは、その行為にただただ目を丸くして奇声じみた悲鳴を上げるのみ。
 血錆に煙った空気に似合わぬ喧騒じみた声は、港から離れ行く汽笛のように徐々に音量を低くしていき、数秒とかからずに元の静寂を取り戻した。
 後には、影となって表情も見えない鳴海と、ただ安息に眠る未央の二人だけが、取り残されていた。





   ▼  ▼  ▼





 かつて、自分の生きる意味は妹だった。

 その日暮らしの惰性を過ごし、餓死しない程度の日銭を稼いで、死んだように生きていたあの頃。
 他人に興味が持てない。生き甲斐がない。生きる意味が知らない。何故それで死んでないのか自分でも分からないほどに色褪せた世界の中で、それでも俺は生き続けた。
 後になって思い返せば、理由なんて単純だった。生きる意味はすぐ傍にあったんだ。

 俺はただ、"あいつ"に"ありがとう"と言われるだけで生きていられた。感謝される、それだけで生きた気がしていたのだ。
 ただ気付かなかっただけで、世界は色褪せてなんかいなかった。俺は、幸せだったのだ。
 あいつは俺の全てだった。その笑顔を、感謝の言葉を、暖かな仕草を。感じるだけで満たされていた。何もない自分でも、生きてていいのだと言われているようだった。

 ならばこそ、思うのだ。



「ごめんなさい、ごめんなさい……!」



 ―――目の前でひたすらに"ごめんなさい"と謝り続けるこの子を見て。
 ―――妹と重ねてしまった少女の、目に涙をためて顔を伏せる姿を見せられて。

 俺は、一体何をすべきなのだろうかと。

「……ッ!」

 あまりの不甲斐なさに思わず歯噛みする。先の一件、その失敗、全ての責任は自分にあった。
 功を焦った、機を測り間違えた。あやめはただ隠し神の力を持つだけの少女でしかなくて、だからこそ彼女の命を預かった自分が失敗するわけにはいかなかったのに。
 そして、失敗よりも何よりも、この子を泣かせてしまったという、それこそが一番許せなかった。

「……大丈夫さ、心配するな。ここからだってきちんと巻き返せる」

 痛みで歪む意識を無理やり立て直し、努めて明るい声で諭す。
 今自分たちがいるのは新都と深山町を隔てる未遠川の真ん前、整備された河川敷だ。遠目に見える冬木大橋は平日の昼間でも関係なく多くの車を走らせており、人の行き交いが絶えない様子である。
 ……随分と長く跳んだな、と。そんな益体の無いことを考えた。直線距離にして数キロか、令呪の魔力と強制は、およそ常人程度の身体能力しか有さないあやめにすらここまでの移動能力を与えるのだ。
 令呪。サーヴァントへの強制命令執行権にして切り札、そしてマスターがこの世界に留まるための最後の縁。その一画を、音無はこうして使ってしまった。
 腕を貫かれ、何も得ることはなく、令呪だけを悪戯に失った。

「ちくしょうっ……」

 自分に縋りつくあやめに聞こえないように、小さな小さな声で吐き捨てた。無論、それは彼女にではなく、自分に対するもの。
 だがどれほど罵倒し悔やんでも、既に起きてしまったことは変えられない。失敗した、正体がバレた。浅くない傷を負い、勝利への道が限りなく先細ってしまった。それは事実だが、それで今から諦めてちゃ世話ない。
 だから考える。今から自分たちが生き残るための術を。

(学校には……もう行けないだろうな。本田だけならともかく、あそこには前川もいた。だったら確実に通報されてる。
 くそッ、そうすると俺は、マスターやサーヴァントだけじゃなく警察まで相手にしなくちゃならないってことかよ)

 少し考えただけでも分かる。今の自分たちは八方塞がりだ。ただでさえ他のサーヴァント陣営に抗しえないほど弱小の自分たちに、加えてNPCの追手までかかるというのだ。思わず天を仰ぎたくなる。
 NPCが構築する疑似的な社会的立場は、身元の保護となる反面過ちが露呈した者には縛りとなって機能する。ならば最早自分に帰るべき役割(ロール)などなく、これ以降は路頭に迷い出たまま戦わなくてはならない。
 明らかに、自分たちだけでは不可能な道のりだ。協力者は必要不可欠である。となれば……

(ゆり……ゆりの協力があれば、まだチャンスはあるかもしれない)

 今の自分たちの味方と成り得る存在。それは仲村ゆりを除いて他になかった。
 彼女はかつての世界で自分の仲間だった。そのことに嘘は無く、互いが互いを信頼し合う仲だった。そして彼女は今、突如失踪して数日もの間姿を眩ませている。
 信頼関係は十分。そしてここ数日の奇妙な行動を鑑みれば、彼女がマスターだという可能性は高い。もしかすると警察の追手から逃れるための拠点も用意しているかもしれない。これを利用しない手は、最早手札の尽きた音無にとっては存在しなかった。
 ……唯一にして最大の懸念である、自分の連絡に一切応じないという問題が立ち塞がってはいるが。

(それでもやるしかない……今の俺たちには、それしか手は残ってないんだ)

 如何にか細い希望であろうと、それしかないのであれば手を伸ばす。奇跡に、聖杯を掴むために。
 例えかつての同胞を騙そうとも、伸ばすべき手を多くの汚泥で汚そうとも。
 この手に圧し掛かっているものは、自分一人の願いだけじゃないのだから。

(俺たちは絶対に勝ち残る。ああ、諦めてたまるかよ)

 縋るあやめの手を引いて歩き出す。その道程に、最早微塵の迷いもなかった。


 惰性で生きて、無気力だった俺は、かつて妹に生きる意味を教えてもらった。
 その果てが悲劇であったとしても、俺は本物の人生を生き抜くことができた。
 けれど、この子は俺とはちがう。
 生きることの希望も、生きる意味も、そもそも生きたことさえなかったこの少女を、自分は救い出したいと願ったから。
 俺たち"二人"の願いを叶えるために、ここで立ち止まることなどできはしないのだ。



 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――。



『こんにちは、ユヅル』
『きみの心で鼓動を奏でた"彼女"の、抱いた願いを穢し続ける限り』
『きみが、きみたちが、《美しいもの》を見ることはない』

『―――諦めるときだ』



 ……ああ。
 今日も見える。視界の端に、踊る道化師の姿が。

 いつもは見ないようにしている。こいつは多分、俺の"諦め"の象徴のようなものだから。
 諦めろ、無駄だ、できるはずがない。努力し目指すことから目を背けて、ただ無気力に日々を過ごすだけだった過去へ戻れと嘯くこいつは、正しく俺から生まれ出でた幻覚なのだろう。
 俺以外に知ることのない俺の過去を穿ち返し、全ての願いを諦めてしまえと囁く道化師。白い仮面に嘲笑だけを張り付けて。

 ―――黙れ。

 目を閉じ、耳を塞ぎ、手は伸ばすことなく繋ぎながら、視界の端の狂気から目を逸らす。
 どうしたの、と不安げな視線をよこすあやめに、なんでもないとだけ告げて歩みを再開する。澱みは、そこには存在しない。

 ―――ただ、一抹の不穏だけが。
 ―――彼らを覆う、囲いとなっていた。



【B-7/河川敷/1日目 午後】

【音無結弦@Angel Beats!】
[状態]疲労(中)、精神疲労(大)、魔力消費(小)、右手に貫傷。
[令呪]残り二画
[装備]学生服(ところどころに傷)
[道具]鞄(勉強道具一式及び生徒会用資料)、メモ帳(本田未央及び仲村ゆりについて記載)
[金銭状況]一人暮らしができる程度。自由な金はあまりない。
[思考・状況]
基本行動方針:あやめと二人で聖杯を手に入れる。
0.今は逃げる。
1.何とかしてこの状況を打破したい。ゆりとの合流を最優先にしたいが……
2.学校にはもう近づけない、か。
3.あやめと親交を深めたい。しかしもうそんな悠長なことを言っていられる余裕は……
4.学生服のサーヴァントに恐怖。
[備考]
高校では生徒会長の役職に就いています。
B-4にあるアパートに一人暮らし。
コンビニ店員等複数人にあやめを『紹介』しました。これで当座は凌げますが、具体的にどの程度保つかは後続の書き手に任せます。
ネギ・スプリングフィールド、本田未央、前川みくを聖杯戦争関係者だと確信しました。サーヴァントの情報も聞いています。

【アサシン(あやめ)@missing】
[状態]負傷(小)、精神疲労(大)
[装備]臙脂色の服
[道具]なし
[思考・状況]
基本行動方針:ますたー(音無)に従う。
1.ますたーに全てを捧げる。
2.あのサーヴァント(球磨川禊)は……
[備考]
音無に絵本を買ってもらいました。今は家に置いています。





   ▼  ▼  ▼





『いや参ったね、見事にボロ屑だよ僕らは』

 ニタついた笑みを浮かべて、ルーザーは自分たちを取り巻く現状をそう称する。
 陽が沈みつつある道の傍ら、夕暗がりに沈むように彼は立っていた。太陽を背にした影は不気味なほどに長く伸び、蹲った少女を頭からつま先まで覆い隠している。

『本当に参った参った。てっきり普通(ノーマル)かと思いきや、過負荷(ぼくら)に片足突っ込んでるとか想像できないでしょ。
 あんなの自然に生まれるわけないし、生み出した奴は性根が腐ってるんだよきっと。僕だけならともかく、みくにゃちゃんがいるところで暴発なんてさせられないよねぇ……
 あれ、どうしたのさみくにゃちゃん。落ちてたお魚拾い食いでもしたの?』
「……うるさい、ほっといてよもう……」

 矢継ぎ早に繰り出される軽口に、碌に答えられないほどに、今のみくは憔悴しきっていた。当然のことだろう。なにせ、本田未央はあのまま死ぬのだと、そう言われたも同然なのだから。
 みくは人死にというものを見たことがない。精々が祖父母が冗談めかして死期が近いなんて言ってるのを聞き流していた程度で、見るのはおろか聞くことさえ、経験はなかった。
 無意識ではあったのだろう。けれど、みくは信じていたのだ。言葉には出さず、実際聞けばそんなことはないだろうと否定したであろうことを、それでもみくは信じていた。
 自分だけは死なない。
 自分の大切な人も死なない。
 なんだかんだ世の中は上手く回って、努力すればいつか絶対報われる日が来て。
 最後にはハッピーエンドを迎えるのだと。
 そんなサンタさんじみた絵空事を、心のどこかで信じていたのだ。

 だから、折れる。
 直視したくなかった現実を前に、あっさりと。
 本田未央がマスターで、NPCなどという偽物じゃなくて。
 自分の目の前で命を散らしたという事実は、呆気なくみくの心をへし折った。

『ふーん。ま、別に僕としちゃきみが腐ろうが関係ないんだけどさ』

 本当に心底どうでもいいといった風情で、ルーザーは手元へと視線を落とした。
 そこには携帯端末が握られていて、指で押すような、叩くような動作を連続して行っている。

『その本田未央って子は、仇討するほどの価値もきみの中に無かったのかな』
「ッ! なに適当なこと―――!」
『違うってんなら、はいこれ』

 激昂しかけたところに、気勢を削ぐ形で端末を投げ渡される。
 落としかけたところを咄嗟に掴みとってしまって、なんだか怒るタイミングを消されたような気分になった。

「……なに、これ」
『警察署にかけといたよ。そろそろコールが終わって繋がるだろうからあとはよろしくねみくにゃちゃん』
「ちょ、なに勝手なことして……!」
『先に進みたいなら自分から動けよ、半端者。普通(きみ)過負荷(ぼく)と違うって言い張るんなら尚更さ』

 その言葉に、反論の言葉が出なかったのは何故だったのか。
 みくは、茫洋とした瞳に、しかし欠片ほどの光を宿して。

『さあみくにゃちゃん、これから先は泣き言なんか言ってられない。きみにとっての聖杯戦争はここから始まるんだ』
普通(ノーマル)じゃいられない、過負荷(マイナス)にもなりたくない。なら足踏みしてる暇なんか君にはないはずだぜ?』
『自分の足で歩くんだよみくちゃん。自分にとっての現実は、自分自身が頑張らなくちゃ胸を張ることだってできないんだからね』


【B-3/路地/1日目 午後】

【前川みく@アイドルマスターシンデレラガールズ(アニメ)】
[状態]軽度の混乱、魔力消費(中)、精神疲労(大)、『感染』
[令呪]残り三画
[装備]なし
[道具]学生服、ネコミミ(しまってある)
[金銭状況]普通。
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を取る。
0.警察に通報する……?
1.人を殺すことに躊躇。
2.未央ちゃんがマスターで、もう助からなくて、なら私はどうすれば……
3.先輩がマスターで、未央ちゃんを殺そうとしてて、だったら戦わなきゃいけない……?
[備考]
本田未央と同じクラスです。学級委員長です。
本田未央と同じ事務所に所属しています、デビューはまだしていません。
事務所の女子寮に住んでいます。他のアイドルもいますが、詳細は後続の書き手に任せます。
本田未央、音無結弦をマスターと認識しました。本田未央をもう助からないものと思い込んでいます。
アサシン(あやめ)を認識しました。物語に感染しています


【ルーザー(球磨川禊)@めだかボックス】
[状態]『物語に感染? 大ダメージ? それがどうしたってのさ』『不利じゃなきゃ、過負荷(ぼく)が勝ったことにならない』
[装備]『いつもの学生服だよ』
[道具]『螺子がたくさんあるよ、お望みとあらば裸エプロンも取り出せるよ!』
[思考・状況]
基本行動方針:『聖杯、ゲットだぜ!』
1.『みくにゃちゃんはいじりがいがある。じっくりねっとり過負荷らしく仲良くしよう』
2.『裸エプロンとか言ってられる状況でも無くなってきたみたいだ。でも僕は自分を曲げないよ!』
3.『道化師(ジョーカー)はみんな僕の友達―――だと思ってたんだけどね』
4.『ぬるい友情を深めようぜ、サーヴァントもマスターも関係なくさ。その為にも色々とちょっかいをかけないとね』
5.『本田未央ってのがマスターだったわけだけど、みくにゃちゃんの反応が気になるかな』
6.『音無? 生徒会長? 気に入らないなぁ、だから徹底的に追い詰めてやろうぜ(笑)』
[備考]
瑞鶴、鈴音、クレア、テスラへとチャットルームの誘いをかけました。
帝人と加蓮が使っていた場所です。
本田未央、音無結弦をマスターと認識しました。
アサシン(あやめ)を認識しました。物語に感染しています

※前川みく、ルーザー(球磨川禊)がアサシン(あやめ)を認識、物語に感染しました。残された猶予の具体的な時間については後続の書き手に任せます。あと今回の暴露劇だとルーザーが他二人に『紹介』した形になるので、彼だけ受けている影響が小さいです。





   ▼  ▼  ▼





 少しだけ覚えている記憶の断片。
 崩れ落ちる瓦礫。あの水の中に消えていった、小さな小さな子供の姿。
 オレの目の前で無明に呑まれたひとりの少年が、必死に助けを求め足掻く姿。それが、目を瞑れば今も脳裏にはっきりと思い浮かぶ。
 だからだろうか。オレは子供の悲鳴だけは我慢がならなくて。
 けれど。

「……」

 抱き起こしたマスターは、悲鳴を上げることすらなかった。
 綺麗な寝顔だった。けれどそれは安らかな抱擁に包まれたものではなく、何かに魘されるように、顔をしかめたもので。
 忘れていた。人とは、命とは、こんなにも軽いものだったのだと。
 奪おうと思えば容易く奪われ、一瞬でその生を終えてしまう儚いものなのだと。

 この腕の中にある、小さな命。
 それがあと幾ばくもなく死に至るなどと。

「そんなこと、よぉ……」

 ―――許せるはずが、ないだろう。

 ルーザーは言った。奴が使うスキルで、3分間だけ猶予を与えたと。
 それが解除されたら、切り裂かれた首が元に戻ってすぐにでも死ぬのだと。虚言ばかり吐いていたクソ野郎ではあったけど、その言葉が嘘だとは、到底思えなくて。
 部屋に飛び散った血の量からして、次に傷が開けばそれだけで致命傷になるのは明らかだった。たった3分では治療施設に運び込むこともできないし、そもそもあと三十秒も猶予は残されていまい。
 だから、助けられる方法はひとつだけ。

 歯噛み、鳴海は躊躇することなくその指を噛み切った。指先からは血が迸り、ぽたぽたと雫が垂れる。
 それを、薄口を開ける未央に、そっと含ませた。

 赤い雫が、口の中へと落ちる。

「――――」

 十秒、二十秒と静かに時が過ぎた。カチ、カチ、と床に落ちた時計が秒針を鳴らしている。
 カチ、カチ。カチ、カチ。秒針が更に十ほど時を刻んだ。
 その時。

「ぅあッ……!」

 ばくり、と。
 未央の首にうっすらと赤い線が走り、そこが勢いよく開閉し、戯画的なまでに巨大な切断面を露わにした。
 生理現象として発せられた声は、今やただの風となって気管から漏れ出している。そしてそんなもの以上に、大量の血液が溢れ出て。
 それは、どう見ても手遅れな傷でしかなく。

「……死ぬもんか」

 けれど、慌てるでも嘆くでもなく、鳴海は静かに見つめていた。
 そして思う。なんで子供の悲鳴に自分の心は軋むのか。マスターであることを差し引いても、本田未央という少女を助けたいと願うのか。
 サーヴァント"しろがね"である前に、ひとりの人間"加藤鳴海"として。
 どうして、彼女に笑っていてほしいと願うのかと。

「当たり前だよな、そんなこと」

 理由なんて簡単だった。
 子供たちの、未央の悲鳴は、オレ自身の悲鳴だったのだ。

 かつて虐められ無力だったオレの。
 生まれることなく死んでしまった小さな命に何もしてやれなかったオレの。
 力を得たと思ったのに誰も守ることのできなかったオレの。

 割れた心から湧きあがる、弱弱しい慟哭の声。

「だからよ、なあマスター」

 そうだ、オレは誰をも守れなかった。
 共に戦った仲間たちを。こんなオレを笑顔で庇ってくれたしろがねの女を。生きろと言ってくれた恩人を。
 名前も思い出せない彼女に誓ったあの子さえ、助けられなかった。
 助けることは、できなかった。

「頼むぜ、一生のお願いだ」

 駄目だったんだ、オレは。
 だから、だから今度こそ!

「今度こそ、助かってくれ……!」



 ―――――――。



「……う、うぅん?」

 そして。
 そして、声は聞き届けられた。

 傷が塞がっていく。時間を巻き戻すように、見る見るうちに傷口が癒着し、醜い断面を覆い隠し、元の肌色を取り戻していく。
 青ざめて血の通わぬ死人の肌が、暖かな桜色に変化していく。
 気管の損傷で酸欠となり苦しみ喘いでいた呼気が、穏やかなそれに変わっていく。

 本田未央は回復していた。死に体だった時など見る影もなく、安らかに。
 死ぬしかなかった運命から、しかし確かに救い上げられたのだ。

「やっと……」

 鳴海の目尻が、歪む。

「やっと、オレ……誰かを助けられた……」

 眼窩の奥が疼き、瞳を覆った水の膜。視界がぼやけ呼吸が乱れる。
 頬を伝い落ちる雫が涙だと気付いた時には、嗚咽を殺すこともできないまま声を霞ませていた。

「ありがとう……助かってくれて、ありがとう……!」

 透明な感情の雫が、未央の頬へと落ちて弾ける。朱に染まる陽の光が、反射して小さく煌めいた。



 彼女の傷が快癒した理由、それは鳴海の血液にこそあった。
 鳴海の体に流れるそれは、万能の霊薬たる生命の水(アクア・ウィタエ)であり、彼がしろがねとしてある根源でもある。
 不死とまで称されるしろがねを構成するそれは、たとえ元の肉体から離れた一滴であろうとも強い効力を発揮する。

 まして、今の鳴海は"しろがね"のクラス。
 拳技で敵を討つアサシンでも、聖人の剣で敵を切り裂くセイバーでも、人形破壊者たるデストロイヤーでもなく。
 白銀の血潮と不死を持つ、比類なき"しろがね"なれば。
 その体を形作る血肉は、まさしく生命の水となりて取り込んだ者を癒す聖滴となる。
 ならばそれを口にした者が、快癒しない理由はない。

 この日、この瞬間、彼ら二人は綱渡りながらも一つの危難を乗り越えた。
 無論これは終わりではなく、彼らに降りかかる不幸は絶え間なく途切れることもないだろう。
 しかし、今はただ、その安息を享受するがいいだろう。
 与えられた幸運も、掴みとった未来も、決して嘘ではないのだから。

 ―――その情景を、白き仮面の道化師は、ただただ嗤って見下ろしていた。

 ただ、嗤って見つめていた。



【B-2/本田未央の家/1日目 午後】

【本田未央@アイドルマスターシンデレラガールズ(アニメ)】
[状態]失血(大)、気絶、魔力消費(小)、アクア・ウィタエによる治癒力の促進。
[令呪]残り3画
[装備]なし
[道具]なし
[金銭状況]イマドキの女子高校生が自由に使える程度。
[思考・状況]
基本行動方針:疲れたし、もう笑えない。けれど、アイドルはやめたくない。
0.…………
1.いつか、心の底から笑えるようになりたい。
2.加藤鳴海に対して僅かながらの信頼。
[備考]
前川みくと同じクラスです。
前川みくと同じ事務所に所属しています、デビューはまだしていません。
気絶していたのでアサシン(あやめ)を認識してません。なので『感染』もしていません。
自室が割と酷いことになってます。


【しろがね(加藤鳴海)@からくりサーカス】
[状態]精神疲労(中)
[装備]拳法着
[道具]なし。
[思考・状況]
基本行動方針:本田未央の笑顔を取り戻す。
0.良かった……本当に……
1.全てのサーヴァントを打倒する。しかしマスターは決して殺さない。この聖杯戦争の裏側を突き止める。
2.本田未央の傍にいる。
3.学生服のサーヴァントは絶対に倒す。
[備考]
ネギ・スプリングフィールド及びそのサーヴァント(金木研)を確認しました。ネギのことを初等部の生徒だと思っています。
前川みくをマスターと認識しました。
アサシン(あやめ)をぎりぎり見てません。


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038:考察フラグメント 本田未央 050:それは終わりの円舞曲
しろがね(加藤鳴海)
音無結弦 042:生贄の逆さ磔
アサシン(あやめ)
前川みく 043:落陽の帰路/岐路
ルーザー(球磨川禊)

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