車種名 | CCS |
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クラス | E |
最高出力 | 100ps |
車体重量 | 670kg |
パワーウェイトレシオ | 6.7 |
吸気形式 | 自然吸気 |
駆動方式 | FF |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | 7.29sec. |
最高速度 | 148km/h |
メモ | モンテカルロを三度制覇! 歴史的技術者たちの粋を集めたミニ |
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概要
元ネタ解説
ミニ・クーパー1275S
イギリスのBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)が販売した小型大衆車のミニに、ある技術者が手を加えたスポーツモデルが今日でも有名なミニ・クーパーである。
時は1950年代後半、イギリスはスエズ動乱の煽りを受けてオイルショックに陥っていた。乗用車を所有することが困難になったイギリスの庶民はより経済的に優れる2-3人乗りの所謂マイクロカーへ乗り換えた。しかし、これらはいわばキャビン付きバイクと表現するのが近いような車ばかりで、居住性や操縦性などには難があると言わざるを得なかった。実用性を備えながらも、それまでより経済的な小型車が求められていたのである。
この流れに対し、BMCは当時のラインナップよりさらに小型な車輌を製造する方針を決定し、開発を進める。この開発チームを率いたのはかの有名なA.イシゴニスであった。エンジンは当時BMCの手持ちエンジンの中で最小のAシリーズ。これをベースに気筒数の削減などでエンジンそのものの小型化も考えたようだが、結局はそのほかの部分を小型化する方向性で設計が進められた。レイアウトは当時では目新しい横置きのFF。イシゴニスがおよそ10年前に構想を完成させていたものの、その時にはまだ時期尚早であったのだ。10年の歳月を経て、4気筒の車両としてはほぼ初めてこのレイアウトを用い、さらに狭いエンジンルームにラジエーターなどを工夫して配置することで、駆動系の小型化に成功。トランスミッションをエンジンの真下に配置するレイアウトは考案者の名前を取って「イシゴニスレイアウト」と称される画期的なものであった(現在ではほとんど見なくなったが)。FFレイアウトのためドライブシャフトの盛り上がりもなく、したがってキャビンの高さも抑えることができたため、今日の軽自動車よりも小さなシルエットとなっている。
サスペンションはダンロップの技術者A.モールトンが設計したゴムバネを使用。ストローク量に対してエネルギーの吸収量が非常に大きい設定となっていた。足回りの完成度の高さに加え、現代においても速い部類に入るステアリングギアレシオ、慣性モーメントの小さなダンロップと共同開発の10インチタイヤなども相まって、ハンドリングはキビキビとした、「ゴーカートのよう」と形容されるものとなった。
ベースモデルのミニからミニ・クーパーに話を移そう。この車の生みの親は、ミニの生みの親であるイシゴニスの友人のJ.クーパー。彼は今日のレースカーでは常識となっているミッドシップレイアウトの生みの親でもある天才技術者であった。ある日、イシゴニスがクーパーの元を訪れ、開発中であったミニのプロトタイプを見せる。それを見たクーパーは小さな車体と良好なハンドリングにレースマシンとしての可能性を見出し、イシゴニスと共に「安くて速い車」を目指し改良を加える。こうして生まれたミニのホットモデルは、開発者の名を取ってミニ・クーパーと呼ばれるようになったのである。この車については、フェラーリの創業者であるE.フェラーリもファンであったようで、イシゴニスに直々に感謝状を送っていたり、生涯にわたって数台のミニを所有していたというから並々ならぬ愛着を持っていたことが伺える。185cmという長身ながらも楽に乗り込める小型のボディに独特な駆動レイアウト、クーパーの持つ動力性能には多大な関心を寄せていたという。そんなフェラーリが所有したミニのうち、真っ赤な個体は現存しているようだ。
エンジンはベースモデルの850ccから997ccへとボアアップされ、SUツインキャブレターとディスクブレーキが奢られるという、大衆車として非常に豪華な装備となっている。最高出力は通常モデルの34馬力から55馬力へ向上していた。さらに、このクーパーのより高性能なモデルとしてクーパーSが発売。1071ccまで拡大されたエンジンを搭載していた。A型エンジンのボアアップはこの辺りが限界と考えられていたようだ。
ここで登場するのが、現在もミニのレストアとチューニングを行っている英国のチューナー、ダウントン・エンジニアリングのD.リッチモンド。彼はA型エンジンのボアピッチをずらすことで排気量を拡大できる可能性を示唆する。こうしてイシゴニス、クーパー、リッチモンドという自動車史の偉人たちがタッグを組んで送り出した最強モデル、それが1275Sであった。パワーは75馬力と、このクラスのマシンとしてはとてもハイパワー。それを元々いい足回りのマシンに搭載したのだから、ストレートもコーナーも戦える一級のバトルマシンへと生まれ変わったのである。
そんなクーパーは周囲と比較して圧倒的なパワーがあったというわけではないが、小型軽量な車体を活かして俊敏な走りを披露。モンテカルロでは1964年から67年にかけて事実上の4連覇を達成する(1966年はライトの規定違反により失格扱いとなるが、タイムは優勝相当であった)。そしてRACラリーやアクロポリス・ラリーでもやはり総合優勝を遂げ、格上といえるライバルを下し大活躍したのである。
BMCミニは2000年10月に最後の個体がラインオフし、40年にわたる生産を終えた。ミニ・クーパーの生みの親であるクーパーは、2ヶ月後となる2000年12月、77歳でその生涯を閉じる。クーパーの人生はこのミニと共にあったとも言えるだろう。ローバーグループが開発していた新型ミニは売却先のBMWによって開発が継続され、2001年に発売。スポーツグレードは往年の名車と同じ「ミニ・クーパー」の名を、最上級のホットモデルにはかつてのクーパーの開発者の名前にちなんで「ジョン・クーパー・ワークス」の名を、それぞれ冠することとなった。イシゴニス、クーパー、リッチモンドという3人の偉人が生み出したイギリスを代表する名車は、世代を超え、そして国境を越え、今も生き続けているのである。
イギリスのBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)が販売した小型大衆車のミニに、ある技術者が手を加えたスポーツモデルが今日でも有名なミニ・クーパーである。
時は1950年代後半、イギリスはスエズ動乱の煽りを受けてオイルショックに陥っていた。乗用車を所有することが困難になったイギリスの庶民はより経済的に優れる2-3人乗りの所謂マイクロカーへ乗り換えた。しかし、これらはいわばキャビン付きバイクと表現するのが近いような車ばかりで、居住性や操縦性などには難があると言わざるを得なかった。実用性を備えながらも、それまでより経済的な小型車が求められていたのである。
この流れに対し、BMCは当時のラインナップよりさらに小型な車輌を製造する方針を決定し、開発を進める。この開発チームを率いたのはかの有名なA.イシゴニスであった。エンジンは当時BMCの手持ちエンジンの中で最小のAシリーズ。これをベースに気筒数の削減などでエンジンそのものの小型化も考えたようだが、結局はそのほかの部分を小型化する方向性で設計が進められた。レイアウトは当時では目新しい横置きのFF。イシゴニスがおよそ10年前に構想を完成させていたものの、その時にはまだ時期尚早であったのだ。10年の歳月を経て、4気筒の車両としてはほぼ初めてこのレイアウトを用い、さらに狭いエンジンルームにラジエーターなどを工夫して配置することで、駆動系の小型化に成功。トランスミッションをエンジンの真下に配置するレイアウトは考案者の名前を取って「イシゴニスレイアウト」と称される画期的なものであった(現在ではほとんど見なくなったが)。FFレイアウトのためドライブシャフトの盛り上がりもなく、したがってキャビンの高さも抑えることができたため、今日の軽自動車よりも小さなシルエットとなっている。
サスペンションはダンロップの技術者A.モールトンが設計したゴムバネを使用。ストローク量に対してエネルギーの吸収量が非常に大きい設定となっていた。足回りの完成度の高さに加え、現代においても速い部類に入るステアリングギアレシオ、慣性モーメントの小さなダンロップと共同開発の10インチタイヤなども相まって、ハンドリングはキビキビとした、「ゴーカートのよう」と形容されるものとなった。
ベースモデルのミニからミニ・クーパーに話を移そう。この車の生みの親は、ミニの生みの親であるイシゴニスの友人のJ.クーパー。彼は今日のレースカーでは常識となっているミッドシップレイアウトの生みの親でもある天才技術者であった。ある日、イシゴニスがクーパーの元を訪れ、開発中であったミニのプロトタイプを見せる。それを見たクーパーは小さな車体と良好なハンドリングにレースマシンとしての可能性を見出し、イシゴニスと共に「安くて速い車」を目指し改良を加える。こうして生まれたミニのホットモデルは、開発者の名を取ってミニ・クーパーと呼ばれるようになったのである。この車については、フェラーリの創業者であるE.フェラーリもファンであったようで、イシゴニスに直々に感謝状を送っていたり、生涯にわたって数台のミニを所有していたというから並々ならぬ愛着を持っていたことが伺える。185cmという長身ながらも楽に乗り込める小型のボディに独特な駆動レイアウト、クーパーの持つ動力性能には多大な関心を寄せていたという。そんなフェラーリが所有したミニのうち、真っ赤な個体は現存しているようだ。
エンジンはベースモデルの850ccから997ccへとボアアップされ、SUツインキャブレターとディスクブレーキが奢られるという、大衆車として非常に豪華な装備となっている。最高出力は通常モデルの34馬力から55馬力へ向上していた。さらに、このクーパーのより高性能なモデルとしてクーパーSが発売。1071ccまで拡大されたエンジンを搭載していた。A型エンジンのボアアップはこの辺りが限界と考えられていたようだ。
ここで登場するのが、現在もミニのレストアとチューニングを行っている英国のチューナー、ダウントン・エンジニアリングのD.リッチモンド。彼はA型エンジンのボアピッチをずらすことで排気量を拡大できる可能性を示唆する。こうしてイシゴニス、クーパー、リッチモンドという自動車史の偉人たちがタッグを組んで送り出した最強モデル、それが1275Sであった。パワーは75馬力と、このクラスのマシンとしてはとてもハイパワー。それを元々いい足回りのマシンに搭載したのだから、ストレートもコーナーも戦える一級のバトルマシンへと生まれ変わったのである。
そんなクーパーは周囲と比較して圧倒的なパワーがあったというわけではないが、小型軽量な車体を活かして俊敏な走りを披露。モンテカルロでは1964年から67年にかけて事実上の4連覇を達成する(1966年はライトの規定違反により失格扱いとなるが、タイムは優勝相当であった)。そしてRACラリーやアクロポリス・ラリーでもやはり総合優勝を遂げ、格上といえるライバルを下し大活躍したのである。
BMCミニは2000年10月に最後の個体がラインオフし、40年にわたる生産を終えた。ミニ・クーパーの生みの親であるクーパーは、2ヶ月後となる2000年12月、77歳でその生涯を閉じる。クーパーの人生はこのミニと共にあったとも言えるだろう。ローバーグループが開発していた新型ミニは売却先のBMWによって開発が継続され、2001年に発売。スポーツグレードは往年の名車と同じ「ミニ・クーパー」の名を、最上級のホットモデルにはかつてのクーパーの開発者の名前にちなんで「ジョン・クーパー・ワークス」の名を、それぞれ冠することとなった。イシゴニス、クーパー、リッチモンドという3人の偉人が生み出したイギリスを代表する名車は、世代を超え、そして国境を越え、今も生き続けているのである。
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