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第二次東欧大戦

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第二次東欧大戦


▶概要 西ロシア・バルト海沿岸部を支配するモスクワ帝国(モスクワ第二帝政)と、その侵略を受けたハニカム社会主義共和国連邦イタリア王国東欧諸国アフリカ諸国間の戦争。開戦当時は東欧のバルト海沿岸部の一部地域の戦争であったが、戦争中期にモスクワ帝国がイタリア王国に侵攻し、さらにはイタリア王国の植民地があった北アフリカに侵攻したことでアフリカ諸国が介入、さらにはその後戦局の好転を図って東欧諸国に侵攻したことで大規模な戦争となった。
第二次東欧大戦は217年9月1日のモスクワ軍による ハニカム社会主義共和国連邦 に対する宣戦布告で開始された。開戦直後、モスクワ軍は電撃戦でハニカム領を占領し、さらには同盟国大オーストリア帝国の要請でイタリア王国とも開戦。同国の本土を電撃的に占領後、同国の北アフリカ植民地にも侵攻し、219年には北アフリカ沿岸部の広い範囲を支配下に置いた。
このように開戦当初はモスクワ側が優勢に戦いを進めたものの、アークランドの参戦や、反植民地主義的なアフリカ諸国が参戦したことで全体の総合的な国力で劣るモスクワ・オーストリア連合軍は221年の終わりには北アフリカから殲滅された。しかしその後もモスクワは戦局の好転を目指して東欧諸国へと侵攻し支配下に置いた。がその後連合国軍による反撃が始まり、モスクワ軍は防戦一方になり、225年にはイタリアが解放、また同時期に大オーストリアが戦争から離脱し、それに激怒したモスクワ軍が大オーストリアにも侵攻したことで戦線はさらに拡大した。が、各正面から圧迫を受け続けたモスクワ軍は226年には東欧諸国の広い範囲が、227年にはハニカムが解放された。敗戦が濃厚になったモスクワ軍は核を使用し、アークランドとの核戦争に発展したが最終的に227年5月にモスクワ本土決戦で敗北、首都モスクワが陥落し国家機能を喪失したことでモスクワは滅亡。大オーストリアも崩壊した。

▶参戦国 第二次東欧大戦ではモスクワ帝国と同盟国大オーストリア帝国とそれに対抗する連合国陣営で争われた。モスクワ帝国・イタリア王国は共に 枢軸国 に属していたが、加盟国であるドイツや大中華はモスクワへの小規模参戦等にとどまり終戦まで直接介入はなかった。連合国陣営はハニカム社会主義共和国連邦・イタリア王国・アフリカ諸国・東欧諸国などイデオロギー的に多様な国家の集まりだった。第二次東欧大戦中はこれらの国々は連帯を維持していたが、戦後はハニカム社会主義共和国連邦やイタリア王国植民地・東欧諸国が崩壊した他、崩壊を免れた国同士でも戦後処理を巡っての対立等から連帯は崩れ去った。

▶戦争形態 小規模参戦にとどめた枢軸国加盟国諸国や直接参戦しなかった 西アフリカ合州国 等、直接参戦しなかった国々を除き、多くの国の国土が戦場になった。参戦国の半数以上が国家総力戦体制を構築し戦争を遂行した。モスクワ自身を含む周辺諸国はその全土が一時期占領下におかれることもあった。占領地では両軍とも残虐行為が頻発し、戦後も歴史問題として禍根を残している。

▶被害 統計には大きなばらつきがあるが、両軍合わせて軍人だけで1億人近く、民間人を含めると3億人前後が犠牲になったとされる。特に核戦争を遂行し本土決戦を行ったモスクワの死者は非常に多く民間人死者の8割以上はモスクワ帝国人である。
第二次東欧大戦
East Europe War Ⅱ
年月日:217年9月1日~227年9月2日
場所:東欧、地中海、黒海、バルト海、北アフリカ等
結果:モスクワ帝国、大オーストリア帝国、ハニカム社会主義共和国連邦、イタリア植民地帝国、東欧諸国の崩壊
参戦国各国領土の焦土化
交戦戦力
モスクワ帝国陣営
モスクワ帝国(モスクワ第二帝政)
大オーストリア帝国
連合国陣営
ハニカム社会主義共和国連邦
イタリア王国
SFM Co.
アークランド軍事統制国
ルーマニア王国

概要

第二次東欧大戦(だいにじとうおうたいせん、英:East Europe War 2、East Great War 2)はモスクワ帝国、大オーストリア帝国を中心とした同盟国とイタリア王国、ハニカム社会主義共和国連邦、サンマリノ共和国を中心とした連合国との戦争である。前大戦とは異なり、本戦争は中欧・アフリカまでも戦争に巻き込み、最終的に核戦争に発展するほどの大規模戦争となった。

参戦国


モスクワ帝国陣営
モスクワ帝国陣営は大戦中モスクワ帝国と同盟国大オーストリア帝国、そしてモスクワ帝国が各地の占領地に設立した国家弁務官区・傀儡政権(傀儡国家)で戦争を遂行した。モスクワ帝国は 枢軸国 に加盟していたが、後述するように他の加盟国は消極的支援か中立にとどまり直接参戦は行わなかった。またイタリア王国植民地内で一部の独立派勢力がモスクワに協力したことをあった。

連合国
連合国は ハニカム社会主義共和国連邦 イタリア王国 アフリカ諸国東欧諸国の連合であった。このうちモスクワ帝国が開戦時から交戦していたのはハニカムのみでほかの国々は当初中立を保っていた。イタリア王国は赤作戦、アフリカ諸国はファッケル上陸作戦、東欧諸国はバルバロッサ作戦以降に参戦した。また大戦後期には大オーストリア帝国もモスクワとの対立から連合国陣営へと鞍替えすることとなった。
参戦国(リンク先は後継国家)
モスクワ陣営
モスクワ帝国
大オーストリア帝国*1
バルテン国家弁務官区
オーストリア委任統治領イタリア*2
ウクライーネ国家弁務官区
ルメーニエン国家弁務官区
HYO-GAモスクワ派遣傭兵部隊
サルデーニャ王国
シチリア王国
ローマ共和国
フィレンツェ共和国
ナポリ王国
ミラノ王国
チャド民族解放同盟(CNLF)
エジプト解放軍(ELA)
リビア自由軍(LFA)
ドイツ国(間接参戦*3)
大中華(間接参戦*3)
連合国
ハニカム陣営
ハニカム社会主義共和国連邦
イタリア亡命ハニカム軍
ハニカム反モスクワ系レジスタンス
イタリア王国陣営
イタリア王国
サンマリノ共和国
エジプト副王国
カルタゴ副王国
サンマリノ委任統治領リビア
サンマリノ委任統治領チャド
アークランド軍事統制国
アークランド亡命モスクワ軍政国軍(自由モスクワ軍)
HYO-GA(間接参戦*4)
反モスクワ系パルチザン
反モスクワ系レジスタンス
アフリカ諸国
セレニア連邦王国
SFM Co.
西アフリカ合州国(間接参戦)
東欧諸国
ルーマニア王国
ウクライナ共和国
ウクライナ解放戦線*5
ルーマニア亡命政府*6


中立国
連合国側の国々は自国の権益保護や国民感情等様々な理由で参戦したが、反対に枢軸国の加盟国は本戦争に直接参戦することはなかった。これは戦争主要国であるイタリア・モスクワの双方が枢軸国に加盟しているからであり、親モスクワ的だった大中華・ドイツ国の二か国が小規模参戦・支援を行った以外は加盟国は全て中立を貫いた。


戦域


第二次東欧大戦の戦域はハニカム戦線、イタリア・北アフリカ戦線、東欧戦線に大別できる。ハニカム戦線ではモスクワ軍とハニカム軍、東欧戦線では当初は東欧諸国軍が、明日への希望作戦からはアークランド軍・自由モスクワ軍・SFM軍が対峙した。北アフリカ戦線は当初はモスクワ・オーストリア連合軍とイタリア王国・サンマリノ軍の、アークランド参戦・ルドルフ演説以降はモスクワ側には武装した各地の植民地独立運動や傀儡国家・傀儡政権の軍が加わり、連合国側にはアークランド軍・自由モスクワ軍・セレニア軍・SFM軍が加わっての戦いになった。
この3つの主要な戦線のほかにもバルト海や大西洋でもモスクワ軍と連合国軍が衝突した。
またモスクワ軍の戦争計画の中には中央アフリカ・北欧・ロシア中央部及び東部に対する侵攻計画も存在していたことが戦後明らかになった。


被害


複数の国の全土占領、そして核戦争を含む総力戦によって従来の戦争とは比較にならない軍民の被害が生じた。モスクワ軍、連合軍の双方が戦略爆撃を行ったほか、モスクワ軍と連合軍はそれぞれ地中海・大西洋とバルト海や黒海で潜水艦による通商破壊作戦を展開し多くの民間人が巻き込まれた。またモスクワ軍は戦況が不利になるにつれて戦争資源の調達のため苛烈な搾取を行い、それに反発した民衆に対し占領地で大規模なジェノサイドを行った。
また戦争末期にはモスクワ軍がNBC兵器を投入し、連合軍もNBC兵器による報復攻撃を行ったため、特に本土決戦では連合国の兵士だけでなくモスクワ人も多くが犠牲になった。化学兵器と核兵器による汚染は戦後モスクワ崩壊後もモスクワやその周辺の土地に残り戦後復興を難しいものにした。


戦後


第二次東欧大戦中は連帯を維持した連合国だが、戦後になるとそれらの枠組みはすぐに崩れ落ちた。連合国とは呼ばれていたものの、実際には雑多なグループの集合でそれらが連帯を保っていたのは旧モスクワ領の処分までだった。特にこの戦争後、アークランドと自由モスクワ軍の対立が決定的となり、のちに自由モスクワ軍はそれまで対立していた帝国の鷲に合流することとなった。
この戦争によって国土が大きく荒廃し中央政府を失い国家が滅亡したモスクワは戦後中央政府不在の無政府状態に突入した。

大局的な経過


217年8月30日、モスクワ帝国はハニカム政府に対しのベラルーシのヴィーツェプスクの割譲等を求める事実上の最後通牒を送付した。翌日9月1日、モスクワが「ハニカムが要求を拒絶した」としてハニカムに宣戦布告、第二次東欧大戦が勃発した。モスクワは航空機・ドローン兵器とAMUを活用した電撃戦で迅速にハニカム領を占領した後にバルテン国家弁務官区を設立。また、モスクワの同盟国大オーストリア帝国と対立していたイタリア王国が強大化したモスクワの支援を受けて自国に侵攻してくる事を恐れてモスクワ・オーストリアに宣戦布告した。

218~219年の間にモスクワ・オーストリア連合軍はイタリア半島を攻略し地中海の支配を盤石なものにした。

219年6月、モスクワ軍は、イタリア半島の占領維持及び戦争終結を目指してイタリアのアフリカ植民地への上陸作戦である作戦名「ファッケル」を実行。これによりこの戦争は北アフリカにも拡大した。モスクワ軍は当初は北アフリカにおいても快進撃を続けていたものも、アークランドおよび自由モスクワ軍、アフリカ諸国の参戦により苦境に立たされ、221年2月2日にドブルクの戦いが終結、モスクワ・オーストリア連合軍はアフリカから殲滅された。

222年、モスクワ帝国はバルバロッサ作戦を発動し親モスクワ系国家であったウクライーネ王国の混乱を利用し同国を占領、ウクライーネ国家弁務官区を設置し支配下に置いた。その後ルーマニア王国にも侵攻し、同地にも同様に国家弁務官区を設置して支配下に置き、長期戦に備えた。

223年になり、連合国の本格的な反撃が開始された。まずマルタ島沖で行われた第二次マルタ沖海戦でモスクワは主要艦艇のほとんどを喪失、地中海での制海権を奪還した連合国軍はその後シチリア島に上陸し、シチリア島より北上してイタリア半島各地のモスクワの傀儡国家を撃破、224年にローマが解放された。その後も連合国軍は快進撃を続け、225年初頭にはアルプス山脈での戦い(冥王星作戦)でオーストリア軍を破り、旧領回復と南チロル奪還に成功したイタリア王国は長引く戦争による負担から戦争から離脱。冥王星作戦で甚大な被害を被ったオーストリアも連合国と秘密裏に単独講和を実施して戦争から離脱したが、こちらはモスクワによる介入を招くこととなった。

226年に連合国軍は東欧のモスクワ支配地域に上陸し、同年8月にルーマニアを解放。その後227年1月末にウクライナも解放した。また連合国軍は同時期に旧ハニカム領にも上陸作戦を決行、こちらも227年1月末にほぼ全域の解放に成功した。が、追い詰められたモスクワ軍は核兵器を使用し、また連合国側もアークランドが報復核攻撃を実施し、本戦争は核戦争に発展した。核兵器はハニカム戦線・東欧戦線、さらにはモスクワ本土においても使用され、モスクワは老若男女問わず動員し最後まで抵抗したが、5月2日にモスクワが陥落しモスクワは滅亡(中央政府不在の無政府状態化)、その後9月2日にオーストリアも崩壊したことにより本戦争は終結した。


背景


ヴォロネジ侵攻
前大戦の影響で経済の悪化が著しいモスクワ軍政国は次第に国民からの不満を抑えられなくなり、アークランド軍事統制国との戦争で失った第一帝政時代の旧領を回復することで求心力を得ようとした。統一歴204年2月11日、雪もちらつく中でモスクワ軍はロシア民主共和国連邦との国境を越境、宣戦布告なしにロシア民主共和国連邦軍への攻撃を開始した。ロシア民主共和国連邦の指導部はこれに驚愕こそしたものの、その対応はいたって冷静なものであった。ロシア民主共和国連邦では攻撃開始後僅か1時間ほどで戒厳令及び総動員令が発令され、総動員体制へ移行した。また東欧大戦中にウクライナ蜂起で崩壊したアークランド亡命政府はモスクワ国内に居を構えていたこともありこれらの侵攻により反論することはなかったが、本件を機にアークランド亡命政府はイタリア王国へ移りアークランド・アーデルフィア軍事統制国をアフリカ地域に樹立した。侵攻開始後、得意とするAMUや豆戦車での電撃戦により民主共和国連邦北部をほぼ占領したモスクワ軍は、そのままロシア民主共和国連邦の首都であるヴォロネジの占領を目指した。が、モスクワ軍は東欧大戦でただでも無く軍が疲弊・弱体化していた上に、派遣された軍は東欧大戦末期の総力戦体制(通称:12月体制)の時に動員された訓練も終えていない未熟な学生兵ばかりであり、さらには士気も低い状態だった。そのため、本来圧倒できるはずのロシア民主共和国連邦正規軍相手に数・質で優っているにも関わらず、連邦正規軍の士気が高く、予想以上に善戦したのもありほぼ拮抗状態と化し、戦線は早くも停滞しつつあった。それらの影響もありモスクワ政府は更に民衆からの求心力を失い、10月革命により軍政国政府が打倒されフリードリヒ・ルドルフ・ヴォルフガング・アンゲラ・カールを君主とする第二帝政が実現した。(詳細はモスクワによるヴォロネジ侵攻及び10月革命を参照。)

リトアニア進駐
統一歴214年1月末、モスクワ皇帝ヴィルヘルムは、リトアニアの非武装地帯に軍を進めることを決め、2月12日、彼は国防大臣であるルドルフ・ヨーゼフ元帥に意図を知らせ、作戦は、「冬季演習」の秘匿名称の下に、ハニカムの省庁が休みになる日に実施された。統一歴214年3月7日、夜明け後すぐ、19個の歩兵大隊と、少数の航空機がリトアニアのモスクワ・ハニカム国境部に集結し、午前11時にはリトアニアの非武装地帯に到着した。ハニカム政府はモスクワのこの行動を前大戦での協定違反であるとしてモスクワを厳しく非難したものの軍事対抗措置を取らず、撤退要求にとどめた。その背景には、未だに収束しない国内政治の混乱や、前大戦の傷から単独で動くことへの軍事的・財政的躊躇があったためである。結果として帝国政府は国民だけでなく軍部からの支持をもさらに強固なものにし、圧倒的なまでの政治的安定性を確保した。

アンシュルスと交渉決裂
政治的安定性を確保した帝国政府は、旧モスクワ帝国領の統一、いわゆる「小モスクワ主義」における目標達成を図った。最終的にロシア民主共和国連邦は統一歴216年3月12日にモスクワ帝国に併合された。(詳細はアンシュルスを参照。)「小モスクワ主義」を達成した帝国政府は第一帝政時代からの悲願であった「大モスクワ主義」、旧モスクワ帝国領にベラルーシ・リトアニアなどを含めた大帝国の完成を目指した。そうした中で、かつて東欧大戦で矛を交えたハニカム社会主義共和国連邦(旧:ハニカム公国)との領土問題が再燃し、リトアニア進駐以来高まっていた両国間の緊張が最高峰に高まった。
一方で、この領土問題の再燃に対し両国の指導部はあくまでも平和的解決の方法を模索した。東欧大戦においてモスクワは決して少なくない被害を受け、ハニカムに至っては国土が主戦場となり大きな被害を出していた。そのため、東欧大戦のような戦争を両国の指導部は共に回避したがっていた。そのため、両国の指導部はプスコフにて会談を行い、なんとか領土問題の解決を模索した。しかし、モスクワ側はハニカムを自治領としてモスクワに併合しようとしたのに対し、ハニカム側は社会主義の安全が保障されていないとして拒否し、逆にハニカム側が提示したモスクワ・ハニカムでの連邦国家建設の案はモスクワ側が皇帝位が保障されていないとして拒否、会議は難航の末に決裂し、モスクワは軍事力での領土問題解決の方針を固めた。



開戦


最後通牒
会議決裂を受け、モスクワ軍はハニカムとの国境線に総勢100師団弱にも及ぶ大部隊を、それも臨戦状態で配備した。ハニカムはこの動きを受け、動員を開始したが既に遅かった。統一歴217年8月30日、モスクワはハニカムに対しベラルーシのヴィーツェプスクの割譲等を求める16箇条の要求を突きつけた。これは事実上の最後通牒だった。ハニカムは最後通牒を無視し、翌日9月1日未明、モスクワは「ハニカムが要求を拒絶した」としてハニカムに宣戦布告、第二次東欧大戦が勃発した。

白作戦
モスクワがハニカムに宣戦布告したわずか1時間後にモスクワ軍は行動を開始した。モスクワ軍が立案したハニカムへの侵攻作戦、通称:白作戦に基づきまずは航空機・ドローン兵器によるハニカム軍の主要な空軍・陸軍拠点に対する爆撃が行われた。ハニカム空軍も航空機・ドローン兵器の迎撃のために出撃しようとしたものの、その大半が離陸準備中に攻撃を受けて損傷したり、滑走路が破損して離陸できる状態ではなくなるなどして離陸できず、ハニカム上空の制空権は完全にモスクワの手に落ちた。制空権を確保したモスクワ軍はすぐさま白作戦を第二フェーズへと移行させ、通信設備やインフラ等への攻撃や、陸軍拠点への攻撃を行なった。特に陸軍拠点はハニカム軍がモスクワに匹敵するレベルのAMUを保有していたこともあり、徹底的に破壊された。そのため、その周辺施設にも流れ弾などが着弾し、避難していた民間人にも被害が出たが、モスクワは情報統制によりこの事実を隠蔽した。

第一次リトアニア沖海戦
一方のハニカム軍もやられっぱなしでは無く、反撃としてモスクワ本土への攻撃を計画した。最初は陸軍によるモスクワ本土への攻撃を計画したが、すでに制空権を喪失しており、陸軍も半壊滅状態だったハニカム軍は仕方なく海軍での艦砲射撃においてモスクワ本土を攻撃する計画を立案した。一方この動きを察知したモスクワ海軍も主力艦隊をリガ港等から出航させ、クライペダ港から出航しようとしていたハニカム艦隊を強襲した。ハニカム軍は初期対応に遅れモスクワ海軍との衝突からわずか30分後には戦艦1隻が沈没した。ハニカム軍もダミーバルーンなどを活用し善戦したものの、モスクワ軍の艦載ドローンなどが活躍したのもあり敗北、ハニカム海軍は主力艦隊を喪失し、バルト海での制海権を喪失した。

奇跡の脱出
第一次リトアニア沖開戦以後、バルト海での制海権を確保したモスクワ海軍はハニカムの沿岸部各地に艦砲射撃・艦載機による爆撃を開始した。また内陸部でも白作戦に基づき機甲部隊や重装備の歩兵部隊を投入し、徐々にハニカム軍は追い詰められていった。開戦から僅か2週間でベラルーシ全域が陥落、モスクワ軍に占領された。沿岸部に追い詰められたハニカム軍は夜間の間に政府要人(熊)のみを載せて僅かな護衛艦のみでリトアニアを脱出し、当時共に反モスクワ的勢力として接近していたイタリアのアフリカ植民地に亡命を試みた。が、途中でモスクワの潜水艦に捕捉された。しかしモスクワの潜水艦はハニカム政府要人の乗っている艦と残り2隻以外の護衛艦のみを沈めた時点で魚雷が不足し、仕方なく母港へと帰還した。そのためハニカム政府要人は奇跡的にアフリカ植民地への亡命を成功させ、現地にてハニカム社会主義共和国連邦亡命政府を樹立、ハニカム国民(熊)へモスクワ軍に対して抵抗を継続するように呼びかけた。

国家弁務管区による戦後統治
ハニカム領全土を占領したモスクワはそのまま軍による占領統治を続行せず、ヴィルヘルムやモスクワの中央政府(国家弁務官)が直接命令を出して効率よく地域を管理する目的や将来的に「大モスクワ帝国」の領土として完全に組み込むための準備・移行期間とする目的でバルテン国家弁務官区を設置した。これらの領土行政の導入は、多くの目的を果たしたが、その中でも有名なのが過激なまでのモスクワへの同化政策で、レジスタンスや反体制派またはそれらに関係しているとの名目で大量のハニカム人(熊)の虐殺が行われ、本土から大量のモスクワ人が入植された。

ハニカム領の平野を走行するモスクワ軍の主力軽戦車、MP-10(第336戦車小隊所属)

戦争初期の動き


イタリアの東欧大戦への参戦
当初、当初イタリアはこの戦争に関与する気はなかったが、モスクワと協力関係にあったオーストリア大帝国が強大化したモスクワの支援を受けてイタリアへ侵攻、独立を喪失する事を恐れた一部政府官僚やイタリアの国民感情に押され議会は渋々、モスクワ・オーストリアに対し最後通牒を突きつけた。
モスクワはこれに対し、オーストリアの国民感情を加味して、イタリアへの戦争計画「赤作戦」を立案する。

赤作戦
作戦名「赤」は、当初、モスクワ帝国軍参謀本部により、想定されたアルプス山脈戦線の攻略を目的とした作戦だったが、オーストリア帝国軍参謀本部の強い要望により、より戦略的な大規模な作戦へ昇華された。
オーストリア参謀本部は、本作戦内容を以下の手順で行うことを示した。
①アルプス山脈及びロンバルディア地方の制空権確保と、徹底された爆撃により敵軍を壊滅状態に陥れる。
②制海権確保のため、オーストリア帝国海軍によるアドリア海での決戦を演出し、本隊であるモスクワ海軍はシチリア島へ上陸し、橋頭堡を確保、さらにここで残存したイタリア王国海軍艦隊を叩く。
③アルプス山脈戦線にて、制空権を失ったイタリア王国軍を包囲するため後方に大規模な空挺部隊を降下させ、包囲、殲滅、突破を繰り返し南北両軍の合流を果たす。
以下の作戦は当初モスクワ参謀本部に現実性がないとして却下されていたが、代案が見つからず結局は実行された。

イタリア半島の失陥
赤作戦は、オーストリアの読み通りに進んだ。最後通牒の期限切れを理由にオーストリア大帝国及びモスクワ帝国へ宣戦布告を行ったイタリア王国軍は、アルプス山脈に釘付けにされ、まんまとアドリア海に誘い出され、艦艇を消耗した。
さらに南部ではシチリア島に対して上陸が実施されておりさらにここで行われた第一次マルタ島沖海戦にてさらに艦艇を損耗させた。
北部では制空権の喪失に伴う爆撃で部隊はボロボロであり、さらに空挺降下による補給線の遮断により同地の守備隊はすぐさま降伏したが、その多くは処刑された。
イタリア王国は敗戦待ったなしの状況を迎え、海軍は一旦ローマへ帰港し、生き残りの将兵と乗せられるだけの国民を載せてアフリカ植民地へ亡命した。
また、南北で合流したモスクワ、オーストリア連合軍は旧都ローマで略奪、虐殺を多く行ったため、これらは神聖ローマ帝国のローマ劫掠になぞらえて第二次ローマ劫掠と呼ばれる。

モスクワでの軍事独裁
ハニカムに続いてイタリアでも勝利することに成功したモスクワ軍の発言力・名声は日に日に高まっていき、イタリア半島全土をモスクワ・オーストリア連合軍が占領した頃には軍部の発言力は帝国政府、ひいては皇帝のものをも上回るようになっていった。国民からの支持を得た軍部は、当時モスクワ国防軍の総司令官(国防大臣)を務めていたルドルフ・ヨーゼフを帝国宰相に就任させ、「ルドルフ独裁」と呼ばれる強力な軍部独裁政権を築き上げた。これ以降政治と軍は一体化が進み、終戦までモスクワの実権は軍部が握り続けることとなった。

ファッケル上陸作戦
モスクワ、オーストリア連合軍はイタリア半島の占領維持に非常に難儀した。何故ならば同地はパルチザン、レジスタンスの温床であり、さらに肝心のイタリア首脳部はアフリカへ亡命しているため戦争も長引いており、また苛烈な占領政策を取るほど同地の住民は激しく抵抗しレジスタンスの数は指数関数的に上昇していた。モスクワは早期にモスクワのイタリアの占領統治をオーストリアに委任し、占領統治の負担削減を試みたが、オーストリアの負担は減るどころかモスクワ・オーストリアの想定以上にオーストリア側の負担が増え、モスクワの負担もそこまで大きくは減らなかった。この事態に対しモスクワ参謀本部は、レジスタンスの動きが極めて組織的であり、アフリカの亡命政府の支持を受けていることは明白であるとして、イタリアのアフリカ植民地への上陸作戦を立案した。
本作戦はドイツ語で松明を意味している。
作戦内容は、チュニス、トリポリ、トブルク、ベンガジ、アレクサンドリアに上陸、その後は砂漠地帯で機動戦をもってしてイタリア王国軍を殲滅する計画であった。
本計画は実行に移されたが、それらの計画の多くは兵站管理のずさんさやある勢力による補給線の遮断により頓挫することになる。

イタリアのファシズム体制
一方、イタリアでは、アフリカにまで迫るモスクワ・オーストリア連合軍に対し無条件降伏をすることなどが議会で真剣に話されており、王政は国民からの支持を失いつつあった。そんな中、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党は、戦争の続行と勝利を目的として国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世に対して首班指名を行わせる事を目的とした、臨時首都での行進を行い、これに対しエマヌエーレ二世は、自身に判断できることはないとして、退位した。後継には本来、長男のウンベルト一世が就くはずだったが、当人はオーストリアに寝返りイタリア半島に残っていたため、孫のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が即位し首班指名を行った。
エマヌエーレ三世は熱心な領土回復主義者であり、ムッソリーニに対してアフリカ沿岸部のモスクワ・オーストリア連合軍の撃破を命じ、ムッソリーニはこれに対し、エジプト方面とチュニジア方面での二正面作戦となってでも、トブルクなどの重要港湾都市を奪取する旨の作戦を軍部に立案させた。

続・統一戦争
ムッソリーニは、首班指名後、その権力を固めファシスト党による支配体制を確立した。しかし、内部の急進派の影響により、ムッソリーニは更なる権力強化を迫られ当初の構想からは多少外れムッソリーニはイタリア王国初代総帥に就任し、軍部に作戦名「希望(スペランツァ)」とされる作戦を立案させた。
本作戦は、展開するイタリア王国軍の総力をリビアの奥地へ撤退させ機械化部隊がほとんどのモスクワ・オーストリア連合軍を誘引し、敵の補給を圧迫させ、歩兵が多い自軍の補給が不足する前に鹵獲兵器及び自前の戦車などでの無理やりの機動戦によりリビア方面を突破しトリポリ、トブルク、ベンガジなどのリビアの主要港湾都市を占拠しさらに敵の補給を悪化させ、最終的に殲滅するという、かなり無茶な作戦であり、当初は軍部から猛反発を受けていたが、ムッソリーニはそれらの反対を押し切り本作戦を実行に移した。

戦線拡大と希望作戦
一方、イタリア植民地帝国内に領土を構えていたアークランド・アーデルフィア軍事統制国は、ここでモスクワとの決別を測り、モスクワ帝国軍への攻撃を開始した。
また、アークランドによるエストニア諸島の襲撃以後、アークランドに合流し、事実上アークランドに匿われてきたモスクワ軍政国もここで参戦した。が、かつてはイタリアやハニカムとも対立していた経緯を踏まえ、内部分裂を避けるためにDoppelkopf Adler(双頭の鷲)という名前の特殊部隊としてイタリアやハニカムには本当の所属(モスクワ軍政国)を隠し、あくまでもアークランド軍に偽装して第二次東欧大戦中は活動した。
また、アークランドの旧領であったリビア、チュニジアでは、多数の地下基地から大型飛行船が発進しモスクワ・オーストリア連合軍の補給線に対し猛烈な爆撃を実行し、さらに無人機の投下による機械化部隊の蹂躙も行った。また、エジプト方面ではシナイ半島から機甲師団が出撃し、スエズ運河を持ち前の高い渡河能力で強引に突破し、アレクサンドリアを強襲し現地のモスクワ・オーストリア連合軍の補給線を遮断した。
アークランドの参戦によりセレニア連邦王国は第三国からの侵攻とみなし安保条約を適用して連合側へ参戦し、軍事物資の支援、アフリカ内での戦闘を開始した。これにはセレニア側として過去に関わりがあるモスクワ軍政国に戦後のモスクワ統治を任せ、安定した統治体制で経済活動を再開したいとの思惑があったとされる。またSFMもモスクワ軍政国軍政国時代のモスクワと締結した莫セ同盟協約に基づき参戦したが、モスクワ軍政国が本来の所属を隠してアークランド軍として動いていた事から、表向きはアークランド・アーデルフィア軍事統制国に雇われた形で参戦した。
これに便乗し、イタリア王国陸軍は寄せ集めの機甲部隊を編成し、リビア方面へ逆襲を開始した。SFM軍もこれに参加し、2個機殻師団(無人AMUが主体の部隊)を中核とする戦力を投入、空挺アークランド製無人機との連携の上でモスクワ・オーストリア機甲部隊に対する攻撃を行った。補給線の遮断によりモスクワ・オーストリア軍は機能不全に陥っており、リビア方面からの補給もレジスタンスの破壊工作により輸送船が撃沈されるなどの被害が出たことにより、モスクワ・オーストリア連合軍のアフリカにおける劣勢は明らかになった。

ルドルフ演説
アフリカでの不利を悟ったモスクワ軍は反抗のための新たな作戦を立案した。この作戦名「フライハイト」はアフリカのイタリア植民地にて各植民地で独立戦争を引き起こし、アークランド及びイタリア軍の後方撹乱・戦力分散・補給路遮断を計画した物だった。統一歴220年11月24日、いわゆる「ルドルフ演説」と呼ばれるルドルフ・ヨーゼフの演説の中でも最も有名な演説が行われ、民族解放の先駆者としてアフリカの植民地支配に囚われた民族の解放を宣言、その証明としてイタリアのオーストリア委任統治領(占領地)をサルデーニャ共和国やシチリア王国等のオーストリア・モスクワの傀儡国に再編した。
このルドルフ演説の効果は大きく、イタリア植民地だったチャドではヴィラン・チャドとチャドの分離主義者が結託して「チャド民族解放同盟(CNLF)」が結成され、モスクワへの協力を表明してゲリラ戦等の後方撹乱を行った他、エジプトにはかつてエジプト独立戦争(またはエジプト動乱)にてモスクワの支援を受けて独立を図ったが失敗しモスクワに亡命していた独立派とその残党軍が「エジプト解放軍(ELA)」といてモスクワ軍と協力してイタリア軍の補給線遮断を図ることもあった。同様の運動がリビア等でも見られた。これらの運動は第二次東欧戦争中に目立った成果を挙げることはできなかったが、戦争終結後に活発化し、後のイタリアのアフリカ植民地の崩壊、そしてイタリア本土の分裂であるイタリア内戦につながる事になる。

トブルクの戦い
ルドルフ演説によりある程度はモスクワ・オーストリア連合軍の負担も軽減され、アフリカに派遣されていたモスクワ・オーストリア連合軍は撤退地点であるトブルクの港湾に集結した。モスクワ・オーストリア連合軍はトブルクから海軍の支援を受けて欧州大陸に撤退し、北上してくるアークランド等連合国軍に備える予定だったが、イタリア王国、アークランド・旧モスクワ軍政国軍はトブルクを撤退開始前に包囲することに成功し、アレクサンドリアに対する攻撃を開始した。トブルクには連日のように連合国軍による砲撃・爆撃が行われ、包囲開始後から1週間後に連合国軍はトブルク市内に突入、モスクワ・オーストリア連合軍と交戦を開始した。最終的に統一歴221年2月2日にモスクワの第6アフリカ派遣軍が壊滅したことにより残存戦力も連合国軍に降伏または捕虜となり、遂にモスクワ・オーストリア連合軍のアフリカからの殲滅に成功した。


戦争中期の動き



モスクワの東欧侵攻


バルバロッサ作戦
アークランドの参戦やイタリアによる希望作戦によりアフリカへ派遣した陸軍の大半を喪失したモスクワは、戦争が長期化することを察し、長期の戦争経済に耐えるために必要な軍需資源等を確保するために新たな領土が必要となった。そこで目をつけたのが東欧の旧アークランド地域であり、モスクワ軍は早急に東欧侵攻計画を立案、作戦名を12世紀の神聖ローマ皇帝でドイツ国王でもあったフリードリヒ1世に由来し、「バルバロッサ」と名付けた。*7

ウクライナ占領
当時旧アークランド領は分割されており、ウクライナに親モスクワ・ゲルマン民族国家であったウクライーネ王国が、モルドバ・ルーマニアにルーマニア王国がそれぞれ建国されていた。(なお一部はオーストリア大帝国支配下。)特にウクライーネ王国は開戦以後モスクワへ鉄鉱石等の重要な軍事資源を提供しており、モスクワにとっても重要視している地域であった。そこでモスクワはウクライーネ王国をモスクワの完全な支配下に置くことをバルバロッサ作戦にて計画した。ウクライーネ王国の国民の大半はスラヴ系であり、少数民族であるゲルマン民族が支配する政府との対立が問題となっていた。そこでモスクワはこの政府と国民の対立の利用を画策し、政府側にはスラヴ系の反対運動を抑制するように唆し、一方のスラヴ系の反政府組織・反体制派には武器提供などを行い武装蜂起を煽った。結果としてウクライーネ王国はモスクワの掌の上で踊らされ、統一歴222年、スラヴ系の反体制派が各地で武装蜂起し、ウクライーネ王国は内戦に陥った。(オデッサ蜂起)モスクワはウクライーネ王国の治安回復の名目で内戦に介入、武装蜂起したスラヴ系反体制派を鎮圧した。モスクワ軍は見返りとしてウクライーネ王国政府にモスクワの支配下に入る様に強要し、内戦で疲弊していた王国政府に対抗できる力は無く、王国政府はモスクワのこの要求を受け入れた。バルバロッサ作戦では軍需資源確保のため直接統治を行う事を想定されていたが、イタリアの占領地同様スラヴ系住民の激しい抵抗運動(レジスタンス)に遭ったため、旧ハニカム領と同様、国家弁務官区(ウクライーネ国家弁務官区)が設立された。同化政策は旧ハニカム領と比べればまだマシな水準だったが、戦争継続のための農業資源や軍需資源に対する苛烈なまでの搾取や国家弁務官区の統治範囲の成人男性の20%を徴兵するという徴兵法を制定するなど、モスクワによるウクライナに対する労働力も含めた実質的な搾取体制が敷かれた。

ルーマニア侵攻
モスクワのバルバロッサ作戦はウクライナにおける国家弁務官区設立をもって第一段階を完了させた。第二段階としてルーマニアへの宣戦布告なしでの侵攻を開始した。ルーマニア王国は旧アークランド領に成立した国家の中で最も強力な国家であったものの、モスクワ軍の奇襲攻撃に対する対応が遅れたことやルーマニアの兵器が旧式だったこと、モスクワが白作戦等で電撃戦のノウハウを積んでいたこと等の理由から各地で敗北を重ね、ブカレストが陥落したことでルーマニア王国は降伏し、モスクワの占領下に置かれた。

モスクワ占領下の東欧
バルバロッサ作戦の第二段階までを完遂したモスクワ軍は、占領下に置いたルーマニアにも国家弁務官区を設置し、油田開発を進めた。モスクワはルーマニアの占領により莫大な石油資源を確保し、ウクライーネ国家弁務官区と共にモスクワの長期の戦争経済を支えることとなった。また、旧アークランド領全土を占領したことによってオーストリアとの国境線の接続に成功し、オーストリア・モスクワ間での貿易がさらに発展し、モスクワは長期の戦争経済に対する備えはひとまずは十分なものとなった。

第三次イタリア独立戦争

第二次マルタ沖海戦
希望作戦によってアフリカのモスクワ・オーストリア連合軍を殲滅したイタリア王国軍は、イタリア半島の奪還を目指すため地中海の制海権の奪還を目指した。第一次マルタ沖海戦でイタリア王国海軍はかなりの艦艇を損耗していたが、アークランド・旧モスクワ軍政国軍の協力もあり地中海のモスクワ・オーストリア海軍に対し対抗できるだけの戦力を保有することに成功した。一方、セレニアは造船能力の問題もあり、貴重な海軍艦艇を失いたくないため国交省の沿岸保安軍第3沿岸管区の艦船、哨戒機を出すにとどめた。イタリア海軍はマルタ島に停泊しているモスクワ・オーストリア海軍に対して奇襲攻撃を行い、第二次マルタ沖海戦が勃発した。当初は奇襲により勢いづいていたイタリア王国海軍が優勢であったものの、モスクワ・オーストリア艦隊が立て直すと戦局は拮抗し始めた。が、海戦の中盤ごろにモスクワ側の艦隊の旗艦が沈没しモスクワ地中海艦隊総司令エーリヒ・デーニッツが戦死するとモスクワ海軍の指揮統制は乱れ始め、戦局はまたもやイタリア有利に傾き、最終的にはモスクワの地中海艦隊が黒海やジブラルタル海峡方面へと撤退したことでイタリア側の勝利に終わった。モスクワはこの海戦で当時保有していた主力艦のほとんどを喪失し、地中海における制海権も喪失した。一方、連合国軍側も大きな損害を受け、セレニアは小規模な戦力だったが練度不足により、好ましい戦果をあげられずに損害を受け、イタリア王国海軍も大きな被害を出し、サンマリノ海軍に至っては主力艦・小型艦のほぼ全てを喪失し事実上壊滅した。イタリア半島奪還以降の上陸作戦は亡命ハニカム軍やアークランド・旧モスクワ軍政国軍に一任することとなった。セレニアはモスクワの地中海艦隊が黒海やジブラルタル海峡方面へと撤退した時点で軍事作戦の終了を決定し、国内での反戦デモや戦況が連合側に優勢へと傾いていることを理由にセレニア政府は軍事支援のみに切り替えることを決定。戦争主要国から離脱した。また、セレニアとの協調路線を取っていた西アフリカは情報収集のため第九艦隊から1個任務部隊を送りつつ、本海戦での情報面での支援等アークランドへの支援を行なった。

海王星作戦
海王星(ネプチューン)作戦は、イタリア王国・アークランド・SFM軍等連合国軍によるシチリア島への上陸作戦である。
希望(スペランツァ)作戦により、アフリカでのモスクワ・オーストリア連合軍の影響力の排除に成功した連合国軍は、次に本土、イタリア半島の奪還を目的とした上陸作戦を実行に移した。
イタリア半島には、モスクワ・オーストリア連合軍及び傀儡国であるシチリア王国の民兵隊が駐留していたが、シチリア島は上陸作戦以降放置されており、手薄の状態であった。連合国軍は拿捕されたオーストリア、モスクワ製の艦艇を使用し海軍を再編し、アークランド海軍の護衛の元、シチリア島へ上陸を行った。
シチリア島にいたのは傀儡国であるシチリア王国の民兵や貧弱な治安維持部隊であったため、モスクワ・オーストリア連合軍は半島に撤退し、イタリア半島への侵攻に備えた。

天王星作戦
天王星(ウラヌス)作戦は、イタリア王国軍によるイタリア半島奪還作戦である。
イタリア王国軍は、シチリア島を奪還後、サルデーニャ島も奪還し、現地の守備隊を捕虜にした上で処刑した。統一歴224年、イタリア王国軍はメッシーナからモスクワ・オーストリア連合軍が占拠するするカラブリア州へ侵攻し、そのままの勢いのまま旧南イタリア諸国旧領を奪還し、更なる進撃を続けた。
これには、モスクワ軍が本土決戦や東欧の各占領地防衛に備えてイタリア半島からほとんどの戦力を撤退させていたことや、総力戦による国民経済の逼迫や現皇帝への批判が大きくなっていたオーストリア大帝国の内情なども大きく関わっている。

ローマ進軍
イタリア王国軍は歩みを止めることなく進軍し、中部イタリアへ侵攻しラツィオ州へ侵攻した。既にモスクワ・オーストリア連合軍が撤退したローマへイタリア王国軍は進軍し、ムッソリーニ統帥やヴィットーリオ・エマヌエーレ三世もこれに参加した。
また、旧都の奪還によりローマへの首都機能の回復が図られたものの、第二次ローマ劫掠の影響で都市は壊滅状態であり、暫定的に臨時首都はナポリへ移管された。

冥王星作戦
冥王星(プルート)作戦は、イタリア王国による北イタリアへの侵攻作戦である。
ローマを解放したイタリア王国軍は更なる歩みを進め、サンマリノ、フィレンツェ、ボローニャ、リボルノ、ジェノバなどの主要都市を奪還することに成功した。
次に、イタリアはポー川以北からアルプス山脈までの旧領の回復を目的とした本作戦を実行した。オーストリア・モスクワ連合軍はアルプス山脈の険しい地形を利用して善戦したものの、数で勝る連合国軍相手に敗北、イタリア王国軍はオーストリア軍の防衛線を突破し、残存オーストリア軍を殲滅しながら前進し遂に旧領の回復と南チロルの奪還が叶った。(アルプス攻防戦)また、この戦いではHYO-GAのモスクワに派遣されていた傭兵部隊が投入され、HYO-GAからサンマリノ支援の為に派遣された部隊が交戦、敵味方の誤認による同士討ちが相次いで発生した。

戦争後期の動き


第二次東方戦争

イタリアの連合軍からの離脱
イタリア王国は長引く戦争に対する経済悪化と膨大な数の死者により大きく弱体化していたため、マルタにてアークランド軍事統制国、ハニカム亡命政府、モスクワ亡命政府などの要人を集め秘密会談を実施した。
本会談では技術的に後れを取っており、さらに戦争の影響で弱体化したイタリア王国が早期に戦争を終結、または離脱したい意思を提示し、これに対し亡命政府などの要人らは援助と保護を続行することを条件に連合軍からの離脱を許した。

ローマ条約
一方、オーストリア大帝国も冥王星作戦・アルプス攻防戦での大きな損害から戦争離脱を望むようになり、モスクワには秘密で連合国軍と単独講和を図った。連合国側もオーストリアはまだ予備戦力を多数残しており、未回収のイタリアを奪還した時点で講和するべきだと考え、両者の思惑が一致した結果、ローマで講和会議が行われ、そこで締結されたローマ条約によりオーストリア大帝国は重い賠償金・沿岸部のイタリアへの割譲・残存艦艇の連合国軍への引き渡し等を背負ったものの単独で戦争からの離脱に成功した。

オーストリア出兵
が、オーストリアのこの単独講和にモスクワは激怒し、オーストリアに戦争へ復帰するよう要請した。が、せっかく得た平和をわざわざ手放す理由はないとしてオーストリア政府はこの要請を拒否した。オーストリアが戦争に復帰する意思が無いことを確認したモスクワはオーストリアに駐留していた軍が孤立したことを挙げ、その救出を名目とし、オーストリア方面に約18万人を派兵した。この派兵の実際の目的はオーストリアの現政権を倒し、戦争に復帰させること、戦況が悪化していく中で少しでも欧州大陸におけるモスクワの支配力を拡大しようと模索した結果だとされる。モスクワは8月10日にオーストリアとの同盟破棄を通達、さらに派遣部隊は8月12日にオーストリアに到着し、事前にモスクワのこの動きを察知していたオーストリア軍との戦闘が開始された。
また、オーストリアはこの戦闘で大きく混乱したため、それまで何とか抑え込めていたオーストリア各地の民族独立運動が激化し、一部では民族解放を掲げるモスクワに協力する例も見られた。
さらに連合国軍はオーストリアに確実にローマ条約を履行させるためにオーストリアに義勇軍に偽装した正規軍の二線級部隊を送ったため、戦闘が激化することとなり、戦場となったオーストリア各地は大きく荒廃した。

マルタ秘密会談
オーストリア出兵に前後し、イタリア、アークランド、亡命ハニカム政府、亡命モスクワ政府はマルタ島にて秘密会談を実施し、その場において戦後に関する取り決めが定められた。この取り決めによりアークランド軍事統制国はリビア、チャドの旧帝国時代の遺物の管理・運営権と周辺の土地の所有、およびシナイ半島の完全な支配が認められ、ハニカム、モスクワ亡命政府には元の土地への還元が約束された。が、後者の約束は実現されることなく終わることになる。

明日への希望作戦
アークランド・旧モスクワ軍政国軍はイタリア軍と別れ、亡命ハニカム軍と協力して東欧・ハニカム戦線の二正面作戦を強要させる計画を立案した。亡命ハニカム軍もこれに協力し、作戦名は「明日への希望作戦」と名付けられた。イタリア王国軍の海王星(ネプチューン)作戦とよく混同されるが別物である。この作戦の第一段階として夜間にルーマニア内陸部に対する夜間の空挺部隊による空挺降下作戦から始まり、上陸予定地への空爆と戦艦等による艦砲射撃に続いて、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。アークランド・旧モスクワ軍政国軍は、旧モスクワ軍政国軍総司令官フリードリヒ・マイヤーが「かつて行われたもののうちで最も複雑な作戦」と評したほどの苦戦も覚悟していたが、先にハニカム側への上陸が来ると予想していたモスクワ軍にとっては完全とはいえずとも奇襲となり、上陸作戦は一部を除いて円滑に進み、損害は想定を遥かに下回った。とはいえ現地のモスクワ国防軍と国家弁務官親衛隊の抵抗は激しく、アークランド・旧モスクワ軍政国軍は橋頭堡を確保したが、ルーマニア全土の解放には想定よりも時間がかかることとなった。しかしながらモスクワ軍の対応が遅れたのと現地レジスタンス組織の協力もあり統一歴226年8月25日にルーマニアは解放された。重要な油田地帯を失ったモスクワは戦争経済の継続が厳しくなり始め、再び短期決戦を志向するようになった。

キシナウの戦い
ルーマニアを解放したアークランド・旧モスクワ軍政国軍はモルドバの解放を目指してウクライーネ国家弁務官区へと侵攻した。しかしルーマニアでの戦いから立ち直ったモスクワの東欧方面軍はキシナウでアークランド・旧モスクワ軍政国軍を迎え撃ち、キシナウの戦いが起こった。この戦いは第二次東欧大戦の中でも2番目に、東欧戦線では最も大きな戦闘となった。両軍共に陸軍部隊だけでなく航空機・艦隊をも総動員してこの戦いに挑んだが、第二次マルタ沖海戦で大きく海軍力を減少させていたモスクワ軍はアークランド・旧モスクワ軍政国軍の艦隊に敗れ制海権を喪失し、劣勢となったモスクワ軍がウクライーネ国家弁務官区の首都キエフに撤退したことでアークランド・旧モスクワ軍政国軍の勝利に終わった。しかしこの戦闘でアークランド軍側は全戦力の約3割を、モスクワ東欧方面軍は全戦力の約半分(モスクワ黒海方面艦隊は全滅)を失うことになり、戦場となったキシナウは瓦礫の山と化した。

ウクライナ解放
黒海における制海権を獲得し、またキシナウの戦いにおいても勝利したアークランド・旧モスクワ軍政国軍はウクライーネ国家弁務官区への侵攻を継続した。制海権を獲得したことからクリミア半島への上陸作戦も行われ、モスクワ東欧方面軍が集結しているキエフを目指した。キエフに到達したアークランド・旧モスクワ軍政国軍をモスクワ軍は迎え撃ったものの、制空権を早期に喪失し、またクリミア半島方面からも挟撃される形となったモスクワ軍は敗北し、残存部隊はモスクワ本土へと撤退した。

バルバロッサ作戦の第三段階
本土へと撤退したモスクワ東欧方面軍は、ここで遂にバルバロッサ作戦の第三段階への移行を決意し、帝国政府に核兵器の使用許可を求めた。ルドルフ独裁による軍部独裁の元にあった帝国政府はこれを了承し、バルバロッサ作戦の第三段階が実行されることとなった。本来、第三段階は占領下に置いた東欧地域にハニカム・イタリア・アークランド連合軍が侵攻してきた際に東欧地域全域を焦土化させるものであり、事実としてモスクワ占領下のルーマニアの首都ブガレストの各地には爆弾が仕掛けられていたが、現地のブガレスト防衛司令官のエトムント・フォン・コルティッツはブガレストを破壊したくなかった(諸説あり)がために拒否し、現地に侵攻してきたアークランド・旧モスクワ軍政国軍に降伏した。そのため第三段階は核兵器による侵攻してきた敵軍を殲滅する作戦に改められた。最初の核は、占領したキエフを補給拠点として使用していた補給中のアークランド軍に対して発射された。この識別名「V-1Nc」ミサイルはキエフに着弾する前にアークランド軍の対空ミサイルの爆発で誘爆し、空中で爆発したが、それでもキエフにて補給中のアークランド軍には十分な火力であり、キエフは廃墟と化し、キエフにて補給中のアークランド軍はほぼ壊滅状態となった。この水爆は、奇跡的な確率で純粋な水素爆発を起こしたため放射能汚染は少なかったがこの核ミサイル発射によりモスクワの核兵器使用のハードルは大きく下がり、以後モスクワは後年に狂気と言われるレベルでの核兵器を使用することとなる。

ハンニバル作戦
ウクライナに核が打たれるのに前後してモスクワ海軍は残存艦艇でドイツへの難民輸送を開始した。これはモスクワ本土決戦や核戦争に備えたものであり、本土からバルト三国の各港湾を経由してモスクワ海軍の護衛の元輸送が行われた。この作戦はルーマニアへの上陸が始まる前の統一歴226年1月23日から約1年に渡って行われ、漁船なども含むあらゆる種類の商船約5000隻も投入されバルト海がモスクワ国籍の船で埋まる程だった。最終的には計3億人に近い民間人がバルト海を渡ってドイツへと運ばれた。

第二次リトアニア沖海戦
ハンニバル作戦の直後、亡命ハニカム軍は遂にリトアニア沖への帰還を果たし、ハンニバル作戦を終えて補給中のモスクワ海軍に対して攻撃を加えた。奇襲を受けたモスクワ海軍はドッグから出る間もなくハニカム軍の艦砲射撃を受けてその大半が沈んだが、バルト海に面するモスクワ海軍最大の軍港であるタリンからモスクワ第一臨時編成艦隊が出撃し、ハニカム海軍と交戦を開始、またモスクワ空軍がリトアニア沖上空へ到達すると戦局は大きく変化した。モスクワ海軍との艦隊決戦の影響で対空監視が疎かになっていたハニカム軍はモスクワ空軍の大量の空対艦ミサイルによる飽和攻撃を受け、艦艇に大きな損害を出ただけでなく、ハニカム海軍に護衛されていたハニカム陸軍の上陸部隊が満載されていた輸送艦も攻撃を受け、ハニカムへの上陸作戦は失敗するかのように思われた。が、モスクワ空軍とてミサイルが無尽蔵にあるわけもなく、あと数発ミサイルを撃ち込めばハニカム上陸作戦は失敗していたと言う所でモスクワ空軍は撤退しざるを得なかった。また、質・量共に劣るハニカム艦隊相手に寄せ集めのモスクワ海軍が勝てるはずもなく、第一臨時編成艦隊は壊滅、モスクワ海軍も主力大型艦を全て喪失し、この戦闘が最後のモスクワ海軍の組織的攻撃となった。ハニカム軍は大きな損害を出したものの上陸作戦を遂行することが可能となった。なお、モスクワの第一臨時編成艦隊の旗艦はモスクワに建造途中で鹵獲された蜜蝋型戦艦の三番艦「巣壱星」をモスクワ系技術者とハニカム系技術者が協力し、なんとか形にしたばかりの「カイザー・ヴィルヘルム(Kaiser Wilhelm)」だった。

ハニカム解放
第二次リトアニア沖海戦での勝利により制海権を確立した亡命ハニカム軍は旧ハニカム領への上陸作戦を開始した。ハニカム領には計20万人程度の兵士が上陸し、モスクワ西部方面軍との交戦を開始した。西部方面軍は第二次リトアニア沖海戦の結果から上陸作戦が来ることを察知していたが、その兵力に関しては想定外だった。20万人のハニカム軍に対して6万人弱しかいない西部方面軍は善戦しつつも押されていき、統一歴227年1月17日にハニカムの首都ポラリスが解放され、1月28日までには旧ハニカム領はそのほとんどが奪還された。
これにより、モスクワ軍は明日への希望作戦の通りに二正面作戦を強いられることとなったが、モスクワ軍はバルバロッサ作戦を第三段階へ引き上げるのと同時に作戦名「ハーゲン」を立案、旧ハニカム領での核使用を決断した。
キエフへの核攻撃より時間にして約3分前に識別名「V-3Nc」ミサイルがベラルーシ北部ヴィツェプスクにモスクワ側への反転攻勢のため終結していたハニカム軍の元に到着し、ハニカム軍は戦力の約半分を喪失した。

核戦争

核報復
アークランド軍事統制国はこれらの異常事態に対し、旧アークランド領であったことを理由に、当時の状況に合わせた政府機能を一時的に復旧させ対応することを決定した。アークランド地上軍参謀本部戦略局は、「ありとあらゆる兵器の使用が許可された中での最大限の戦争」を行うため、作戦名「最終戦争(ハルマゲドン)」を立案し、政府は初の国防緊張度0を発表、全部隊は占領地の旧アークランド兵を用いてかつて存在した部隊が次々と復帰した。
統一歴227年2月4日、参謀本部の元、旧領に存在した純粋水爆270、水爆28,000、原爆2,000,000発が段階的にモスクワ帝国主要都市、敵前線部隊、核発射施設、工場地帯に発射、最初の起爆の24時間後には全軍がNBC防護服を着用した状態で敵前線へ突撃を開始した。前線にて密集状態にあった敵部隊は、核攻撃により大多数が死滅しており、アークランド軍は爛れた肉と血に覆われ、黒い雨が降りしきる前線を、機甲戦力を用いて侵攻した。
一方のモスクワ軍も、第一帝政から数えても初となる国家非常度指数5(滅亡危機)を発令、核の無制限使用を許可した。モスクワ軍参謀部も「従来のバルバロッサ作戦で対応可能な域を超えている」として作戦名「ラグナロク」を立案し、アークランドによる大規模核攻撃に対するさらなる核報復を開始した。モスクワ政府はAMUに核弾頭を搭載し、自国内で自爆させ焦土化させる、戦闘機を有人核ミサイルとして使用しアークランド軍の密集地帯や核発射拠点に特攻させる等の手段を用いてアークランドに対抗し、対するアークランド政府も民間施設に対する戦略爆撃など持ちうる限りでの報復手段に撃って出た。両陣営が核兵器を全面的に使用し始めると、SFMは自律歩兵師団、機殻師団など無人戦力を中心に編成された部隊を東欧に派遣した。
これらの狂気的な核戦争に陥った両者は互いに核の無制限使用を行うようになり、国際社会からの大きな批判を生んだ。例として連合国側の一員として戦っていたセレニアは核兵器を使用したモスクワ、過剰な核報復、戦略爆撃を行なっているアークランドの双方を最も強い言葉で非難し、連合側への支援を医療、NBC対策物資のみへと制限をかけた他、西アフリカもこの動きに同調して支援を縮小した。

ハニカム戦線の終結
ハーゲン作戦の最初期に全戦力の半分を喪失するという壊滅的打撃を受けたハニカム軍は戦術をゲリラ戦主体のものに変更し、旧ハニカム領との境界線付近に本土防衛の為に配備されていたモスクワ軍に対するハラスメント攻撃を行った。モスクワ軍西部方面軍は昼も夜も眠れない状態の改善を参謀部に求め、参謀部はラグナロク作戦ですでに核の無制限使用が許可されていたため、西部方面軍に対し核ミサイル55発の使用権限を与えた。睡眠妨害による怒りに駆られていた西部方面軍は核ミサイルを乱用し、ハニカムの首都ポラリスを含めた計30の都市と、6つの軍事拠点、2つの軍港に向けて核ミサイルを発射した。しかしながらこれらがハニカム軍に与えた効果はごく僅かで、最終的に西部方面軍は中央軍・東欧方面軍同様AMUによる自爆攻撃や核地雷の導入に踏み切った。西部方面軍のこれら一連の軍事行動によりハニカム戦線はモスクワ・ハニカム両軍が壊滅することで一旦の終結を迎えた。

モスクワの戦い
...前線を行軍する彼ら自身が、または彼らの父、祖父らが駆けたヴォロネジを抜け、アークランド軍は彼らののど元に、モスクワ軍は崩れた故郷にたどり着いた。幾度もの核攻撃にさらされた首都モスクワは高い防空能力により多くのICBM、IRBMを撃墜しており、赤の広場や聖ワシーリー大聖堂、スパスカヤ塔、アルハンゲリスキー大聖堂などのクレムリンの多くが残っていおり、それはモスクワ首都防衛隊の生存も意味していた。連合国軍がクレムリン全域を包囲したのち、クレムリン内に籠る首都防衛隊との戦闘が始まった。首都防衛隊はその大半が傷痍軍人等前線に立てなくなった者達だったが、その士気は高く、連合国軍は苦戦を強いられた。が、アークランド軍が最後の攻勢を仕掛け、首都防衛隊が壊滅し、連合国軍が突入するもクレムリン内に残されていたのは首都防衛隊の死体、そして放射線により死んだ者、自殺した者、殺された者の死体だった。
...同地を占領したアークランド軍は歩みを緩め、無事な鉄道路などを用いて各占領地の解放を行った。

オーストリア崩壊
一方、本国核戦争の最中にあってもモスクワのオーストリア派遣軍は戦闘を継続した。が、モスクワ陥落によりモスクワ本土への復帰が絶望的なものとなると、モスクワに協力していたドイツへの亡命を目指して前方への脱出を試み、突破力を一点に集中してのオーストリア軍に対する中央突破を図った。
モスクワ軍オーストリア派遣軍は数で勝るオーストリア軍をチェコのブルノ近郊で破り、ドイツへの亡命に成功した。ドイツに亡命したモスクワ軍は「帝国の鷲」を結成し、後に第二次コンゴ侵攻等を引き起こすことになる。
また、オーストリアはオーストリア出兵からこの戦闘の終結までの間に国土が大きく荒廃しただけでなく、民族独立運動を鎮圧することが防げず、オーストリア大帝国は済し崩し的に崩壊した。

終戦
第二次東欧大戦は最終的にはオーストリアの崩壊を持って終結し、一応は連合国軍の勝利に終わった。が、あまりにもこの戦争で生じた被害は大きすぎた。敗北したモスクワ帝国・オーストリア大帝国は共に崩壊し、モスクワに至っては国土が放射能汚染に晒され、さらには各地の軍閥による戦国時代に突入したのである。一方の連合国側も決して被害が生じなかったわけではなかった。イタリアは第二次ローマ劫掠やモスクワ・オーストリア連合軍による対レジスタンス戦闘での主要な都市部の荒廃を招いただけでなく、アフリカ植民地におけるアークランドの影響力の増大を招いた。イタリアのこれらのアフリカ植民地は、最終的にルドルフ演説にて各地で武装蜂起した民族解放運動により崩壊した。ハニカムはモスクワは同様、壊滅的な核汚染の影響を受け深刻な状況に陥った。モスクワ軍政国亡命軍は大戦後の戦後処理をめぐりアークランドと対立、拠点を失い、最終的には帝国の鷲へと合流することになる。本戦争での戦死者は軍人だけに絞っても約1億人に達し、民間人の死者は3億人近くになった。



犠牲者



戦後処理



戦争裁判


戦争状態の終結と講和



戦時下の暮らし



中止された作戦の一覧

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関連項目


The Black Curtain
レグルスが大戦に勝利した時間軸を描いたウォルター・クロウリーによる小説。作中では旧大陸全域がレグルスの恐怖政治の下に置かれており、新大陸も殆どがレグルスの植民地となっている。主人公は反レグルスレジスタンスとして南米の内陸部で戦うが、徐々に追い詰められていく。数あるレグルス戦争の架空戦記の中でももっとも著名。

モスクワ帝国の後継国家・団体
ミッテルアフリカ ……事実上の後継国家。
帝国の鷲 ……国際法上の継承国家。
マダガスカル・レグルス軍 ……マダガスカルに残留したレグルス残党軍。BWRR機墜落事件をきっかけに存在が明らかになった。
南極モスクワ月面モスクワ火星モスクワetc...……陰謀論上で存在を疑われている組織。
最終更新:2026年09月19日 00:09

*1 ローマ条約以前

*2 ルドルフ演説以前

*3 モスクワ・ゲルマン人の権利保護のために金融資産・デジタル資産・暗号資産・無形資産・海外資産の保護を実施。また、民間PMCによる派兵も実施した。

*4 サンマリノへの支援として部隊派遣は実施。

*5 ウクライーネ国家弁務官区設立後

*6 ルーメニエン国家弁務官区設立後

*7 名称の由来は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名「Barbarossa」に由来し、フリードリヒ1世は伝説的な人物で、民間伝承によると現在も眠り続けており、ドイツに危機が訪れた時に再び目覚めて帝国に繁栄と平和をもたらすとされた。それにあやかっての命名、また第3回十字軍総司令官として戦果を残し、ボヘミア王国とハンガリー王国に神聖ローマ帝国の影響を拡大した実績から、東欧への侵攻作戦にふさわしいと判断された。ドイツと同じゲルマン系民族国家であったモスクワでも彼は同様の扱いを受けていた。