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ヴィクタリア民国への支援
6月24日、博柳乃国外務省の報道官は、キティークメオト戦争で晩伊国とと敵対するヴィクタリア民国に 航空機や装甲車、火砲などの武器供与を行っていることを明らかにした。 すでに航空機の輸送は完了しており、順次陸上兵器の輸送を行っているとのこと。 また、扶桑帝国と同盟国である常春国との間に勃発している常扶戦争については言及しなかった。
改良型駆逐艦竣工
6月18日、本鮪型駆逐艦の改良型である赤羽太型駆逐艦の一番艦 "赤羽太" が竣工した。 基本的な性能や形状は本鮪型と同じだが、艦橋後部やマスト、ミサイルの搭載位置などが微妙に変更されている。
新型戦闘機が登場!!!
6月11日、興榎空軍基地において、新型戦闘機 "F-7「風鳶」" が公開された。 同機は35弾頭砲2門の高い火力、既存機と比較しても優秀な最高速度、海軍のF-6にも劣らない旋回性、 優秀な安定性を持ち、それでいて機体は小さく、なおかつ頑丈にまとめられている。 またその小型さから生産性も比較的優秀なのも特徴である。 同機はこれからの博柳空軍の主力戦闘機として運用されていくだろう。
真鯵型駆逐艦の改装
6月4日、近代化改装が行われた真鯵型駆逐艦が公開された。 同型は初鰹型の廉価版として建造されたが、長らく装備の更新などの改装が全く行われていなかった。 今回の改装では船体を除く艦全体(甲板含む)を取り換え艦影を一新した。 元乗組員たちは生まれ変わった真鯵の姿を見て皆一様に唖然としていたという。
河鰹型駆逐艦と真鯖型駆逐艦の改装
↑改装されヘリの運用などを試験中の河鰹。 ↓試験航海中の真鯖。 4月27日,村松重工業の南杉造船所で,近代化改装が行われた真鯖型駆逐艦が公開された。 また5月3日,海軍大柳基地で同様に近代化改装が行われた河鰹型駆逐艦が公開された。 両艦は主砲の増設やミサイルの変更,マストの改設計など艦全体に手が入れられている。 特に河鰹は艦体後部にヘリ用格納庫を増設しており,大きく艦影が変わっている。
初鰹型駆逐艦と寒鰤型駆逐艦の改装
↑改装が施され試験中の初鰹。 ↓同様に試験航海を行う寒鰤。 4月19日,村松重工業の南杉造船所で,近代化改装が行われた初鰹型駆逐艦の一番艦,初鰹が公開された。 また同月22日,萩原重工の光梅造船所で,同様に近代化改装が行われた寒鰤型駆逐艦の一番艦,寒鰤が公開された。 両型は主砲,ミサイル等あらゆる面で改造が施されており,今後しばらくの間も国防の任に就く。 また,他の旧式駆逐艦も近代化改装が行われている模様。
護衛駆逐艦が竣工!!!
3月21日,萩原重工の光梅造船所において,新型の護衛駆逐艦 "桜鱒" が竣工した。 桜鱒型は全長90mの小型艦で,非常に高い生産性を持つ。 海軍は現在戦力の見直しを行っており,その護衛戦力の中心ではないかとみられている。
アジア・オセアニア戦争終結
FETOとCU,そして敷島連邦を巻き込んだ戦争は終結した。 博柳乃国は今回の戦争において特に目立った戦闘をしておらず,参戦意義が疑われる結果となった。 とにかく博柳乃国政府は伊予条約に調印し,めでたく終戦となった。 同時に宣戦布告や警戒国指定も取り下げ,再び博柳は平和になった。
新型巡洋艦が竣工!!!
3月1日,建造が行われていた新型巡洋艦 "白桃" が竣工した。 同艦は既存の博柳乃国艦を大きく上回る対空戦闘能力を持ち,艦隊防空の要となる。 その他,強固な装甲防御力,高い指揮能力,(既存艦と比較して)高性能な電子装備など,博柳乃国海軍最強の設備を持つ。 兵部省海軍部によると,同型艦を少なくともあと3隻は建造する予定のようだ。
CU各国に宣戦を布告
3月1日,外務大臣は記者会見で, 「FETO諸国は親愛なる我々の隣人である。しかし彼らは今CUの侵略により危機に瀕している。 我々も立ち上がり,奴らの侵略に立ち向かわねばならない。」 と発言し,同時にCU各国に対して正式に宣戦布告したことを発表した。 これにより博柳乃国はアジア・オセアニア戦争に本格的に参戦することとなった。
新型巡洋艦が進水!
2月10日,建造中の新型巡洋艦が村松重工業南杉造船所第2ドックで進水した。 進水式には多くの関係者及び記者が参加し,非常に盛大なものとなった。 新型巡洋艦は兵部省海軍部長官により "白桃" と命名された。 以後十数週間かけて艤装作業を行う。 また,隣の第3ドックでは同型艦の建造が進んでいる模様。
半装軌車の購入契約を大幅拡大
2月2日,兵部省は現在陸軍で運用中の菊地自動車製ハーフトラック "菊地半装軌車" の 生産・購入契約を,月60台から月180台に大幅に拡大した。 現在勃発しているアジア・オセアニア戦争に対応したものと思われる。
新型中戦車を制式採用!!!
1月17日,新型の中戦車 M32 "長狸" の各種試験が無事終了,制式採用された。詳細は後日公開する。 同車は,対戦車自走砲 M7 "重猫" にも搭載された117弾頭対戦車砲を搭載し高い対戦車戦闘能力を持つほか, 前面完全水流装甲,内装式複合装甲などを採用し高い防御力を確保している。
自走榴弾砲の更新
1月4日,主力自走榴弾砲 M5 "大犬" の改良型、M5C1 の生産を開始した。 基本的に車台以外ほぼすべての設計を変更し,新型の169弾頭榴弾砲を搭載している。
小型の新型装甲車を採用!!!
12月16日,小型軽量な装甲車 M8 "這鼬" を制式採用した。詳細は後日公開する。 旋回式の銃塔にFC機銃2門を搭載するA型と,銃塔を廃し全周を視察可能な戦闘室を設けたB型がある。 少数がすでに輸出されており,この用途の車両のニーズが高いことがわかる。 ベースとなった車両はバンクス・イタリア統帥国(現 バンクス・イタリア・ディ・ファシスティ) から輸入されたCV.25の改造車であり,同車の基礎設計の優秀さがうかがえる。 |
国名 | 博柳乃国(はくりゅうのくに) |
略称 | 博国,柳国 |
英語国名 | Kingdom of Hakuryu |
国土 | 現実でいうインドシナ半島の東側(ベトナム,ラオス)に位置 |
人口 | 約9862万6000人 |
面積 | 約58万3210平方km |
公用語 | 華語(広東語),和語(日本語),越語(ベトナム語+華語) |
政治体制 | 立憲君主制(政治権力の多くは政府にあり) |
国王 | 桓 明隆(かん めいりゅう) |
首相 | 李 才賢(り さいけん) |
首都 | 大柳市(だいりゅう-し) |
最大の都市 | 南杉市(なんさん-し) |
通貨 | 銭(せん) (略号:HRS) (1銭=約1.25円) |
時間帯 | UTC+7 |
+ | 長いので格納 |
石器時代(2-3万年前)
現代人の祖先がこの地に住み着く。
当時の遺跡は国内各地に残されており,多くの石斧が発掘されている。 また,南部の遺跡の多くには石斧と同時に土器や石製の鍬や鋤が多数見つかっている。 このことから,当時から農耕を営んでいたと思われる。 榎朝時代(紀元前260頃-紀元前200年頃)
紀元前400年頃から国内各地に様々な集落が誕生,発展していった。
この頃には東アジア最古の青銅器文化が成立していたようだ。 紀元前280年頃,複数の集落の集合体である「榎(か)」が現在の興榎市(こうか-し,北部の一大都市)周辺に誕生。 建国の中心となった「蓮(れん,本名不詳)」を王として成長した。 少しずつ周囲の集落を支配下に置き,紀元前245年頃には全土を統一,越南地方を支配した。 また,榎は建国当初から中国(楚)と朝貢貿易を行っており,中国の人材や文化が入ってきている。 現在も博柳の産業の中核を成す農業関係の技術の源流はこの頃にあるといわれる。 杉朝時代(紀元前200頃-紀元前111年)
紀元前200年頃になって勢力の衰えた榎に代わり,現在の南杉市(南部にある最大の都市)に興った
「杉(さん)」が越南を統一する。 杉は中国(漢)と朝貢を行い,漢の「外臣」となったが,五代目の王である「杉 耕黍(さん こうしょ)」と 漢の間に戦闘が勃発し,紀元前111年に杉は滅亡する。 北属期(紀元前111-西暦772年)
杉の滅亡とそれに伴う漢の支配である第一次北属期が紀元前111年に始まり,越南は交州と呼ばれた。
西暦37年,南部の民衆12000人余りが蜂起した「杉民の乱」が起こるが漢はこれを鎮圧,第二次北属期に入る。 その後支配者は隋に代わるが,西暦538年に「李 包清(り ほうしん)」が「李(り)」を興し独立。 595年,隋が李に侵攻,李を滅ぼし第三次北属期に入る。 さらに支配は唐に引き継がれ、越南は「安南」と呼ばれるようになった。 755年に唐で安史の乱が発生したことにより支配が揺らぎ始め,772年に民衆が蜂起し 現在の大柳市(首都)の安南都護府を襲撃,独立した。 なおこの間に日本の遣隋使や遣唐使のうち渡航に失敗した者が流れ着いており, 決して少なくない日本人がこの地で生活したり亡くなったりしたようである。 三国時代(西暦772-879年)
それまで強力な支配を行っていた唐が撤退したことにより,越南は無法地帯と化していた。
そのためか西暦775年頃から各地に豪族を王とする国が多数誕生, 国同士の戦闘による消滅や吸収を繰り返し,西暦794年には 「楊 幹山(よう かんさん)」を王とする北東部の「楊丘(ようきゅう)」, 「梧 貴蚕(ご きさん)」を王とする北西部の「蚕繭(さんけん)」, 「柳 尚憲(りゅう しょうけん)」を王とする南部の「柳原(りゅうげん)」の 三国が台頭し,三つ巴の戦いを繰り広げた。 100年近くという長期間に渡った三国戦争も,879年の楊丘の滅亡により収束する。 柳蚕時代(西暦879-1015年)
しばらくの間は北部の蚕繭と南部の柳原で均衡がとれていたのだが,935年に蚕繭が南下,柳原に侵攻した。
当時蚕繭は中国(後唐)と朝貢外交を行っており,柳原よりも優れた軍備を備えていた。 このため,柳原は戦闘において圧倒的に劣勢であり,一気に王都まで攻め込まれる。 しかし地の利を生かした戦術や英雄「籐 博玄(とう はくげん)」の活躍などにより王都を防衛。 また,その戦闘で鹵獲した蚕軍の装備や戦術を研究するなど質的劣勢を戦術的優勢で覆す大健闘を見せる。 1015年,ついに柳軍が蚕繭の王都,梧台を占領する。当時の蚕繭王「梧 萬蚕(ご ばんさん)」は 処刑され、ようやく柳原による越南統一が実現する。 このとき,戦勝記念と戦死者の弔いを兼ねて国名を「博柳(はくりゅう)」と改めたとされる。 前博柳時代(西暦1015-1294年)
博柳により越南統一が成ると国内は長い安定期に入る。
もちろん王位簒奪を狙う様々な勢力は何度も登場したが,柳蚕戦争で培った軍事技術と 統制のとれた部隊により悉く退けている。 1258年,モンゴル帝国が博柳に侵攻(第一次元柳戦争)。博柳はこれを何とか退けるものの,時を置かず 1283年に再びモンゴルが侵攻してくる(第二次元柳戦争)。この戦いで疲弊した博柳にさらにモンゴルは 追い打ちをかける(第三次元柳戦争)。戦力の質量ともに圧倒的に劣勢だった博柳軍だが, 榎府(現在の興榎市)を罠として利用する(もちろん住民はすべて避難)という作戦が当たり, 1288年の藤江の戦いでついにモンゴルを撤退させる。 しかしモンゴルとの連戦により限界まで国力をすり減らしていた博柳は, 北西部に興り勢力を伸ばしていた「楠(なん)」に敗れ権力を失う。 楠朝時代(西暦1294-1418年)
博柳に代わって越南の王となった楠の「楠 斉剛(なん せいごう)」だが,結局越南の統一はできなかった。
その最も大きな理由が,弱体化していたとはいえ存続していた博柳の存在である。 博柳は楠に敗れると南へ追い込まれたが,南部にはいまだ博柳を支持する民衆が多く,博柳軍と組んで 楠軍に頑強に抵抗したのだ。以後博柳と楠の戦闘は楠が滅亡するまで続くことになる。 中国で明が興ると楠はこれに服属,朝貢関係を結んだ。しばらくはこれで安泰だったのだが, 1415年,明が楠に侵攻。1418年には楠は滅亡してしまう。 柳明戦争(西暦1418-1424年)
楠が明の侵攻に敗れたのち,唯一明軍に対抗できうる勢力だったのが南部に押し込まれていた博柳だった。
博柳は民衆出身の義勇兵や楠軍の残党を積極的に受け入れ戦力を強化,明を待ち構える。 1418年11月,明と博柳の間に戦闘が発生。地の利や戦術的優勢を生かし,博柳軍は明軍を撃退。 翌12月,博柳は占領された北部越南を奪還すべく前進。じりじりと戦線を押し上げていく。 その後一進一退の攻防を繰り返し,1423年の終わりには博柳が越南のほぼ全土を掌握。 各地の民衆の蜂起も連続し,1424年,ついに明は撤退,再び博柳が越南を統一する。 後博柳時代(西暦1424-1847年)
明を撤退させた後,泰平の世で博柳は急速に発展する。人口の急激な増加,農林水産技術の発展,
第二次産業の規模拡大などである。特に農業技術の発展は著しく,農具の改良,米の品種改良, 土壌の改良などが進み,博柳の農作物の生産量は楠朝時代の2倍を超えたといわれる。 1847年に当時の王「柳 義賢(りゅう ぎけん)」に跡継ぎが生まれなかったことから 分家の桓家に王位を譲り,本家柳家は断絶,直系の柳家は滅亡した。 また,鎖国により帰れなくなった日本人が大量に流入したのもこの頃である。 桓家博柳時代(西暦1847-1884年)
前博柳王から譲位された桓家の「桓 明琶(かん めいは)」。この新博柳王家が現在まで続く王家である。
初期は後博柳時代と同じく極めて安定した時代だった。しかし1884年にフランスが侵攻,博柳は占領され 1940年まで同国の植民地となる。 仏属期(西暦1884-1940年)
フランスの支配によりヨーロッパの文化が流入,博柳国民の生活様式が大きく変化した。
また,フランスの支配に抵抗する組織もいくつか存在し,実際に反乱を起こした組織もある。 ただ,それらの反乱は数日で悉く鎮圧され,実行者や首謀者はその多くが投獄,処刑されている。 1940年,ドイツによるフランス本土の占領に伴う日本軍の進駐により,フランスの支配は終了。 新博柳時代(西暦1940-現在)
一時的にフランスを追い出した日本による支配が始まるが,翌1941年には博柳王家を王として
「南越博柳国」が建国。当時としては珍しく憲法を持った立憲君主国家だった。 日本の傀儡政権だったとする説もあるが,憲法などにそれらしい記述がないことなどから, ただ単に政権が日本に協力的だっただけのようである。 その後終戦とともに日本が引き揚げると,南越博柳国は国名を「博柳乃国」と改め,憲法も一部改正。 現在の博柳乃国の体制が確立する。 そして現在,博柳乃国は先祖代々の土地に存続している。 |
極東条約機構(FETO) |
大夢幻国家社会主義帝国連邦 | 船がすごい国(中の人には船のインパクトが強すぎた)。 |
常春国 | 東南アジア屈指の海軍国。 |
バンクス・イタリア・ディ・ファシスティ | 格好の良い飛行機を複数保有する国。 |
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現在、最も発展している。予算も多く割かれている。
全装備の制式番号の変更を実施。 軽戦車
中戦車
重戦車
自走砲
装甲車
火砲
その他
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最近著しく発展している。
第三次海軍拡張計画ももうそろそろ大詰めだ。 編成
再編中
戦艦
重巡洋艦
軽巡洋艦
駆逐艦
航空母艦
その他
計画なし
航空機
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じわじわと装備更新中。
戦闘機
攻撃機
爆撃機
輸送機
偵察機
練習機
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