東トルキスタン紛争

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東トルキスタン紛争(ひがしとるきすたんふんそう、英:East Turkestan War)は、統一歴135年3月に、ティムール朝トゥルケスタン帝国スィヴェールヌイ諸島共和国極東蝦夷共和国イェリング朝シェラルド王国と、中華連邦共和国レグルス第二帝国神聖レグルス=ローマ第二帝国総督統治ルクレフ大公公領ルクレフ大公国との間で行われた戦争のことである。
開戦の直接のキッカケは、中華連邦共和国新疆省ウイグルの全テュルク人民独立同盟会(英:League for the Independence of All Turkic peoples、LIAT)の武装蜂起、三月蜂起に、トゥルケスタン帝国が介入したことによる。この一連の紛争は、当初東トルキスタン地方の民族自決を巡る争いであったが、後に各国の思惑が交錯するものとなった。

東トルキスタン紛争
戦争;東トルキスタン紛争
年月日:統一歴135年 ~ 現在
場所:中華連邦共和国、トゥルケスタン帝国、ルクレフ大公国、イラン、外モンゴル
結果
交戦勢力
ティムール朝トゥルケスタン帝国
中華連邦共和国
スィヴェールヌイ諸島共和国
レグルス第二帝国
極東蝦夷共和国
神聖レグルス=ローマ第二帝国総督統治ルクレフ大公公領ルクレフ大公国
イェリング朝シェラルド王国
全テュルク人民独立同盟会(LIAT)
指導者・指揮官
ティムール朝皇帝 ミーラーン・ティムールⅡ世
中華連邦共和国大統領 维尼熊
ルクレフ大公国大公 イレーナ・レヴィンスカヤ・ルクレフ
共和国皇帝 礼楽
ルクレフ大公国陸軍元帥ドミトリー・ロヴォツキー
LIAT指導者 鍾輕民
戦力
全テュルク人民独立同盟会民兵(85,000-100,000名)
中華連邦共和国国境軍西北支隊叛乱軍(6,000名)
損害


背景

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ティムール朝トゥルケスタン帝国の事情


発端

 ティムール朝トゥルケスタン帝国は国力と王権の衰退、諸外国の伸張等を憂慮し、国家及び民族的プロジェクトとして新ティムール主義を標榜していた。新ティムール主義とは「テュルク民族の統一と自立」「王朝の堅牢化」「国家の近代化」を主旨としたナョナリズムの一つであり、特にミーラーン・ティムール2世の即位後に強調された。当時パキスタンやアフガニスタンでは天候不順による大規模な飢饉が続いており、多くの餓死者が出ていた。それにも関わらず、前皇帝のバイカラ・ルフ1世は国王の威信を上げる為に、国王自身の資産や税金を用いた都市部や企業への大規模な融資や権利売却を行う一方で、パキスタン・アフガニスタン両省への支援は愚か、哀悼の意を発表した程度で慰問訪問さえ行わず、豪奢な宮殿や寺院の造営、度重なる舞踏会の開催、世界各地の物産収集など散財を繰り返し、国家予算を大きく逼迫させた。これらは既存の権益を国王に融資目的で没収されることや、それらへの瑕疵を恐れた貴族層のみならず、予算逼迫による給金や予算の滞りは宮廷や政府からの不満をも生じさせ、統一歴132年に海軍将校セミオン・アル=サイードが中心に起こした、10月ソグディアナのクーデターの要因の一つとなった。クーデター勃発直後に脳出血で崩御した父バイカラ・ルフに代わり即位したミーラーン・ティムール2世は反乱軍を鎮圧後、新ティムール主義を積極的に施行していくようになった。
 また、市民社会の急速な近代化に伴い、トゥルケスタン帝国内では労働力確保や資源不足が深刻な問題となり、同時に近代化に合わせた人口増加は住宅需要や官民の農地開拓欲求を引き上げることなった。

統一歴133年4月時点で最も地価上昇率が高かったトルクメン省トルクメナバート

 こうした諸問題の解決の為にトゥルケスタン帝国はテュルク人の統合を掲げ、周辺地域への拡大政策を推進していくようになり、ウズベク人等の同じテュルク系民族で構成される東トルキスタンにも目を付け始めた。
 現在、東トルキスタンは中華連邦共和国の最西部、新疆省に編入されており、人口は約2500万人強、広大な土地と共に塔里木(タリム)油田準噶爾(ジュンガル)油田吐哈(トゥハ)油田から産出される原油の他、天然ガス、モリブデン等の豊富な鉱物資源を有しており、新疆省内にあるカラマイ、ウルムチ等の都市では石油精製・化学産業に飛躍的発展が見込まれ、一人あたりのGDPも急上昇している。省内では、支配層たる漢族とは異なり、人口の約3分の2は漢族以外の少数民族で構成されている。内訳としてはウイグル人、漢族、カザフ人回族キルギス人オイラト族(カルムイク族)(民族区分ではモンゴル族)などが占め、また、カザフ人、キルギス人、タジク人ウズベク人など、隣接するトゥルケスタン帝国等と国境を跨って居住する民族も少なくない。ウイグル人含むテュルク系民族は隣国のトゥルケスタン帝国を模範としつつ、しばしば自治権や自身の民族自決を掲げており、中華連邦共和国当局へのデモ活動や警察との小規模な衝突も発生していた。
 トルキスタンの統一はテュルク人の悲願とも言えたが、東方にあった歴史上の中華帝国の影響下にあった為や、東西トルキスタン或いは両支配者間の対立によって尽くが失敗に終わっていた。トゥルケスタン帝国も歴史上一時この地域を支配したことはあったが、当時のソグド系遊牧民の侵攻と支配地域の維持費高騰の為、それを手放した経緯があった。
 そうした背景に於いて、バイカラ・ルフ1世及びミーラーン・ティムール2世宰相イブン・イル・アオルソイはトルキスタン統一論の第一人者であった。彼は世論や宮廷内での影響力確保の為、東北方への進出を説いた自著『王朝存亡の為の一意見』を以て、それぞれの皇帝に建言を行った。バイカラ・ルフ1世は献上された著書を見もせず、「他にやるべきことはある」とそれを一蹴したが、一方、目に見える国家の衰退を経験し、また、ナショナリズム的思想を持ったフランス人ジャン・ボザールから教鞭を受けたミーラーン・ティムール2世はこれに大いに賛同した。皇帝からの承認を受けたイブンは、宰相会議(ウズベク語:Kansler Uchrashuv)他宰相レフ・アヴィサロヴィッチ・ボラーゾフアブドール・エジェヴィトと共に翌日までにそれを開催した。レフはイブンの意見に概ね賛同したが、アブドールは「西方のトルコ人統一の方が最優先」と固持し、話し合いは一週間にも及んだ。その後、アブドールは現状を憂い、皇帝ミーラーン・ティムール2世に老齢と病弱を理由に辞意を表明した。皇帝は信頼の於けるアブドールの退任に難色を示したが、イブンとレフ両者の支持もあり、その辞任を承認した。(アブドールは、退任後すぐにキルギス省ナルイン州コチコルへと帰郷したが、その二日後に街付近の溜池から水死体として発見されている。)
 イブンとレフはアブドールの退任を契機とし、皇帝ミーラーン・ティムール2世に帝立全国評議会の開催を具申した。これは皇帝の周囲に宰相、政界の代表、貴族(部族長)の代表、聖職者の代表、市民の代表が一同に会し、通例、帝国を運営する中で最重要の指針を議論・採択し、その議決内容を皇帝へと具申する形で、全国へと大規模に伝播させる為に行われてきたトゥルケスタン帝国の伝統公務であり、ミーラーン・ティムール2世の承認の下、統一歴133年2月に首都サマルカンドの帝宮内の「アーミル・ハルシャの大講堂」にて行われた今回の評議会では、宰相が提案した東北方への進出の是非が問われた。近代化の渦中で膨れ上がる需要に利潤を見出そうとする市民側と宰相はこれに賛同したものの、経済・軍事的に強大な東アジア諸国との軋轢によって、既存の権益が危ぶまれる恐れを抱いた貴族側の穏健派と聖職者側がこれに反対した。政界の代表団は1ヵ月半近く中立を貫いていたが、結果として政界の代表兼首相ケリム・アルハノフが政治家を「市民の代表」と称して市民の請願を諾したことで議論は決し、宰相による皇帝ミーラーン・ティムール2世への助言、そして皇帝の承認とその意向の神への奏上の儀を以て、東北方への新ティムール主義拡大は公的なものとなった。

トゥルケスタン帝国の施策

 帝立全国評議会での議決を後ろ盾に、宰相イブンは行動を起こした。まずイブンは東トルキスタンへの伸張にあたって黙認或いは協力を仰ぐ為、政界と官庁との軋轢を払拭すべく、政府首脳や有力官僚と数度に渡って面会を行い、また、皇帝直下の秘書官や秘書官補佐に政治家や官僚を複数名推挙し、彼らをパイプとして政界・官庁との宥和を図った。貴族層や聖職者層に関しては、政官を通じて「土地保有等に於ける既存の権利施行規則を準用する場合の内務省等による保証に関する省令」を通達し、既定の権益や権利を全面的に国家が保証・維持する旨を表明した。また、ウズベキスタン省ヒヴァ市のイチャンカラのモスク等への改修予算を扶翼し、保守派からの支持を取り付けた。
 帝国内で政策への支持が高まるのと同時に、東トルキスタンを擁する中華連邦共和国とレグルス第二帝国の間では、お互いの各都市を接続する大陸鉄道を敷設し、国家間同士の人員物資の円滑化を図る計画、通称、AORTO計画が進んでいた。AORTO計画は大陸急行計画とも呼ばれ、ノビリオル朝トラキア・ローマ帝国の首都アンドロニコポリスから始まり、レグルス第二帝国首都カイザーライヒ・ハンプシュタットから鉄道が南北二手に分岐し、南はルクレフ大公国首都ルクレグラードベンガル、北はウルムチを通って中華連邦共和国首都北京まで伸びる路線を組み上げる国際的プロジェクトであり、既にレグルスのREPトランスポート社國際鉄道と中華の公共企業体中華国有鉄道(CNR)が調整を進めていた。トゥルケスタン帝国は、東トルキスタン進出に際して鉄道及び沿線を利用した支援物資や供給や兵站の迅速な構築、また帝国からの移住の効率を意企し、既にREPから帝国へと通達されていた鉄道敷設要請を受諾し、外務省大臣ソナム・キフティー・ナザルハンの公式声明を以て、全面的に計画を支援することを宣言した。鉄道敷設には公社トゥルケスタン鉄道運行公社(TRT)を介して政府から莫大な資金と人材が投入され、翌年、大陸鉄道の一部であるアルマトイからウルムチへの鉄道が完成した。


三月蜂起

135年3月30日、中華連邦共和国からの独立を宣言した全テュルク人民独立同盟会は、多数の人員・武器弾薬を抱え新疆省ウルムチで武装蜂起した。警察以上の武力を持ったLIATは数時間のうちにウルムチ市北部を占拠、混乱の中ウルムチ市北部に残る拠点は中華連邦共和国軍のウルムチ基地のみとなった。ウルムチ基地に駐留する戦力は国境軍西北方面国境警備支隊の主力、約6000名であり、中華連邦政府はこのウルムチ基地を橋頭保に市内奪還を計画していた。
しかし、31日未明になり状況は一変する。国境軍西北支隊は突如中華連邦共和国最高軍事司令部指揮権からの離脱を一方的に発表。士官の大半が独立の名の下に殺害され、LIATは西北支隊を従来の民兵と合わせテュルク人民軍として再編。一地域のみからの徴兵により軍を編成する国境軍の制度が裏目に出た形であり、ウルムチ基地に駐留する無傷の機甲兵力とその支援部隊6000名は指揮官をLIATの人員に置き換えたうえウルムチに展開、ウルムチ市北部とその周辺はLIATが完全に制圧した。

中華連邦共和国行政府は、国境軍西北支隊の叛乱から新疆省の治安を維持し、予測される最悪の事態に備えるためとして、「信頼のおける」中華連邦共和国軍である武装保衛軍、空挺軍の2個師旅団をウルムチ市南部に展開。また、西北地域の国境軍のうちLIATへ寝返らなかった部隊も全ての任務を解除の上武装保衛軍の指揮・監視下に移動。西北地域の国境警備は地上軍西北方面司令部の指揮で地上軍・武装保衛軍によって実施し、新疆省市民には外出の禁止などを命じる「緊急治安維持命令第5478号」を発令した。

31日午後、中華軍部隊はウルムチ北部に取り残された中華連邦国民、特にLIATに迫害される可能性が高いと判断された漢民族の救出を目的として行動を開始する。空挺軍を中心に編成された救出部隊は第21独立機甲中隊から8両の戦車・装甲車の増援を受け、LIATとの緩衝地域に無断で突入した。歩兵を中心とした救出部隊への反撃は少ないだろうという中華側の想定は甘く、LIATは周辺部隊をかき集めこれを攻撃した。ビル群の合間を縫った対戦車ロケットの攻撃により救出部隊の数少ない戦車は即座に撃破され、残された歩兵部隊は大混乱に至る。中華側司令部は救出の断念と撤退を決定し、1日未明にはヘリコプターと即応部隊が到着。撤退には成功するも15名の死者と多数の負傷者、主力戦車5両等大きな損害を被った。救出作戦に関わった指揮官は小隊長に至るまで更迭され、中華側の完全な敗北に終わった。


トゥルケスタンの反応

 帝国の密かな東トルキスタン独立支援にも関わらず、三月蜂起以前は、未だに政府・宮廷内では東北方への進出には慎重論が根強った。それは経済・軍事的に強大な東アジア諸国、特に中華連邦共和国に対抗することは容易ではなく、我が国も相応の被害を受ける可能性があることを暗示していた。そうした中で、新ティムール主義の過激性を見直し、善隣的な外交と交易で内需を満たすことを模索するべきと主張する意見も穏健派を中心に散見されるようになる。特に、アルマトイからウルムチへの国際鉄道敷設を包含するAORTO計画を積極的に推進してきた運輸省大臣パウロー・クロフはこうした新ティムール主義の過激性をダショグズ毎日新聞の特別コラムにて「イブン・イル・アオルソイは平和の鉄道橋に火を点けようとしている」と揶揄し、物議を醸したこともあった。イブン・イル・アオルソイはこうした状況を快くは思わず、自著『アーミルの栄光(ウズベク語:Amirning Shon Sharafi)』の中で、新ティムール主義に反発および妥協的な主張を行う者を《国賊》《アンチ・インペラリスト(反帝国主義者)》と批判している。
 また、アクサイ地区を管轄するアストラハン・タタール人傍系の貴族ニコライ・ニガール・アストラがイブン、レフ・アヴィサロヴィッチ・ボラーゾフ両宰相が地方視察で不在の間に突如申し出も無く皇帝ミーラーン・ティムール2世に拝謁し、イブンを『職権濫用を繰り返し、国家破滅を導く悪魔』と称し、彼の宰相職からの罷免を建言する事態へと発展する。(ニコライ上奏事件)ニコライは近代化による市民の台頭により既存の権利が脅かされることに強く反発していた保守派の一人であり、そうした背景から、市民側を支持するイブンに対する批判を常日頃から喧伝していたことで有名であった。通常であれば、許可も無く帝宮内に部外者が侵入することは帝室法により違法と定められていたが、ニコライは前皇帝バイカラ・ルフ1世と何度も舞踏会や式典に召還される程関係性が良好で、その息子であるミーラーン・ティムール2世にもニコライの聡明さは一目置かれていた為、ミーラーン・ティムール2世は突然の来訪でさえ、そうした背景から不問としたとされている。本来、皇帝への謁見の申し出は事前に宰相側にも通達される為、イブンはこうした特権を用い、自身や自らの施策に不利な証言を行うと目される人物の謁見を、皇帝の代理人として拒否或いは許可を見送ってきたが、ニコライはそうした状況を察知し、その上で、宮廷内での新ティムール主義穏健派や反イブン派の貴族や官僚を贈賄等により味方に取り込み、そうした人物の支援をあてにすることで、秘密裏に皇帝へと謁見を果たすことに成功した。ニコライは罷免に賛同する有力者の署名が書かれた書簡と皇帝への嘆願書、イブンが関与したとされる数々の不法行為を列挙した書類を奏上し、「イブンの罷免さえ叶えば、自らの進退を明け渡す覚悟」として皇帝ミーラーン・ティムール2世に懇願した。しかし、イブンを信任の下で登用し、また新ティムール主義の施行を強く支持してきたミーラーン・ティムール2世はこの懇請に難渋し、結論を一週間後に先送りする決断に至る。この間にイブンの下へ事態の全容が伝えられ、彼はすぐさま帝都サマルカンドへと戻り、対応を考えることとなった。

バイカラ・ルフ1世の時に開催された舞踏会でのニコライ・ニガール・アストラ(写真中央)

 まず、イブンは後日、宰相職辞任を皇帝ミーラーン・ティムール2世に具申し、直後、彼はすぐさま自らを枢密院書記官長へと任命するよう枢密院へと仰いだ。書記官長とは、皇帝への諮問委員会である枢密院に於いて、議事録を製作し、記録を皇帝へと直接上奏することを役務とする高位官職で、書記官や顧問官全てをまとめあげる顧問官長よりも大きく皇帝への関与が可能である点から、以前より《エセ宰相》と呼ばれていたものである。イブンは宰相職を形式的に辞任することで政府内外へのアピールを行いつつ、書記官長の地位に就くことで皇帝に対する影響力を保持しようと企んでいた。しかし、既に枢密院内の委員の一部にはイブンに懐柔された者がいたとはいえ、外部からの書記官長立候補は前代未聞で、院内ではイブンに対し批判的な意見が多かった。しかし、彼に対し大きく信頼を寄せる皇帝ミーラーン・ティムール2世がこれを支持したことで、院内ではイブンの登用を認めざるを得なくなった。
 書記官長として職務を再開したイブン・イル・アオルソイは、ニコライ上奏事件があった当時、ニコライ・ニガール・アストラが皇帝へ「宰相辞任の代償に己の進退を明け渡す」との発言をしたことを引き合いに、皇帝ミーラーン・ティムール2世にニコライ含むアストラ家が所有していたアクサイ地区の領地没収を決定させた。また、奇しくもこの時、ニコライが秘密裏の皇帝謁見を画策するべく宮中の貴族・官僚に贈賄を働いたことが発覚し、「不法行為を用いて皇帝を欺こうとした」としてニコライはサマルカンドにて銃殺刑に処され、彼の親族は全てアフガニスタン省ヒンドゥークシュ山脈への左遷が命じられた。また、イブンはAORTO計画推進派、親中派、新ティムール主義に妥協的であったパウロー・クロフを「アルマトイ=ウルムチ間の鉄道敷設に伴い、外国企業を意図的に斡旋・優先し、著しく自由市場を阻害した」と捏造し、競争法違反で運輸省大臣から更迭させるなど、多くの反イブン派・反新ティムール主義者、或いはニコライ上奏事件の際にニコライが持参した書簡にサインしたイブン罷免の賛同者を罪状捏造や過去の経歴を引用して、処刑・懲役・左遷・国外追放などで一斉に排除した。結果、政府・宮廷内には表立って彼を批判出来る人物は存在しなくなり、彼の影響力は日増しに増大した。

 統一歴135年3月30日にLIATによる武装蜂起発生が帝国へと報告されると、皇帝ミーラーン・ティムール2世は新ティムール主義の正当性を改めて再認し、彼の支持と宰相レフ・アヴィサロヴィッチ・ボラーゾフの両名の推挙により、イブン・イル・アオルソイは書記官長の職から再び宰相の地位へと舞い戻ることとなった。イブンはLIATの武装蜂起を歓迎する声明を発表しつつ、もしLIATの内紛が長期化し、東トルキスタン住民の中でトゥルケスタン帝国への亡命希望者が確認された場合に備え、そうした亡命の全面解禁と亡命後の政府による保護、就労支援を公的に確約した。また、彼は軍部と密かに会談を進め、LIATへの支援拡充と事実露呈を防ぐ為の徹底的な情報統制を密約した。
 そして、3月31日午後に中華連邦共和国軍がLIATに対し決定的な敗北を期したという事実は帝国を震撼させた。経済・軍事的に圧倒的優位にあると評価されていたはずの中華連邦共和国が一部の兵士の離反を含め、脆弱な対応を見せたからである。こうした事実は政府・宮廷内に於いて、中華連邦共和国への軽蔑の拡大と新ティムール主義の先鋭化に拍車をかけた。(一部の専門家の間では、『このような帝国内での慢心の蔓延が超法規的な早期の開戦の原因となった』と主張されている。)

トゥルケスタン帝国の政治の簡単な図解。尚、宰相は不在でも執政は可能である。


ティムールの関与発覚とその反応

 ところが、4月2日になると状況は一変した。中華連邦共和国やレグルス第二帝国を含むトゥルケスタン帝国に敵対する複数の国家の各報道機関・報道会社に、『本事件のトゥルケスタン関与について』と評された手紙が入った封筒や電子メールが一斉に送りつけられた。内容は要約して、以下の通りである。

 LIATの武装蜂起は、ティムール朝トゥルケスタン帝国の工作によるものである。(中略)トゥルケスタン帝国はトゥルケスタン陸軍を用い、民間総合商社“アルタミラ商会”の関連企業である《ラスコー》を通じて、LIATに武器提供および貸与、また国際銀行である■■■■■[※]を通じた遠隔的な資金援助を行い、その見返りとして、独立達成後において「トゥルケスタン人と東トルキスタン住民の対等化および就職・移住・公務従事の許認可」などの諸条件の許可と中華連邦共和国新疆省での情報提供をLIATに指示している。
――『本事件のトゥルケスタン関与について』
:この部分は原書でも特殊インクで黒塗りされていた。


 当初、中華連邦共和国など各国当局はこの匿名の便箋に懐疑的であったが、この手紙が発見される約6時間前に、LIATに対する情報収集にあたっていた中華連邦共和国の兵士数名が新疆省カラマイ市内のホテルにて殺害されており(カラマイ暗殺事件)、その報告と共に現場にトゥルケスタン帝国陸軍が正式採用していた5.56x45mmライフル弾の空薬莢数個や、戦闘靴γ型の跡が発見されたことが報じられると、中華連邦共和国はトゥルケスタン帝国に対し、非常に強い抗議の念と共に、関係者への強制捜査を行うと表明した。
 一方のトゥルケスタン帝国は一時この発表に沈黙を貫いていたが、数時間後の官邸報道長官アジム・ハン・デュマガリエフの緊急記者会見を通じ、LIATへの関与を全面的に認める発言を行った。デュマガリエフ報道官は「同胞を助けることの何が悪いのか?」と公言したが、カラマイ暗殺事件に関しての関与は否定を繰り返した。
 また中華連邦共和国の強制捜査への報復として、トゥルケスタン帝国首都サマルカンドに駐在していた中華連邦共和国大使館の職員総勢50名をルクレフ経由で送還し、またトゥルケスタン帝国軍は中華連邦共和国・ルクレフ大公国・イラン高原にそれぞれ国境警備隊に変わり、陸軍各方面隊を進駐させる決定を下した。
 トゥルケスタン帝国の発表の数時間後に、LIATの指導者鍾輕民はインターネット上で声明を発表し、「同じテュルク人として、英断を誇りに思う」と発言した。

戦争の経過

開戦

 4月15日、トゥルケスタン帝国空軍JF-92 ヴェオッサからなる第二航空中隊《ハディード・アル・ザカート(日:鋼鉄の喜捨)》は、中華連邦共和国新疆省領空を高速で侵犯し、国境に隣接する塔城基地および当該基地に駐在していた第7歩兵連隊戦闘団を二度空爆した。
 トゥルケスタン帝国は、攻撃の数分前に、中華連邦共和国に対し「中華連邦共和国およびその同盟国に対する開戦の宣告」とされる宣戦布告の電報を送り、国境に配備されていた第1・2・3方面軍が侵攻を開始した。またトゥルケスタン帝国の要請に基づき、スィヴェールヌイ諸島共和国・極東蝦夷共和国・イェリング朝シェラルド王国が、中華連邦共和国の要請に基づき、レグルス第二帝国・ルクレフ大公国が参戦を表明した。(この開戦を以て、東トルキスタン“戦争”が始まったとする意見もある。)
 宣戦布告に際し、中華連邦共和国は宣戦布告受理の確認が遅れ、トゥルケスタン軍の塔城攻撃直後にそれを受理したことを引き合いに、「トゥルケスタン帝国軍による塔城空爆は、事前通告も無しに行われた重大な背信行為である。」との見解を表明した。
 また、3月30日にトゥルケスタン帝国シンド州州都カラチに於いて、ルクレフ大公国籍の果物商のタミル系50代男性が市民との口論の末、殴打されて死亡するという事件が発生しており、トゥルケスタン帝国警察は事件を隠蔽したが、開戦後にその事実が発覚するとルクレフ大公国は強く反発し、ルクレフ国内の世論が一挙にトゥルケスタンに対する徹底交戦へと傾いた。

空爆により炎上する塔城基地(市民撮影) 演習時のJF-92


進軍

中華連邦共和国への侵攻

 中華連邦共和国国境から侵攻したトゥルケスタン軍は、M型主力戦車などを中心とした機動性の高い部隊編成(機甲師団)による電撃戦から戦線突破を始めた。トゥルケスタン軍が電撃戦を選んだ理由としては、
●応戦に現れる中華連邦共和国軍の本隊が到着する前に東トルキスタンを確保し、経済及び軍事面に於いて優位に立つ中華連邦共和国に対し、早期決戦を政府と軍部が望んだ説。
●敵軍を効果的に攪乱・分散させ、LIATと協力し各個撃破を意企した説。
●ウルムチやカラマイ、新疆三大産油地などを早期に確保することで、中華連邦共和国の弱体化及び自軍の継戦能力の強化を意企した説。
 などが、戦後にカルロ・アオスタ湯龍宗リリック・エンデヴァーらによって指摘されている。特にカルロ・アオスタは自著『アジアの黎明(L'Alba Dell'Asia)』(統一歴161年 Zanichelli Editore S.p.A.)に於いて、
「トゥルケスタン帝国の軍事及び政治的行為は(中略)大半がLIATへの信頼と希望的観測、中華連邦共和国への明白なライバル視が根底に存在していた。」
と言及している。事実、トゥルケスタン帝国は民兵に過ぎないLIATにバインゴリン・モンゴル自治州輪台県など占領地の一部の行政権・治安維持委任で合意しており、LIATの指導者である鍾輕民を戦時中にアルマトイに親征していた皇帝ミーラーン・ティムール2世に謁見させている。これらの行為は、東トルキスタンで大きく支持を得ていたLIATを帝国に取り込むことで、支配地域での融通を利かせ、戦中・戦後の統治に大きく寄与させようとしていたことを意味する。また、LIATはトゥルケスタン帝国という強大な後ろ盾を得たことで支持を更に拡大させ、民族自決への更なる確証とLIATへの信頼を新疆省内外のテュルク系住民達に持たせようと考えていた。(戦後、ミノリニア王国に亡命した元LIAT参謀畢氾偉が口頭記述した『LIATとは』{統一歴156年 หนังสือไหม}による。)

 トゥルケスタン軍は、戦前より既に整備されていた中華連邦共和国の野戦陣地を回避或いは陽動の為、空爆から戦闘が続いていた搭城からの侵攻ではなく、タジキスタン省に接続するカシュガル地区の南西、ヤルカンドからの侵攻を計画した。これは電撃戦の実行にあたり消耗を最小限に抑える為であり、パミール高原に内包される南タジキスタン方面の侵攻は、越境後のタクラマカン砂漠での補給路確保の難点などから現実的ではないとする既存の戦略の裏をかく意図があった。この為、トゥルケスタン軍は侵攻後はヤルカンド川や各所のオアシス確保を最優先事項と捉えていた。また、カシュガル地区侵入後のトゥルケスタン軍は、中華連邦共和国軍の包囲網を完成させる為の高所確保を優先すべく、ヤルカンド到達後はヤルカンド川沿岸を伝ってキルギス省境へと北進し、新疆省の省都カシュガル市を含む一帯(第一包囲網)とアクス地区を越えた先のイリ・カザフ自治州一帯(第二包囲網)の包囲を急いだ。

初戦の図解。青はヤルカンド川 M型主力戦車


ルクレフへの侵攻

 中華連邦共和国との戦端が開かれたのと同時に、トゥルケスタン帝国軍はルクレフ大公国への侵攻を開始した。トゥルケスタン軍はパキスタン省シンド州ターパーカル市からルクレフ大公国グジャラート州へと幹線道路を用いて侵攻する計画を実行した。トゥルケスタン軍がグジャラート州侵攻を立案したのは、グジャラート州が存在するサウラシュートラ半島(カーティヤワール半島)や半島南方のカンバート湾(カンベイ湾)で豊富に産出される原油と、ルクレフで石油科学製品生産の約7割・医薬品の約4割を占める当該地の石油精製施設(精油所)、またはそこからルクレグラード(アジメル)へと伸びる石油パイプラインを早期に支配下に置くことで、トゥルケスタン帝国自身の継戦能力向上やルクレフ大公国弱体化を画策した為である。
 侵攻後、グジャラート州南西部の町ラクパトにて両軍は会敵した。敢えて侵攻を夜間に遅らせたトゥルケスタン軍は、既に町内にて待機していたルクレフ陸軍第二軍第5歩兵師団第3-5大隊、祖国防衛隊民兵第28師団第3大隊への急襲を敢行した。(ラクパトのアナグマ作戦)攻撃は功を奏し、ルクレフ陸軍は東南方へと敗走した。
 トゥルケスタン軍はブージへと南下した後、進路を西方へと変え、アンジャル、そして地方都市ガンディダムへと進軍を続けたが、ラクパトにて敗走したルクレフ陸軍第二軍第5歩兵師団第3-5大隊、祖国防衛隊民兵第28師団第3大隊が第二軍第5歩兵師団第4ー8大隊と合流したことで戦線を再構築しており、ガンディダム郊外でトゥルケスタン軍の進軍を防ぐことに成功する。ルクレフ軍は急遽戦線の押し戻しの為、敵軍の中央突破を計画し、アフマダーバードより急行していた第4軍第1軽戦車師団の到着後、侵攻直後にて防御体制の不完全なトゥルケスタン軍を強襲した。ガンディダムではルクレフ空軍による戦術的な爆撃や激しい市街地戦が多数繰り広げられ、市民・兵士に多数の犠牲者を出しながらも猛攻を続け、一週間後、遂にガンディダムを奪還した。
 その後、トゥルケスタン軍とルクレフ軍はガンディダムを挟んで対峙し、局所的な戦闘はありつつも基本的に双方の攻撃は少なく、戦線は膠着状態に陥った。

グジャラートへの侵攻(赤:トゥルケスタン、青:ルクレフ) 「ラクパトのアナグマ作戦」でのトゥルケスタン陸軍砲兵隊


中華への快進撃

 第一・第二包囲網を造成したトゥルケスタン帝国軍は、包囲網内にて防衛を迫られる中華連邦共和国陸軍の迅速な殲滅を計画し、4月23日13時より二度に渡る降伏要求を呈示したが応じなかったとして、明朝7時56分より包囲網への一斉進軍を始め、8時33分に包囲網内の中華軍と交戦した。(「イリ盆地の戦い」「ジュンガリアの戦い」)この計画は、天山山脈・ボロホロ山脈を越え、ポロヴェツ草原(キプチャク草原)での勢力を東方に伸張させようとの意図で「ポロヴェツ草原拡大作戦」と呼ばれた。戦いは熾烈を極めたものの、29日には第二包囲網が、30日には第一包囲網での中華軍殲滅に成功し、トゥルケスタン陸軍・空軍は大勝を収めた。これら戦勝は軍部だけでなく、帝国内の世論にも好印象を与え、更にトゥルケスタン軍の進軍を加速させる一因となった。しかし、一方で大量の中華軍所属の捕虜や負傷者を抱えたトゥルケスタン軍は出費増大を危惧し、アクス郊外にて捕虜とした中華軍兵の大半を銃殺し、「アクス大虐殺」とされるジェノサイドを行ったとされる複数の証言がトゥルケスタン軍兵士や地元住民から上がっており、中華連邦共和国では包囲網での自軍壊滅・大量虐殺の事実が(戦中では減退を防ぐ為に情報統制されていた)戦後露呈すると、新聞メディアを中心にこの一連の時期を血の四月」「ブラッディ・エイプリル」(繁体字:血腥的四月)と呼ぶようになった。
 包囲網解消を受けたトゥルケスタン軍は侵攻を加速させ、5月初旬に中華連邦共和国軍によって防衛線が引かれていた州都ウルムチに到達した。開戦直後からのLIATによるゲリラ的戦法が功を奏し、トゥルケスタン軍到達からわずか1週間強でウルムチは陥落した。中華連邦共和国軍がこれ以上の応戦はトゥルケスタン軍による各個撃破に繋がると考え、継戦能力回復の為に、防衛線を急遽、ウルムチから甘粛省西部の省境にまで後退させたことも要因となり、トゥルケスタン軍は5月15日に遂に新疆省全域を占領することに成功した。ウルムチ占領が国内に伝えられると、アルマトイに親征していた皇帝ミーラーン・ティムール2世から賞賛と祝福の思し召しが全国に報じられ、また、宰相イブン・イル・アオルソイによって戦線に居る全ての兵士への国民の奉仕が要請された。
 甘粛省へも攻撃の手を伸ばしたトゥルケスタン軍ではあったが、主力戦車を基軸とする機甲師団による電撃戦の展開は新疆省や甘粛省等の広範囲に渡った為、進軍速度に補給線構築が間に合わない状況が頻発していた。特にウルムチ陥落以降は特にその傾向が顕著となり、軍部内でもそれに関して「浸透を弱め、補給線構築後に再開すべき」との意見も上がったが、中華連邦共和国との短期決戦を望んだ将校が多数派を占め、また、今まで醸成されていた東アジア諸国へのライバル意識を背景に、戦争での自国優勢が各種メディアによって積極的に報道された煽りを受けて、世論の過激性が日増しに強まっており、軍部も引くに引けない状況となっていた。

極東蝦夷のモンゴル侵攻


極東蝦夷共和国の内情

 4月15日付けで宣戦を布告していた極東蝦夷共和国であったが、トゥヴァ地域への展開以降大きな動きはなく沈黙を守り続けていた。宣戦布告に至るまで極東蝦夷共和国の実質的最高機関である元老院では「極力中華と剣を交えることなく自国領域の拡大を行うべき」という中華不介入論が唱えられており皇帝礼楽も元老院の意見を支持していた。ティムール朝トゥルケスタン帝国からの参戦要請に際しても元老院は一貫して中華への干渉を拒否し特にも元老院長でもある板垣実高は「もし仮に首相政府が中華との戦争を薦めるのであればそれは内戦をも意味する」として強硬に反対した。そもそも極東蝦夷共和国では憲法上は元老院は名誉職的意味合いが強く実権を伴わず、元老の威光によって成り立つ組織であった。そのため当時の首相である間瀬文雄は「国民の理解が得られている以上、元老にも容赦はせず中華に介入しその膨大な権益を得る。」として元老院の意見を退け首相府主導による政治を断行した。このため国内では反戦派によるデモやクーデター未遂が発生し特にもハバフロスク蜂起では死者が出るなど国内を二分する状況となった。
 以上の経緯から蝦夷共和国軍が外モンゴル及び中華に進軍を開始したのは5月の下旬になった。

 5月14日、極東蝦夷共和国占領地にトゥヴァ・アルタイ共和国が成立し、同共和国内では大規模な祝賀会が催された。間瀬首相は「トゥルケスタンと我が国の架け橋的存在」「新たなる同胞の誕生を祝福する」として承認。これに対して諸外国は承認を行わず、大多数の歴史家は現在に至るまで蝦夷共和国による実質的な保護国であると位置づけている。

外蒙作戦の展開

 5月23日、首相及び元帥府から甘粛省まで伸びていたトゥルケスタン軍に合流することを目的に中華征伐の第一段階である外蒙作戦が指令され共和国第二軍、第三軍は外モンゴルへの侵攻を開始した。当初第二軍はウリヤスタイ、第三軍はカラコルムに向けて進軍することとなっており中蝦の実質的国境であったチョイバルサン・ウルギー線を手前にして中華連邦国境警備隊と会敵し撃破している。(マンダルゴビの戦い)6月上旬には大規模な戦闘なしに中蒙国境付近まで到達し、第二軍の一部は既に新疆を手中に収めていたトゥルケスタン軍と合流している。ここまで中華軍の組織的抵抗もなく、呆気なく外モンゴルを手にした蝦夷軍はこれ以上の増派を行わず、結果として中華領内での緒戦に苦しめられることとなる。
赤→蝦夷軍の進路
青→チョイバルサン・ウルギー線