アットウィキロゴ

イタリア内戦

イタリア内戦

イタリア内戦は、第二次東欧大戦後、サンマリノ政府の崩壊も手伝い、北アフリカ植民地が崩壊し肥大化した経済に空いた大穴を補填できずに求心力を失ったファシスト政権を見限った民衆が社会主義や民族主義、民主主義、政府主義、教皇領などの勢力が各地で蜂起し発生した内戦である。
結果的にイタリアは、無政府化し、一時的にアークランド軍事統制国が占領統治を行ったものの、アフリカ地域の制圧を開始したアークランド上層部による命令で、イタリアから撤兵したことで同地は完全な白地図へと回帰した。
▶参戦国
イタリア植民地の崩壊により、分裂したイタリア本土には、ローマカトリック教会勢力や公国、加速主義、共産主義、無政府主義が入り乱れた。

▶年代:統一歴200年代
▶場所イタリア半島
▶結果:無政府主義が更に蜂起を起こし各地が無政府化、アークランド軍事統制国が一時的に武力占領し統治したが撤兵し白地図化


概要

第二次東欧大戦中の統一歴219年のフライハイト作戦による民族自決運動に端を発する、チャド民族解放同盟(CNLF)、エジプト解放軍(ELA)によるパルチザン活動の影響でイタリア王国北アフリカ植民地は、自治を行うことができなくなり、また本国からの支援も虚しく崩壊し、それらの影響からイタリア本土では経済的大混乱が発生し、恐慌状態となった。この恐慌は民衆からのファシスト党の権威の失墜を意味し、イタリア各地で蜂起運動が勃発した。
最終的にこれらの闘争はプーリアで隆盛した無政府主義者により終結したが、イタリア王国の同盟国であったアークランド軍事統制国が代理統治を狙い武力侵攻したものの、その後のアフリカ統治政策への負担もあり撤退し、半島は再び、無政府な状態へ還った。
最初に蜂起したのは民衆から広い支持基盤を得ていた南部のナポリ王家とシチリア王家であった。これらの蜂起は非常に緻密に計画され、蜂起直後両王国は合併し南の王国を名乗り、さらに王国軍の4/1が離反し王国に合流した。しかし、民衆の間、特にシチリア島、ブーリア地域ではこれらの王家への不信感も根強く両地域では早々に革命や二次蜂起が発生し、シチリアでは共産主義者が王家を排斥、ブーリアでは無政府主義が拡大を続けた。

中部では、ファシスト政権の残党がローマに籠城していたが、間もなく教皇領が救援者要請を行いこれに応じた国内貴族が私兵を用いてローマを解放しさらに戦後を見据え教皇領を拡大し中部イタリアでの支配の盤石化を目指した。

北部では、ファシスト残党がイタリア社会共和国としてヴェネト公国とともに戦争を続行し、北西部では聖フランシスコ騎士団国がローマ・カトリック教会に属するものの、教皇に対する不信感と外国勢力からの介入を防ぐ目的で有力諸侯らによる円卓会議が結成され、無政府主義勢力に同地を明け渡すまでに難民の外国への避難や亡命の窓口として機能した。

▶開戦
開戦はナポリにて行われたイタリア王国からの独立宣言からだった。ナポリ王国並びにシチリア王国政府は共同で、南の王国としての独立を宣言し、事前の謀略によりイタリア軍全体の約4/1が南の王国軍に鞍替えを行った。ファシスト政権はこれらの事態に対して軍に治安回復のための鎮圧を開始するよう命じ、国境部では数的劣勢に陥っていた南の王国軍は敗退を繰り返していたが、ここで転機が訪れる。
王国首都ローマにてがら空きの首都を狙ったテロや重犯罪が横行するようになり、政権指導部は宮殿内より外に出向くことが困難となり事実上の幽閉、籠城状態となった。ローマ教皇ヨハネ・ピコルスはこの機会に乗じて教皇領の拡大を目論見、周辺の貴族たちに救援者要請を要請し、要請に応じた貴族たちを続々と権力構造に取り込んでいった。これにより中央イタリア一体には教皇領が復興することになった。
▶戦争経過
しかし、そんな混乱の中でもファシスト政権はしぶとく生き延び北部で独立蜂起を考えていたヴェネト公とともに秩序の復興を目指した。また、教皇との対立を起こしたカトリック貴族も存在し、これらの反教皇派の貴族らは北西部にてイタリア王家サヴォイア家を筆頭にした貴族連合聖フランシスコ騎士団国を発足させ、主に外国勢力の介入阻止や民間人保護を行った。また、無政府主義が最盛を極めた中期にはイタリアの再統一は不可能と判断し、アークランド軍事統制国への統治権委任と外国への政府要人、貴族家、民間人を問わず、大規模な亡命や難民手続きを行った。
▶アークランド軍事統制国による統治
統一暦2XX年、アークランド政府の認知する統一政府であったファシスト政権と聖フランシスコ騎士団国の無力化を聖フランシスコ騎士団国首長から宣言され正式に無政府主義勢力の武装解除と政府の復興を目的としたイタリア遠征を開始した。遠征は速やかに進み、旧王国軍の兵器しか持たない無政府主義勢力の武装集団は即座に無力化され解放された。この一時的なアークランドのイタリア統治期間の間にサルデーニャで抵抗を続けていたサルデーニャ加速主義同盟はアークランドの軍国主義に感化され迎合しこれらのイタリア人たちは後のアークランド国有文化の醸成に多大な影響を及ぼし、軍国主義的価値観と呼ばれる文化や軍事加速主義、新軍国主義などのアークランド国内での隆盛につながった。
▶委任統治の終焉
しかし、そんなイタリア統治もレジスタンスやパルチザンによる被害の拡大と無政府主義の抑圧の失敗により、予算不足が続き政府はアフリカ地域への支配確立のための予算をイタリア回復に充てられていた予算から回すことで解決することを決定した。国内のイタリア系民族もおおむねこれらの決定に賛成的であり統治は終焉することになりアークランド=イタリア占領軍は撤退した。
最終更新:2026年09月28日 16:57