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第二次東欧大戦
▶概要 西ロシア・バルト海沿岸部を支配するモスクワ帝国(モスクワ第二帝政)と、その侵略を受けたハニカム社会主義共和国連邦、イタリア王国、東欧諸国、アフリカ諸国間の戦争。開戦当時は東欧のバルト海沿岸部の一部地域の戦争であったが、戦争中期にモスクワ帝国がイタリア王国に侵攻し、さらにはイタリア王国の植民地があった北アフリカに侵攻したことでアフリカ諸国が介入、さらにはその後戦局の好転を図って東欧諸国に侵攻したことで大規模な戦争となった。 第二次東欧大戦は217年9月1日のモスクワ軍による
ハニカム社会主義共和国連邦
に対する奇襲攻撃で開始された。開戦直後、モスクワ軍は電撃戦でハニカム領を占領し、さらには同盟国大オーストリア帝国の要請でイタリア王国とも開戦。同国の本土を電撃的に占領後、同国の北アフリカ植民地にも侵攻し、219年には北アフリカ沿岸部の広い範囲を支配下に置いた。 このように開戦当初はレグルス側が優勢に戦いを進めたものの、アークランドの参戦や、反植民地主義的なアフリカ諸国が参戦したことで全体の総合的な国力で劣るモスクワ・オーストリア連合軍は221年の終わりには北アフリカから殲滅された。しかしその後もモスクワは戦局の好転を目指して東欧諸国へと侵攻し支配下に置いた。がその後連合国軍による反撃が始まり、モスクワ軍は防戦一方になり、225年にはイタリアが解放、また同時期に大オーストリアが戦争から離脱し、それに激怒したモスクワ軍が大オーストリアにも侵攻したことで戦線はさらに拡大した。が、各正面から圧迫を受け続けたモスクワ軍は226年には東欧諸国の広い範囲が、227年にはハニカムが解放された。敗戦が濃厚になったモスクワ軍は核を使用し、アークランドとの核戦争に発展したが最終的に227年5月にモスクワ本土決戦で敗北、首都モスクワが陥落し国家機能を喪失したことでモスクワは滅亡。大オーストリアも崩壊した。
▶参戦国 第二次東欧大戦ではモスクワ帝国と同盟国大オーストリア帝国とそれに対抗する連合国陣営で争われた。モスクワ帝国・イタリア王国は共に
枢軸国
に属していたが、加盟国であるドイツや大中華はモスクワへの小規模参戦等にとどまり終戦まで直接介入はなかった。連合国陣営はハニカム社会主義共和国連邦・イタリア王国・アフリカ諸国・東欧諸国などイデオロギー的に多様な国家の集まりだった。第二次東欧大戦中はこれらの国々は連帯を維持していたが、戦後はハニカム社会主義共和国連邦やイタリア王国植民地・東欧諸国が崩壊した他、崩壊を免れた国同士でも戦後処理を巡っての対立等から連帯は崩れ去った。
▶戦争形態 小規模参戦にとどめた枢軸国加盟国諸国や直接参戦しなかった
西アフリカ合州国
等、直接参戦しなかった国々を除き、多くの国の国土が戦場になった。参戦国の半数以上が国家総力戦体制を構築し戦争を遂行した。モスクワ自身を含む周辺諸国はその全土が一時期占領下におかれることもあった。占領地では両軍とも残虐行為が頻発し、戦後も歴史問題として禍根を残している。
▶被害 統計には大きなばらつきがあるが、両軍合わせて軍人だけで1億人近く、民間人を含めると3億人前後が犠牲になったとされる。特に核戦争を遂行し本土決戦を行ったモスクワの死者は非常に多く民間人死者の8割以上はモスクワ帝国人である。 |
第二次東欧大戦 East Europe War Ⅱ |
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| 年月日:217年9月1日~227年9月2日 |
| 場所:東欧、地中海、黒海、バルト海、北アフリカ等 |
結果:モスクワ帝国・大オーストリア帝国・ハニカム社会主義共和国連邦・イタリア植民地帝国・東欧諸国の崩壊 参戦国各国領土の焦土化 |
| 交戦戦力 |
モスクワ帝国陣営 モスクワ帝国(モスクワ第二帝政) 大オーストリア帝国 他 |
連合国陣営 ハニカム社会主義共和国連邦
イタリア王国
SFM Co.
アークランド軍事統制国 ルーマニア王国 他 |
モスクワ帝国陣営
モスクワ帝国陣営は大戦中モスクワ帝国と同盟国大オーストリア帝国、そしてモスクワ帝国が各地の占領地に設立した国家弁務官区・傀儡政権(傀儡国家)で戦争を遂行した。モスクワ帝国は
枢軸国
に加盟していたが、後述するように他の加盟国は消極的支援か中立にとどまり直接参戦は行わなかった。またイタリア王国植民地内で一部の独立派勢力がモスクワに協力したことをあった。
連合国
連合国は
ハニカム社会主義共和国連邦
、
イタリア王国
、
アフリカ諸国、
東欧諸国の連合であった。このうちモスクワ帝国が開戦時から交戦していたのはハニカムのみでほかの国々は当初中立を保っていた。イタリア王国は赤作戦、アフリカ諸国はファッケル上陸作戦、東欧諸国はバルバロッサ作戦以降に参戦した。また大戦後期には大オーストリア帝国もモスクワとの対立から連合国陣営へと鞍替えすることとなった。
中立国
連合国側の国々は自国の権益保護や国民感情等様々な理由で参戦したが、反対に枢軸国の加盟国は本戦争に直接参戦することはなかった。これは戦争主要国であるイタリア・モスクワの双方が枢軸国に加盟しているからであり、親モスクワ的だった大中華・ドイツ国の二か国が小規模参戦・支援を行った以外は加盟国は全て中立を貫いた。
第二次東欧大戦の戦域はハニカム戦線、イタリア・北アフリカ戦線、東欧戦線に大別できる。ハニカム戦線ではモスクワ軍とハニカム軍、東欧戦線では当初は東欧諸国軍が、明日への希望作戦からはアークランド軍・自由モスクワ軍・SFM軍が対峙した。北アフリカ戦線は当初はモスクワ・オーストリア連合軍とイタリア王国・サンマリノ軍の、アークランド参戦・ルドルフ演説以降はモスクワ側には武装した各地の植民地独立運動や傀儡国家・傀儡政権の軍が加わり、連合国側にはアークランド軍・自由モスクワ軍・セレニア軍・SFM軍が加わっての戦いになった。
この3つの主要な戦線のほかにもバルト海や大西洋でもモスクワ軍と連合国軍が衝突した。
またモスクワ軍の戦争計画の中には中央アフリカ・北欧・ロシア中央部及び東部に対する侵攻計画も存在していたことが戦後明らかになった。
複数の国の全土占領、そして核戦争を含む総力戦によって従来の戦争とは比較にならない軍民の被害が生じた。モスクワ軍、連合軍の双方が戦略爆撃を行ったほか、モスクワ軍と連合軍はそれぞれ地中海・大西洋とバルト海や黒海で潜水艦による通商破壊作戦を展開し多くの民間人が巻き込まれた。またモスクワ軍は戦況が不利になるにつれて戦争資源の調達のため苛烈な搾取を行い、それに反発した民衆に対し占領地で大規模なジェノサイドを行った。
また戦争末期にはモスクワ軍がNBC兵器を投入し、連合軍もNBC兵器による報復攻撃を行ったため、特に本土決戦では連合国の兵士だけでなくモスクワ人も多くが犠牲になった。化学兵器と核兵器による汚染は戦後モスクワ崩壊後もモスクワやその周辺の土地に残り戦後復興を難しいものにした。
第二次東欧大戦中は連帯を維持した連合国だが、戦後になるとそれらの枠組みはすぐに崩れ落ちた。連合国とは呼ばれていたものの、実際には雑多なグループの集合でそれらが連帯を保っていたのは旧モスクワ領の処分までだった。特にこの戦争後、アークランドと自由モスクワ軍の対立が決定的となり、のちに自由モスクワ軍はそれまで対立していた帝国の鷲に合流することとなった。
この戦争によって国土が大きく荒廃し中央政府を失い国家が滅亡したモスクワは戦後中央政府不在の無政府状態に突入した。
217年8月30日、モスクワ帝国はハニカム政府に対しのベラルーシのヴィーツェプスクの割譲等を求める事実上の最後通牒を送付した。翌日9月1日、モスクワが「ハニカムが要求を拒絶した」としてハニカムに宣戦布告、第二次東欧大戦が勃発した。モスクワは航空機・ドローン兵器とAMUを活用した電撃戦で迅速にハニカム領を占領した後にバルテン国家弁務官区を設立。また、モスクワの同盟国大オーストリア帝国と対立していたイタリア王国が強大化したモスクワの支援を受けて自国に侵攻してくる事を恐れてモスクワ・オーストリアに宣戦布告した。
218~219年の間にモスクワ・オーストリア連合軍はイタリア半島を攻略し地中海の支配を盤石なものにした。
146年1月、レグルス海軍は昨年攻略したジブラルタルを起点に北大西洋に進出、フランス海軍を破壊するため北海に撤退する彼らを追撃したことで北海海戦が発起した。この海戦でレグルス軍はフランス海軍を破り制海権を握った。バルカン半島ではレグルス軍はアナトリアとギリシャの両方面からブルガリアを攻撃、前年の攻勢で疲弊したBU軍を破りトラキアローマ帝国首都ソフィアを攻略した。しかしトラキアは首都をベオグラードに移転し徹底抗戦を表明した。ここまでの激戦、特にアナトリア攻略戦によってレグルス西部方面軍は大きく疲弊しており、北マケドニアの山岳地帯を突破する必要のあるベオグラードの攻略は翌年以降に回された。また146年後半にかけて、レグルス帝国では鉱物資源の不足が深刻化した。戦争に伴う莫大な金属需要に帝国内の資源供給が追いつかず工場稼働率は開戦直後の80%まで落ち込んでいた。加えて占領地からの略奪で賄っていた戦費が進撃が停滞することで賄えなくなり、財政的にも危機に瀕していた。このためクロムウェルは以前から対立関係にあり、鉱産資源に富み経済的にも発展しているロシア社会主義諸国への侵攻を決意した。
147年2月、レグルス帝国は
蒼天作戦を発動し社会主義者の排除を唱え保護国であった南コーカサス連邦の国境から月ノ谷へ侵攻を開始した。これに応じて社会主義諸国と友好関係にあったCELTOがレグルスのこれ以上の拡大を阻止するためレグルス帝国に宣戦布告した。レグルス軍は当初キュリンシングラード、ヴォロネジを攻略し勢いに乗っていたが、11月に行われたモスクワの戦いに敗れ、同市攻略に失敗した。逆にモスクワの戦いの後に行われた赤軍の反撃でレグルス軍はモスクワ前面からの撤退を余儀なくされ、開戦以来初めての大きな敗北を喫することになった。また年末にかけて行われたCELTO海軍撃滅を狙って行われたカリブ海作戦でもレグルス軍は大敗を喫し制海権を失った。このためレグルス軍はCELTO軍の上陸が予想される北アフリカ全域に進駐した。
148年はになり、連合国の本格的な反撃が開始された。。レグルス軍はベオグラードの攻略を目指して年始から攻撃を行い同市を半包囲下に置いたが、増援に到着したシェラルド軍の側面攻撃を受け将兵約20万人を失う大敗を喫した。レグルス軍のバルカン半島方面軍はこの損害を補填できず、立て続けに行われた連合軍の追撃を受けて戦線は瓦解した。年末までにレグルス軍はバルカン半島の大半を失い、アナトリア半島西部への反撃も許した。
大西洋では制海権を握ったCELTO軍が北アフリカ、モロッコへ攻撃を行った。カナリア諸島沖海戦でレグルス機動艦隊を撃破したCELTO軍はカサブランカを攻略、本土からの長く貧弱な補給線に苦しむレグルス軍を撃破し東進を開始した。ロシアでも連合国による大攻勢、
バグラチオン作戦が行われ、レグルス軍は主力の8割を失いボルガ・ドン川の防衛線まで押し込まれた。年末にはレグルス軍がロシア連合軍の先鋒を包囲殲滅すべく局所的な反攻を行ったが失敗、無駄に戦力を失う結果に終わった。
このような情勢下でレグルス国内では経済・人材の戦時動員が進み国民生活は窮乏した。またインド洋で開始されたCELTO軍の通商破壊やレグルス本土への爆撃は確実にレグルス帝国の戦争継続能力を破壊した。レグルス内部の反体制派は「白いオーケストラ」を結成しクーデターを起こしたが(
ワルキューレの夜)、失敗しレグルス国内の反体制派は一掃された。
149年になるとレグルス首脳部は決定的な敗北を意識し始めたが、レグルス政府はあくまで体制維持に固執し、他方連合軍はクロムウェル体制の排除を絶対条件としたため休戦交渉は暗礁に乗り上げた。連合軍から少しでも有利な講和を引き出すためレグルスは本土決戦を決意し、149年2月に連合軍はレグルス本土に侵攻した。レグルス軍はNBC兵器を大量使用し、老若男女問わず動員し最後まで抵抗したが、4月30日にクロムウェルが自殺、翌月12日にレグルス帝国は無条件降伏した。
二度の地中海戦争
戦争の直接の原因となったレグルスとモレラ間の対立は両国の建国直後までに遡る。ほぼ同時期に成立した両国だったが、レグルス国は建国から地中海への野心を示しモレラ国にクレタ島の租借を要求した。レグルス国にとって中央地中海に進出する拠点たり得る同島は、モレラ国にとってはアジア・アフリカからの侵攻を阻止する防波堤であり、当然これは受け入れられず両国の関係は悪化した。その後レグルスは世界最強の国家と名を馳せていたヒトラントに接近し、一方でモレラ国は欧州地域に接近した。対立から8年後、十分に戦力を整えたと判断したレグルス国は最後通牒を布告、
第一次東地中海戦争が開始された。しかしこの戦争でモレラ国の陸軍、レグルス国の海軍が大損害を受け、双方が決定打を失ったことで戦争は終結した。それから10年後、軍事力を飛躍的に増大させたレグルス国は再びのクレタ島征服を狙いモレラ国に再び侵攻、
第二次東地中海戦争が開始された。この戦争はレグルス国の優位に進み、悲願であったクレタ島征服を達成した。しかし莫大なものになりつつあった戦費返済とフランスを撃破できる見通しが全くなかったことからクレタ島の獲得を断念、講話交渉に臨んだ。講和条約でレグルス国はドデカネス諸島を獲得したもの一度は占領したクレタ島は返還を強いられ、一方でモレラ国は領土を奪われ双方共に不満を抱く結果となった。
国際金融危機
第二次東地中海戦争終結とほぼ同時期、極東の中華連邦では
東トルキスタン紛争からの復興需要に伴うバブル景気が起こっていた。投資は増加の一途をたどり、海外投資家もこぞって投資を行った。レグルス帝国も同じOFC加盟国である中華に対する投資として資金投下を行っていたが、フランスも投資を行ったことで両国間の投資競争が発生した。しかし両国の官製投資にとどまらず、投資家の資金投下は既に実態をはるかに上回っていた。景気を保証していた地価はある時期を境にピークを迎え、その後下落した。結果として住宅ローンは不良債権となった。その後もローンの供給は続いたが、137年1月、遂に証券の暴落が発生した。中華連邦は未曽有の恐慌に対応できず、世界各国で連鎖的に恐慌が発生していた。中でもフランスと競うように投資を繰り返していたレグルスの損害は直接的な損害だけで6000億ドルに達し、その後の恐慌によるGDP減衰を含めると実に1兆円以上の資産が失われた。
国家社会主義政権の発足
第二次東地中海戦争の不満とレグルスを襲った恐慌は国内での急進派の伸長を招いた。国内最大の企業REPインダストリアルの破綻を許すなど恐慌に何ら手を打てなかった政府は崩壊し、代わって
クロムウェル政権が発足した。クロムウェルは統制経済と強力な指導体制確立を掲げ、
国家社会主義化を推し進めた。強力なリーダシップの確立を標榜していたクロムウェルは圧倒的な民衆の支持を背景に自らの独裁体制を完成させた。従来強力だった大統領の権限はさらに強化され、更に儀礼職であった首相職を統合してクロムウェルは
総統を名乗った。
政権は半官半民であった従来の混合経済を完全な計画経済へ転換した。全ての企業・事業体は国営化され、合理化のため強引に統廃合が推し進められた。しかしこれらの計画経済は、当初こそ成功を収めたものの、レグルス経済圏がアウタルキーを確立し広大な市場を持っていたにもかかわらず、間違った経済政策が行われたことで失敗し経済は停滞を続けた。
レグルスの拡大政策と孤立
経済政策に失敗したレグルスは国内の不満を外に向けるため度々対外戦争を行った。
アフリカ大戦、
トランスコーカサス戦争はその代表的なものである。これらの領土拡張戦争は
ニューイングランド事変を除き概ね成功に終わったが、その結果レグルス帝国は国際的な孤立を深めた。これによってレグルス経済は外国から隔離され更に低迷した。
また戦争のためレグルス帝国では軍事費が浪費され放漫財政となっていた。経済成長もないままに債務残高は拡大の一途を辿り、破綻のリスクを粉飾決算で誤魔化している状態であった。レグルス帝国が国家財政の破綻と経済崩壊を回避するために取れる手段はドラスティックな軍縮か他の地域から略奪する以外になかった。そしてレグルス帝国の首脳部は国民と、戦争の中で影響力を拡大していく軍部の機嫌を損ねないために後者の選択を取らざるを得なくなっていた。皮肉にも度重なる勝利がレグルスを破滅に導いていたのである。
レグルスが孤立を深めると、反対に反レグルス諸国は徐々にその結束を強めつつあった。レグルスが世界中の戦争で勝利し『世界の敵』と見なされるようになると、それまで対立していた
CELTO
、
神聖ローマ帝国、
ビュザンティウム連合
は接近を強めた。このレグルスを抑止するための包囲網はレグルス指導部の危機感を煽り、却って双方にとって破滅的な戦争へ突き進ませた。
コレク覚書
143年9月20日、クロムウェルは国内の経済不況とレグルス包囲網を打ち破るための全面戦争を決意し、コレク山に存在する自身の別荘に閣僚を呼びつけ秘密会議を開いた。そこでクロムウェルはモレラとそのバックにある
トラキア・ローマ帝国
との戦端を開くという自身の考えを示した。この構想に対する閣僚の考えは概して好意的であったが、エレヴァン・ドッジ経済相を始め少数の閣僚からは反対を受けた。またオスカー・レーデルン外務相はBUへの全面攻撃はHREの介入を確実に招くと指摘し、クロムウェルを含む出席者の大多数の同意を得た。
この会議によってレグルスはBUとHREに対する全面戦争に向けた動きを始めた。軍事的には国内軍の動員を準備し、内政面では会議で開戦に反対したドッジら非戦派を政府から排除し戦争に向けた政府の統一を目指した。
このコレクで行われた会議の内容は機密事項とされ議事録なども作成されなかったが、152年にクロムウェル自身が作成したメモが総統官邸の地下室から発見された。このメモは
コレク覚書としてレグルス戦争開戦に関わる一級の歴史史料として扱われている。
グリフォン作戦
144年1月13日、レグルス政府は
フランス帝国
・
モレラ共和国
に対しそれぞれ
アナトリア
・クレタ島からの撤退を求める外交声明を発した。声明の中でレグルスは軍事力の行使を仄めかす表現を用いていたが、仏希両政府はレグルスから同様の外交声明が以前から度々行われていたためにこれをデモンストレーションに過ぎないと見なして黙殺した。
15日早朝、レグルス空母機動艦隊がブレスト・トゥーロン・テッサロニキ(サロニカ)の軍港を襲撃した。この攻撃はレグルスによる宣戦布告前に行われた国際法違反の奇襲攻撃であった。この攻撃によってフランス地中海艦隊は壊滅、フランス大西洋艦隊とモレラ主力艦隊も半壊と言って良い大損害を負った。この大戦果によってレグルス帝国は開戦から4年間地中海における絶対的制海権を確立することになり、以後の海上機動作戦を可能にした。また大打撃を受けたフランス大西洋艦隊のブリュン提督は独断で艦隊を北海沿岸のフレンスブルクに後退させた。この行為は敵前逃亡ではないかと問題となり、ブリュンは軍法裁判に掛けられた。最終的にブリュンは有罪とされ大西洋艦隊司令官の地位を解かれたが、それまでの間フランス大西洋艦隊はフレンスブルクから身動きできなかった。
宣戦布告のない奇襲攻撃を長年の仇敵レグルスが行ったという事実はモレラ国民を沸騰させ、反レグルス感情は頂点に達した。モレラ政府は「卑劣なだまし討ち」としてこの攻撃を非難して国民の戦意を高めた。その一方で度々海軍の敗北を経験し、戦争にも慣れ切っていたフランス市民の反応は冷淡であった。フランス国民はこの戦争をあくまで日常的な植民地戦争の延長とみなし、戦争協力に消極的だった。フランス国民のこうした受け止めは大規模な動員を忌避させることになり、戦争中期までのフランスの消極的な姿勢を招くことになった。
攻撃から遅れること2時間後、レグルス帝国政府はフランス・モレラ、及びトラキア・ローマ帝国に宣戦布告を通達し、正式に戦争状態に入った。
エジプト戦線
海上の奇襲攻撃から僅かに遅れてレグルス帝国は地上作戦を開始した。レグルス陸軍の第一の目標は当時トラキア領で、軍事上の要地でもある
エジプト(尾鷲)
だった。エジプトがレグルス帝国によって侵略されるのは
アフリカ大戦以来、僅か5年ぶりの事だった。
先の占領の傷が癒えないエジプトの侵攻に対する備えは不十分と言うほか無かった。一植民地に過ぎないエジプトの復興に対する本国からの援助は十分ではなく、まして軍の再建は遅々として進んでいなかった。かといってトラキア帝国は先の大戦でエジプトが即時陥落した経験からエジプトの本格的な防衛は不可能と判断しており、増援を得ることもできていなかった。
十分な準備ができないエジプト軍の防衛戦略は先の大戦と同じ狭隘なシナイ半島国境での防衛を踏襲した。国境周辺での防衛であればエジプト軍は先の大戦で使用された陣地を再利用することが可能であったからである。エジプト軍は数少ないリソースを陣地の要塞化に注ぎ、
クレオパトラ線と呼ばれる要塞陣地を築いた。クレオパトラ線にはエジプトが再建した最良の部隊が配置された。しかしながらそれがエジプト軍の総力であり縦深防御は一切なされていなかった。
開戦から30分後の現地時間朝7時40分、レグルス軍は作戦計画オベリスクを発動しクレオパトラ線への攻撃を開始した。レグルス軍はエジプト軍の防衛体制を高い精度で認識しており、機甲師団による機動戦によって戦線を崩壊させることを企図した。レグルス軍は第一装甲集団とジェット機を含む第二航空艦隊という精鋭部隊をを投入し北方から戦線突破を目指した。
突破に先立って、レグルス軍は要塞線に対して激しい重砲爆撃を加えた。西方方面軍司令オリエランテ元帥の指示によって開戦前から65cm自走砲、80cm列車砲、83cm超重自走砲といったレグルス中の重砲・攻城砲がかき集められ、要塞線破壊のために投入された。
これら重砲によって開戦と同時に行われた3時間の砲撃で投射された火薬量は小型核兵器に匹敵した。当該エリアで最も堅牢といわれた
「ガイウス・ペトロニウス」重トーチカが土台を残して消滅させるなど空前絶後の規模の集中砲撃によってレグルス軍は突破口を切り開いた。なおペトロニウストーチカの土台は現在も残っており、周囲に未だに残る砲弾クレーターと共に当時の砲撃の凄まじさを体感する事ができる。
6時間の砲撃で要塞線に穴をあけたレグルス軍は前進を開始した。エル・アンダイエン中将率いる第一装甲集団は2日で180kmを踏破しシナイ半島を横断、3日目にはスエズ運河東岸を占領し、クレオパトラ線に立てこもる尾鷲第一軍以下シナイ半島の尾鷲軍12万を包囲下に置いた。
第一装甲集団は包囲網の殲滅もそこそこに、航空輸送で渡河機材が輸送されると1月21日にスエズ運河の渡河戦闘を開始した。後方に呼び戦力として配置されていた尾鷲第三軍の砲兵部隊がこれを阻止すべく射撃を加えたが、位置を晒したところでレグルスの急降下爆撃機の餌食となった。
22日の午前中には第一装甲集団の先遣隊が運河西岸に橋頭堡を形成、当日中に第一装甲集団の過半は運河を渡った。アンダイエン中将は渡河成功の報を聞いて「これでこの(エジプト)戦役は終わったようなものだ」と述べたと言われている。
実際レグルス軍がスエズ運河を渡河したあとに尾鷲軍はほとんど抵抗することができなかった。第一装甲集団はアフリカ大戦時の地図を元に縦横無尽にナイル平原を蹂躙し、尾鷲軍をバラバラに切り刻み殲滅した。第一装甲集団の進撃を阻むものは兵站とナイル川だけであった。
それでも第38空挺師団の降下作戦により27日にカイロが、第1装甲師団によって29日にアレクサンドリアが相次いで陥落し尾鷲の統治機能は崩壊した。エジプトの主要都市が東北部に密集していた事による悲劇だった。尾鷲の首脳部はトラキアローマへの空路での逃亡を企図したが輸送機が空襲で撃破された事で断念、サハラ砂漠に撤退し遊牧民と共に終戦まで遊撃戦を展開した。2月11日に第一装甲集団が尾鷲最南端の都市アブシンベルを攻略したことでエジプト戦役は終結した。
レグルス軍は尾鷲市民に歓喜の声で迎えられた。尾鷲にとってレグルスはかつての同盟国で、レグルスは大多数の市民から解放軍として扱われた。しかし尾鷲市民の期待に反して、レグルスはエジプトを独立させるつもりはなかった。作戦終了後、レグルスは尾鷲に残っていた親レグルス派の尾鷲人を集め尾鷲国民政府を組織し、国民政府と休戦交渉を行った。休戦交渉は一方的なものであり、レグルスに有利な条件が押し付けられた。
この第三次レグルス=尾鷲休戦協定の発効により形式的に尾鷲は主権を回復したが、依然として尾鷲の全域にはレグルス軍の駐屯が行われた。更にシナイ半島とスエズ運河はレグルス領に編入され、シナイ大管区とスエズ帝国特別直轄区が置かれた。
加えて尾鷲には「同時に休戦協定の遵守を監視する」機関としてナイル総督府が設置された。ナイル総督府はレグルスによる事実上の占領統治機関であり、尾鷲国民政府はナイル総督府の「勧告」に従わなければならず、植民地支配の継続を意味するものでしかなかった。総督府の統治は当初こそレグルスと尾鷲の統合を目指した穏健な策がとられていたが、戦局が逼迫するにつれて次第に苛烈なものとなり、尾鷲人のレジスタンス活動を招いた。
アナトリア戦線
エジプト戦線とともにレグルスが抱えた戦線がアナトリア戦線である。レグルスと長年敵対していたフランスはこの地に多数の有力な部隊を配備しており、攻略には困難が予想された。そのためレグルス軍は北方戦線軍に100万を超える兵力を配備し、戦線全域で縦深攻撃を行うことでこの戦線を破壊せしめることを企図した(
フォーマルハウト作戦)。
エジプトの戦いと同様重火力投射によって始まったアナトリア戦線ではレグルス軍の大攻勢が発起した。レグルス軍はアナトリア東部の占領を意図して強引に戦力を前進させた。しかしフランス軍の初期の奇襲からの立ち直りは早く、フランス軍は山岳地形を巧みに生かした防御陣地を形成しレグルス軍を効果的に迎撃した。レグルスの第一次攻勢はこの防御戦略によって頓挫し、国境から150km前進したところで攻勢限界を迎えた。
アリアドネ作戦
グリフォン作戦で地中海の制海権を握ったレグルス軍はクレタ島へ部隊を進めた。クレタ島は言わばモレラ本土を守る楯であり、第一次東地中海戦争以来レグルス・モレラ間で争奪の対象となっていた。そのためモレラはクレタ島の防御を厳重に固めており、侵攻してきたレグルス軍との間で激しい戦闘が行われた。レグルス軍はこの作戦に第一海兵隊師団と第二空挺師団、親衛隊第十七上陸猟兵師団を投入し、対するモレラ軍は2個師団を投じて防衛に充てた。
上陸に先んじてレグルス軍は作戦の障害を排除するため艦隊をクレタ島へ派遣した。モレラ軍司令部は崖を利用した水雷艇基地に隠していた魚雷艇を投入して艦隊の撃退を図った。しかし作戦前に行われた航空戦による消耗でエーゲ海上の制空権はレグルスに握られており、これら水雷艇の攻撃はロードス島から発進したレグルス空軍に阻まれて有効な迎撃ができなかった。レグルス艦隊は島に確認されたトーチカ・魚雷艇基地を破壊したが後の降下作戦で利用するため飛行場の破壊を行わなかった。
上陸の準備を整えたレグルス軍は1月27日にクレタ島南東部のメッサラ平原に海兵師団・上陸猟兵師団を上陸させた。上陸部隊の目標は島東部、特に最大の都市であるイラクリオンの占領であった。レグルス軍は航空優勢と海上の支援を得て前進したが、地形を知悉したモレラ軍は頑強に抵抗した。島全体の標高が高く支援攻撃の効率が低下したことや、モレラ軍がレグルス軍の上陸箇所を正確に予測していたこともレグルス軍の侵攻を妨げた。レグルス軍は当初3日で島全体を占領する予定であったが、2日目に至ってもイラクリオンにすら進出することができていなかった。
このスケジュールの遅れを憂慮したサイアム・オリファン少将は予備戦力である第二空挺師団を投入することを決断した。空挺師団は上陸部隊がその目的を達成できなかった場合島東部のマレメ飛行場に降下する計画であった。
師団は1月30日午前8時にマレメ飛行場への降下を開始した。師団は通常のパラシュート降下に加え飛行場へのグライダー降下を実施した。しかしこの攻撃は第二次東地中海戦争で同様の作戦計画が用いられていたことからモレラ軍の激しい対空砲火・砲撃に晒された。降下部隊は辛うじて飛行場を確保したが、降下時の脆弱なタイミングを狙われたために多大な損害を負った。一説によれば降下開始からわずか3時間で降下部隊の半数が死傷したとされる。
この大損害を伝えられた司令部は大変なショックに襲われ、攻略作戦そのものの作戦失敗すら囁かれた。焦燥に駆られたオリファンは降下部隊の支援のために気化爆弾を使用することを命じた。命令によって爆装したMe-262の編隊がロードス島から発進し、午後12時20分に相次いで爆弾を投下した。この時使用された気化爆弾は石炭粉・液体酸素を利用した原始的なものだったが、飛行場を包囲するように展開していた歩兵・砲兵部隊に絶大な威力を発揮した。5発の気化爆弾によって核兵器が使用されたかと誤認されたほどの爆轟が生じ、空港周辺に展開していたモレラ軍2個連隊が壊滅した。しかしこの攻撃によって周辺家屋・民間人にも被害が出ただけでなく、飛行場のレグルス兵にも損害が出た。
脅威を排除したと判断した司令部は飛行場に対し輸送機による補給を開始した。この輸送機は大した抵抗もなく飛行場に到達し、空挺戦車を含む有力な部隊を展開させることに成功した。師団はハニアの港湾を確保するため東進を開始した。
気化爆弾による大損害を受けたモレラ軍は急遽島に増援を送ることを決定した。増援として3個旅団が編成され、徴用された漁船を含む急造の船団でイラクリオン・ハニアに向け2月2日の夜にアテネを出港した。護衛として旗艦サイレンを含む2隻の巡洋艦と5隻の駆逐艦が付いた。
船団は発見を避けるため海岸沿いを南下したが、スペツェス島沖で船団はクレタ島の海上封鎖を行っていたレグルス第17水雷戦隊に発見・通報された。同戦隊は夜闇に紛れ船団を追尾し、アルゴリス湾の外で攻撃を仕掛けた。同戦隊は僅か3隻の駆逐艦からなる小規模な艦隊だったが、夜間水雷戦を得意とするレグルス艦隊は鈍足の船団を護衛しなければならない護衛部隊を翻弄した。17戦隊は全艦どこかしらに被弾したものの撃沈艦はなく、対してモレラ艦隊は砲戦によって駆逐艦1隻、雷撃によって巡洋艦1隻を失った。
またこの戦闘で船団は大きく散開し、すぐに再集結できたのは船団の2/3にとどまった。残り1/3は再集結を行うには散りすぎていたため各自で島へ向かうことになったが、多くは夜の間にレグルスの小型潜水艦部隊に撃沈された。
船団は当初は夜明けまでにクレタ島に到着する予定であった。しかし17戦隊の攻撃によってスケジュールが乱れたことで船団はクレタ島目前で夜明けを迎え、それと同時にレグルス空軍の激しい攻撃を受けることになった。この攻撃で船団は壊滅し、作戦は中止された。
この増援作戦の失敗はクレタ島保持は困難であるとモレラ軍司令部に印象付けることになった。そのため司令部は本土決戦に備える方針を決定し、事実上クレタ島を見捨てた。この決定は島の守備隊にはひた隠しにされ、この作戦以降も駆逐艦や潜水艦を用いた補給・増援が細々と送られ続けたが、クレタ島防衛の司令官ザホス・ペトロス将軍から要請された大規模な援軍が送られることはなかった。
増援・支援の欠如にも関わらず、クレタ島守備隊は良く抵抗した。クレタ島を東西に走る山岳地帯はそれそのものが地形的障害として機能するだけでなく、そこに築かれた坑道陣地は難攻不落の防衛拠点として機能した。レグルス軍はこれを火炎放射器を用いて排除していったが、内部で連絡された地下通路によってその効果は大きく提言した。
また民間人のレグルス軍への抵抗も起こった。モレラでは反レグルス感情が根強く、島民も武器を取って抵抗に参加した。モレラ政府が戦前からレグルス軍の侵攻を予期して島民の軍事訓練と武装化を施していたため、これらの抵抗は極めて激しいものになった。レグルス軍はこれらの民間人レジスタンスを非合法と断定し即決裁判や報復としての虐殺を伴う苛烈な対応を行った(実際には彼らの大半はモレラ軍の腕章を身に着けていたため戦時国際法内の保護対象であった)。また彼らの抵抗を目撃したレグルス軍はノウハウをレグルス本国へ持ち帰り、後の本土決戦では民間人の大量動員が行われる要因の一つになった。
しかしこれらの妨害も空しく、モレラ軍はレグルス軍の攻撃の前に徐々に後退を余儀なくされていった。徐々に物資が欠乏していくモレラ軍に対し、レグルス軍は十分な補充を受け支援も万全であった。レグルス軍は比較的地形の平坦な海岸沿いを進出し、万力のように島を東西から締め上げていった。
2月19日に激しい市街地戦の末にハニアが陥落すると西部の戦線にほころびが見え始めた。東部でモレラ軍の戦線突破に失敗し続けていたレグルス軍は確保したハニアの港湾から増援を送り込み西部からの圧力を高めた。モレラ軍も同じく戦力を東部に送って対抗したが、一度動いた戦線を止めることは難しかった。レグルス軍はじりじりとではあるが戦線を東へ東へと押し込んでいった。
3月2日、レグルス軍は占領したモレラ軍陣地で地下陣地の構造図を発見した。これはモレラ軍が破棄するのに失敗したもので、旧版であったため新造の坑道は未記載ではあったが、司令部・弾薬庫などの重要構造物の情報がレグルスに渡った。レグルス軍はこの情報に従い、3月6日、東部モレラ陣地の地下弾薬庫に対し10トン徹甲爆弾を投下した。爆弾は山岳地盤を20mに渡って貫通し炸裂した。爆弾自体は弾薬庫まで貫通することはなかったものの、爆発の衝撃によって坑道そのものが歪み、一部坑道は崩落するに至った。この崩壊は少なくない将兵が生き埋めにしただけでなく、レグルス軍の攻撃を一か月以上にわたって押しとどめ続けていた陣地への地下連絡路を寸断することにもなった。この陣地は7日中に放棄され、展開していた部隊は夜間に脱出することに成功はしたものの、戦線に大きな穴をあけることになった。
3月10日、東部に展開していたレグルス軍が当初の攻略目標であったイラクリオンに達した。イラクリオンでは激しい市街地戦が繰り広げられ、モレラは軍民問わず激しく抵抗した。しかし22日に西部から進出したレグルス軍もイラクリオン攻撃に参加するようになり、モレラ軍はイラクリオンを放棄した。
イラクリオンを放棄したモレラ軍はその後も抵抗を続けたが、物資の払底によってその能力を失っていった。イラクリオン陥落直後の24日にはペトロス将軍がレグルス空挺兵によって捕虜にされており、モレラ軍の指揮統制は急速に失われた。一般にクレタ島におけるモレラ軍の組織的抵抗は4月を目前にした3月29日の司令部玉砕で終了したとされる。
しかしながら、組織的抵抗が終わった後もパルチザンや2000人以上に及ぶ残存兵士による抵抗は続いた。これらレジスタンスにとってクレタは依然秘匿された山岳陣地や協力的な市民の民家など隠れ家に困らない理想的な環境であった。これにレジスタンス対してレグルス軍は手を焼き続け、度々掃討戦を行ったが完全に鎮圧することはできなかった。
またレグルス軍はレジスタンスに関与したとして集団処刑を繰り返したが、これはレジスタンスを増加させるだけであった。しかしその占領末期、占領行政の担当が軍から親衛隊に代わると親衛隊はさらに苛烈な手段を講じた。親衛隊は街規模での集団処刑を行い、解放されるまでの僅か2か月半で23000人以上を殺害した。
またクレタ島は戦争末期に連合国によって解放されたが、この際逆に降伏を免れたレグルス兵が山岳陣地に身を隠し終戦まで抵抗を続けた事例もあった。
エーゲ海の戦い
クレタ島の陥落はレグルス軍に対してモレラ本土侵攻の可能性を開いた。当初の戦争計画ではモレラ本土侵攻はアナトリア侵攻終了後に行う予定であったが、アナトリア戦線が停滞していたためこの計画は破綻した。しかしクロムウェルはモレラ侵攻を強硬に主張した。クロムウェルはモレラ本土に侵攻することでアナトリアの部隊を引き付けることができると主張したが、実際にはモレラへの『復讐』が目的であることは明らかであった。軍司令部は転用できる戦力はエジプト侵攻に参加した部隊のみで戦力不足であること、モレラ人の激しい抵抗が予見させること、戦力誘引だけならアナトリアへの海上侵攻で十分達成可能であることを指摘し反対したが、最終的にクロムウェルが意見を押し通した。
モレラ本土侵攻に先立ってレグルス軍はエーゲ海の小島嶼を制圧する必要があった。これらの島々はモレラ軍の航空機・魚雷艇・潜水艦の秘密基地になっており、これらの部隊によってモレラ本土侵攻の際に側面を突かれる恐れがあった。レグルス軍はこの作戦にコード『プレアデス』を割り当て、クレタ島侵攻に参加した部隊を充当した。
エーゲ海諸島に対する最初の侵攻は144年8月9日に開始された。最初に攻撃目標となったのはキクラデス諸島南部の
アナフィ島
であった。同島はクレタ島陥落以降エーゲ海南部におけるレグルス軍監視の拠点となっていたが、島にはほとんど守備隊がいなかったため3時間の戦闘の後に降伏した。モレラはこれらの島嶼を防衛することはできないと判断しており、長期にわたってこれらの諸島を保持する意図はなかった。
アナフィ島陥落をきっかけに、8月中旬から9月下旬にかけてレグルス軍はエーゲ海諸島各地に侵攻した。モレラ軍守備隊は殆どがクレタ島の陥落に前後して本土に撤退していたため戦闘らしい戦闘は起こらなかった。しかしクレタ島の戦いで現地住民の抵抗に敏感になっていたレグルス軍は無抵抗の住民に対する虐殺を度々引き起こした。
またエーゲ海諸島の完全放棄はアナトリアに展開するフランスの抗議に晒された。エーゲ海諸島からの撤退はレグルスから秘匿するため同盟軍にも秘密に行われたため、フランスはアナトリアに近い島々は当然モレラ軍によって防衛されているものだと考えていた。しかし8月31日に一夜にして
ヒオス島
が陥落するとアナトリアのフランス軍司令官ポール・ラファエル将軍はショックを受け、コンスタンティノポリスに直接乗り込んで事態の説明を求めた。そこでモレラは初めてフランスに対しエーゲ海諸島から部隊を引き上げさせたことを明かした。ラファエルはエーゲ海諸島が陥落すればアナトリア戦線の後方を晒すことになるとして撤回を求めたが、モレラ側は応じなかった。憤慨したラファエルはフランス軍を依然健在な
レスボス島
に進駐させることを命じ、モレラ側はこれを黙認した。しかしながらこの動きはロードス島の航空部隊によって発見され、激しい抵抗を受けた。アナトリアと島の間の10kmに満たない短い海峡はレグルスの急降下爆撃機の狩場になり、12隻の船舶が撃沈・撃破され2000人以上の将兵と多数の重装備が失われた。
9月21日、第一海兵師団の2個連隊がレスボス島に侵攻した。フランス軍は僅かな兵士と未知の地形、その場しのぎの陣地で対抗しなければならなかった。戦闘はレグルス軍に圧倒的に有利に進み、フランス軍は壊滅的な損害を被った。フランス軍は対岸からの重砲支援の下で夜間に脱出した。
エーゲ海諸島における戦いは9月27日に
サモトラキ島
の守備隊が壊滅したことで終了した。
エーゲ海諸島の放棄を進めるモレラ軍はその一方でテッサロニキからの艦隊脱出を図る
チャレンジャー作戦を実行した。
黒海艦隊・
地中海艦隊はグリフォン作戦以降テッサロニキにとどまっていたが、クレタ島の陥落によってエーゲ海に閉じ込められていた。これらのエーゲ海に展開した艦隊は合計で200隻に迫る大艦隊であったが、グリフォン作戦によって損害を受けており戦闘力は隻数ほどのものではなかった。モレラ海軍はエーゲ海諸島の放棄と来るレグルス軍の本土侵攻によってこれらの艦艇が拿捕・破壊されることを避けるためトラキア領モンテネグロに脱出させることを決定した。
この作戦はトラキア・モレラ間の協議の末9月中旬の実行が決定され、
トラキア地中海艦隊旗艦
トライヤヌス・オプティムス・プリンケプス以下12隻の艦艇も参加するものとされた。しかしモレラ海軍は戦艦の機関復旧の遅れを理由として作戦実行を後倒しした。
最終的に3回にわたる作戦の遅延の末、作戦実行は11月16日にずれ込んだ。この日が選ばれたのは天気予報が大雨で艦隊行動を隠蔽できるとともに、レグルスの攻撃機を避けることができるからであった。艦隊は朝7時5分からモレラ海軍の重巡エクリプスを先頭にサロニカの軍港を出港した。
こうしたモレラ・トラキアの大規模な艦隊行動の予兆はレグルス諜報部・海空軍も知るところであった。しかしながらレグルス軍司令部は陸軍に大きな動きがなかったにもかかわらず、クレタ島に対する大規模反攻の予兆であると断定した。レグルス軍はエーゲ海諸島に展開した陸軍をクレタ島に差し戻し、主力艦隊をロードス島に展開した。レグルス軍は戦前からの計画の下で漸減要撃作戦を展開する予定であった。
しかしながら、これら主力艦隊はエーゲ海を南進した後に西進、
キティラ島
北部の海峡を突破して大きな妨害なくアドリア海へ脱出した。レグルス軍が事態を把握したのは艦隊の半数以上がエーゲ海を突破した後のことだった。クロムウェルは即座に追撃を命じたが、悪天候のため航空機は出撃できず、ロードス島の艦隊は追撃を行うには遠すぎた。
この作戦によってモレラ・トラキア両国はエーゲ海・黒海の主力艦隊を保全することに成功した。しかしその一方でエーゲ海の制海権は完全にレグルスの握るところとなった。またこれらの艦隊は後に行われたアドリア海の機雷封鎖によって戦争後期まで身動きを取ることができなくなり、作戦の成果は損なわれた。
一方レグルスではみすみすモレラの大艦隊を取り逃がしたことで軍の責任問題に発展した。海空軍・諜報部はお互いに責任を擦り付けたが、クロムウェルは海軍の責任が最も大きいと判断した。実際モレラによるクレタ島奪還作戦があると判断したのは主力艦隊司令官である
アポリー・ウルブリヒト大将であった。ウルブリヒトは即座に艦隊司令官を解任された上でクロムウェルの命令によって軍法会議に掛けられた。クロムウェルはウルブリヒトの銃殺を望んだが、海軍将校らの取りなしで極刑は免れた。しかし重大な判断誤認は明らかであり、ウルブリヒトは3階級降格と
ペルシア湾警備艦隊という閑職に左遷された。
ウルブリヒトがなぜこのような判断をしたのかは長年議論の的になってきたが、最も信頼性の高い推論はスパイ説である。
ウルブリヒトにはアンドレウ・ティモンというキプロス出身のギリシャ系の友人がおり、モレラのクレタ島侵攻計画はそこから聞き及んだものだった。それまでウルブリヒトはティモンから多くの情報を得てきており、彼はティモンを深く信用していた。この友人の話は軍事法廷でもウルブリヒトの口から話されたが、戸籍上にそのような人物はおらず、目撃者もほとんどいなかった。以前からウルブリヒトには酒乱癖があったため、このティモンの存在はウルブリヒトが作り出した妄想上の存在であろうと結論付けられた。
しかし後世の歴史家のみならず、当時からティモンが実在するスパイであると主張する者が絶えることはなかった。そして近年
[いつ?]公開されたモレラ国外務省の文書からティモンと特徴が一致するスパイの存在が確認されたことでこのスパイ説は現在もっとも信頼性の高い説であると見なされている。
ギリシャ本土侵攻
プレアデス作戦によってレグルス帝国は東地中海における作戦の自由を手に入れた。レグルス軍はエーゲ海全域の制海権を握り、モレラ本土への侵攻が可能になった。
レグルス軍のモレラ本土侵攻の組織的な研究は第二次東地中海戦争から行われてきた(参謀個人レベルでの検討は第一次東地中海戦争から行われていたが、当時のレグルスの国力ではモレラ本土への侵攻は現実的ではなかった。)。もっとも古い作戦計画は第二次東地中海戦争時の「黒鉄拳計画」で、その後の研究はこの計画を元に発展する形で建てられていた。この戦争においても参謀本部はこの計画を修正する形で作戦計画を立案した。
レグルス軍内部では上陸箇所としてギリシャの港湾・地形を考慮してテッサロニキとアテネの二箇所が検討されていた。最終的にプレアデス作戦中に行われた会議で、トラキアローマから遠く同国軍の増援に時間がかかること、戦線が短く上陸後の防衛が容易であること、半島状の地形が海上機動に適していることなど理由からアテネへの上陸が決定された。またこの上陸計画の策定にあたってギリシャ文化の中心であるアテネの攻略にクロムウェルが固執したという説が現在でも広く流布されているが、クロムウェルがアテネ案を支持していたことを示す証拠は見つかっていない。
上陸目標を定めたレグルス軍は作戦を三段階に分けた。第一段階では海上機動戦力を港湾の存在するパトラ、及び交通の要衝であるコリントス、ラミアに上陸し橋頭保を形成すると同時にアテネへの増援を遮断する。第二段階ではコリントス・ラミアの戦力でアテネを挟撃しこれを攻略、最終段階としてアテネの港湾から主力部隊を揚陸させ戦線を形成することとされた。
作戦に割り当てられた部隊は当初クレタ島を拠点とする予定であったが、現地のレジスタンスによるスパイ活動やクレタの港湾能力の飽和が懸念され、上陸部隊はレグルス本土で待機することになっていた。
一方で攻撃を受ける側となったモレラ軍はレグルス軍の上陸地点をギリシャ半島の先端かサロニカとかなり正確に予想していた。そのどちらであるかを決断することはできず戦力を二分させはしたものの、そのどちらにも十分有力な戦力を保持していた。
モレラは開戦以降全成人に対する徴兵を行っており、半島部だけで100万を越える軍及び民兵を展開していた。これらの戦力は市街地・山岳・森林に隠匿され、上陸してきたレグルス軍に対し持久戦を図る計画であった。
侵攻は年を明けた145年2月15日に開始された。プレアデス作戦から期間が開いたのは作戦準備に手間取ったからであった。レグルス軍にとってこれほど大戦力を短期間にごく狭い戦域に上陸させるのは全く未知の経験で、装備の調達から作戦指揮系統の調整まで課題は山積していた。それらの解決に12月、1月は費やされ作戦開始は2月にずれ込んだ。
上陸の先陣を切ったのはラミアへの上陸を図る第7軍であった。しかし第7軍とその護衛艦隊はマリアコス湾の最奥にあるラミアにたどり着くまでに両岸からの激しい砲撃に晒された。航空偵察の結果レグルス軍は沿岸砲の危険はないと判断していたが、それらは単に隠蔽されていただけであった。レグルス軍にとっては幸いなことに沿岸砲はあくまで陸戦用・船団攻撃用の野戦砲・榴弾砲であり、護衛艦隊への脅威は少なかった。砲撃によって姿を曝した砲台は護衛の戦艦や急降下爆撃機の攻撃にさらされ虱潰しに排除されていった。しかしそれでも沿岸砲群は3時間にわたって上陸部隊を押しとどめ貴重な時間を稼ぎ出しただけでなく、17隻の輸送艦を撃沈もしくは撤退に追い込むことに成功した。この損害は後のラミア市街地戦やアテネ包囲戦まで悪影響を及ぼした。
ラミアへの上陸が始まったのとほぼ同時刻、パトラ及びコリントスに上陸の先鋒となる空挺部隊降下が行われた。空挺部隊はパトラに3200人、コリントスに4000人が降下した。彼らの目的は上陸部隊の到達までに沿岸砲台トーチカを破壊することであった。
しかし彼らはモレラ軍の激しい抵抗に晒された。クレタ島に降下した第二空挺師団と同様に、彼らの予想降下地点はモレラ軍のキルゾーンにされていた。事前に対空砲こそ破壊されていたものの、降下地点の農地に埋められていた地雷や藪の中の狙撃兵・機関銃陣地が容赦なく空挺兵を襲った。彼らの頼みの綱であった急降下爆撃機部隊も連続出撃によって稼働率が低下し十分な支援が行えなかった。コリントスの部隊は降下後3時間後に届けられた空挺戦車によって反撃に転じることができたが、パトラの部隊は壊滅的損害を負った後に郊外に脱出することを余儀なくされた。しかしパトラの民兵部隊が司令官の静止にもかかわらず彼らの追撃に移動したため、パトラの防衛部隊を引きはがす予期せぬ戦果が挙がることになった。
しかしながら、それでもこの作戦で空挺部隊が負った被害はあまりにも大きかった。空挺部隊が本隊と合流するまでにこれらの部隊は一般的な意味で全滅しており、殆どの熟練兵士たちを失った。これらの部隊は本土に移送され再編がなされたが、クロムウェルはクレタ・ギリシアと続いた空挺部隊の大損害を憂慮し以後大規模空挺作戦を行うことはなくなった。
上陸部隊の上陸に先駆けて、各上陸地点では2~3時間かけて艦砲射撃が行われた。しかし結果論で言えばこの数時間の射撃はあまりにも短く、規模の小さなものであると言わざるを得なかった。主要な防御地点は露出していたり、焦って反撃を行った一部の拠点を除いて艦砲射撃に耐えきった。加えて砲弾は市街地を破壊したが、これらの瓦礫は民兵に隠れる隙間を与えただけであった。
艦砲射撃の後にレグルス軍は上陸を開始した。この第一波上陸部隊は合計で20万に達する大部隊であった。これら上陸部隊はゼーレヴェ揚陸戦車やヴァロウズ揚陸APCを始めとする装甲上陸車両を先頭に立ててビーチへ殺到した。モレラ軍の水際陣地は目につき次第上陸部隊に砲撃を加えた。しかしこれらの攻撃は精彩を欠くもので、着岸までレグルス軍は大きな損害出さなかった。しかしいざ着岸し内陸に向け侵攻を開始すると多数のモレラ軍兵士による銃撃に晒された。揚陸戦車は機関銃陣地を次々と破壊したが、モレラ軍の戦車部隊が到着するとそちらにかかり切りになって兵士たちは再び機関銃の猛威に晒された。また揚陸戦車も水上浮行のため装甲が薄く、同クラスの戦車との対戦は厳しいものがあった。
この戦闘の勝敗を決したのは駆逐艦隊の直接支援だった。戦艦級の艦砲射撃は上陸後同士討ちを避けるため停止していたが、それらをエスコートする駆逐艦は座礁するほど近くまで沿岸に近づいて上陸部隊を支援した。駆逐艦と言えどもその砲撃力は一個砲兵中隊に迫るもので、取りこぼしたトーチカや崖の上の機関銃陣地、果ては戦車までも水平射撃で薙ぎ倒した。中でもラミアに展開していた駆逐艦エジンコートはモレラのアルマジロ重戦車を装備した戦車中隊相手に砲撃戦を仕掛けこれを全滅させている。
上陸部隊は17日までに橋頭保を確保し、ペロポネソス半島およびアテネの制圧に向けて動き出した。当初より内陸持久を企図していたモレラ軍は現地部隊を山岳、都市部に後退させるとともに、モレラ軍司令部はアテネへの連絡を回復するため北部から戦車師団を引き抜いてラミア橋頭保への攻撃を命じた。レグルス軍は18日昼過ぎからアテネに向け攻撃を開始し、モレラ軍第三機甲軍団は20日からラミア橋頭保への攻撃を開始した。
アテネ及びラミアの戦いは激戦となった。アテネが先に陥落すればレグルス軍がギリシア南部に盤石の拠点を築くことになり、逆にラミア橋頭保が破壊されればアテネ攻略は不可能になり上陸作戦全体が破綻するという二者択一を両軍は正確に認知していた。レグルス上陸軍司令部は機甲軍団の南進を確認してからはラミアの部隊にアテネへの攻撃中止と陣地死守を命ずるとともに、爆撃機部隊を橋頭保の援護に差し向けた。この決断によってアテネへの挟撃が不可能となり、航空支援も十分に得ることはできなくなった。しかし航空支援は都市部においてその効力を発揮し難いことや、これら航空部隊が第三機甲軍団相手に大戦果を挙げ反撃を阻止したことから、この判断は英断であったと評価されている。
しかし当初期待していた支援が得られなくなったコリントス・パトラ上陸部隊にとってはこれらは何の慰めにもならなかった。ゆっくりと砲撃支援を待つ時間的猶予もない彼らは彼らはアテネ市街地の建造物を盾として徹底抗戦を図るモレラ軍に対し肉弾戦でもって対抗するほかなかった。レグルス軍はこの戦いに戦闘工兵・軽機関銃・手榴弾といった部隊・装備を多数投入し徹底的な制圧・掃討戦を展開した。それに対しモレラ兵は下水管・裏道を活かしたゲリラ戦や狙撃によってレグルス軍に出血を強いた。お互いに砲兵・航空支援を欠いたこの戦いは非常に血なまぐさいものになり、3月9日までに両軍10万人以上の犠牲者を出した。
一方でラミア橋頭保も苦しい戦いを強いられていた。機甲軍団の南進と陣地死守を伝えられた第七軍は即席の塹壕・対戦車バリケードを並べ北部に向け対戦車陣地を形成し、2倍以上の兵力を持つ第三機甲軍団を迎え撃った。第七軍は対戦車砲こそ装備していたもののその火力は貧弱で、モレラ軍の中戦車を撃破できず撃破を航空支援か歩兵の肉薄攻撃に頼らざるを得なかった。また第七軍は依然沖合に展開する艦隊から火力支援を受けていたが、23日に行われた魚雷艇の夜襲で戦艦タラリアが中破する損害を受けたことで、戦艦の喪失を厭った海軍の命令によってそれらの艦隊は引き上げざるを得なくなった。
一方で戦力上は圧倒的に優位に立っていたはずのモレラ軍も苦戦を強いられていた。レグルス軍の抵抗が予想以上に激しかったことに加えて、航空機による対地攻撃が大きな被害を出していた。25日までは悪天候のためレグルス軍は満足な航空支援が得られず多くの陣地を失ったが、26日に5日間続いていた悪天候が晴れてからはモレラ軍は激しい爆撃に晒された。特に27日の戦いでは航空掩護を欠いたモレラ軍は戦車54両、自走砲13両、装甲輸送車25両、トラック70両を失う大損害を負った。この損害におののいたモレラ軍中央は慌てて北部に温存していた航空部隊を投入したため以後これほどの損害はなくなったが、以後も度々爆撃で装甲車両を無為に失った。
3月7日、アテネの総司令部が陥落したという知らせがモレラ軍中央司令部に届くと第三機甲軍団には攻撃停止と後退が命じられた。この知らせは実際には誤報で、確かにアテネ司令部が置かれていたアクロポリスは一時的にレグルス軍に占領されていたが、直後に奪還された上、司令部要員は退避に成功し依然健在であった。この誤解はアテネの長距離通信設備が破壊され意思疎通が取れなくなっており、航空偵察によってアクロポリスにレグルス旗が掲げられていたために起きたことだった。
しかし実際に第三機甲軍団は後退し、それによってレグルス軍は航空支援をアテネに送る余力が生まれた。このバランスの変化によってアテネの防衛線は決壊し、レグルス軍はアテネ市街地を掌握するに至った。残余のモレラ軍はバラバラに撤退し、北部への脱出や山岳・森林での継戦を行った。
ギリシャの精神的中心であったアテネの陥落はレグルスにとって重要な意味を持ち、全国でアクロポリスに黒白赤の三色旗が大きく描かれた号外が配られた。レグルス人の多くはアテネの陥落によってモレラを打倒したと考え、彼らの歴史的反モレラ感情を満たした。
しかしながら実際のところモレラにとってアテネは南部の重要都市であったものの、国家の全てではなかった。またモレラ人はアテネよりコンスタンティノープルを重視しており、政治的にもそちらの方が重要であった。そのためアテネの陥落の与えた影響はレグルス人の大方の予想よりもはるかに小さなものにとどまった。
プロキオン作戦
アテネ攻略によってギリシア南部に確固たる地盤を築いたレグルス軍だったが、そこからの進撃は断念せざるを得ない状況にあった。アテネ攻略に手間取ったため狭隘な中央ギリシアにモレラ軍が頑強な防衛線を建設したことで突破は極めて難しくなっていた。また戦線後方のパルチザンによる破壊工作も深刻で、特に多くの正規部隊が逃げ込んだペロポネソス半島では満足な物資輸送すら困難なものになっていた。レグルス軍はアテネの港湾能力復旧を急ぎ、更に少なくない戦力をゲリラ掃討に差し向けたが、速やかな進撃は不可能と言って良かった。
アテネ陥落で自信を得たクロムウェルはこの報告に憤慨し速やかな攻撃を命じたが、将校らの説得を受け撤回した。しかしクロムウェルは正面攻撃を諦めた代わりに、再び上陸作戦を行って第二戦線を開くことを命じた。将校団は予備戦力が払底することや相手も既に沿岸防御を固めているとして反対したが、一度妥協させた以上更なる反対は厳しく、クロムウェルに押し切られる形になった。
将校団に自分の意見を認めさせたクロムウェルは作戦立案にも大きく介入した。当初エルリッヒ・ファルケンハウゼン大将を始めとする参謀本部は作戦規模を極力小さな威力偵察に留ようとしたが、クロムウェルの介入によってこの試みは未然に潰えた。クロムウェルはこの作戦でテッサロニキ・イスタンブールを占領しアナトリア・ギリシャ両戦線を一気に攻略するように要求した。
クロムウェルが自ら立案した作戦案によれば、レグルス軍はカバラ・ガリポリに上陸、更に艦隊をマルマラ海に突入させイスタンブールを攻撃することになっていた。しかしこの計画は投機的に過ぎるという認識で軍部は一致、クロムウェルに計画変更を認めさせた。軍部で修正された作戦では上陸地点はガリポリに絞り、戦略目標もイスタンブールの攻略から、橋頭保を形成して敵戦力を誘引、また海峡の通行を遮断しアナトリア戦線を支援する副次的なものに変更された。
上陸部隊には主戦線への負担をなるべく避けるため、武装親衛隊師団から選ばれることとなった。クロムウェルと陸海軍、武装親衛隊幹部の協議の末、いくつかの候補の中から最終的に選択されたのは武装親衛隊第九師団だった。同師団は水陸両用作戦の訓練を受けたことはなかったが、水陸両用作戦に特化した第十七師団はクレタ島で受けた損害から回復しておらず、やむなく次点の同師団が選ばれた。第九師団のクレアノート親衛隊准将はモレラの防衛部隊について「楽観的な見解」を表明した。第九師団は3か月にわたって上陸作戦の訓練を受けた。
海軍はこの作戦に200隻以上の上陸用舟艇を提供した。しかし、親衛隊の上陸作戦に対する火力支援の要請にも関わらず、モレラの沿岸砲からの反撃を懸念して戦艦級部隊の派遣は拒んだ。代わりにイスケンデルン級重巡洋艦2隻が派遣されることになったが、海上からの火力支援は不十分だった。
レグルス空軍は地中海戦域においてある程度制空権を確立していた。レグルス空軍は上陸予定地点に継続的に偵察活動を行い、防衛部隊の正確な配置を記録していた。モレラ軍の総数は当初の予想を上回っていたが、作戦は強硬された。作戦前にはモレラ軍の目を引き付けるため戦略爆撃機によるサロニカ空襲が行われた。
モレラ軍は、アテネ陥落以降停滞した戦線を打開するためにレグルス軍が上陸作戦を行う可能性があることを認識していた。モレラ軍参謀本部はクロムウェルが投機的な攻撃作戦を指示する可能性は高いと分析しており、実際これは正確な予測だった。モレラレジスタンスの諜報網はエーゲ海における上陸作戦に転用可能な船舶の移動の増加を確認しており、参謀本部は数か月以内に大規模な上陸作戦が開始されると想定して沿岸防衛部隊の警戒態勢を引き上げた。参謀本部は上陸地点として最も可能性が高いのは、サロニカかコンスタンティノープルのいずれかだろうと予想し、防御陣地の構築を行った。
上陸作戦はサロス湾の4つのビーチに対して計画された。ビーチはそれぞれ北からA,B,C,Dのコードが割り振られた。
145年7月2日の深夜、上陸部隊はキプロス島の港を発った。攻撃は3日の早朝に開始され、空襲と重巡シャーバ麾下の第32水雷戦隊の3時間にわたる支援砲撃の後、午前7時13分にレグルス軍は最初の上陸を開始した。
最初にレグルス軍が着上陸したのは最南端のDビーチだった。Dビーチの防衛は比較的手薄であり、レグルス軍は容易に橋頭保を築いた。次いで着上陸したCビーチでは、まず沿岸砲を排除する必要があった。レグルス軍は沿岸に展開した強襲揚陸艦から攻撃ヘリ部隊を展開し、2つの砲台を破壊することに成功した。一方で、A,Bビーチの戦局は苦しいものだった。モレラ軍は半島の付け根部分に兵力を集中しており、両ビーチの攻略部隊はそこに正面から突っ込む形になった。加えてC,Dビーチの交戦の結果、上陸の奇襲性は失われていた。両ビーチには作戦全体の7割の人員が投入されていたにもかかわらず、僅か3時間の戦闘で部隊は海上にたたき出された。上陸部隊は決定的な損害を受け、佐官級の人員も複数失われた。A,Bビーチの失敗の結果、南部に上陸した部隊は孤立の危機にさらされた。3日の夜間にはモレラ軍の反撃部隊がC,Dビーチ上陸部隊前面に展開した。上陸部隊は撤退を開始し、4日午前11時までに、激しい砲火の中で撤退を完了した。
プロキオン作戦の失敗は、政治的事情と軍事的事情の衝突の結果生じた不十分な戦力投射が十分な防御陣地にぶつけられた結果生じたものだった。作戦の失敗を受け、レグルス軍は十分に防御された沿岸陣地への上陸作戦は無謀であるという結論に達し、上陸作戦を控えるようになった。作戦の失敗の原因に第九師団の戦闘能力が欠如を指摘する伝説があるが、歴史家の多くは第九師団が殆ど上陸作戦について未熟であったにもかかわらず、よく敢闘した部類であると評価している。
作戦の結果、レグルス軍は投入した1万1000人の内6800人を失い、損耗率61%を記録した。これは作戦前の最悪の想定とほぼ同じであり、この作戦がどれほどひどい結果に終わったのかを示唆している。
作戦の失敗はレグルス国内では隠ぺいされた。レグルス軍内部でも作戦の失敗はあくまで局所的な敗北にすぎないとする認識が主流でああった。実際これ以降もレグルス軍の進撃は続いており、連合国のプロパガンダにあるような「破滅の始まり」ではなかった。
プロキオン作戦以降、レグルス軍は陸上戦線の正面突破に集中するようになった。
バルカン・アナトリア攻勢
プロキオン作戦が行われている最中にも、ギリシア・アナトリアでは次の攻勢に向けた作戦計画が準備されていた。アナトリアではプロキオン作戦中、これに呼応してフォーマルハウト2が発動され、攻勢が実施された。しかし悪地形と不十分な作戦計画のため、戦略的価値の薄いごく小地域を占領するにとどまり、フランス軍の反撃を受けて攻勢は数日で停止された。
フォーマルハウト2の失敗後、アナトリア戦線には第三次全面攻撃に向けレグルス本土から大量の砲と弾薬が輸送された。ギリシアでもパルチザン対策が功を奏し始めたことで攻勢準備が可能となった。レグルス軍司令部はアナトリア・ギリシャでの同時総攻撃によって連合国軍の前線を崩壊せしめることを計画した。この二つの攻勢作戦はそれぞれフォーマルハウト3、アルニラムと命名された。
フォーマルハウト3の作戦目標は、フォーマルハウト1,2で失敗に終わったアナトリア全土の制圧にあった。予定攻勢距離は600kmに達した。この大規模作戦を成功させるため、レグルス軍は二度の失敗を基に入念な準備を行った。レグルス軍は攻勢の失敗、停滞の原因を連続的な作戦遂行能力の欠如にあると分析し、攻勢に先立ち多数の予備兵力と補給物資を準備した。特に予備兵力の徴収は苛烈なもので、この作戦のために新たに100万人以上が動員された。またレグルス軍は、アナトリアの地形が攻勢作戦に不向きである一方で、フランス軍の補充が追い付かず、兵力が払底しつつあることに目を付けた。レグルス軍はこの作戦で、まず絶え間ない攻撃によって前線のフランス軍の戦線を突破、脆弱な後方に後続を浸透させ敵前線を包囲・破壊、敵戦力の消滅したアナトリア全域を制圧することとした。この作戦を遂行するため、レグルス軍は長駆浸透する部隊として
突撃戦闘団(sturm kampfgruppe)を編成した。この部隊は本来山岳での戦闘力に欠ける装甲・自動車化部隊で、戦線突破後包囲機動を取るために編成された。またこの戦闘団を支援するため、レグルス軍はヘリ輸送部隊や、パイプライン敷設専門の工兵部隊も編成、投入した。
フォーマルハウト3はアルニラム作戦に1週間先駆けて、144年9月28日に開始された。レグルス軍砲兵部隊が一斉に火を噴き、事前偵察により明らかになっていたフランス軍の指揮所、通信施設を破壊した。短く強烈な砲撃の後、レグルス軍は各地で突撃を開始した。フランス軍は2倍の兵力相手に良く奮戦したが、攻勢開始から数日以内に脆弱な防衛地点が決壊し始めた。レグルス軍は事前計画通り、そうして生じた戦線の隙間に次々と機動部隊を流し込んでいった。フランス軍はレグルス軍の浸透を阻止しようとしたが、予備兵力の不足と前線部隊がレグルス軍の絶え間ない突撃によって拘束されたために、失敗した。10月上旬までにフランス軍の戦線は崩壊し、80万近い兵力が失われた。アナトリアに各地に残された残存フランス軍はバルカン半島への総撤退を開始し、レグルス軍は10月29日にアナトリア全域を占領した。
フォーマルハウト3と同時に、ギリシアでもレグルス軍は攻撃を開始した。ギリシアはアナトリアに比べ遥かに狭隘で、前線の兵力密度はアナトリア戦線の数倍に達していた。そのためレグルス軍は、この戦線に第一装甲集団を含む装甲戦力と空軍を集結した。しかしアテネ前面の戦線は山岳地帯であり、装甲戦力が最大限のパフォーマンスを発揮しうるテッサリア平原まで50km弱の道のりはどうにかして突破する必要があった。レグルス軍にとっては幸運なことに、状況は必ずしもレグルス軍にとって不利なものではなかった。モレラ軍はレグルス軍による攻撃の備えを水際防衛に集中していたために、一度上陸を許した後の反撃計画は泥縄的なものであった。加えて、アテネの陥落によってギリシア南部のモレラ軍の補給状況は悪化し続けていた。更に、フォーマルハウト3が成功を収めたことが明らかになると、モレラ軍はボスポラス海峡を越えた侵攻に備えるため、兵力を東部に抽出せざるを得なくなった。
10月6日、レグルス軍はアルニラム作戦を発動した。レグルス軍は攻勢先鋒に装甲師団を押し立てて、モレラを南北に縦断する街道E75に正面から攻撃を開始した。モレラ軍は駆逐戦車を含む対戦車陣地でこれを迎撃した。レグルス軍は空爆によって位置を露見した対戦車陣地を次々破壊したが、空軍の努力にもかかわらず第一次攻撃は40両の戦車を失って失敗に終わった。3日後、レグルス軍は第二次攻撃を発起した。第一次攻撃ではレグルス軍は進撃用の街道が破壊されることを恐れ爆撃を躊躇したが、今回は被害も恐れず激しい爆撃を加えた。それでも尚街道上に設置された対戦車構造物がレグルス軍の突撃を阻み、歩兵の対戦車攻撃によって少なくない数の戦車が破壊、放棄された。レグルス軍は工兵部隊を突撃させることでこの障害物陣地を排除したが、工兵部隊の死傷率は7割に及んだ。しかしレグルス軍の犠牲を厭わない攻撃によってモレラ軍も防御陣地も半壊し、レグルス軍は突破の好機を得た。レグルス軍は側面が危険にさらされることを承知で、第三機甲師団に突進を命じた。後続部隊はあとで送られることになっていたが、そのためには戦闘によって破壊された街道を修復せねばならず、修復活動は昼夜を問わず急ピッチで行われた。幸運にも、第三機甲師団は包囲されることはなく、15日には後続の第十五自動車化師団が第三師団に追い付いた。
レグルス軍はテッサリア平原に到達すると、その機動力を最大限に解放した。レグルス軍はまずテッサリア平原を時計回りに旋回し、ボロス周辺のモレラ第6軍を包囲した。モレラ軍は平原での防御を諦め、ヴェルミオ山脈で防衛線を敷こうと試みた。しかしレグルス軍の進撃速度はモレラ軍の再配置速度を上回り、モレラ軍に防御の隙を与えなかった。レグルス軍は19日にモレラ軍の防衛線の一つであったアリアクモン川を渡り、軍の配置が間に合っていないモレラ山岳防衛陣地に攻撃を開始した。秋の霧がかった気候は浸透を続けるレグルス軍にとって有利に働き、モレラ軍が察知する前に防衛線の奥深くにまで進行することを助けた。兵の配置が間に合った防御陣地は、気が付いた時にはレグルス軍に包囲され、後続のレグルス軍歩兵の肉薄攻撃によって排除された。予想を上回る速度の進撃に対し、モレラ軍の対応は遅れ、10月30日、レグルス軍による奇襲を受けサロニカは数時間による戦闘の末、放棄された。この速やかなモレラ軍の撤退は、敵に勢いのある今抵抗するよりも、将来的に攻勢に回ってから脱会する方が容易いという考えによるものだった。サロニカの攻略によってレグルス軍はアルニラム作戦の戦略目標を達し、攻撃停止を命じた。
フォーマルハウト3、アルニラム両作戦によって、レグルス軍はギリシャ、アナトリアにおける優勢を確立した。特にアナトリア半島はレグルス軍による完全な占領下に置かれ、アナトリア総督府による民政が敷かれることになった。連合軍はこの戦いでフランス領アナトリア軍52万、フランス軍37万、モレラ軍32万の損害を出した。しかし山岳部で犠牲を顧みない強引な攻勢作戦を強行したレグルス軍を被害はさらに多く、総計で120万近い死傷者を出した。作戦終了後、レグルス軍は戦線の再編を開始し、特にアナトリアに展開していた部隊の多数を本国に送還、大規模な再編成を実施した。
反攻の挫折
西欧の戦い
ブルガリアの戦い
レグルスのロシア侵攻・CELTOの参戦
ヴォロネジ・モスクワの戦い
北アフリカ進駐
大西洋海戦
ベオグラードの戦い
バグラチオン作戦
レッドストーントーチ作戦
レグルス崩壊の序曲
バルカン・アナトリア反攻作戦
北アフリカの戦い
ドン・クバンの戦い
レグルス本土侵攻前夜
本土決戦
レグルス国家の崩壊
The Black Curtain
レグルスが大戦に勝利した時間軸を描いた
ウォルター・クロウリーによる小説。作中では旧大陸全域がレグルスの恐怖政治の下に置かれており、新大陸も殆どがレグルスの植民地となっている。主人公は反レグルスレジスタンスとして南米の内陸部で戦うが、徐々に追い詰められていく。数あるレグルス戦争の架空戦記の中でももっとも著名。
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最終更新:2026年08月28日 07:15