アラスカ・ショートパンツ戦争

アラスカ・ショートパンツ戦争


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アラスカ・ショートパンツ戦争(あらすか・しょーとぱんつせんそう、英:Alaskan War of Shot Pants、統一歴151年-151年)は、在アラスカ(蒼星)フランス(シェラルド)人女性が、アラスカのショートパンツ協会によるスカート派への弾圧をきっかけに、フランスとアラスカ=トラキア・ローマ連合軍との間で行われた戦争である。
アラスカ・ショートパンツ戦争
        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
  2-1. フランス人漂流者
  2-2. アラスカ・ショートパンツ協会
 3. 開戦
 4. 開戦後の経緯
  4-1. 初動~コディアック沖海戦
  4-2. フランス連合軍上陸
  4-3. ゴルツォネの戦い
  4-4. ヴェローナの戦い
  4-5. イリアムナ湖畔の戦い
  4-6. アラスカ山脈超え
  4-7. マッケンジーの戦い
  4-8. パヴィアの戦い
  4-9. アラスカ撤退戦
 5. 終戦と講和
 6. 影響
 7. 関連項目
 8. 参考文献
部隊を率いるフィリッポポリス公
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戦争:アラスカ・ショートパンツ戦争
年月日:統一歴151年5月~151年12月
場所:アラスカ、バルカン半島西部、イタリア半島東北部など
結果:蒼星連邦国の勝利
交戦勢力
帝政シェラルド
蒼星連邦国
エルドランド王国
トラキア・ローマ帝国
指導者・指揮官
エリックⅠ世
マティアス・フォン・シリングス
シャルル・ド・イェリング大公
ユリウスⅥ世

 概要

あああああ
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 背景

フランス人漂流者

統一歴146年、蒼星連邦国(以後アラスカ)アリューシャン列島ウナラスカ島に、ひとりの外国人が漂着した。第一発見者は港でニシン漁に従事する青年フランツ・クラーベだった。女性は意識を取り戻した。名前をマリー・サレットといい、アルザス出身のフランス人で、ドイツ語を話すことができた。パリで大清との貿易商をしている父の補佐のため、ブレストからの便で上海へ向かう途中、嵐にあい船が難破し遭難した。フランツは彼女に一目ぼれし、甲斐甲斐しく世話を焼くうちに、二人は恋仲となった。一年後の統一歴147年の夏、セント・クリストファー教会で結婚式を挙げた。
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アラスカ・ショートパンツ教会

統一歴150年、アラスカ第二王子アタナージウスは、トラキア・ローマ帝国皇太子エウドクシアと結婚した。これに伴い、トラキアの宿敵であるフランス帝国との関係が悪化すると、フランス出身者へのアラスカ国内での風当たりは強くなった。アラスカでは女性にショートパンツの着用を推奨、ないし強制するショートパンツ国教会が権勢を誇っていた。その中で、特に保守的なカトリック教徒であり、ショートパンツの着用に強い忌避感をもちたびたび反抗したフランス人女性は目を付けられていた。次第に弾圧の手は離島にも及んでゆき、やはり頑なにスカートを着用していたマリア・クラーベ(ドイツ風に改名)も本土から派遣された異端審問官に連行されてしまった。こうした事態を予期していたマリアは、たびたびフランスに住む父シモンの下へ手紙で状況を嘆いていた。連行を境に急に手紙が途絶えたことで、シモンは最悪の事態を想像し周囲に相談すると、たちまちパリ中に広まった。フランスでは言わずもがな短パンは男性の服であり、女性がキュロットを着用するなど言語同断であった。異国の同胞の境遇に、ただでさえ宿敵と結んだアラスカへの反発はつよまり、フランス皇帝エリックのもとには、干渉への嘆願書まで届くような事態となった。エリック帝にとって、トラキアの同盟国であるだけでなく、フランス=大清間の航路に睨みを効かせるアラスカへ干渉する材料はまたとない機会であった。また、ローマを失ったアヴィニョン教皇クレメンスも、カトリック権威の強化のため、これを異端と認定し討滅しようとした。両者の利益は合致し、戦争も視野に入れた干渉計画が作られた。
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 開戦

開戦へ

フランス政府は在アラスカフランス人への配慮やマリア・クラーベの解放を求め、在アラスカ大使館を通じ交渉していたが、トラキアとの同盟や反フランス、反スカートの国内世論に押され、拒否を続けた。こうした態度にフランス世論も開戦の声が大きくなった。パリの主要な大通りでは女性たちがこれ見よがしにスカートを身に着け行進し、秘密結社ペチコー党が結成されると、アラスカ製品の不買運動を展開し、アラスカ経済は打撃を受けた。こうした動きにエリック帝は便乗し、対アラスカ全面禁輸を実施した。フランスだけでなく、主要な貿易相手である大清やエルドランドとも取引できなくなり、アラスカも後には引けなくなった。同盟国トラキアと協議し、開戦へ向かっていった。統一歴151年夏、フランスは大清やエルドランドに陸海軍を派遣し、アラスカ攻撃の準備を進めた。フランス、エルドランド、大清人からなる混成部隊だった。また、南仏ニースにも軍を集結させ、対トラキアも覚悟していた。対抗してアラスカ、トラキアも動員をかけた。開戦は間近であった。統一歴151年9月、フランスはアラスカへ最後通牒を突き付け、アラスカ・ショートパンツ国教会は回答の代わりとして、首都アンカレッジでマリア・クラーベを火刑に処すと発表した。フランスはアラスカ、トラキアに宣戦布告し、アラスカ・ショートパンツ戦争が始まった。
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 開戦後の経緯

初動~コディアック沖海戦

フランスはマリア・クラーベの救出のための行動に出た。アラスカ内部でも火刑には賛否が分かれ、宗教支配へ反抗する暴動も起きていた。この猶予の間に勝利を収めんと、フランス主力艦隊は青島港を出港した。アンカレッジはフィヨルド湾内に位置する天然の要塞都市である。ここを沿岸砲や艦隊によって守られると、突破は不可能であった。フランス提督ブリュンはアリューシャン列島を戦艦により砲撃しながら北上した。アラスカ艦隊を挑発したのである。また、途中ウナラスカ島へ寄港した際、復讐に燃えるフランツ・クラーベはフランス軍に志願し、水兵として戦艦リモージュに乗り込んでいる。アラスカ艦隊はアンカレッジを出港し、フランス艦隊の補足へ向かった。5月半ばにアラスカ艦隊はコディアック島沖でフランス艦隊を補足し、決戦を挑んだ。ブリュンは完璧な布陣でアラスカ艦隊を迎え撃った。両艦隊は交戦距離に入った。アラスカ旗艦ミヤマの砲声によって戦闘は始まった。フランス艦隊は戦艦の数で大きく上回っており、砲撃によりアラスカ艦隊に損害を与えていった。緒戦はフランス艦隊の優勢であり、ブリュンも勝利を確信した。しかし、戦闘途中で急に海が荒れだした。気まぐれなアラスカ海流の悪戯である。アラスカ艦隊提督ブルクスミュラーは小型艦主体の艦隊を組み、巧みに情勢の変化に対応した。一方で戦艦主体のフランス艦隊は動きが鈍く、隊列が乱れた。すかさずブルクスミュラーは乱れた隊列の隙間に艦隊を滑り込ませた。たちまち形成は逆転し、フランス戦艦は続々と戦闘不能に追い込まれていった。一隻のフランス戦艦が根性を見せた。フランツの乗るリモージュ号である。劣勢の中リモージュが放った砲弾は運よくアラスカ艦隊の一隻を撃破した。リモージュは総反撃を受け撃破されたが、これに勇気を貰ったブリュン提督は立ち直り、艦隊を再びまとめ上げ見事な撤退をしてみせた。ブルクスミュラーは「フランス海軍は負け過ぎて逃走だけは上手くなったのだ」と評した。その通りであった。
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フランス連合軍上陸

コディアック沖海戦から一カ月後、クヴィチャク湾は霧に包まれていた。フランス艦隊の別動隊が、監視の目をくぐりアラスカ・ナクネク沖に接近した。霧に紛れて現れた艦隊に、守備隊や現地住民は恐怖に駆られた。大清の戦艦による支援砲撃の下でフランス連合軍はナクネクに上陸し、守備隊を撃破、市を占領した。部隊は3万ほど。寒さに慣れたエルドランド兵1万に大清兵1万5千、残りはフランスの選抜兵や近衛兵であった。率いるはフランス皇帝エリック。またしても。この襲来にアラスカ政府は混乱した。アラスカは早くもこれから冬が到来し、港が凍結するため艦隊は撤退せざるを得ない。このタイミングでの侵攻は自殺行為であり、来春へ向け防衛体制を構築している途中だった。フランス連合軍は村々を略奪しながら川を遡り、イリアムナ湖にたどり着いた。アラスカはスキー兵などを用いて追撃し、後方部隊を攻撃しつついくつかの村を取り戻したが、兵力の不足から本隊へ決戦は挑まなかった。そのうちフランス連合軍はイギーヒグに5千、コカーノックに2万で駐留し、冬営に入った。アラスカ軍はフランス軍を恐れ、充分な兵力、補給の揃う来春の攻勢を決め、冬季休戦へと入った。
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ゴルツォネの戦い

一方で、フランス=トラキア間では、開戦すぐの9月初めから、ヨーロッパでも戦端が開かれた。対トラキア戦線を任されたフランス皇太子、ケベック大公シャルルは大陸軍を率いヴェローナを攻撃した。シャルル大公はヴァーゴの戦いで救援にかけつけたトラキア軍を破り、包囲下においたヴェローナも陥落した。南方でもウジョア元帥によってトラキア軍はポー川の向こうへ追いやられた。イタリア方面軍司令官リュシマクスは先の大戦から続く失態により罷免された。イタリア戦線で苦戦続きのトラキアでは、イタリア方面軍司令官の職は死亡フラグのように扱われ、後任探しに難航したが、結局元士官学校校長のルキウス・アハラ大将に押し付けられた。さらに、一人の勇敢な青年が前線での勤務を希望した。フィリッポポリス公爵アタナシウス。アラスカ王子であり、トラキア皇太子エウドクシアの配偶者となったその人である。当初議会や内閣は、あまりの若さや、皇族という身分からから難色を示したが、かつての師であるアハラ大将の信任厚く、アラスカ陸軍や帝国軍で発揮した才覚は可能性を秘めていた。内閣と参謀本部も賛同し、精鋭兵を束ねるベテランである大将の補佐のもと、アタナシウス公はイタリアで軍務に就くこととなった。アタナシウス公が前線司令部のパドヴァに着いたとき、シャルル大公のフランス軍はビチェンツァにおり、パドヴァを伺っていた。大公は増強を受けたトラキア軍に対し、慎重を期しフェラーラのウジョア軍に合流を命じた。大公は緒戦での消極的なトラキア軍を侮っていた。トラキア軍はバッキリオーネ川に囲まれたパドヴァで防衛体制を敷いており、これは結実な策だったが、血気盛んな若者であるアタナシウス公には我慢ならなかった。彼の攻勢作戦は将校や参謀たちの反対に合ったが、彼は近衛兵を率い飛び出してしまったので、軍はついていかざるを得なかった。フランス軍、ウジョア第4軍はモンセリチェを目指し北上をはじめ、ポー川を渡りゴルツォネ川に差し掛かっていた。

フランス軍、ウジョア第4軍はモンセリチェを目指し北上をはじめ、ポー川を渡りゴルツォネ川に差し掛かっていた。対岸を斥候に探らせ、先遣隊を送り確保させた。シャルル大公の本隊はパドヴァに近づいており、伝令でもパドヴァに動きなしと伝えられていた。パドヴァに残った5千のセルビア兵を率いる将軍ネコスキーはありったけの大砲を鳴らし兵数を錯覚させていた。アタナシウス公率いるトラキア軍はゴルツォネ川を渡河し終えたフランス・ウジョア第4軍を急襲した。ウジョアは慌てて隊列を整えた。両者は戦闘を開始、ゴルツォネの戦いが始まった。トラキア軍は数でも勢いでも優勢であったが、歴戦の将であるウジョア元帥は素早く戦列を整え、頑強に抵抗した。背中に銃弾を受けながらも前線で指揮を執るその気迫の前に、優勢なはずのトラキア軍の方が気圧されるほどだったという。さらに元帥と同じグアドループ出身兵からなるサン=タンヌ連隊は捨て身の至近距離集中砲火を行い、トラキア軍戦列に穴を開けた。すかさずモンブラン将軍は予備騎兵を率い突撃をかけた。
この突撃が成功していれば、フランス軍はトラキア軍をイタリアからたたき出すことができていただろう。これを撃退したのは、アタナシウス公だった。公は最強と名高いフランス騎兵を恐れるトラキア騎兵を鼓舞し、少数の近衛騎兵を率い自ら先頭に突撃していった。トラキア騎兵も追従し、両騎兵の戦いは激戦となった。フランス軍も最後の力を振り絞り猛攻をかける中で、トラキア軍もまた、総指揮を引き継いでいたメテッルス将軍でさえ、騎兵の支援のために自ら前線の砲を指揮し、操作までしたという。しばらくして、先に力尽きたのはフランス軍だった。フランス騎兵は精強とはいえ、川沿いの縦深のない戦場では、待機時点で既に少なくない損害が出ていたことが災いした。また、アタナシウス公の指揮や馬上戦闘も見事なものであった。ウジョア元帥は撤退を指示した。トラキア軍は強行軍により重砲が行軍に追いつかなかったため、フランス軍背後の橋を破壊できていなかった。またサン=タンヌ連隊が元帥とともに最後までふんばり、多くの兵を撤退させた。それでも少なくないフランス兵はトラキア騎兵の餌食となったり、川に逃れ溺死するなどした。ウジョア第4軍はフエラーラまで後退せざるを得なかった。トラキア軍の快勝であった。
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ヴェローナの戦い

ゴルツォネの戦いを経て、アタナシウス公を疑うものなどいなかった。彼はその勇気でもって、帝国の皇子たるに相応しい人物と知らしめた。アタナシウス公は南のフランス軍をひととおりポー川の向こうに追いやると、川沿いに北上しマントヴァやフエラーラを脅かした。これに仰天したのはシャルル大公だ。いつの間にか、友軍が敗走していたどころか、背後に回り込まれ包囲されかけていたのである。シャルル大公は慌ててヴェローナへ後退した。後退の最後尾を担ったブルイエ師団は、ネコスキー将軍の追撃を手痛い追撃に晒された。
勢いに乗るアタナシウス公は、ヴェローナで渡河しようとするフランス軍を押し戻し孤立させるため、攻勢に出た。フランス軍は順番に橋を渡っている最中で、先にヴェローナ市内へ入った第33師団は、ジデンローヴ元帥指揮の下で即席のバリケードを築き、押し寄せるトラキア軍と戦った。この戦いでは焦りから無理な攻勢に出てしまい、大砲の前に大きな被害を出した。アタナシウス公自身も市内に乗り込んだ際に狙撃を受け、後送された。指揮官負傷によりトラキア軍は攻撃を中止し撤退した。ヴェローナの戦いはフランス軍が勝利した。イタリアにも冬が近づいていた。シャルル大公は、ポー川沿いにさらに西へ後退していたウジョア軍との連携のため、自身もヴェローナを放棄しマントヴァまで後退した。トラキア軍はヴェローナを占領した。
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イリアムナ湖畔の戦い

アラスカ軍は翌春の戦闘再開に向け、フランス軍の駐留するイリアムナ湖方面へ兵を集結させていた。そして季節は4月となった。アラスカではまだまだ冬だが、充分な兵力が集まったことで、アラスカ軍はフランス軍陣地へ総攻撃をかけた。
アラスカ軍はクヴィチャク湾から船でまだ氷の残る川を上り、イギーヒグを攻撃した。フランス連合軍は川に火をつけた丸太船を流し妨害するなどして抵抗したが、程なくして村は陥落し、アラスカ軍が奪回した。コカーノック村では、フランス連合軍の最大駐留地として木材などで要塞化されていたが、充分な準備時間のあったアラスカ軍は砲の集中攻撃で砦を破壊しなだれ込んだ。しかし、こちらではフランス連合軍兵士は頑強に抵抗した。あらゆる民家に立てこもり、アラスカ軍兵士を狙撃した。それでもそのうちに数に押され、敗走が始まった。多くはイリアムナ湖に追い詰められ、氷上に逃げたところを砲弾で氷を割られ、湖に落ち溺死するか凍死するかした。今でも湖で釣りをすると、装備が釣れることがあるという。
フランス連合軍は、当たり前だが冬のアラスカの田舎ではろくに物資もなく、孤立していた。アラスカ軍の総攻撃に耐えられるはずもなかったのだ。西アラスカの一連の戦いは、アラスカ軍の大勝に終わった。
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アラスカ山脈超え

アラスカ王マティアスは勝利の報告を受け取ると大喜びし、憎きフランス皇帝の身柄を待ちわびた。しかし、待てど暮らせど死体さえ見つからず、それどころかイリアムナ湖の戦いに参加したフランス連合軍兵士の数は2~3千程度と、異様に少なかった。結局残余の行方は知れず、マティアスは行き倒れ凍死するかグリズリーに食われたのだろう、と結論付けた。
ところが4月に入ったとき、恐るべき報せが届く。スクウェントナがフランス軍によって占領されたというのだ。アンカレッジ市民は亡霊の仕業だとこれを恐れた。しかし、スクウェントナから逃げ延びた守備兵によると、なんてことはない、消息を絶っていたエリック帝とフランス連合軍主力は、冬のアラスカ山脈を越えてアンカレッジ平原へとたどり着いていたのだ。このときアラスカ軍は山脈の向こう側であるイリアムナ湖あたりに集中しており、アンカレッジまではがら空きだった。アラスカは空前の大ピンチに陥った。
フランス連合軍は南下し、アレクサンダー・クリークを占領した。市に抵抗力はなかった。いよいよ首都アンカレッジの目の前にフランス連合軍が迫った。マティアス王はこの事態に、市民義勇兵を募る大演説を打ち、市民の愛国心に訴えた。さらに市民の心を掴むため、ショートパンツ娘をいかに愛しているかを3時間に及び演説した。王妃も自らショートパンツを纏い姿を見せたという。この姿勢にショートパンツ教会も全面協力の意向を示し、市民もこれによく応えた。老若男女問わず多くの市民が義勇兵となり、退役兵らが即席で訓練した。勿論、みなショートパンツだった。さらに退路を断つため、マリア・クラーベの処刑を実行してみせた。中央広場でマリア・クラーベは火刑に処され、市民はショートパンツ万歳を叫んだ。
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マッケンジーの戦い

アラスカ義勇軍はアンカレッジ前方、ポイント・マッケンジーに布陣した。首都を背に、立ちふさがるようであった。これに対しフランス連合軍を率いるエリック帝はといえば、焦っていた。というのも、実に当たり前であるが、冬のアラスカ山脈を大軍で越えるのは、無茶だった。無理ではないのが恐るべき点ではあるが、フランス連合軍は極めて寒さに強いエルドランド人の選抜兵でさえ半数が死亡していた。エリック帝には後がなかったのである。しかし、勝てば首都占領が成り、勝利に手がかかる。この戦いは、アラスカ・ショートパンツ戦争の趨勢を決める戦いだった。
アラスカ義勇軍は平地に杭を打ち、塹壕を掘り、大砲を並べた。これに対しフランス連合軍は多くの装備を放棄しながら山越えしたため、破壊は困難だった。エリック帝は一点にとにかく残る砲とフランスの精鋭兵を集中させ、突破を試みた。この猛攻に素人の義勇兵は恐怖にかられ戦意喪失したり逃げ出してしまう。しかしこの穴はアンカレッジ守備兵やアラスカの王室親衛隊が投入され、見事に耐え抜いた。さらに義勇兵に対してはマティアス王自ら戦陣に赴き鼓舞し、ショートパンツ総主教も出向いて神の加護を示した。義勇兵たちはぞくぞくと戦線に戻っていき、遂にフランス軍の攻勢を挫いた。
エリック帝は一か八かの突撃を決意し、近衛騎兵と共に敵陣、マティアス王の下へ突撃した。義勇兵の戦列を突破し、いよいよ王と総主教のいる本陣へ迫った。エリック帝は剣を振り上げ、マティアス王の元へ振り下ろした。絶体絶命の折、ショートパンツ総主教が掲げていた、先の演説の際王妃が着ていたショートパンツが風に飛ばされ、たまたまエリック帝の愛馬メトラッハの目を覆った。メトラッハは驚き暴れ、エリック帝は振り落とされた。マティアス王は九死に一生を得たのだ。さらに前線に出ていた親衛隊が戻ってくると、近衛騎兵隊長アティサーリ将軍はエリック帝を拾い撤退した。
日が暮れ、フランス連合軍は戦場を離れた。アラスカ義勇軍は見事に首都を守り抜いたのだ。
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パヴィアの戦い

アラスカ戦線での皇帝行方不明はイタリア戦線のフランス軍兵士の間に動揺を齎し士気が低下、シャルル大公は敗戦を重ねミラノまで退却した。勢いに乗るアタナシウス公率いるトラキア軍だったが、ラ・ガレオッタの戦いでは、増援のジデンローヴ元帥の軍に側面を衝かれ、敗退した。その後、シャルル大公はパリで皇帝失踪の間に共和主義者の陰謀があると報せを受け、安定化のためにパリへ一時帰還した。その間に戦線の整理を命じられたジデンローヴ元帥は、冬に紛れ巧みに後退し、いくつかの小戦闘でアタナシウス公を撃退しつつ、アッダ川の西に下がった。
パリでシャルル大公を待っていたのは、共和主義者とは別の戦いであった。大公はブーローニュに集結していた大陸軍主力の大軍をイタリア戦線へ連れていこうとしたが、ボナパルト主席国務大臣と対立した。大公がイタリア主義者であったのに対し、ボナパルトは英独同盟を最大の敵と認定しており、これに備え大陸軍を手元に残そうとしていた。トラキアとの全面対決にも否定的だった。とはいえブーローニュへの駐留は、ヴァルキアに最大限配慮しての遠方配置であり、この無駄のジレンマは両者とも共有していた。結局結論は皇帝不在を理由に先送りとなり、春を前に大公はイタリアへ戻った。
四月になると、アタナシウス公は動き出した。ミラノを無視し、ポー川の南岸へ迂回しパヴィアを狙った。ミラノを中心に防衛体制を築いていたシャルル大公を引きずりだした。パヴィアの戦いが始まった。とはいえ、一度戦闘を決意したシャルル大公の動きは素早く、ミラノ防衛にジデンローヴ元帥を残しつつ、イタリア方面軍やブーローニュからの増援ウダンクール元帥を伴い南下し、先頭のブーランジュ将軍は着くや否や果敢に攻撃をかけた。ポー川、ティチノ川と渡河する必要のあったトラキア軍は、アタナシウス公が春の雪解け水による増水を知らず、これに時間がかかっており、先頭で渡った部隊は少数で橋頭保を維持しなければならなかった。先のヴェローナの戦いと似た構図となり、雪辱に燃えるアタナシウス公とトラキア軍は、撤退を選択せず、攻撃を続けた。

アタナシウス公は騎兵を率い北上し、セドネで渡河し、ミラノ方面からパヴィアへ向かうフランス軍縦列を急襲した。ファブリーズ師団を中心に迎え撃ったが、こうした散発的な襲撃の前に、フランス軍の行軍は鈍った。その間に、トラキア軍は大量の大砲の支援を受けながら自慢の工兵がポー川に一斉に橋をかけ、続々と渡河に成功した。次第にパヴィアにおけるフランス=トラキア間の戦力比は逆転し、差が開いていった。さらに、セルビア軍がベルジオヨーソ村を占領し、趨勢は決定的となった。シャルル大公はパヴィアの一時放棄を決定し、ミラノ、サヴォイアの集中防衛を選択し撤退した。パヴィアの戦いもトラキア軍の勝利となった。
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アラスカ撤退戦

マッケンジーの戦いによって、アンカレッジ攻略に失敗したフランス・アラスカ遠征軍司令官たるエリック帝は、これ以上アラスカに留まるのは困難と判断し、アラスカ撤退を決断した。しかし、これはそれ以上の困難が伴う撤退だった。アラスカ遠征軍は消耗し、撤退ルートたる海岸線には首都へ戻ってくるアラスカ主力軍がいた。再度の山脈越えは不可能であり、敵中突破しかなかった。さらに、春のアラスカは雪解け水で酷いぬかるみに覆われていた。
五月初め、撤退戦が始まった。フランス軍はササイトナ川を戻った。目標はタイオネック村だった。この頃、ようやくアラスカ軍主力が戻ってきており、村を守らんと前方に布陣した。フランス軍は撤退戦のため、なんとしても村の物資が必要だった。アレクサンダー・クリークでは、占領する前に市民が逃げ出しており、物資も持ち出されていたためだ。緒戦はアラスカ軍が圧倒した。フランス軍は得意の騎兵戦術が消耗とぬかるみによって使えず、こうした環境に慣れたアラスカ軍はエルドランド兵戦列の火力に冷静に対応し反撃を加えた。しかし、フランス軍にとっての希望もまた、エルドランド兵のみであった。他は寒さとぬかるみにより疲労、疲弊し、凍傷ないし病気といった有様、で、元気のあるのはエルドランド兵のみだった。エリック帝は一度彼らを下げ、休ませつつ再編させた。その間は近衛兵を繰り出し、持ちこたえさせた。彼らは圧倒的寡兵ながら時間を稼ぎきり、フランス兵の意地を見せた。
午後になると、エルドランド部隊による逆襲が開始された。この遠征でとくに優秀であった兵によって選抜歩兵を組織し、アラスカ軍の一点を集中攻撃し、突破に成功した。フランス軍は一斉にタイオネック村へ駆け込んだ。しかし、時すでに遅く、村人や物資は非難を済ませた後だった。村とフランス軍は包囲され、アラスカ軍は降伏を呼び掛けた。

タイオネック村のフランス軍は絶対絶命だった。エリック帝もマルシアル元帥と投降を真剣に検討していたという。しかし、ここで光が差した。港に駐留していた一隻の漁船が、フランツ・クラーベの叔父のものだという。クラーベは海戦後アラスカ軍の捕虜となっていたが、アレクサンダー・クリークの収容所にいたところを、アラスカ遠征軍によって解放されていた。彼の案内で、エリック帝は夜のうちにマルシアル元帥はじめ少数の側近や古参兵とともにこの漁船に乗り込んだ。さらに幸運なことに、このときクック湾は深い霧に包まれていた。世闇に紛れ、漁船は出航した。
翌日になると、アラスカ軍の総攻撃が始まり、程なくしてタイオネック村のフランス軍は降伏し、捕虜となった。またしてもエリック帝一行は見つからず、マティアス王は非常に焦った。しかし、今度は翌日には太平洋でフランス艦が一行を無事に回収したという報道が伝わった。まんまと逃げおおせたエリック帝だが、アラスカ遠征、そしてアラスカ・ショートパンツ戦争においては、完全敗北だった。一か月ほどして、エリック帝はパリに帰還した。無事や山脈越えの栄光を湛えられても、慰めに過ぎなかった。消沈した彼はアラスカ、トラキア両国と講和を打診した。アラスカ政府やマティアス王は和平に同調した。そもそも開戦の切欠が意味不明であったし、パニックを起こした市民の暴走とはいえ、マリア・クラーベの火刑は世界中から非難を集めており、国際的地位の回復が先決だった。トラキア軍も一定の戦果を収めたことでこれに合意した。
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 終戦と講和

講話会議はアラスカ・コディアック市で開かれた。エリック帝は「アラスカはもうこりごりだ」と言い、腹心のラ=プラティエ外務大臣を派遣した。アラスカ代表はトルステン・ハイメロス外務大臣、トラキア代表はアナスタシア外務大臣であった。
講和条約では、フランスは大人しく賠償金を支払った。その代わりとして、アラスカ政府にはショートパンツ教による異教徒の弾圧を止めるよう要請し、アラスカ政府及びマティアス王は合意した。保釈金が支払われ、捕虜も解放された。コディアック条約が締結され、戦争は終結した。
imageプラグインエラー : 画像URLまたは画像ファイル名を指定してください。コディアック講和会議

 影響

戦後、アラスカでは、国防に貢献するところ大であったショートパンツ教会はいっそう権勢を強め、市民の支持のもと、異教徒への弾圧はいっそう強化されていった。条約に基づきフランス政府などが抗議したものの、最早この宗教的情熱は政府や国王の力を越えていた。
トラキアでは、男を上げたアタナシウス公がとにかく持て囃された。この皇子さまをトラキア人は深く愛し、公もまた戦を共にした兵や市民を心から愛した。かつての大戦におけるイタリア戦線で何度も辛酸を嘗めさせられたフランスの皇太子に土をつけたことで、彼の軍事的才能を疑うものはいなくなった。一方のシャルル大公はというと、あまりの消極性とだらしなさを帰国したエリック帝に叱責されていた。噂によると、このとき大公は性病でかゆかゆであったと言われる。長いイタリア暮らしの中で、若さを持て余し、イタリア女に溺れる性活…もとい生活だったという。しかし、エリック帝もかつてはバスク戦争などで痛い目を見て成長したことを想えば、良い経験になったのかもしれない。
エリック帝は散々な敗北を喫したものの、少数の手勢で以て健闘したこと、そしてなにより冬のアラスカ山脈越えという無茶が国民ウケし、称えられた。エリック帝は側近に「次はもっとうまくやる」と漏らしたとも言われている。この戦争で力と忠誠を示したエルドランド兵をエリック帝はいたく気に入り、生還者は近衛兵や選抜歩兵に取り立て、エルドランド王国へも好感を抱き、首都を訪問した。余談だが、フランツ・クラーベはそのままフランス軍に入隊した。いつの日か復讐を果たす日が来ると信じて。
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 関連項目

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 参考文献

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最終更新:2021年09月15日 02:55