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ウクライナ蜂起

ウクライナ蜂起(通称:5月革命)とは、統一歴203年5月~にかけてアークランド軍事統制国(アークランド)にて行われたウクライナ地域でのマルクス・レーニン主義、自由主義、君主主義などの様々なイデオロギーの政治組織がアークランドに対して行った内戦である。また、これによりアークランドは瓦解し国家体制が破産する。

背景

203年一月から一年ずっと行われた大戦争、東欧大戦に参戦したアークランド軍事統制国は、当初、総力戦体制を敷いてハニカム公国と黒海に侵入する可能性のあるオーストリア、モスクワ亡命政府海軍を殲滅するため全力を上げていた。しかし、国民の約5%を動員しても終わらない戦争に対し、国民の不満は高まり、政府は30%の動員引き上げを決定。短期決戦に戦略を変えてハニカム公国へ侵攻するが、北ウクライナは未だ反アークランドレジスタンスが潜んでおり、また鉄道やその他交通インフラの不足を理由に進撃は停滞、更に小麦などの収穫が不作に終わったため、最大の穀倉地帯であるウクライナでは飢餓状態とまでは行かずとも街中では物乞いが急増した。

蜂起

これらの状態がしばらく続き、当初一ヶ月で終わると考えられていた戦争に国民には厭戦気分が広がっていた。しかし、戦争省はそれでも、あくまでも戦争は継続する姿勢を貫いた。そのため、今まで広く厚く支持されてきた軍国主義そのものへの不信感も強まった。
そのため、今まで鳴りを潜めていた反アークランド的な人々の間で、民衆の不満が高まっている今こそ革命の機運であると囁かれ始めた。
そして、その不満がキエフ、オデッサ、ハリコフなどの反アークランド感情の強い都市で爆発、その爆発が連鎖的にウクライナ全土を覆った。

ドニエプル攻防戦

連鎖的に広がった革命は、ドニエプル以西を包み込み、アークランドは東欧大戦から一時的に離脱し、これらの鎮圧作戦を開始した。全戦力がこの内戦に投じられ血で血を洗う内戦が発生、二億人いた人口の約32%が死傷する被害が発生した。

オデッサ脱出戦

数で勝る革命軍に対して、兵器の数で対抗する政府軍は沿ドニエストル付近まで進軍してきた革命軍に勝つことは不可能として、スィーニー=シュワルツ条約に基づいた戦闘協力の元、クリーニングラード青色評議会などの友好国との協力で生き残りの士官から下士官まで全てをかき集めてオデッサ地域への一大反攻作戦、青評連名オデッサ作戦、政府軍名春の目覚め作戦を敢行した。

突如として始まった機動戦に対し、貧弱な鹵獲兵器しか持たない歩兵のみの革命軍は翻弄され、アークランド軍は生き残りを最大限招集し、オデッサ港への脱出路確保のための最後の作戦を開始、友好国の協力もあり、ドニエプル川沿いで防衛戦を敷く革命軍を難なく突破し、オデッサへ直進した。

統一歴203年7月までに、同軍集団は、オデッサ港へ到着しありったけの人員と食料を輸送船に満載し国内を脱出した。

脱出後、多くのアークランド軍はモスクワへ亡命し亡命政府を樹立したが、政府としての役割は果たしておらず、まるで退役軍人会の様であったと語られる。

ギャラリー

蜂起の鎮圧に向かう第20装甲大隊の車列 カルパティア山脈で防衛を行うルーマニア装甲軍団のT-47
最終更新:2025年11月06日 17:40