ラノロワ・オルタレイション @ ウィキ

そんなことだから。

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そんなことだから。 ◆02i16H59NY



 走り出して逃げ出して、そうたいして経たないうちに、浅羽直之の息は切れた。

 もともと体力は尽きかけていた。
 だいたい、最初から体力はそうある方ではない。
 立ち止まって、中腰で両膝に両手を当てて息を整えようとして、今更ながらに折れた右腕に加重がかかって悲鳴が漏れた。
 首だけで振り返る。
 伊里野のあの特徴的な白い髪は、もう見えない。
 少しだけホッとして、その「ホッとしてしまったこと」にまた新たな罪悪感を覚えて、重たい足を引き摺ってまた歩き出す。
 とにかく少しでも離れたくて、遅々とした歩みながらも、歩き続ける。
 うつむいたまま、前も見ずに、歩き続ける。

 誰も居ない、嘘みたいに明るい朝の町。
 疎開で人の減った街だって、こんなに静かではなかった。
 奇妙なまでの現実感の無さが、浅羽の思考力を奪っていく。
 疲れきっているのに、身体のあちこちが激痛を訴えているのに、歩くことを止められない。

 そういえば、伊里野を拒絶してしまったのはこれが初めてではなかったっけ。
 浅羽は思い出す。
 あの5日間を過ごした学校、休校になっていた紀国町立成増小学校から逃げ出した直後。無人駅。
 流石にあの時は、拳までは振り上げなかったけれど――
 浅羽直之は、言葉で、伊里野加奈を壊したのだった。

 あの時も、色々と限界だった。
 体力も尽きていたし、吉野の裏切りは精神的にも経済的にも痛手だったし、警察や自衛軍が今にも追いつきそうな気がしてい
たし、伊里野は言わなくてもいいことを何度も繰り返して浅羽の心を何度も抉ったし、ほんとうに、ほんとうに、限界だった。
 後先考えることなく、積りに積もった鬱憤を吐き散らして――伊里野の心を、へし折ってしまったのだ。

 浅羽は歩く。
 うつむいたまま、のろのろと歩き続ける。

 そういえば、伊里野に殺されそうになったのも、これが初めてではなかったっけ。
 浅羽は思い出す。
 伊里野を拒絶し、伊里野を壊したあの無人駅。あの直後。
 彼女を見捨てて逃げ出したはいいけれど、けっきょく他にアテなんてなくって、だから戻って、彼女に手を伸ばして――
 その手を、ナイフで切り裂かれた。
 切り裂かれて、叫ばれた。「ころすつもりでさしたのに」と。

 あの時、伊里野も色々と限界だったらしい。
 あの直後から、鼻血を延々と流し続けるようになってしまったし、ときおり視力を失ってしまうようになったし、浅羽を浅羽と認識
できなくなったし、きゅるきゅるきゅると謎の言語を喋るようになってしまったし、どんどんと記憶が退行するようになっていった。
 浅羽の拒絶が最後の一押しをしてしまったのは確かだろうが――それ以前に、伊里野にも限界が来ていたのだ。

 浅羽は歩く。
 太陽が眩しい。思わず瞼を閉じてしまう。
 この疲労感と目の痛みは覚えがある。学園祭とかで騒いで働いて徹夜して、朝になって日差しを浴びて感じる眩しさだ。
 別に徹夜をしたつもりもないけれど、あれ、そういえば、前に寝て起きたのはいつだったっけ。とっさに思い出せない。
 ともかく、たった数時間のうちにあれだけのことがあったのだ。疲労を覚えて当然だった。

 そういえば、あの、全てが決定的に変わってしまった無人駅の夜とは、順番が違ったのか。
 浅羽はぼんやりと考える。考えるつもりもないのに考えてしまう。
 今回は、伊里野が先に浅羽を殺そうとした。
 だから、浅羽も。
 伊里野を。

 そこから先は、考えたくなかった。
 立ち止まったら、また思い出してしまいそうだった。だから歩く。
 歩く。
 歩く。
 うつむいたまま、のろのろと歩く。

 道が一本道の間は、何も考える必要がなかった。
 大通りを進んでいるうちは、脇の小道も無視して進み続けることができた。
 だけどやがて、大通りと大通りがY字路を成している大きな交差点に差し掛かって、考えざるを得なくなって、顔を上げて、

 そこで、榎本が死んでいた。

「……え?」

 ずっとうつむいていたせいだろう。
 かなりの距離に近づくまで、気付かなかった。
 気付いた時にはもう、仰向けに横たわっている人物の、細かい顔の造作まで見て取れてしまった。
 そういえば放送で呼ばれていた。
 どこか満ち足りたような表情を浮かべて、冷たいアスファルトの上に大の字で、そして、頭と腹に傷の跡があった。
 腹部の傷は大量の血でシャツを赤黒く染め上げ、さらにそれが乾いて固まって汚らしい粘土細工のような質感になっていた。
 頭の傷は脳天を貫通する小口径拳銃による銃創で、血と脳漿と、少しの脳味噌を後頭部から漏れ零していた。
 ――そこまで確認してやっと、浅羽の口から恐怖の叫びがあふれ出た。

「う、うわぁぁぁ!」

 足がもつれて、その場に尻餅をついた。
 死んでいる。間違いなく死んでいる。
 あの榎本が。
 なんでもできそうな雰囲気さえあった、あの榎本が。
 おそらくは伊里野の境遇や身の上や、身体の問題について一番詳しかったであろう、あの榎本が。
 浅羽は天を仰いで呻く。

「な……なんで、なんであんたが死んでるだよっ! 伊里野が大変な、こんなときにっ!」

 言って初めて、浅羽は気がついた。
 いくつもの記憶が、綺麗に1つの形に組みあがっていく。ひとつの仮説がすとん、と腑に落ちる。
 浅羽は、確信する。

 伊里野が豹変して浅羽を襲ったのは、榎本たちが「何か」をしたからだ。
 さもなくば、「何かをしなかった」せいか。
 もしかしたら、「何かをできなかった」せいかもしれない。

 伊里野加奈がブラックマンタのパイロットとして、色々と投薬などの処置を受けていたらしいことは浅羽も理解していた。
 その副作用だか何だか知らないけれど、それが伊里野の心身を蝕んでいたことも。
 だから、きっと。
 伊里野が浅羽を殺そうとしたのも、「そのせい」だ。
 処置の過剰か、不足か、致し方のない欠如か、その辺は詳しくは分からないけれど、きっと「そのせい」だ。

 逆に言えば――「適切な処置」を受けられれば、伊里野は元に戻る。

 もしここで榎本が生きていたなら、彼ならきっと何とかしたことだろう。
 根拠も理由もありはしないが、榎本ならできたと思う。榎本の手に負えなかったら、誰にもどうにもならないとも思う。
 だけど榎本は死んでしまった。浅羽の目の前で屍を晒してしまっている。
 なら――浅羽が、なんとかするしかない。
 浅羽以外に、伊里野を何とかしよう、と思える人はいない。

「……まずはクスリ、かな」

 浅羽は考える。
 まずはクスリ。
 椎名真由美が伊里野に注射をしている場面を、何度か見ている。食事の後、大量の薬を飲んでいる姿も見ている。
 何が必要なのかまったく見当もつかないけれど、とにかく、何らかの医薬品が必要だ。
 それから、もう1つ確保したいのは。

「……それに、助けがいる。クスリに詳しい人の助けが」

 そう、専門家だ。
 浅羽1人では何が必要なのかも分からない。
 必要に迫られれば伊里野の心臓に注射をすることくらいはできる、はずだが……そもそも、今何が必要なのかが分からない。
 榎本が生きていれば彼でよかったのだが、榎本が死んでいる以上、誰かを探さねばならない。
 60人、いや、10人減って残り50人の参加者の中に、都合よく医療やクスリの専門家がいるかどうかは分からないが……
 それでも、探さなければならない。
 浅羽よりはマシ、という程度の人でもいいから、探して、協力を仰がなければならない。
 浅羽1人では、絶対に無理だ。

 今までは、ただ伊里野1人が生き延びればそれでいい、と思っていた。
 とにかく他の皆を排除して、伊里野を最後の1人にすればいい……ただそれだけを考えていた。
 けれど。
 そこまで伊里野の調子が悪いなら、先にそちらの手当てをしなければならないだろう。
 あのままでは、いつ伊里野が鼻血を出したり、吐血したりするか分かったものではない。3日間、果たして持つだろうか。
 そして悔しいことに、仮に自分がその場に居合わせても何もできないことを、浅羽は知っている。
 なら――今はクスリと、クスリに詳しい人の確保が先だ。
 他人を利用しなければ、いや、他人に頼らなければ何もできないことを、まず認めてしまうところからはじめよう。

 必要な薬品を、どうにかして確保する。
 必要な協力者を、どうにかして確保する。
 それから、置いてきてしまった伊里野のところに戻って、伊里野の体調不良を治す。
 その後のことは――それから考える。

「あなたができないなら……ぼくがやる。ぼくがやるしかないんだ」

 浅羽は榎本の遺体に向かって吐き捨てると、軋む身体を苦労して立ち上がらせた。
 もう少しだけ、頑張ってみよう。
 何度も心が折れそうになって、何度も道を間違えたけれど、あと少しだけ、頑張ってみよう。
 あと少しだけ、歩き続けてみよう。

 まだ見ぬ協力者は、どこに行けば会えるのか分からない。
 だから先に探すのはクスリの方だ。確実にありそうなものから押さえていこう。
 いまさら病院には戻れない。
 行くなら、診療所。
 地図をいちいち取り出して確認するだけの気力はなかったけれど、おぼろげに場所は覚えていた。
 二度と起き上がらない榎本の隣を通り過ぎる。
 浅羽が思い出すのは親戚のおばあちゃん家での、深夜の会話だった。
 榎本は榎本で大変だったんだろう。今更ながらにそんなことを思って、だから、浅羽は心の中で呟いた。

 ――あなたはそこで寝てていい。ぼくが、今度こそ、伊里野を助ける。


     ◇   ◇   ◇


 気持ちも新たに歩き出して、そうたいして経たないうちに、浅羽直之の歩みは止まってしまった。

 もともと体力は尽きかけていた。
 だいたい、最初から体力はそうある方ではない。
 覚悟1つ決めなおしただけで疲労が消えうせるなら、誰も苦労しない。 

 相変わらず街並みは嘘臭いほどに静かで、かなりの高さに昇った太陽が容赦のない光を浴びせかけてくる。
 誰もいないビル群の間を、浅羽はただ歩く。
 うつむきながら歩く。

 榎本が死んでいたY字路では、海に近い方の道を選んで南下した。
 確か診療所は地図の下のほう・中央付近、海に近いところにあったはず。多少遠回りでも、海沿いに進めば間違いない。 
 そのはずだ。
 そのはずだけど。

 浅羽は歩きだす。
 一旦止まってしまった足を、苦労してまた前に出す。
 いい加減、川にかかる橋が見えてきてもいいはずなのに、まだ着かない。
 自分の歩みが遅いのか。それとも、世界がいつの間にか長く長く引き伸ばされてしまったのか。
 あまり時間はないのだ。こうしている間にも、伊里野が血を吐いているかもしれないのだ。
 気ばかり焦るものの、熱を持った頭では、じゃあどうすればいいのかが分からない。
 分からないから、ただ歩く。
 満身創痍の身体で、とにかく歩く。

 とうとう、何もないところでつまづいた。
 うっかり右腕から地面についてしまって、折れた腕に激痛が走って、声にならない声を上げてその場に転がった。
 無慈悲なまでに硬い地面に、手足を投げ出す。
 榎本がそうしていたように大の字に横たわったら、抜けるように青い空が視界に広がった。
 静かに、風が吹き抜ける。
 微かに潮の匂いがした。
 不思議なまでにのどかな、空だった。

 自分は何をやっているんだろう。
 立ち上がる気力もないまま、浅羽は自問自答する。
 伊里野を助ける。伊里野だけは助ける。そのために頑張っている。
 そこに間違いはない。
 ここまで間違いは沢山あったけれど、そこにはもう間違いはない。
 ならなんで自分はこんなところで空を見上げているんだろう。
 どうしてすぐに起き上がって歩き出さないんだろう。
 なんで、空を、

 唐突に、青い空の一部が丸く切り取られた。

 浅羽は目をしばたいた。
 音もなく気配もなく、まさに「瞬間的に」出現したように見える、丸い影。
 それは、布で出来た傘のような物体で、2本の白い棒が浅羽の頭上に向かって延びている。
 白い棒の付け根には……あの、ヒモのような物体はいったいなんだろう?
 いや、ヒモじゃない。布だ。
 恐ろしく面積の少ない布。それを真下から見上げている格好。
 ひょっとしてこれは、下着、つまり、

「……うわぁぁぁぁっ!? え、ええっ!?」
「……あら、死んでるかとも思ったのですけど、意外と元気ですのね」

 飛び起きると、こちらを覗き込んでいた「その過激過ぎる布きれ」の「持ち主」と目が合った。
 パッと見たところ、浅羽と同年代、あるいは少し下くらいだろうか。
 どこかの学校の制服らしきものに身を包み、袖口には何やら目立つ腕章をつけ、そして、髪はツインテールで結ばれている。
 その表情から察するに、スカートの中を覗く格好になっていたことには、まったく気付いていないようだった。

 さらに、その少女の背に隠れるようにして、もう1人の少女。
 こちらはさらに幼い外見で、ズボン姿。白い髪と、表情らしき表情のない顔が印象的だ。両手で三毛猫を抱えている。
 その髪の色と猫を抱く姿が、どことなく『校長』を抱く伊里野を思い出させる――もっとも、『校長』は白と黒のぶち猫だったが。

 2人と1匹が登場するまで、物音はしなかったと思う。
 この、人の気配の消えた静かな街で、いったいいつの間にここまで近づかれていたのか。
 ごくごく普通の女の子2人、その足音にも気付かないほどに疲れきっていたのか。
 浅羽はしばし、少女たちを呆けた表情で見上げたまま、固まってしまっていた。


     ◇   ◇   ◇


 声をかけてきた制服姿の少女は、白井黒子と名乗った。
 同行する白髪の少女はティー、抱えられた猫はシャミセン。どちらも白井の紹介で、ティーはただじっと無言を貫いていた。
 シャミセンと呼ばれた猫も、奇妙なまでの大人しさでただ抱かれるままになっている。
 猫に三味線とは酷いネーミングセンスだ、と思いつつ、浅羽も自らの名を名乗る。

「浅羽直之さん、ですか。何やら大変だったようですけれども……何があったんですの? 誰かに襲われた、とか?」

 白井黒子は浅羽の身体のあちこちに刻まれた傷を見まわしながら、首を傾げた。
 何があったのか。そんなことを聞かれても困る。
 まさか、山で女の子に機関銃を向けて、手酷い反撃を喰らって川に叩き落されて、這い上がった先の病院で着物の男に襲われ
て腕を折られて、毒を舐めて死ぬのを見殺しにして、女の子を襲って押し倒して、男に蹴り飛ばされて逃げ出して、
 そして伊里野と会って、
 ……言える、わけがない。初対面の相手に、そんな話、できるはずがない。
 浅羽は迷う。
 何をどう言って誤魔化そう。
 病院で薬師寺というおじさん(お爺さん?)に腕を折られたことは言ってもいいだろうか。
 最初は皆を殺すつもりだったことは……ダメだ、言えない。言うわけにはいかない。
 悩む浅羽をどう思ったか、白井黒子はしばしの沈黙の後、溜息をついた。

「……どうやら、入り組んだ事情がおありのようですわね。
 一言で済まないようなら、そうですわね。どこか手近な所で、傷の手当てでもしながらお話を窺いましょうか。
 幸い、あなた1人までなら重量的にもなんとかなりそうですし」

 傷の手当て。
 言われて初めて浅羽の頭にその可能性が浮かぶ。
 なるほど確かに、この満身創痍の現状、ただひたすらに我慢しているだけでは身が持たない。
 折れた右腕だって、簡単な添え木と包帯で固定するだけで、格段に動きやすくなることだろう。
 伊里野に撃たれた銃創も、もし弾が傷の中に残っているなら摘出しておくに越したことはない。
 そして、そういった処置は、自分1人ではなかなかできるものではない。助けが得られるなら、正直有難い。

 助けてもらおう。浅羽は思う。
 こんな、自分と同じくらいの子供たちに、浅羽の求める「クスリの知識」なんてないだろう。
 だけど浅羽は決めたのだ。
 これからは、自分1人で無理はしない、と。
 利用できる人は利用させてもらうのだ、と。
 だから、手始めに。まずはこの子から。

 そこまで考えて――浅羽は不意に、気がついた。
 冷たく鋭く、自分を刺すような視線。
 視界の隅に映った、緑色の瞳。
 この場に居合わせた、もう1人。
 浅羽は振り返る。

「たすけるのか」

 ティー、と紹介された白い髪の少女が、初めて口を開いた。
 真っ直ぐ浅羽を見つめたまま、まったく変わらない無表情のまま、平坦な口調で呟いて、そして、

「わるいやつなのに?」

 小さく首を傾げて放たれたその一言に、空気が凍った。
 一瞬、浅羽の心臓が止まって、そしてドッと脂汗が噴出する。
 白井黒子も、少女と浅羽の顔を見比べながら、首を傾げる。

「悪い奴、と言うと……つまりこちらの殿方が、殺し合いに乗っていた、ということですの?」
「…………」

 白井の問いかけに、ティーは答えない。ただ浅羽の顔を見ている。
 まったく感情の読めない目。どこまでも深い瞳。
 それはまるで、浅羽の過去の愚行も所業も、全て見透かし、責めたてるようで――!

「う……うわぁぁぁぁぁ!」

 考える前に身体が動いていた。思考が追いつく前に、耐え切れなくなった。
 咄嗟に自分のデイパックを小柄な少女に叩きつける。
 他に手元に武器らしい武器は残ってなかった。持ち物をここで失ってしまうことの危険など、考える余裕はなかった。
 ぼふっ、という気の抜けるような音。白井黒子の動揺する気配。「おおっと」という、誰のものか分からないバリトンの美声。
 それらをロクに確認することなく、浅羽直之は一動作で跳ね起きて、駆け出した。

 あの子は何だ。
 伊里野にも似た白い髪をした、あの子は何なんだ。
 浅羽の心を埋め尽くすのは、理解不能なものを前にした恐怖。
 なんでバレた。伊里野のために他のみんなを殺そうとしていたのが、どうしてバレた。
 ひょっとしてあの子は、冬頃に水前寺部長が研究していたESPの持ち主なのか。
 人の心が読めるのか。人の過去が読めるのか。テレパシー? それともサイコメトリー?
 分からない。まったく分からない。理解できない。
 浅羽は逃げる。
 背後からかかる制止の声を無視して、ひたすら逃げる。走って逃げる。決して振り返らない。
 デイパックを捨てた分だけ身軽になった身体で、とにかく逃げる。
 なんでだ。
 なんで今になって、過去のあやまちを責めたてられなきゃならない。
 一度道を間違えた奴はいまさら何をしたって無駄ということなのか。
 それとも、まだきっちり反省していないのが悪いっていうのか。
 自分は、「わるいやつ」なのか。リリアという子に言われた通り、自分は「悪い人間」なのか。
 分からない。分からないから、逃げる。
 とにかく、逃げる――!


     ◇   ◇   ◇


 パニックになって後ろも見ずに逃げ出して、そうたいして経たないうちに、浅羽直之は硬く冷たいアスファルトに倒れ伏した。

 もともと体力は尽きかけていた。
 だいたい、最初から体力はそうある方ではない。
 とっくに限界には到達していたのだ。恐怖と恐慌という燃料だけでは、すぐに燃え尽きる。

 ようやく辿りついた橋のたもと、大通りの真ん中に倒れこんで、そして、もう今度こそ立ち上がる元気はない。

 なんで今更逃げたりしたのか。薄れゆく意識の中で、彼は自分の咄嗟の判断を悔いる。
 あんな小さな子くらい、適当に言いくるめてしまえばよかったのに。
 舌先三寸で、心配してくれた白井黒子の方を味方につけてしまえばよかったのに。
 いや、あるいは。
 素直に認めて、謝ってしまえばよかったのかもしれない。
 確かにぼくは悪いことをしてきました、でも、今は他の人の助けを必要としています。そう認めてしまえばよかったかもしれない。
 少なくとも、荷物をぶつけて逃げるよりは、よっぽどよかったはずだ。
 そんなことだから、浅羽は。

 後悔の念は、しかし、すぐにぼんやりとした疲労感と罪悪感に置き換わって。
 転んだまま立ち上がれない浅羽は、どうしようもなく睡魔に絡め取られていく。
 気絶とも睡眠ともつかない闇の中に、落ちていく。

「それでも、伊里野は……ぼく、が……」

 静かな無人の街の中。
 暖かな日差しに包まれて。
 意識を失う最後の瞬間、浅羽直之は、かすかな着地の足音を2つ、聞いたような気がした。


【E-6/橋の北側/一日目・昼】

【浅羽直之@イリヤの空、UFOの夏】
[状態]:全身に打撲・裂傷・歯形。右手単純骨折。右肩に銃創。左手に擦過傷。 微熱と頭痛。前歯数本欠損。気絶中。
[装備]:毒入りカプセル×1@現実
[道具]:なし
[思考・状況]
0:????(気絶中)
1:伊里野の不調を治すため、「薬」と「薬に詳しい人」を探す。
2:とりあえず、地図に描かれていた診療所を目指そう。
3:薬に詳しい「誰か」の助けを得て、伊里野の不調を治して……それから、どうしよう?
4:ティーに激しい恐怖。

[備考]
※参戦時期は4巻『南の島』で伊里野が出撃した後、榎本に話しかけられる前。
※伊里野が「浅羽を殺そうとした」のは、榎本たちによる何らかの投薬や処置の影響だと考えています。
※まだ白井黒子が超能力者であることに気付いていません。シャミセンが喋れることにも気付いていません。


     ◇   ◇   ◇


「……まったく、逃げ切れるとでも思っていたのですかしら」

 橋の傍、倒れ伏したまま動かない浅羽直之を見下ろして、白井黒子はつまらなそうに呟いた。
 傍らには、シャミセンを抱きかかえたままのティーもいる。
 もちろん、白井黒子の『空間移動(テレポート)』によって追いついてきたのだ。
 学園都市でもレアな、大能力(レベル4)の『空間移動』。
 疲れきった中学生が、ただ走って逃げられるものではない。

 白井の隣では、どことなく不満そうな色を瞳に浮かべたティーが、黙ってたたずんでいる。
 2人による浅羽の追撃が遅れたのは、しかし、浅羽の投げたデイパックのせいではない。
 直撃を受けたティーだったが、こんなもので怪我をするはずがない。せいぜい軽くよろけて尻餅をついただけだ。
 むしろその直後、逃げる浅羽の背に向け、迷わずRPG-7を構えたのがマズかった。
 白井黒子が慌てて制止し、撃つか撃たないか、荷物に戻すか戻さないかで揉めているうちに、距離を開けられてしまったのだ。

 その浅羽直之だが、今は彼女たちの足元で精根尽き果てて気を失っている。
 一応、ちゃんと呼吸はしているようだし、新たな怪我などもないし、単に体力の限界に達してのびているだけだろう。
 つま先でつついて軽く確認を済ませた白井は、盛大に溜息をついてみせる。

「それにしても……どうして分かったんですの?
 確かにどこか挙動不審な様子もありましたし、わたくしも密かに警戒はしていましたわ。
 けれど、いまいち決め手がなく、困っていたのですけれど」

 白井黒子には経験がある。
 『学園都市』の『風紀委員(ジャッジメント)』として、数々の事件に関わってきた経験がある。
 だから、何気ない挙動や仕草から不審人物を見分ける眼力も、並みの人間より優れている自信があった。
 その目で見てみると……確かに、浅羽直之はどこかおかしかった。
 言い淀んだ時の表情、視線の動き、どれも「何か後ろめたいことを隠している」雰囲気があった。
 けれども――「貴方、殺し合いに乗っていたのではなくって?」とストレートに問えるほどの確信は、持てなかったのに。
 首を捻る白井に、ティーは答えた。

「どうしてわからない?」
「……いや、どうして、と言われましても……」
「意地悪をせず教えてやりたまえ。私も興味がある。
 もっとも、人の言葉で言うところの『興味』と、猫である私が抱くこの情念とが同一であるという保障はどこにもないが」

 返答に困る白井と、意味不明な戯言を口にするシャミセン。
 ティーは言った。

「しぬきずじゃない」
「……は?」
「こいつのきず、しぬようなきずじゃない。みればわかる」

 ティーにしては、珍しくも長い台詞だった。
 死ぬ傷じゃない。
 確かにその通りだ。
 浅羽直之の身体に刻まれた無数の傷。打撲に擦り傷に色鮮やかな歯型、骨折に銃創とバリエーションは豊かだったが。
 そのどれも、命に関わるような負傷ではない。
 命に関わるような攻撃を、紙一重で避けてできたような負傷には見えない。
 それが意味するところは、つまり――。
 ティーがさらに言葉を重ねる。ティーにしては、驚異的な饒舌。

「ころされそうになって、にげてきたなら、ああいうけがじゃない。どうしてわからない?」
「なるほど、そうですわね。『誰かに襲われた』なら、こういう怪我にはまずならない。
 むしろ、『誰かを殺そうと襲い掛かって、逆に手酷い反撃を受けた』なら、こういう怪我にもなる、と――
 まったく、その通りですわね」

 先制攻撃を仕掛けたのは、まず間違いなく浅羽の方。
 反撃して浅羽の身に傷を負わせた者たちは、それでも浅羽を殺すことなど考えてもいなかった。
 それだけの事実が、ただ傷のつき方を観察するだけでわかる。
 全部が全部、そうだったとは断言できないが、浅羽の経験した闘争の大半がそうであったことは推測できる。
 白井黒子は、内心舌を巻く。
 単なる無口な爆弾好きの少女かと思ったら――これは、とんでもない拾い物かもしれない。

「……それで、この少年のことはどうするのかね?」
「決まっているでしょう。こんなところに放置して、そのまま死なれたりトドメを刺されたりしたら寝覚めが悪すぎますわ」

 シャミセンの問いに、白井黒子は断言する。
 ティーが無表情の内にもどこか不満げな視線を込めて見上げてくるが、白井黒子は揺るぎもしない。

「悪党だからって死んでいい、なんて言っていたら、こちらもその悪党と変わりありませんわ。
 むしろこの程度の小悪党、『殺す価値すらない』。それがわたくしの本音ですわよ。
 幸い、わたくしの『空間移動』にはあと1人分くらいの重量の余地はありますから、どこかに運んで、まずは手当てをしましょう。
 そうですわね、手近なところで、摩天楼あたりに戻りましょうか」

 彼女の『能力』の前では、摩天楼までの距離はむしろ「近い」。
 あそこにはゆっくり休める居住スペースもあったし、ドラッグストアやクリニックの類もあった気がする。
 病院や診療所を目指すより、よほど楽だ。

 白井黒子の呟きを聞く、ティーは無言だ。
 その視線に含まれる非難の意を、白井もひしひしと感じる。付き合いはまだ短いが、その程度のことは分かってしまう。
 おそらくそれは、浅羽直之の処遇についてのみではない。「こんな奴に関わっていていいのか」という非難の意も含まれている。
 灯台で『黒い壁』の破壊を試みて、しかし上手くいかず、直接『消滅したエリア』を調べに行こうとした矢先のこの遭遇だ。
 さっさと先に進もう、さっさとあの『黒い壁』を壊しにいこう――そんなプレッシャーを感じる。
 そして、白井黒子も、その点については迷いがないわけではない。

 自分は無力だ。改めて黒子はそう思う。
 要領が悪い。物事の優先順位がつけられない。ちょっとしたアクシデントですぐに方針がブレる。
 目の前のティーを放り出していくこともできず、目の前の浅羽直之を放り出していくこともできず、全て抱え込んでしまっている。
 自分自身も含めて、この3人で白井黒子の『空間移動』の能力は限界だ。これ以上はどう頑張っても抱え込めない。
 浅羽の傷の手当てをして、尋問して、詳しい事情を聞きだして……それからどうする?
 『黒い壁』の調査はどうする?
 逃がしてしまった発火能力者の女の始末は?
 御坂美琴上条当麻との合流は?
 課題ばかり積みあがって、何一つ解決していない。焦りを感じずには、いられない。
 これが敬愛する「お姉様」御坂美琴なら、きっとこの程度の状況、快刀乱麻を断つように解決しているだろうに――

「……いえ、流石にこの状況、お姉様でも持て余されるかもしれませんわね」
「??」

 白井の独り言に、ティーが不思議そうに首を傾げる。
 白井は首を振る。益体のない物思いに耽っているヒマがあったら、まずは目先の問題から解決することだ。
 まずは、多少なりとも落ち着ける場所への移動。そして浅羽直之への応急処置。
 浅羽が目を覚ましたら事情を聞きだして、処遇を考えて、それらが一段落したら『黒い壁』の調査を再開する。
 ――そこまで考えて、白井黒子はふと思い出して呟く。

「そういえば、『イリヤ』、とか呟いていらっしゃいましたわよね。
 ひょっとして、灯台で見つけた『パイロットスーツ』の持ち主と、何か縁のある方なのでしょうか」

 白井黒子のデイパックに納められた、1つの拾い物。
 灯台を立ち去る段になってやっと気が付いた、どこかの誰かの忘れ物。
 全身タイツのような奇妙なその服の正体を、エリート校である常盤台中学に通う白井はすぐに見抜いていた。
 高々度を超音速で飛行する最新鋭戦闘機のための、パイロットスーツ。もしくは、極めて薄手の宇宙服。
 白井も専門の知識があるわけではないが、どうやら学園都市にも迫る、あるいは同等の、高い技術による代物のようだった。

 そして、そのパイロットスーツには、無数の文字が書かれていた。
 そのスーツの持ち主を中心としたプロジェクトの関係者が書いたらしい、無数の寄せ書き。
 『ブラックマンタ』『自衛軍』『スカンクワークス』『園原基地』、UFOのイラストにタコのような異星人のイラスト。
 じっくり読み込めば、その本来の持ち主にまつわる重要なキーワードが惜しげもなく晒されていて……
 そして、その中に、確かにあったのだ。
 日本語ではなく、英語で書かれたメッセージの中に。 「カナ・イリヤ」の名が、しっかりと。
 カナ・イリヤ。
 日本名として読めば、伊里野加奈。
 おそらくそれは、名簿に載っていた名前の1つだ。

「『医療分隊ニューロハザード対策班』だの、『血液管理室』だの……
 あのスーツに書かれた関係チームの名前だけ見ても、どうも何らかの身体改造を受けていたようですけれど。
 学園都市の『能力開発』に近いことをやっていらっしゃるのでしょうか? 
 こんな状況でもなければ、興味をそそられてしまいますわね」

 軽く呟きながら、白井黒子はぐったりした浅羽直之の身体に手をかけた。
 自分自身と、ティーと、シャミセンと、浅羽直之。それから3つのデイパック。
 合計しても、彼女の『空間移動』の重量制限の範囲になんとか収まる。
 ティーを手招きして、すぐ傍に寄せて、肩に手をかけて――そして3人と1匹は、小さな羽音のような音を残し、姿を消した。
 後にはただ、空高く昇った太陽が、無人の街並みを照らすばかりである。



【E-6/橋の北側/一日目・昼】

【白井黒子@とある魔術の禁書目録】
[状態]:健康
[装備]:グリフォン・ハードカスタム@戯言シリーズ、地虫十兵衛の槍@甲賀忍法帖
[道具]:デイパック、支給品一式、姫路瑞希の手作り弁当@バカとテストと召喚獣、
     伊里野加奈のパイロットスーツ@イリヤの空、UFOの夏
     デイパック、支給品一式 、ビート板+浮き輪等のセット(大幅減)@とらドラ!、カプセルのケース
[思考・状況]
基本:ギリギリまで「殺し合い以外の道」を模索する。
1:とりあえず浅羽の怪我の手当てをする。浅羽の処遇はまだ保留。
2:そのために、一旦摩天楼に戻る? 摩天楼のドラッグストアや居住施設を利用する?
3:一段落したら移動し、『消滅したエリア』の実態を間近で確かめる。また『黒い壁』の差異と、破壊の可能性を見極める。
4:当面、ティー(とシャミセン)を保護する。可能ならば、シズか(もし居るなら)陸と会わせてやりたい。
5:できれば御坂美琴か上条当麻と合流したい。美琴や当麻でなくとも、信頼できる味方を増やしたい。
6:伊里野加奈に興味。
[備考]:
※『空間移動(テレポート)』の能力が少し制限されている可能性があります。
 現時点では、彼女自身にもストレスによる能力低下かそうでないのか判断がついていません。
黒桐鮮花を『異能力(レベル2)』の『発火能力者(パイロキネシスト)』だと誤解しています。

【ティー@キノの旅】
[状態]:健康。
[装備]:RPG-7(1発装填済み)@現実、シャミセン@涼宮ハルヒの憂鬱
[道具]:デイパック、支給品一式、RPG-7の弾頭×1、不明支給品0~1
[思考・状況]
基本:「くろいかべはぜったいにこわす」
1:RPG-7を使ってみたい。
2:手榴弾やグレネードランチャー、爆弾の類でも可。むしろ色々手に入れて試したい。
3:シズか(もし居るなら)陸と合流したい。そのためにも当面、白井黒子と行動を共にしてみる。
4:『黒い壁』を壊す方法、壊せる道具を見つける。そして使ってみたい。
5:浅羽には警戒。
[備考]:
※ティーは、キノの名前を素で忘れていたか、あるいは、素で気づかなかったようです。


【伊里野加奈のパイロットスーツ@イリヤの空、UFOの夏】
 伊里野加奈が031星をみるひと で脱ぎ捨てていったパイロットスーツ。
 水着のように身体に密着するデザインで、その全面にロズウェル計画関係者の寄せ書きが書かれている。


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