東方戦争


東方戦争
Eastern Border War
  目次
  1.概要
  2.戦争の背景
  3.開戦
  4.開戦後の推移
  5.終戦
  6.影響

  概要
戦争: 東方戦争
年月日: 199年3月20日 - XXX年X月X日
場所: ハリコフ、ドネツク、ドニエプロペトロフスク、ポルタバ、ザポロージェ、ルガンスク、クルスク、ベルゴロド、ヴォロネジ、オリョール、リベツク、タンボフ
結果: アークランドの勝利
交戦勢力
アークランド モスクワ
アークランド軍事統制国 モスクワ共和国
東方戦争(英:East War)は、アークランド軍事統制国とモスクワ共和国による戦争。当初はドニエプル·プランによる奇襲を掛けたモスクワの優勢であったがヴラド作戦により反転攻勢に成功したアークランド側により停戦した。

  戦争の背景
モスクワ共和国にて発生した内戦であるモスクワ革命にて、アークランド側は混乱の拡大を防ぐため、国境封鎖という選択を下した。その後、大ゲルマニア帝国による介入により、ファシズムを標榜するモスクワ共和国と軍国主義を掲げるアークランド側の関係は非常に冷え切っており、また、前夜にはハリコフ危機と呼ばれる軍事的緊張が発生したため、両国間はこれまで以上に冷え切った状態になっていた。これに対しアークランド側では、東方国境のさらなる強化を実施した。一方のモスクワ側では、アークランド側のモスクワ機撃墜は不当であり、これは自国に対する宣戦布告に等しいとして戦争計画の立案が進んでいた。
ハリコフ危機で、モスクワ側の戦闘機を追うTa-12(左側)とIar-12(右前、右奥)。

  開戦
統一歴199年3月20日0時、モスクワ共和国は、アークランド軍事統制国に対し最後通牒なしでの宣戦布告を行った。これはモスクワ側の主張としてハルキウ危機の際に既に最後通牒を通告したという認識であったためである。宣戦布告直後、モスクワ国境では、高さ5m厚さ3mのコンクリート壁と国境全域で整備された要塞群が侵攻するモスクワ共和国軍を迎え撃った。しかし、モスクワ共和国の陸上人形双脚兵器に対しこれらのコンクリート壁は無力でありすぐに人形双脚兵器の工兵運用により突破され、突破口からは続々とモスクワの機甲戦力が浸透していた。しかし、それでもアークランド軍の抵抗は激しく、当初モスクワ大本営が予想していた2週間でドニエプル河への到達は達成されず、これは後に作戦全体に深い傷を残すこととなった。一方、アークランド側はこれに対し中央即応軍団を派兵し、モスクワの攻勢阻止を狙った。しかし、アークランド側は豆戦車と人形双脚兵器により、異次元の浸透速度を誇るモスクワ軍に対しパブログラード近郊までの失陥を許してしまった。
開戦の写真の説明です。

  開戦後の推移
   ドネツク包囲戦、クルスクの戦い
アークランド側はこれらの重篤な失陥に対し、初の国防緊張度0.5を宣言し、懲罰戦争以来となる総力戦体制への移行を実施した。アークランド軍はハリコフ、ドネツクの重要都市の奪還を最重要目標とするドラキュラ作戦に基づく、攻勢準備と防衛を行った。モスクワ側では更なる侵攻計画であるオデッサ作戦がヨーゼフ総統により立案された。本作戦はドニエプル川を渡河した後オデッサへの攻撃を助攻とし、高度に要塞化されたクリミア半島全域の掌握を狙いとした大規模作戦であった。一方、これらの情報は、モスクワ側が高度な欺瞞を施したものであったがアークランドの諜報機関が本国に送った情報は偶然か必然かは計り知れないが真実である物が多く、モスクワ側の欺瞞を運良く躱し、本作戦を察知した。そして、これらの情報を有効に活用し適用し、参謀本部第三支部にて立案されたものがドラキュラ作戦である。本作戦は、スカーレット王国製の未来的な航空機を多用するモスクワ空軍に対し不利であったアークランド航空軍の最後の要であり、地上軍が可能な唯一最後の攻勢機会を有効に活用するための作戦であった。モスクワ陸軍の最も先行しており、最大の勢力であるウクライナ南部を侵攻するモスクワ軍の混成部隊、アークランドではA軍集団と呼ばれていた部隊を国内に存在する全部隊で包囲し殲滅するというアークランドが経験する中で初の大規模な作戦であった。この時点でアークランドはウクライナの重要都市2つを失い、制空権を失ったため、半ば孤立したクリミア半島は補給が停止し、抵抗を続けていた旧式の50cm砲は弾薬が足りず約33%が戦闘不能に陥っていた。また、食糧も不足しており、餓死者が確認されるようになった。そのため、アンドレイ·イオネスク最高会議議長はこの作戦に最後の望みを託して作戦開始を宣言した。しかし、最初に動いたのはモスクワ軍だった。初戦の遅れを取り戻すべく進撃と浸透を続けるモスクワ陸軍は、ドニエプル川に到着した。全戦線で渡河作戦を実行するモスクワ軍に対しアークランド軍は頑強に抵抗した。だが、南部では渡河に成功したA軍集団がクリミア半島とウクライナ本土の補給を断つため続々と迫っていた。アークランド軍は包囲の最後の機会であるとしてクリミア軍集団、中央第二即応軍団、第一装甲軍団、第二装甲軍団、第三機械化軍団に包囲殲滅を目的とした作戦を命令した。渡河作戦の強行により進軍速度が低下していたA軍集団はこれらの包囲に対応できず包囲されたが、前進の停止も不可能と判断したモスクワ司令部は、部隊に前進し突破することを要求した。しかし補給線も遮断され、攻勢限界が近いこともあり、部隊は進軍が不可能な状態になり、付近の村や町を襲撃し略奪するなどの行為を行った。また、全戦域ではこれ以降スラブ人やユダヤ人はその多くが収容所へ送られ虐殺されることとなった。モスクワ軍は本部隊救出のための増援部隊を送ろうとしたものの、アークランド地上軍第一即応軍団と第二即応軍団に移動阻止を行われ、救出は困難となっていた。またA軍集団では、鋼鉄の獣として恐れられたアークランドの二足歩行兵器であるMATが猛威を振るい壊滅的な被害を与えていた。これらの人工筋肉などを使用したMATに対してモスクワの陸上人形双脚兵器では対応が困難であり、多くのモスクワ側のパイロットがMATに踏み潰された。これによりA軍集団は殲滅され第一作戦目標が達成されたのを確認したアークランド軍はそのまま東進し国境部までの進撃を命じ包囲に参加した部隊はA軍集団が包囲殲滅され穴の空いた戦線を食い破りながら突破していき旧領を奪還していった。
クルスクの戦いに投入されたT-47主力戦車。
   アークランドの攻勢
統一歴199年5月、アークランド軍は包囲した敵軍集団を殲滅し、旧国境まで奪還した。モスクワ側ではこれに対し、国防非常度指数を4に引き上げ、総力戦に備えた。また、アークランド側もモスクワが国境部で大小問わない攻撃、略奪、虐殺を行っていたため、戦争は継続され、アークランド参謀本部はドラキュラ作戦に新たに第三目標を設定し、本戦争の終結を狙った攻勢作戦を立案し最高会議もこれを承認したため、統一歴〇〇年〇〇月には元々東部国境に従事していた精鋭の軍のみでの目標達成のため、補給線の再構築を目的とした一週間の空白の後、アークランドは復興中のハリコフ、ルガンスクを攻勢発起点としモスクワ国境を越境し攻勢を開始した。統一歴〇〇年〇〇月、ハリコフを出発した部隊は先鋒として機甲部隊を前進させこれに対応するためモスクワ側も豆戦車や双脚兵器を主軸とした機甲部隊を展開、大規模な機甲戦となった。しかし、中戦車や重戦車、MATを主軸とするアークランドの機甲部隊に豆戦車や双脚兵器を主軸とするモスクワ部隊は大敗し更なる進撃を許した。またルガンスクを出発した部隊は要衝ヴォロネジを陥落させ、両部隊はモスクワを目指し攻勢を続けた。しかし、この時点で既に冬が近づいており攻勢限界が近いことを悟ったアークランド軍はモスクワ側に講和を要求しこれにモスクワ側も合意し終戦に至った。

  終戦
アークランドはブリャンスク、オリョール、クルスク、ベルゴロド、ヴォロネジを緩衝地として独立させることを要求しこれをモスクワ側も了承し、ベルゴロド条約により講和、またこれにより指定された各州がベルゴロド共和国、ヴォロネジ共和国、ブリャンスク共和国、オリョール共和国としてモスクワ共和国から独立した。
終戦の写真の説明です。

  影響
本戦争により、アークランド側は多大な犠牲を払い辛勝したが、モスクワによる虐殺事件や略奪によりモスクワ共和国との間に深い溝を残した。また、モスクワ共和国ではルドルフ・ヨーゼフ率いる政府が求心力を急速に失い、ついに第二帝国体制の政府が崩壊し、第二共和国と呼ばれる民主的な政府の成立につながった。また、アークランド国境付近の州の分離独立により、モスクワ共和国内で民族自決の思想が広がった。が、これらはモスクワの旧政府派と新政府派の軍部や国民の分裂、独立志向・分離主義思想のサーレマー島等での独立運動がさらに激化するなどの事象をも引き起こし、後に発生する第二次モスクワ内戦へと繋がる。
影響の写真の説明です。



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最終更新:2025年08月24日 16:13