この文章には流血表現や人によってはグロテスクと感じるシーンが含まれています。
鉄錆の街 1 1-656様
普段は山で暮らすヨツヅメペリパは、秋になれば食物を求めて彷徨う。この死んだ街へと迷い出てくることも稀ではなかった。
鉤爪のある無数の脚を持ち、全体的にはゴカイの類に似て見えるが、図体は熊よりも大きい。肉であれば人も獣も区別せず食らうこの捕食者に襲われて死ぬものは多い。
だが、今はそのビロウドの如き皮膚は裂け、緑の体液を流している。
対峙する男も又、人間には見えぬ。逞しい体は銀灰色の剛毛で覆われ、顔は鮫めいて獰猛である。黒い毛が隈取りのように眼鼻を縁取り、厳つい顔をさらに凶悪に見せていた。
鉤爪のある無数の脚を持ち、全体的にはゴカイの類に似て見えるが、図体は熊よりも大きい。肉であれば人も獣も区別せず食らうこの捕食者に襲われて死ぬものは多い。
だが、今はそのビロウドの如き皮膚は裂け、緑の体液を流している。
対峙する男も又、人間には見えぬ。逞しい体は銀灰色の剛毛で覆われ、顔は鮫めいて獰猛である。黒い毛が隈取りのように眼鼻を縁取り、厳つい顔をさらに凶悪に見せていた。
体液を撒き散らしながら、怪物はあぎとを鳴らし、粘液の糸を吐き出した。そいつを身を捻ってかわし、続いて体当たりを紙一重で回避して、脇腹に剣を振り下ろす。ぎょおうっとなんとも言いようがない悲鳴が上がり、さらに体液が飛沫いた。闇雲に振り回される脚をおそれて距離を取り、男は改めてその様子を観察する。
傷つき怒り狂ってはいるが、異形の生命力は強く、数本脚を落とした程度では大して弱った様子もない。男はひとつ舌打ちをすると、身を翻して駆け出した。
獲物を逃がすまいとして、ペリパは全速力で後を追ってきた。鉤爪がアスファルトを削り取る。速度でははるかにこちらが勝るが、撒くのが目的ではない。うまく付かず離れずの距離を保ち、目的の場所へと誘導を試みる。
そこは半壊したビル、瓦礫に足を取られればそれで仕舞だ。否応なしに速度を下げた男の襟首に、獲物が近付いて歓喜した怪物の呼気がかかる。
「甘いんだよ、バカ野郎!」
獰猛な笑みを浮かべ、男は最後の距離を跳躍する。踏み出したペリパの足もとががらがら崩れ落ち、巨体が粉塵の中に消えた。落とし穴である。知性のない動物の悲しさ、最古の罠にも簡単に引っ掛かってくれる。脱出の隙を与えず、もがくそれの首の後ろを力任せに刺突。神経節を破壊され、ペリパは瞬時に絶命した。
傷つき怒り狂ってはいるが、異形の生命力は強く、数本脚を落とした程度では大して弱った様子もない。男はひとつ舌打ちをすると、身を翻して駆け出した。
獲物を逃がすまいとして、ペリパは全速力で後を追ってきた。鉤爪がアスファルトを削り取る。速度でははるかにこちらが勝るが、撒くのが目的ではない。うまく付かず離れずの距離を保ち、目的の場所へと誘導を試みる。
そこは半壊したビル、瓦礫に足を取られればそれで仕舞だ。否応なしに速度を下げた男の襟首に、獲物が近付いて歓喜した怪物の呼気がかかる。
「甘いんだよ、バカ野郎!」
獰猛な笑みを浮かべ、男は最後の距離を跳躍する。踏み出したペリパの足もとががらがら崩れ落ち、巨体が粉塵の中に消えた。落とし穴である。知性のない動物の悲しさ、最古の罠にも簡単に引っ掛かってくれる。脱出の隙を与えず、もがくそれの首の後ろを力任せに刺突。神経節を破壊され、ペリパは瞬時に絶命した。
遥か昔、人間が世界の王として栄えた時代があったという。翼に頼らず飛び、ヤジリネコより速く地を駆け、果ては空の彼方、星々の世界へと旅をする者がいた、そんな時代。しかしそれも今となっては伝説でしかない。今や人間は数多のけだものに追われ、惨めに地を這いまわる獣に過ぎぬ。
殆どの人間が怪物を恐れ姿を隠す中、この男の様に、狩られる立場から、狩る側へとならんとする者達がいた。しかし相手は人間よりはるかに強靭、容易に屠れはしない。数多の犠牲が出る中で、狩人たちはいつしかより強大な力を得んと、異形の体の一部を己が身に移植するようになった。
異形共は形も大きさも千差万別、何故かれらと人間の間に移植が成り立つのかはいまだ解明されておらぬ。声を潜めて囁かれるところによれば、怪物達もまた、かつて力を求め、おぞましき外法に手を染めた人間のなれの果てであるとのことだ。
その説の真偽はともかくとして、移植は今では普通に行われている手術の一つである。需要があるならば供給が生まれるのは自然な流れ、移植パーツを売り買いすることは、人々の間では常識となっていた。
殆どの人間が怪物を恐れ姿を隠す中、この男の様に、狩られる立場から、狩る側へとならんとする者達がいた。しかし相手は人間よりはるかに強靭、容易に屠れはしない。数多の犠牲が出る中で、狩人たちはいつしかより強大な力を得んと、異形の体の一部を己が身に移植するようになった。
異形共は形も大きさも千差万別、何故かれらと人間の間に移植が成り立つのかはいまだ解明されておらぬ。声を潜めて囁かれるところによれば、怪物達もまた、かつて力を求め、おぞましき外法に手を染めた人間のなれの果てであるとのことだ。
その説の真偽はともかくとして、移植は今では普通に行われている手術の一つである。需要があるならば供給が生まれるのは自然な流れ、移植パーツを売り買いすることは、人々の間では常識となっていた。
こいつは比較的傷みにくい動物だが、解体は早いに越したことはない。時間が経てば経つほど鮮度が落ち、ひいては買い取り価格も落ちる。必死こいて持ち帰ったパーツがタダみたいな値段で買いたたかれるなんて事にもなりかねない。
まず高価なのが粘液腺、顎の脇にふたつ。次に高いのは顎、内部構造まで残っていた方がいい。面倒なので頭ごと切り落として持ち帰る事にし、胴に移る。4本の鉤爪はそこそこの値がつくが、胴体の皮膚はずたずたに引き裂いてしまったのでもう使いようがないかもしれん。
全身の体毛を体液で濡らしながら巨大な鉤虫の骸と向き合っていたところ、ふと妙なモノが目に留まった。粘り気のある銀の糸に包まれた塊である。ペリパは粘液の糸で獲物を絡め捕り、安全な場所まで運んでから喰うという。つまりこれは怪物の今宵の晩飯なのだ。
よくもまあ、あの騒動の中踏みつぶされずに残っていたものだ。中身が売れれば儲け物だと、つつみを切り開いてみると、そこには――
まず高価なのが粘液腺、顎の脇にふたつ。次に高いのは顎、内部構造まで残っていた方がいい。面倒なので頭ごと切り落として持ち帰る事にし、胴に移る。4本の鉤爪はそこそこの値がつくが、胴体の皮膚はずたずたに引き裂いてしまったのでもう使いようがないかもしれん。
全身の体毛を体液で濡らしながら巨大な鉤虫の骸と向き合っていたところ、ふと妙なモノが目に留まった。粘り気のある銀の糸に包まれた塊である。ペリパは粘液の糸で獲物を絡め捕り、安全な場所まで運んでから喰うという。つまりこれは怪物の今宵の晩飯なのだ。
よくもまあ、あの騒動の中踏みつぶされずに残っていたものだ。中身が売れれば儲け物だと、つつみを切り開いてみると、そこには――
柔らかな栗色の髪。桜色の唇はぎゅっと噛みしめられ、眉は今にも泣き出しそうに歪められているが、そんな表情を浮かべていてもなお愛らしい。気を失ったままに獣人に伴われて来た少女は、瘴気漂う鉄錆の街にはおよそ似つかわしくなかった。
「おやァ、ケルビーノ。隠し子かい?」
「いねェよそんなもん。拾いもんだ」
エビに似た触角を震わせつつ、そうだろうねえ、あんたの子にしちゃ可愛すぎると部品商人の老人は呟いた。
「そいつの事はどうでもいい。幾らになるんだ、早くやってくれ。帰らにゃならん」
命がけで狩った獲物だ、安く買いたたかれてはたまらない。ケルビーノは牙を剥き出して見せる。
「おやァ、ケルビーノ。隠し子かい?」
「いねェよそんなもん。拾いもんだ」
エビに似た触角を震わせつつ、そうだろうねえ、あんたの子にしちゃ可愛すぎると部品商人の老人は呟いた。
「そいつの事はどうでもいい。幾らになるんだ、早くやってくれ。帰らにゃならん」
命がけで狩った獲物だ、安く買いたたかれてはたまらない。ケルビーノは牙を剥き出して見せる。
「で、その子はどうするの?売るのかい?」
その顔が一瞬虚を突かれたような表情を浮かべる。
「・・・買うのかよ?」
「ま、仕事だからねェ。女で、若くて、しかもこんなに可愛い子と来たもんだ。部品にしようが丸ごと売ろうがそりゃァいい値が付くってもんさァ」
商人はキチキチと外骨格を鳴らして笑う。ケルビーノは一瞬鼻面に皺を寄せ、牙の間から唸るように言葉を吐いた。
「売らねえよ。まだそこまで腐っちゃいねえつもりだ」
「それは残念・・・」
その顔が一瞬虚を突かれたような表情を浮かべる。
「・・・買うのかよ?」
「ま、仕事だからねェ。女で、若くて、しかもこんなに可愛い子と来たもんだ。部品にしようが丸ごと売ろうがそりゃァいい値が付くってもんさァ」
商人はキチキチと外骨格を鳴らして笑う。ケルビーノは一瞬鼻面に皺を寄せ、牙の間から唸るように言葉を吐いた。
「売らねえよ。まだそこまで腐っちゃいねえつもりだ」
「それは残念・・・」
俗説は意外と正しいのかもしれないと、ケルビーノはたまに考える。特に今日のような話を聞いたときには。狩人達は怪物と戦い続けるうちに、肉体のみならず心までも、本来敵である異形と同じくしているのではないか、と。
「どうするかね、これから・・・おい、そいつはおまえのメシじゃねえ」
いつ頃からか部屋に居着いているアカゲケダマが、新たな人間に興味を示したのか、少女の首筋の辺りに触角を寄せ、熱心ににおいを嗅いでいた。大きめの猫程度の大きさしかない、この縫いぐるみのような動物にさえ引き裂かれてしまいそうな娘。
勢いで連れ帰ったはいいが、いかにもひ弱そうなこいつを養い育てていく自信はない。かといって放り出せば、野獣なり盗賊なりの餌食になるのが落ちだ。それでは売り払うのと何も変わらない。全くとんでもないモノを拾ってしまった。
「まあ、仕方がねえやな。これもなんかの縁だ」
幸いもう一人くらいならば養っていける程度の蓄えはある。とりあえず今は目の前にある問題を片付けねばならない、どこかにもう一組位布団はなかったか。
元が何だったかも分からない腐敗物を捨て、山と積まれた食器類をひっくりかえす。落ちてきた金属片に頭を直撃されたケダマが、小さく威嚇音を立てた。
「――――!!」
「うおぅ!」
ゴミと向かい合っていた為、背後の気配に気づくのが遅れた。聞きなれない響きの悲鳴が上がると同時に、枕元に置いていた古いランプが重力に逆らって飛翔してきた。ケルビーノは驚愕しつつも見事な反射神経を見せ、それを受け止める。
「×××!××!」
顔を紅潮させ、震えながら早口で何事かを捲し立てる少女。聞いたこともない言葉なれば、向けられた敵意の出所を知る事もできぬ。
「何だってんだよ・・・」
ケルビーノはただ嘆息する。本当に、とんでもないものを拾ってしまった。
「どうするかね、これから・・・おい、そいつはおまえのメシじゃねえ」
いつ頃からか部屋に居着いているアカゲケダマが、新たな人間に興味を示したのか、少女の首筋の辺りに触角を寄せ、熱心ににおいを嗅いでいた。大きめの猫程度の大きさしかない、この縫いぐるみのような動物にさえ引き裂かれてしまいそうな娘。
勢いで連れ帰ったはいいが、いかにもひ弱そうなこいつを養い育てていく自信はない。かといって放り出せば、野獣なり盗賊なりの餌食になるのが落ちだ。それでは売り払うのと何も変わらない。全くとんでもないモノを拾ってしまった。
「まあ、仕方がねえやな。これもなんかの縁だ」
幸いもう一人くらいならば養っていける程度の蓄えはある。とりあえず今は目の前にある問題を片付けねばならない、どこかにもう一組位布団はなかったか。
元が何だったかも分からない腐敗物を捨て、山と積まれた食器類をひっくりかえす。落ちてきた金属片に頭を直撃されたケダマが、小さく威嚇音を立てた。
「――――!!」
「うおぅ!」
ゴミと向かい合っていた為、背後の気配に気づくのが遅れた。聞きなれない響きの悲鳴が上がると同時に、枕元に置いていた古いランプが重力に逆らって飛翔してきた。ケルビーノは驚愕しつつも見事な反射神経を見せ、それを受け止める。
「×××!××!」
顔を紅潮させ、震えながら早口で何事かを捲し立てる少女。聞いたこともない言葉なれば、向けられた敵意の出所を知る事もできぬ。
「何だってんだよ・・・」
ケルビーノはただ嘆息する。本当に、とんでもないものを拾ってしまった。
鉄錆の街に雨が降る。街を覆う砂塵を溶かしこんで滴る雨滴は、タールのような色合いを見せてコンクリートに染みを作った。
人間には煮沸せねば飲めないそれも、怪物どもには天の恵みであるらしい。この季節には湿り気に頼って、本来水棲の異形たちが人間を喰らわんとして町の近くまで足を伸ばす。
背に刺さる視線を感じながら、ケルビーノは外を眺める。雨はいっかな止む気配を見せぬ。いかに狩人とはいえど、雨降りしきる中に出ていくのは躊躇われる。一つ溜息をつき振り返れば、ケダマを抱いた少女と視線がかちあった。少女は驚いたような表情を浮かべて後ずさり、きつく抱き締められたケダマがぎいっと啼いた。はじめの頃程の敵意は見せなくなったものの、全くこちらに気を許した様子はない。
「別に取って喰いやしねえよ」
その低い声に少女はさらに表情を強張らせた。やれやれとかぶりを振り、ケルビーノは再び窓の外に視線を戻す。ずっと西の方に、雲の切れ間が見えた。雨が上がり次第出て行こう。
人間には煮沸せねば飲めないそれも、怪物どもには天の恵みであるらしい。この季節には湿り気に頼って、本来水棲の異形たちが人間を喰らわんとして町の近くまで足を伸ばす。
背に刺さる視線を感じながら、ケルビーノは外を眺める。雨はいっかな止む気配を見せぬ。いかに狩人とはいえど、雨降りしきる中に出ていくのは躊躇われる。一つ溜息をつき振り返れば、ケダマを抱いた少女と視線がかちあった。少女は驚いたような表情を浮かべて後ずさり、きつく抱き締められたケダマがぎいっと啼いた。はじめの頃程の敵意は見せなくなったものの、全くこちらに気を許した様子はない。
「別に取って喰いやしねえよ」
その低い声に少女はさらに表情を強張らせた。やれやれとかぶりを振り、ケルビーノは再び窓の外に視線を戻す。ずっと西の方に、雲の切れ間が見えた。雨が上がり次第出て行こう。
びゅうと長い舌が伸びた。鈍重なアブラガエルの体の中、ここだけは別の生物のようにぬめぬめと動く。
だが、あまりに単純な動きだ。狙った一点に命中させることしかできないのだから、頭の向きにさえ注意していれば回避も破壊もさほど難しくない。伸びきった一瞬剣を振るえば、舌は寸断されてどさりと地面に落ちた。
「げっげっげっぐ」
短くなった舌を巻き戻しながら蛙がうらめしげに鳴いた。その姿はさながら巨大な蝦蟇、不意にその背が大きくわななき、毒腺から油のような毒液を噴出させる。
「ちっ、目くらましかよ!」
液体は霧のように散布され、ケルビーノは咄嗟に顔を庇う。機を逃さず、どさっと重たげに跳躍してアブラガエルは逃走を開始した。
「逃がすか!」
なるほど跳躍力は大したものだが、騒々しい足音を聞けば逃走経路は丸判り、くっきりと血痕も残っている。後を追うのは簡単・・・「ぐぎょおおぉぉ・・・!!」
両生類の断末魔の咆哮に思わず足が止まる。何事かと驚愕する間もなく、蛙の屍を口吻に突き刺して巨大な昆虫が姿を現した。
「嘘だろ、おい」
昆虫の無機質な複眼がこちらを見据えた。強者の余裕なのか、悪名高きその異形は捕脚に自分より大きな獲物を抱えたまま、それを引きずりながらのんびりと歩を進める。
九重虫。騒動と血の匂いに惹かれてやって来たに違いない。貪欲で獰猛なそれと戦闘になれば、今の装備では対抗する術がない。
見逃してもらえる事を期待し、ケルビーノはじりじりと後ずさる。虫は餌食の体液を啜りながらしばらくそれを眺めていたが、突如ひょいという具合に口吻を引き抜き、とことこ歩み寄ってきた。
たちまち彼我の距離が縮む。目の前に迫った虫の複眼、それに映る己の姿。何に興味を持ったのか、九重虫は首を傾げると、「!」
鎌状の捕脚を伸べて彼を引っ掛けようとした。
ケルビーノは全速力で駆けだした。翅のある相手に速度で敵う筈はないが、建造物にでも逃げ込めればなんとかなるかもしれない。
だがその行動はさらに虫の関心をひく結果となり、九重虫は興奮に複眼を煌めかせ、再び鎌をふるった。
だが、あまりに単純な動きだ。狙った一点に命中させることしかできないのだから、頭の向きにさえ注意していれば回避も破壊もさほど難しくない。伸びきった一瞬剣を振るえば、舌は寸断されてどさりと地面に落ちた。
「げっげっげっぐ」
短くなった舌を巻き戻しながら蛙がうらめしげに鳴いた。その姿はさながら巨大な蝦蟇、不意にその背が大きくわななき、毒腺から油のような毒液を噴出させる。
「ちっ、目くらましかよ!」
液体は霧のように散布され、ケルビーノは咄嗟に顔を庇う。機を逃さず、どさっと重たげに跳躍してアブラガエルは逃走を開始した。
「逃がすか!」
なるほど跳躍力は大したものだが、騒々しい足音を聞けば逃走経路は丸判り、くっきりと血痕も残っている。後を追うのは簡単・・・「ぐぎょおおぉぉ・・・!!」
両生類の断末魔の咆哮に思わず足が止まる。何事かと驚愕する間もなく、蛙の屍を口吻に突き刺して巨大な昆虫が姿を現した。
「嘘だろ、おい」
昆虫の無機質な複眼がこちらを見据えた。強者の余裕なのか、悪名高きその異形は捕脚に自分より大きな獲物を抱えたまま、それを引きずりながらのんびりと歩を進める。
九重虫。騒動と血の匂いに惹かれてやって来たに違いない。貪欲で獰猛なそれと戦闘になれば、今の装備では対抗する術がない。
見逃してもらえる事を期待し、ケルビーノはじりじりと後ずさる。虫は餌食の体液を啜りながらしばらくそれを眺めていたが、突如ひょいという具合に口吻を引き抜き、とことこ歩み寄ってきた。
たちまち彼我の距離が縮む。目の前に迫った虫の複眼、それに映る己の姿。何に興味を持ったのか、九重虫は首を傾げると、「!」
鎌状の捕脚を伸べて彼を引っ掛けようとした。
ケルビーノは全速力で駆けだした。翅のある相手に速度で敵う筈はないが、建造物にでも逃げ込めればなんとかなるかもしれない。
だがその行動はさらに虫の関心をひく結果となり、九重虫は興奮に複眼を煌めかせ、再び鎌をふるった。
しくじった。命があったのだから、むしろうまくやったのか。
脇腹と背に深手を負い、ケルビーノはよろよろと街を歩く。鮮血が止血帯を染め上げ、布から溢れた分が膝を伝い下りていた。降りしきる雨が即座に赤い足跡を洗い流す。
杖代わりにしていた剣に縋ってしばらく息を整えた。雨滴が容赦なく全身を打つ。それは毛皮に浸透し、着実に体温を奪っていく。なんとか気力を呼び起こし、歯を食いしばって首をもたげた。部屋の明かりが見える。ここで死ぬわけにはいかない。
体を引きずるように階段を上り、帰りついて少女の顔を見た瞬間ぐらりと視界が傾く。倒れたのだと気づいたのは顔に床の感触を感じてしばらく経ってからだった。体を起こそうにもどうしても腕に力が入らない。
「××!×××!!」
少女の声が遠くで聞こえ、体が強く揺すられる。そういえばこいつが俺に触れたのはこれが初めてではないか。場違いな考えが頭に浮かんだ。
傷の痛みも濡れた体もすべてが遠くのことのようで、今はただひどく眠い。
ケダマがついと寄ってきた。人間共の様子には頓着せずに傷の周りを嗅ぎまわり、床に流れた血を見つけると、乾き始めたそれを少し舐めた。
ケルビーノは苦笑する。
「おまえ、喰うのか、俺を?」
出したはずの声は吐息にしかならず。
脇腹と背に深手を負い、ケルビーノはよろよろと街を歩く。鮮血が止血帯を染め上げ、布から溢れた分が膝を伝い下りていた。降りしきる雨が即座に赤い足跡を洗い流す。
杖代わりにしていた剣に縋ってしばらく息を整えた。雨滴が容赦なく全身を打つ。それは毛皮に浸透し、着実に体温を奪っていく。なんとか気力を呼び起こし、歯を食いしばって首をもたげた。部屋の明かりが見える。ここで死ぬわけにはいかない。
体を引きずるように階段を上り、帰りついて少女の顔を見た瞬間ぐらりと視界が傾く。倒れたのだと気づいたのは顔に床の感触を感じてしばらく経ってからだった。体を起こそうにもどうしても腕に力が入らない。
「××!×××!!」
少女の声が遠くで聞こえ、体が強く揺すられる。そういえばこいつが俺に触れたのはこれが初めてではないか。場違いな考えが頭に浮かんだ。
傷の痛みも濡れた体もすべてが遠くのことのようで、今はただひどく眠い。
ケダマがついと寄ってきた。人間共の様子には頓着せずに傷の周りを嗅ぎまわり、床に流れた血を見つけると、乾き始めたそれを少し舐めた。
ケルビーノは苦笑する。
「おまえ、喰うのか、俺を?」
出したはずの声は吐息にしかならず。
傷に鈍く響くような痛みが戻っている。心地よい感覚ではないが、痛みさえしないのに比べればましには違いない。いやに重い瞼をこじ開けると、眼前にやわらかな髪の毛があった。
「・・・な」
少女は胸の毛に顔を擦り寄せ、微かに寝息を立てている。か細い体のぬくもりがどうにも気持ちを波立たせ、起こさないように体を離し、寝返りを打った。傷口がじくりと痛む。よく見ると包帯が新たなものに変えられていた。まさかケダマの仕業ではなし、やはり少女の手によるものだろう。
それから数刻、背後に身動きする気配があった。細い手がそっと背に触れ、包帯の上から傷をなぞる。
「起きてる、構うな」
声に指がぴくりと反応したが、結局掌は離れぬまま背を撫で続ける。
「××××・・・?」
いたわるような声の響き。その顔に涙の跡を見つけ、申し訳ないような気持ちになった。
「構うなって、元から大した事・・ッ」
「×××!」
身を起こそうとしてついた腕の力がかくりと抜け、無様に体勢が崩れる。慌てて支えに来た少女の頬に新たな滴が伝っていることに気づき、再び心のどこかに波が立つ。
自分で気づいていないのか、少女は涙を拭いもしない。触れるべきか触れざるべきか散々迷った挙句、ケルビーノは手を伸ばすと少女の頬を乱暴に擦った。その手を握って顔に押し当て、少女は黙って涙を流す。
「いや、すまねえ・・・悪かった」
何が悪かったのかよく分からないが、なんとなく謝らねばならない気がする。嗚咽する少女の背を不器用に撫でながらケルビーノは天を仰ぐ。
怪物ならばいくらでも相手をしようが、すすり泣く、しかも言葉の通じない娘の相手はこの男には荷が重いのだった。
「・・・な」
少女は胸の毛に顔を擦り寄せ、微かに寝息を立てている。か細い体のぬくもりがどうにも気持ちを波立たせ、起こさないように体を離し、寝返りを打った。傷口がじくりと痛む。よく見ると包帯が新たなものに変えられていた。まさかケダマの仕業ではなし、やはり少女の手によるものだろう。
それから数刻、背後に身動きする気配があった。細い手がそっと背に触れ、包帯の上から傷をなぞる。
「起きてる、構うな」
声に指がぴくりと反応したが、結局掌は離れぬまま背を撫で続ける。
「××××・・・?」
いたわるような声の響き。その顔に涙の跡を見つけ、申し訳ないような気持ちになった。
「構うなって、元から大した事・・ッ」
「×××!」
身を起こそうとしてついた腕の力がかくりと抜け、無様に体勢が崩れる。慌てて支えに来た少女の頬に新たな滴が伝っていることに気づき、再び心のどこかに波が立つ。
自分で気づいていないのか、少女は涙を拭いもしない。触れるべきか触れざるべきか散々迷った挙句、ケルビーノは手を伸ばすと少女の頬を乱暴に擦った。その手を握って顔に押し当て、少女は黙って涙を流す。
「いや、すまねえ・・・悪かった」
何が悪かったのかよく分からないが、なんとなく謝らねばならない気がする。嗚咽する少女の背を不器用に撫でながらケルビーノは天を仰ぐ。
怪物ならばいくらでも相手をしようが、すすり泣く、しかも言葉の通じない娘の相手はこの男には荷が重いのだった。
それから数刻。泣き疲れた少女は眠りにつき、ケルビーノはその寝顔を見ながら悪態をつく。
「何だってんだよ畜生」
この娘と向き合っているとなぜだか落ち着かない。それなら離れればいいようなものだが、枕にされてしまった為にそういう訳にも行かないのだった。
可能な限り顔を背け、無理に目を閉じるも寝息が入眠の邪魔をする。
「ち」
舌打ちを一つ。ついに眠るのを諦め、柔らかな感触をつとめて無視しながら夜明けを待つ事にしたケルビーノであった。
「何だってんだよ畜生」
この娘と向き合っているとなぜだか落ち着かない。それなら離れればいいようなものだが、枕にされてしまった為にそういう訳にも行かないのだった。
可能な限り顔を背け、無理に目を閉じるも寝息が入眠の邪魔をする。
「ち」
舌打ちを一つ。ついに眠るのを諦め、柔らかな感触をつとめて無視しながら夜明けを待つ事にしたケルビーノであった。
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