【03.モトメルモノタチ】
《シンタク ~Trust/Oracle~》
目を覚ますと、そこは見慣れぬ寝台の上だった。
「……ここは……?」
呟きは、答えを求めるものではなく、ただ疑問が漏れただけの声。けれど、それに答える声があった。
「私の部屋です」
しっとりと耳に響く、それでいて澄んだ声。声の主を求めて視線を彷徨わせると、一人の少女が寝台へと歩み寄ってくるところだった。
「良かった目が覚めて」
寝台の脇に立った少女は、そう柔らかく笑む。
不思議な少女だった。顔立ちはまだあどけない。まだ十代の半ばほどに見える。しかし、その青い海のような眼差しは深い慈愛を湛え、さらりと長い澄んだ金の髪は、さながら聖女のベールのよう。
変わった棒状の髪飾りに、赤と青を貴重とした少々露出の高いワンピース。それらすらも、彼女が纏えば、まるで精霊崇拝(アニミズム)の巫女(シャーマン)のような、神聖な気品を醸し出す衣装となっていた。
どこまでも包み込むように優しく、それでいて気品を湛えた、聖母のような少女。
「ご気分は?」
「だ、大丈夫です」
慌てて答えれば、少女は安堵したように笑った。
「良かった。……あなたの、お名前は?」
小さく首を傾げて問われ、はた、と気づく。
(名前……あたしの、名前)
自分は、誰だったか。誰だったのだろう。思い出せない。
その時――不意に、誰かの声が聞こえた気がした。
「……ここは……?」
呟きは、答えを求めるものではなく、ただ疑問が漏れただけの声。けれど、それに答える声があった。
「私の部屋です」
しっとりと耳に響く、それでいて澄んだ声。声の主を求めて視線を彷徨わせると、一人の少女が寝台へと歩み寄ってくるところだった。
「良かった目が覚めて」
寝台の脇に立った少女は、そう柔らかく笑む。
不思議な少女だった。顔立ちはまだあどけない。まだ十代の半ばほどに見える。しかし、その青い海のような眼差しは深い慈愛を湛え、さらりと長い澄んだ金の髪は、さながら聖女のベールのよう。
変わった棒状の髪飾りに、赤と青を貴重とした少々露出の高いワンピース。それらすらも、彼女が纏えば、まるで精霊崇拝(アニミズム)の巫女(シャーマン)のような、神聖な気品を醸し出す衣装となっていた。
どこまでも包み込むように優しく、それでいて気品を湛えた、聖母のような少女。
「ご気分は?」
「だ、大丈夫です」
慌てて答えれば、少女は安堵したように笑った。
「良かった。……あなたの、お名前は?」
小さく首を傾げて問われ、はた、と気づく。
(名前……あたしの、名前)
自分は、誰だったか。誰だったのだろう。思い出せない。
その時――不意に、誰かの声が聞こえた気がした。
『――………』
(知ってる……この、声――)
小さい頃からずっと一緒で、辛い時や悲しい時、怖い時や危ない時に、必ず駆けつけてきてくれる彼の声だ。
(彼? 彼って誰?)
駆け抜けたイメージに、疑問符が浮かぶ。
小さい頃からずっと一緒で、辛い時や悲しい時、怖い時や危ない時に、必ず駆けつけてきてくれる彼の声だ。
(彼? 彼って誰?)
駆け抜けたイメージに、疑問符が浮かぶ。
『――………!』
(ああ――柊だ)
また聞こえた声に、答えが浮かぶ。幼馴染の柊蓮司。彼は、何をそんなに一生懸命叫んでいるのだろう?
また聞こえた声に、答えが浮かぶ。幼馴染の柊蓮司。彼は、何をそんなに一生懸命叫んでいるのだろう?
『――くれは!』
(くれは――誰かの名前? 誰の名前?)
とても懐かしい気がする。思い出さなきゃいけない。
とても懐かしい気がする。思い出さなきゃいけない。
『――くれは!』
(そうだ、あたしの名前だ)
少女の質問の答えを見つけた。赤羽くれは。それが自分の名前。
少女の質問の答えを見つけた。赤羽くれは。それが自分の名前。
彼の声が、自分の名前を呼んでいる。
(行かなくちゃ――)
身を起こそうと身体に力を込めると、そっと少女が手を貸してくれた。
白磁のように白く滑らかなその手の甲に、碧く刻まれた紋様が目に付いた。葉脈を透かす葉のような、鳥が落した一片の羽のような、細長い涙滴形の模様。
「思い出しましたね?」
助け起こしながらそう問う彼女に、頷く。
「あたしは……くれは。赤羽、くれは」
「くれは、さん」
良い名前ですね、と彼女は微笑した。
「声が、聞こえるでしょう?」
立ち上がるくれはの肩を支えながら、彼女は言う。その視線を追えば、質素な木製の扉が見えた。
自分を呼ぶ、彼の声。それは、その扉の向こうから響いているのだと、わかった。
「さあ、行って」
彼女はくれはの背を押す。その手は優しく、しかし不思議と抗えないと思わせる。
けれど、くれはは足を止めて、彼女を振り返った。
「あなたは……?」
その問いに、彼女はしっとりと笑んで、
「私は、メグ。本当の名前ではないけれど、友達はいつもそう呼んでいたの」
そう、くれはの求める答えとは、違う答えを口にする。
大きく頭を振って、くれはもう一度問う。くれはが訊きたかったのは、
「あなたは……メグは、行かないの?」
その問いに、彼女は微笑む。その海の瞳に、静かな悲哀と深い慈愛を湛えて。
「ええ。私は、ここに」
「けど……」
くれは戸惑う。彼女をここに置いて行っていいのか、その思いが消えない。
だって、ここはとても寂しい所だ。どこまでも広いのに、何もない。ぽつんと、寝台と扉だけが、どこまでも続く白の中に浮かんでいる。
こんな寂しい場所に、彼女ひとりを置き去りになんてできない。
「一緒に行こう?」
そう手を差し伸べれば、少女は小さく首を振る。
「それはできないの」
「どうして?」
重ねて問えば、彼女は微笑んで言った。
「それは、あなたの扉だから」
よくわからない答え。ただ、その瞳に湛えた静かな悲哀が、共に行くことは許されないと告げている。
けれど――ならば、
「あたしの扉だっていうなら、あたしが許すよ。一緒に行こう!」
言って、少女の手を取った。
初めて少女の顔から微笑みが消える。困惑で眉を垂らして、
「そんな、駄目です。前例がないわ。そんなことをしたら、あなたもどうなるか……」
よくわからないが、今くれはがやろうとしていることが、とんでもない掟破りだということはわかった。けれど、
(それが、なにさ!)
掟破り、上等だ。こんな寂しそうな子を置いていくなんて、できっこない。
それに、きっと、彼ならこう言うんだ。
「前例がないなら、いいじゃない! 誰もやったことがないだけで、悪いことが起きるとは限らないでしょ?」
そう、満面の笑みで告げれば、彼女は心底驚いたように目を見開いて、
「……そう……だから、あなた達だったのね……夢から生まれた、現の人達……」
泣き笑いのような表情で呟いて、手を取るくれはの手を握り返した。
呟きの意味はわからなかったけれど、握り合った手は、一緒に行くと言ってくれていたから。
「――行こう!」
そう告げて、手を引いて――くれはは、その扉を開いた。
身を起こそうと身体に力を込めると、そっと少女が手を貸してくれた。
白磁のように白く滑らかなその手の甲に、碧く刻まれた紋様が目に付いた。葉脈を透かす葉のような、鳥が落した一片の羽のような、細長い涙滴形の模様。
「思い出しましたね?」
助け起こしながらそう問う彼女に、頷く。
「あたしは……くれは。赤羽、くれは」
「くれは、さん」
良い名前ですね、と彼女は微笑した。
「声が、聞こえるでしょう?」
立ち上がるくれはの肩を支えながら、彼女は言う。その視線を追えば、質素な木製の扉が見えた。
自分を呼ぶ、彼の声。それは、その扉の向こうから響いているのだと、わかった。
「さあ、行って」
彼女はくれはの背を押す。その手は優しく、しかし不思議と抗えないと思わせる。
けれど、くれはは足を止めて、彼女を振り返った。
「あなたは……?」
その問いに、彼女はしっとりと笑んで、
「私は、メグ。本当の名前ではないけれど、友達はいつもそう呼んでいたの」
そう、くれはの求める答えとは、違う答えを口にする。
大きく頭を振って、くれはもう一度問う。くれはが訊きたかったのは、
「あなたは……メグは、行かないの?」
その問いに、彼女は微笑む。その海の瞳に、静かな悲哀と深い慈愛を湛えて。
「ええ。私は、ここに」
「けど……」
くれは戸惑う。彼女をここに置いて行っていいのか、その思いが消えない。
だって、ここはとても寂しい所だ。どこまでも広いのに、何もない。ぽつんと、寝台と扉だけが、どこまでも続く白の中に浮かんでいる。
こんな寂しい場所に、彼女ひとりを置き去りになんてできない。
「一緒に行こう?」
そう手を差し伸べれば、少女は小さく首を振る。
「それはできないの」
「どうして?」
重ねて問えば、彼女は微笑んで言った。
「それは、あなたの扉だから」
よくわからない答え。ただ、その瞳に湛えた静かな悲哀が、共に行くことは許されないと告げている。
けれど――ならば、
「あたしの扉だっていうなら、あたしが許すよ。一緒に行こう!」
言って、少女の手を取った。
初めて少女の顔から微笑みが消える。困惑で眉を垂らして、
「そんな、駄目です。前例がないわ。そんなことをしたら、あなたもどうなるか……」
よくわからないが、今くれはがやろうとしていることが、とんでもない掟破りだということはわかった。けれど、
(それが、なにさ!)
掟破り、上等だ。こんな寂しそうな子を置いていくなんて、できっこない。
それに、きっと、彼ならこう言うんだ。
「前例がないなら、いいじゃない! 誰もやったことがないだけで、悪いことが起きるとは限らないでしょ?」
そう、満面の笑みで告げれば、彼女は心底驚いたように目を見開いて、
「……そう……だから、あなた達だったのね……夢から生まれた、現の人達……」
泣き笑いのような表情で呟いて、手を取るくれはの手を握り返した。
呟きの意味はわからなかったけれど、握り合った手は、一緒に行くと言ってくれていたから。
「――行こう!」
そう告げて、手を引いて――くれはは、その扉を開いた。
《ヨクなき者 ~Greed/Suppress~》
「出稼ぎに行って、逆にぼったくられてどうするんですかー!?」
その日、朝っぱらから、仮にとはいえ家主のはずの青年は、思いっきり居候の少女に怒鳴られていた。
双子の姉弟が、柊が住む丘の家に来てから四日。家の中の力関係は、完全に『カカア天下』と化していた。
器用なコロナは、ただお世話になるなんてできない、と来てすぐに家の家事全般を引き受けるようになった。気を使うことはない、という柊の言葉を受けてもやめようとはせず、それどころか。
『気を使うな、って言うなら、バンバン手伝ってもらいますねー』と、自身で手の足りないことに柊を使う始末。今や、この家の文明的生活と台所事情はコロナによって完全に支配されていた。
「あー……その、悪ぃ……」
「『ワリィ』じゃないですよ! どうするんですか!? もうすぐ買い置きも尽きるんですよー!?」
テーブルに着いて縮こまる柊に、対面の椅子の上で仁王立ちになったコロナは、おたまを持った手を硬く握り締める。その声は怒声というよりもはや悲鳴だ。
ユウの残しておいてくれた金が心もとなくなってきたため、柊は昨日と一昨日、仕事を探しにドミナの町に行っていた。
一昨日は町をぶらつくだけで終わってしまったが、昨日はバザールで出会った商人から盗賊退治の依頼を受け、つつがなく依頼内容を完遂したのだが――
「礼金代わりにこんなガラクタ押し付けられて、あげく残り少ない現金全部取られたって! どーゆーことですかー!?」
ばんっ! とコロナが叩きつけた拳に、テーブルの上に置かれた品が揺れる。
鉄鍋に、中に入った饅頭と変な虫。壊れた車輪。獣の顔が掘り込まれたメダルと、不思議と消えない炎を宿すランタン。
最後の二つは、もしかしたら多少価値があるかもしれないが、その他は本当にただのガラクタにしか見えない。
依頼人は、ニキータという、兎と猫を足して二で割ったような獣人だった。彼は柊に“お礼”と称してこれらの品々を押し付け、去っていったのだ。しかも、いつの間にやら、柊の財布の中身を代わりに掏り取って。
ドミナで買い物をして帰ろうとした柊は、金の代わりに入っていた『アダマソナベ、ヘバタのタコムシ、草ムシまんじゅう、車輪、獣王のメダル、炎、以上六品の代金、確かにいただいたにゃ』のメモに、凍りついたものだ。
「いや、もう……ゴメンナサイ」
コロナの言葉に、柊としては縮こまるしかない。柊自身としては金を盗られたこと自体より、掏られたことに気づけなかったことがショックだったりするのだが。
「『ゴメンナサイ』で済む問題じゃな――」
言いかけたコロナの言葉を遮って、ずどん! と腹に響くような音が頭上から聞こえた。
「……バド!?」
瞬間、しおたれていた柊は弾かれたように椅子を蹴って立ち上がり、階段を駆け上がる。
二階の寝室、その天井の一角が一メートル四方に開いており、そこから梯子が伸びていた。双子達がやってきてからサボテンが教えてくれた屋根裏部屋。現在双子の部屋として使われているそこから、薄い煙が漏れてきている。
「おい! 大丈夫か!?」
四肢を最速で動かして梯子を上り、屋根裏に顔を出して叫んだ柊が見たのは、ベッド脇で腰を抜かしてへたり込むバドの姿だった。
「……し、ししょー……」
「どうした、何があった!?」
慌てて屋根裏に身体を引き上げ――その際、立ち上がった拍子に低い天井に頭をぶつけたりしながら、転(まろ)ぶようにバドへと駆け寄る。
「ケガは……ねぇか」
助け起こすようにしながら、少年の身体状況を診て柊はほっと息をつく。服が所々煤けてはいるが、それだけのようだ。室内も、壁や家具が少々煤けているだけで、火事にはなっていない。まあ、リネン類の交換と部屋の大掃除は必須のようだが。
「……ったく、“今度は”なにしたんだよ?」
安堵の後は、呆れが込み上げてきた。柊は、少年の向かいに胡坐を掻いて問う。
バドはバツの悪そうな表情で、
「その……これ……」
もごもごと口の中で呟きながら、手に握り締めていたものを示してみせた。
何やら精緻な紋様の描かれた数枚の金貨。それに、柊は見覚えがあった。一昨日、ドミナの町をぶらついている時に手に入れたものだ。
カボチャが消えた後の空き地の様子が気になり、町外れへ足を向けた際のことだ。
真昼間だったというのに、人魂を思わせる赤い火の玉のようなものが柊に寄って来たのだ。脇から生える小さな両手に何か棒のようなものを持ち、中央にある顔にどこか楽しげな表情を浮かべて。
ゆらゆらと寄ってきたそれは、柊の目の前まで来ると、すぅっ、と消えた。消えた後に残っていたのが、この金貨である。
得体が知れないので放置していこうかとも思ったのだが、その人魂らしきものから感じたのが、悪意でも敵意でもなく、好意のような気配だったため、とりあえず拾って持って帰ってきておいたのである。
バドとコロナには空き地で拾ったとだけ伝えて、寝室のテーブルの上に置いておいたのだが――
「……これが爆発したのか?」
「そう……ともいえるし、そうでもないともいうか……」
もしや自分が危険物を持って帰ってきてしまったのかと眉を寄せる柊に、煮え切らない調子でバドは答えた。よく見ると、小さな身体の影に何やら隠している。
「……それは?」
背後のそれ――古めかしい分厚い本を指し示して柊が言えば、バドは観念したように項垂れた。
「書庫で見つけた本です……」
「で? なにやったんだ?」
もはやジト目になった柊から目を逸らしつつ、バドは小声で、
「この金貨……魔法学校で見た精霊のコインと似てるな、と思って……でも本物かわからないし、確かめてみようと……普通は、楽器に埋め込んで使うんだけど、この本に、楽器を使わずにコインの力を引き出す方法が書いてあったから……」
「……で、試してみたら、爆発したと?」
はい……、と柊の確認にバドは答えた。柊は盛大に溜息をつく。
「得体の知れないことやる時は俺も呼べって言っただろうが。あと、外でやれ、とも」
この家の敷地内には、開けた原っぱがある。家畜小屋らしい建物があるので、元々放牧地だったのかもしれない。実験の類をする時はそこでやるよう、双子のベッドを買い換える羽目になった“最初の”失敗の際に、くどいほど言い含めておいたのに。
「バカバド」
項垂れる少年に冷たい声で言ったのは、柊ではなくコロナだ。いつの間にか、屋根裏の入り口からひょっこり顔を出して、半眼で弟を睨んでいる。
「あんた、何度やれば気が済むの。この家壊す気? ただでさえお金なくて困ってるのに……そもそも、誰がこの有様を片付けると思ってんの?」
何かもう、周りに蜃気楼の如き怒りのオーラが見えるようである。
バドはだらだらと脂汗を垂らしながら、必死に弁解するように叫ぶ。
「ちゃ、ちゃんと俺が全部片付けるから! お金の方も大丈夫だし!」
「どう大丈夫だっていうの!?」
怒鳴る姉に、バドは手にしたコインを掲げて見せて、
「こ、これこれ! 精霊のコイン!」
え!? とコロナは声を上げて、屋根裏に身体を上げてバドに駆け寄った。弟からそのコインをひったくって、食い入るように見つめる。
「ほ、本物!?」
「暴発したにせよ、発動したんだから本物だよ! 多分、サラマンダーの金貨だ!」
弟の太鼓判に、コロナは嬉しそうに金貨を握り締めた。
「あぁ! 良かった! これを売ったら、しばらく生活できますね!」
少女は満面の笑みで柊を振り返って言う。なんかもう、売ることが決定事項になっているようだ。まあこの状況で、売らない、という選択肢は柊の方にもないのだが。
しっかりと金貨を握ったまま、コロナは満面の笑みで弟に向き直り、
「けど、今度なんかやらかしたら、あんたの恥ずかしい失敗ベスト10を柊さんに懇切丁寧に語って聴かせるからね」
「ワ、ワカリマシタ、モウシマセン……コロナオ姉サマ……」
笑顔で凄む姉の異様な迫力に、バドは強張った表情で平伏した。
バドのその様に、柊は深く同情を覚えた。秘密を握られて逆らえないその様は、とても他人とは思えない。
(――って、あれ……?)
覚えたその感覚に、柊は眉をひそめる。
その日、朝っぱらから、仮にとはいえ家主のはずの青年は、思いっきり居候の少女に怒鳴られていた。
双子の姉弟が、柊が住む丘の家に来てから四日。家の中の力関係は、完全に『カカア天下』と化していた。
器用なコロナは、ただお世話になるなんてできない、と来てすぐに家の家事全般を引き受けるようになった。気を使うことはない、という柊の言葉を受けてもやめようとはせず、それどころか。
『気を使うな、って言うなら、バンバン手伝ってもらいますねー』と、自身で手の足りないことに柊を使う始末。今や、この家の文明的生活と台所事情はコロナによって完全に支配されていた。
「あー……その、悪ぃ……」
「『ワリィ』じゃないですよ! どうするんですか!? もうすぐ買い置きも尽きるんですよー!?」
テーブルに着いて縮こまる柊に、対面の椅子の上で仁王立ちになったコロナは、おたまを持った手を硬く握り締める。その声は怒声というよりもはや悲鳴だ。
ユウの残しておいてくれた金が心もとなくなってきたため、柊は昨日と一昨日、仕事を探しにドミナの町に行っていた。
一昨日は町をぶらつくだけで終わってしまったが、昨日はバザールで出会った商人から盗賊退治の依頼を受け、つつがなく依頼内容を完遂したのだが――
「礼金代わりにこんなガラクタ押し付けられて、あげく残り少ない現金全部取られたって! どーゆーことですかー!?」
ばんっ! とコロナが叩きつけた拳に、テーブルの上に置かれた品が揺れる。
鉄鍋に、中に入った饅頭と変な虫。壊れた車輪。獣の顔が掘り込まれたメダルと、不思議と消えない炎を宿すランタン。
最後の二つは、もしかしたら多少価値があるかもしれないが、その他は本当にただのガラクタにしか見えない。
依頼人は、ニキータという、兎と猫を足して二で割ったような獣人だった。彼は柊に“お礼”と称してこれらの品々を押し付け、去っていったのだ。しかも、いつの間にやら、柊の財布の中身を代わりに掏り取って。
ドミナで買い物をして帰ろうとした柊は、金の代わりに入っていた『アダマソナベ、ヘバタのタコムシ、草ムシまんじゅう、車輪、獣王のメダル、炎、以上六品の代金、確かにいただいたにゃ』のメモに、凍りついたものだ。
「いや、もう……ゴメンナサイ」
コロナの言葉に、柊としては縮こまるしかない。柊自身としては金を盗られたこと自体より、掏られたことに気づけなかったことがショックだったりするのだが。
「『ゴメンナサイ』で済む問題じゃな――」
言いかけたコロナの言葉を遮って、ずどん! と腹に響くような音が頭上から聞こえた。
「……バド!?」
瞬間、しおたれていた柊は弾かれたように椅子を蹴って立ち上がり、階段を駆け上がる。
二階の寝室、その天井の一角が一メートル四方に開いており、そこから梯子が伸びていた。双子達がやってきてからサボテンが教えてくれた屋根裏部屋。現在双子の部屋として使われているそこから、薄い煙が漏れてきている。
「おい! 大丈夫か!?」
四肢を最速で動かして梯子を上り、屋根裏に顔を出して叫んだ柊が見たのは、ベッド脇で腰を抜かしてへたり込むバドの姿だった。
「……し、ししょー……」
「どうした、何があった!?」
慌てて屋根裏に身体を引き上げ――その際、立ち上がった拍子に低い天井に頭をぶつけたりしながら、転(まろ)ぶようにバドへと駆け寄る。
「ケガは……ねぇか」
助け起こすようにしながら、少年の身体状況を診て柊はほっと息をつく。服が所々煤けてはいるが、それだけのようだ。室内も、壁や家具が少々煤けているだけで、火事にはなっていない。まあ、リネン類の交換と部屋の大掃除は必須のようだが。
「……ったく、“今度は”なにしたんだよ?」
安堵の後は、呆れが込み上げてきた。柊は、少年の向かいに胡坐を掻いて問う。
バドはバツの悪そうな表情で、
「その……これ……」
もごもごと口の中で呟きながら、手に握り締めていたものを示してみせた。
何やら精緻な紋様の描かれた数枚の金貨。それに、柊は見覚えがあった。一昨日、ドミナの町をぶらついている時に手に入れたものだ。
カボチャが消えた後の空き地の様子が気になり、町外れへ足を向けた際のことだ。
真昼間だったというのに、人魂を思わせる赤い火の玉のようなものが柊に寄って来たのだ。脇から生える小さな両手に何か棒のようなものを持ち、中央にある顔にどこか楽しげな表情を浮かべて。
ゆらゆらと寄ってきたそれは、柊の目の前まで来ると、すぅっ、と消えた。消えた後に残っていたのが、この金貨である。
得体が知れないので放置していこうかとも思ったのだが、その人魂らしきものから感じたのが、悪意でも敵意でもなく、好意のような気配だったため、とりあえず拾って持って帰ってきておいたのである。
バドとコロナには空き地で拾ったとだけ伝えて、寝室のテーブルの上に置いておいたのだが――
「……これが爆発したのか?」
「そう……ともいえるし、そうでもないともいうか……」
もしや自分が危険物を持って帰ってきてしまったのかと眉を寄せる柊に、煮え切らない調子でバドは答えた。よく見ると、小さな身体の影に何やら隠している。
「……それは?」
背後のそれ――古めかしい分厚い本を指し示して柊が言えば、バドは観念したように項垂れた。
「書庫で見つけた本です……」
「で? なにやったんだ?」
もはやジト目になった柊から目を逸らしつつ、バドは小声で、
「この金貨……魔法学校で見た精霊のコインと似てるな、と思って……でも本物かわからないし、確かめてみようと……普通は、楽器に埋め込んで使うんだけど、この本に、楽器を使わずにコインの力を引き出す方法が書いてあったから……」
「……で、試してみたら、爆発したと?」
はい……、と柊の確認にバドは答えた。柊は盛大に溜息をつく。
「得体の知れないことやる時は俺も呼べって言っただろうが。あと、外でやれ、とも」
この家の敷地内には、開けた原っぱがある。家畜小屋らしい建物があるので、元々放牧地だったのかもしれない。実験の類をする時はそこでやるよう、双子のベッドを買い換える羽目になった“最初の”失敗の際に、くどいほど言い含めておいたのに。
「バカバド」
項垂れる少年に冷たい声で言ったのは、柊ではなくコロナだ。いつの間にか、屋根裏の入り口からひょっこり顔を出して、半眼で弟を睨んでいる。
「あんた、何度やれば気が済むの。この家壊す気? ただでさえお金なくて困ってるのに……そもそも、誰がこの有様を片付けると思ってんの?」
何かもう、周りに蜃気楼の如き怒りのオーラが見えるようである。
バドはだらだらと脂汗を垂らしながら、必死に弁解するように叫ぶ。
「ちゃ、ちゃんと俺が全部片付けるから! お金の方も大丈夫だし!」
「どう大丈夫だっていうの!?」
怒鳴る姉に、バドは手にしたコインを掲げて見せて、
「こ、これこれ! 精霊のコイン!」
え!? とコロナは声を上げて、屋根裏に身体を上げてバドに駆け寄った。弟からそのコインをひったくって、食い入るように見つめる。
「ほ、本物!?」
「暴発したにせよ、発動したんだから本物だよ! 多分、サラマンダーの金貨だ!」
弟の太鼓判に、コロナは嬉しそうに金貨を握り締めた。
「あぁ! 良かった! これを売ったら、しばらく生活できますね!」
少女は満面の笑みで柊を振り返って言う。なんかもう、売ることが決定事項になっているようだ。まあこの状況で、売らない、という選択肢は柊の方にもないのだが。
しっかりと金貨を握ったまま、コロナは満面の笑みで弟に向き直り、
「けど、今度なんかやらかしたら、あんたの恥ずかしい失敗ベスト10を柊さんに懇切丁寧に語って聴かせるからね」
「ワ、ワカリマシタ、モウシマセン……コロナオ姉サマ……」
笑顔で凄む姉の異様な迫力に、バドは強張った表情で平伏した。
バドのその様に、柊は深く同情を覚えた。秘密を握られて逆らえないその様は、とても他人とは思えない。
(――って、あれ……?)
覚えたその感覚に、柊は眉をひそめる。
『なんなら、あんたの秘密、ばらしても――』
そう、ことあるごとに言っていたのは、
(誰、だった……?)
前にも感じた、記憶のノイズに、柊は立ちつくし――
「……師匠? どうしたんすか? 変な顔して」
案じるバドの声に、はっと我に返った。
「いや……なんでもねぇ」
この幼い双子に心配を掛けるわけにも行かない。柊は軽く頭を振って、誤魔化すように言った。
「しっかし、そのコイン、そんなに値打ちものだったのか」
「あったりまえじゃないですか師匠! 魔力(マナ)の塊みたいなものだぜ!?」
バドが呆れたように言った。ぴっ、と人差し指を立てて、
「いいっすか、師匠? 精霊のコインは、滅多に手に入るもんじゃない。名の通り、精霊が授けるものなんだ。精霊は普通、人の多いところには出てこない。洞窟の最深部とか、森の奥とか、人から忘れられた遺跡の中とか……そういうとこでしか遇えないんだ」
指をぴこぴこ振りながら、講義するように言う。どっちが師匠なのだか。
「しかも、遇えたからといって貰えるとも限らない。精霊は自分から人に近づかないんだ。シャイなのか、警戒心が強いのかはわからないけど。でも、精霊は音楽が好きだから、楽器で精霊が気に入るような曲を奏でてやれば、演奏のお礼にコインをくれるんだってさ」
精霊のコインを得るために楽器を持って未踏の地を巡る人もいるくらいだ、というバドに、柊は素直に感心した。
「へぇ、そういうもんなのか。……でも、じゃあ俺が遇ったのはなんだったんだかな……」
へ? と双子が柊の言葉に首を傾げる。
「これ、ドミナの空き地で拾ったんでしょう?」
「どう説明したもんかわかんねぇから、そう言ったけどな。正確には、もらったって感じなんだよな」
コロナの言葉に、柊は頬を掻きながら、言葉を探す。
「空き地に行ったら妙な赤い火の玉みたいのが寄って来て、目の前で消えて。そしたら、足元にこの金貨が転がってたんだ」
柊の説明に、双子はそろってぽかんと目と口をOの字に開いた。
「……それ、槍みたいなの、持ってなかった……?」
「……んー、棒みたいなのは持ってたけど、槍かどうかまではわかんねぇな」
バドの質問に対する柊の返事は曖昧なものだったが、それで十分だったらしい。双子は声を揃えて叫んだ。
「サラマンダー!」
へ!? とその勢いに柊は思わず身を引く。
「さ、さらまんだー?」
「火を司る精霊、サラマンダーですよ! 知らないわけじゃないでしょう!?」
鸚鵡返しにする柊に、コロナが叫ぶ。バドが続けた。
「曜日にもなってるじゃないすか! 火金土風木水――サラマンダー、アウラ、ノーム、ジン、ドリアード、ウィンディーネって! これに光と闇、転じて昼と夜を司るウィル・オ・ウィスプとシェイドで、八精霊!」
「あ、ああ……そーか、それか」
そうなのか、と思いつつ、とりあえず調子を合わせる柊。どうやらこの世界で、精霊の名前は常識らしい。ここで曜日の名はおろか、ここでの週が六日周期であることも知らなかったと言えば、子供達がこの俄か保護者の素性に不安を覚えるだけだろう。
「で、でも……精霊は人里には出てこないんだろ? 自分から人に寄って来ることもないって……俺、楽器はおろか、口笛吹いてたわけでもないんだぜ?」
「それでも、そうとしか思えねぇよ! だって、精霊のコインを授けられるのは、精霊だけなんだから!」
外見も一致するし! とバドが首を傾げる柊に力説する。その目は、改めて己の師を慕うような光が宿っていた。
その視線をむずがゆく感じながらも、もしかしたら、と柊は思う。
(俺の属性に惹かれて来たのか?)
柊の属性は、第一が風、第二が火だ。火を司るというその精霊は、柊が内包する火のプラーナに惹かれて、コインをくれたのかもしれない。もしかしたら、いつか風の精霊にコインをプレゼントされる日も来るかもしれなかった。
しかし、確信もないし、この推論を話したところで何がどうなるわけでもない。
「ま、まあ、理由はどうあれ、助かったのは確かだ。素直に精霊の恵みに感謝するとすっか」
そうですね、とりあえず何を買おう、とはしゃぐ双子に、柊は苦笑気味に息を吐いたのだった。
ちなみに。
「金のもーじゃ」
ぼそっと下の寝室で三人の会話を聞いていたサボテンが呟いたりしていたが、そこはまあ、柊達の知る由もないことである。
「……師匠? どうしたんすか? 変な顔して」
案じるバドの声に、はっと我に返った。
「いや……なんでもねぇ」
この幼い双子に心配を掛けるわけにも行かない。柊は軽く頭を振って、誤魔化すように言った。
「しっかし、そのコイン、そんなに値打ちものだったのか」
「あったりまえじゃないですか師匠! 魔力(マナ)の塊みたいなものだぜ!?」
バドが呆れたように言った。ぴっ、と人差し指を立てて、
「いいっすか、師匠? 精霊のコインは、滅多に手に入るもんじゃない。名の通り、精霊が授けるものなんだ。精霊は普通、人の多いところには出てこない。洞窟の最深部とか、森の奥とか、人から忘れられた遺跡の中とか……そういうとこでしか遇えないんだ」
指をぴこぴこ振りながら、講義するように言う。どっちが師匠なのだか。
「しかも、遇えたからといって貰えるとも限らない。精霊は自分から人に近づかないんだ。シャイなのか、警戒心が強いのかはわからないけど。でも、精霊は音楽が好きだから、楽器で精霊が気に入るような曲を奏でてやれば、演奏のお礼にコインをくれるんだってさ」
精霊のコインを得るために楽器を持って未踏の地を巡る人もいるくらいだ、というバドに、柊は素直に感心した。
「へぇ、そういうもんなのか。……でも、じゃあ俺が遇ったのはなんだったんだかな……」
へ? と双子が柊の言葉に首を傾げる。
「これ、ドミナの空き地で拾ったんでしょう?」
「どう説明したもんかわかんねぇから、そう言ったけどな。正確には、もらったって感じなんだよな」
コロナの言葉に、柊は頬を掻きながら、言葉を探す。
「空き地に行ったら妙な赤い火の玉みたいのが寄って来て、目の前で消えて。そしたら、足元にこの金貨が転がってたんだ」
柊の説明に、双子はそろってぽかんと目と口をOの字に開いた。
「……それ、槍みたいなの、持ってなかった……?」
「……んー、棒みたいなのは持ってたけど、槍かどうかまではわかんねぇな」
バドの質問に対する柊の返事は曖昧なものだったが、それで十分だったらしい。双子は声を揃えて叫んだ。
「サラマンダー!」
へ!? とその勢いに柊は思わず身を引く。
「さ、さらまんだー?」
「火を司る精霊、サラマンダーですよ! 知らないわけじゃないでしょう!?」
鸚鵡返しにする柊に、コロナが叫ぶ。バドが続けた。
「曜日にもなってるじゃないすか! 火金土風木水――サラマンダー、アウラ、ノーム、ジン、ドリアード、ウィンディーネって! これに光と闇、転じて昼と夜を司るウィル・オ・ウィスプとシェイドで、八精霊!」
「あ、ああ……そーか、それか」
そうなのか、と思いつつ、とりあえず調子を合わせる柊。どうやらこの世界で、精霊の名前は常識らしい。ここで曜日の名はおろか、ここでの週が六日周期であることも知らなかったと言えば、子供達がこの俄か保護者の素性に不安を覚えるだけだろう。
「で、でも……精霊は人里には出てこないんだろ? 自分から人に寄って来ることもないって……俺、楽器はおろか、口笛吹いてたわけでもないんだぜ?」
「それでも、そうとしか思えねぇよ! だって、精霊のコインを授けられるのは、精霊だけなんだから!」
外見も一致するし! とバドが首を傾げる柊に力説する。その目は、改めて己の師を慕うような光が宿っていた。
その視線をむずがゆく感じながらも、もしかしたら、と柊は思う。
(俺の属性に惹かれて来たのか?)
柊の属性は、第一が風、第二が火だ。火を司るというその精霊は、柊が内包する火のプラーナに惹かれて、コインをくれたのかもしれない。もしかしたら、いつか風の精霊にコインをプレゼントされる日も来るかもしれなかった。
しかし、確信もないし、この推論を話したところで何がどうなるわけでもない。
「ま、まあ、理由はどうあれ、助かったのは確かだ。素直に精霊の恵みに感謝するとすっか」
そうですね、とりあえず何を買おう、とはしゃぐ双子に、柊は苦笑気味に息を吐いたのだった。
ちなみに。
「金のもーじゃ」
ぼそっと下の寝室で三人の会話を聞いていたサボテンが呟いたりしていたが、そこはまあ、柊達の知る由もないことである。
◇ ◆ ◇
とりあえず、どんなお宝でも、そのまま食事や日用雑貨に化けてくれるわけではない。精霊のコインを現金化するべく、柊はドミナの町に向かった。台所事情を預かるコロナはもちろん、バドも一緒についてきた。
柊一人の時より時間はかかったが、昼前にはドミナについた。とりあえず、顔なじみの道具屋でコインを現金化しようとして、
「多分、宿に泊まってる魔法学校の学生さんの方が良い値で買い取ってくれますよ」
しかし、コインを見たマークは、にこやかにそう告げた。
「そうなのか?」
「はい。それに、うちは旅人向けに武具も扱ってるけど、基本日用雑貨の店なんで……ちょっと」
仕入れても捌きかねるんです、とマークは苦笑した。
なるほど、双子の話ではこのコインはそれなりの稀少品のはずだ。言ってはなんだが、この質素な店では扱いかねるのだろう。
「その宿って?」
「レイチェルがバイトしてる店の隣ですよ。“マナの祝福亭”」
マークの言葉に辞去して、三人は教えられた店へと向かった。
「多分、魔法道具の材料を集めるために旅してる学生だよな」
「むしろ、集めた材料を売り歩いて学費を稼いでるって方が正しいけどね」
宿にいる学生について、魔法学校の元学生だという双子が、口々に言った。柊は思わず眉を寄せ、
「学生なのに、学校行かなくていいのかよ」
「課外活動扱いで、ちゃんと単位も貰えますよ。レポートや学費をちゃんと定期的に出せば、ですけど」
私たちの年じゃその制度は申請できませんけどね、とコロナは言う。まあ、仮にも旅に出すのだから、年齢制限は当然だろう。
「そういや、その学校っていくつから入れるんだ?」
「基本的には満六歳からだったかな? 種族での例外や、特例試験をパスすれば別みたいですけど」
コロナの言葉に、ぼやくようにバドが続ける。
「結局、俺らは一年しかいられなかったけどなー」
「ってことは、お前ら今、七つか?」
柊の言葉に二人は頷く。コロナが溜息混じりに言った。
「私たち森人は寿命こそ長いですけど、成人するまでの成長速度は人間と変わりませんからね。たまに、老化が遅いんだから、成長も遅いんだろうって勘違いしてる人もいるみたいですけど」
「そーそー。魔法学校でも、たまに勘違いしてるやついたよな。俺らより明らかに年上のヤツが、こっちの耳見て年上扱いしてきた時は、笑っちゃったよ」
ちゃんと種族の勉強もしとけよなー、とバドが笑った。
へぇ、と二人の会話に柊は声には出さず呟く。コロナの言う『人間』とは、獣人などを含む大きな括りでの意味だろうから、『森人』というのはその『人間』の括りに入らない別種族なのだろう。多分、その老化速度の差から、括りが分けられているのだろうが。
しかし、森人の方が精神的に人間より早熟なのでは、と柊は思った。バドとコロナは年相応に子供っぽいところもあるが、頭の回転は速いし、語彙も豊富だ。もしかしたら、種族の問題ではなく、単純に二人の置かれて来た環境故かもしれないが。
柊が考えるでもなくそんなことを思っているうちに、例の宿についた。観音開きの扉は、質素だが広く作られている。
「いらっしゃいっス~」
入った先のホールで三人を出迎えたのは、大きな黄色い鳥だった。丸っこい胴に、大きな頭部。翼は短くて飛べそうにないが、逆に足はしっかりとしている。瞳は大きく、なかなか愛嬌のある容姿だった。頭部を飾るリボンと声からして女性(メス?)だろう。
「チョコボのヒナ?……にしちゃ、おっきいけど……」
ぼそっ、とバドが言う。それが聞こえたらしく、彼女はバドへと片翼とをズビシッと振るって、
「チョコボじゃないっス! カナリヤっス!」
「うわすんません!」
翼は寸止めだったが、突然のことに驚いてバドは叫ぶように謝罪した。
「わかってくれたならいいっス。自分はこの店のオカミのユカちゃんっス」
根に持つタイプではないらしく、鷹揚に頷いて自己紹介するユカちゃん。いや、客(しかも子供)に容赦なくツッコみを入れる時点で鷹揚といえるか微妙だが。
「あー、俺ら泊まりに来たんじゃなくて、ここの客に用があってきたんだけど」
魔法学校の学生なんだが、と柊が言えば、ユカちゃんはすぐに合点がいったらしい。
「ああ、あの出張素材屋さんっスね。それなら、二階に上がって右の突き当たりっスよ」
言って、左手にある階段の方を指し示す。許可を得て三人は二階に上がり、言われた部屋のドアをノックし――
「――あら、また会ったわね」
開けられたドアから現れた妖艶な笑みに、柊は一瞬絶句した。
「……あんた……洞窟の」
「覚えててくれたの。嬉しいわ」
ようやっと声を絞り出した柊の呟きに、メキブの洞窟で出逢ったチャイナ服の女は、にっこりと微笑んだ。
しかし、言葉とは裏腹にその翠の瞳はどこか冷たい。見惚れるようなその微笑すら、ただ妖しいだけだ。
「あの子は無事?」
彼女の言う『あの子』が真珠姫のことだというのは、考えるまでもなくわかった。
しかし――
「さあな」
柊は素っ気なく答える。あの後二人がどうなったかは柊も知らないし、そもそも知っていたところで、どこか得体の知れないこの女に教える義理はない。
「そう……心配だわ」
柊に返して呟く声も、どこかからかうような響き。口元の微笑もそのままで、どう見ても彼女の言葉を額面通りに受け取ることはできなかった。
「……ここ、魔法学校の学生の部屋だって聞いたんだがな」
それとも、あんたがその学生か? と皮肉のように訊いてやれば、女は変わらぬ笑みのまま頭を振った。
「私もここの子に用があっただけ。もう終わったけど」
「そうか。じゃあ、通してくれねぇか?」
柊の言葉に、女はわざとらしく目を見開いて、
「あら、ごめんなさい。気がつかなかったわ」
ドアを塞ぐように立っていた位置から横にずれる。
そうして、柊とすれ違って去って行く、刹那、
「あの忠告、忘れないでね――その子達のためにも」
「――な……!?」
息を呑んで振り返る柊に一瞥も向けず、その後姿は反対の突き当りの部屋へと消えていった。
「……師匠、今の人……知り合い?」
「いや……」
どこか戸惑ったようなバドの言葉に、柊は小さく、しかしきっぱりと答える。
「少なくとも、友達じゃねぇよ」
今までも、そして、おそらくはこれからも。あの女とはどこか相容れないと、はっきり感じた。
と、不安げに俯いていたコロナが、柊を見上げ、
「大丈夫……ですか?」
「……なにがだ?」
柊がきょとんと首を傾げるのに、コロナの顔は晴れない。
「だって……なんか、あの人……怖かった」
さっきまでの柊さんも、と小さく口の中で呟いたのが、柊の耳に届いた。
おそらく、あの女と柊が意識の水面下でぶつけ合った、殺気寸前の敵意を敏感に感じ取ったのだろう。
「――悪ぃ、居心地悪かったよな」
柊は苦笑して、わしわしとその頭を撫でる。
「わ!? ちょ……髪の毛ぐしゃぐしゃになっちゃいますよ!」
やーめーてー! というコロナに、柊は悪戯な笑みを向けてやる。それに、コロナもつられたように笑った。彼女の表情を曇らせていた陰りが消える。
「あのー……うちに用がないなら部屋の前で騒ぐのやめてくれません?」
と、開きっぱなしだったドアの中から、困惑したような声が届いた。
「あ、悪ぃ。用はあるんだ」
当初の目的を思い出し、柊は答える。
「買い取って欲しいもんがあるんだけど」
「そうですか。じゃ、入ってもらえますか?」
許しを得て、室内に入る。最後に入ったバドがドアを閉めた。
質素な部屋だった。シングルベッドが一つに、ナイトテーブル。部屋の主はそのテーブルについた椅子に腰掛けていた。
独特のデザインの青いローブと帽子は、おそらく制服だろう。まだあどけない容貌で、十代の半ばほどに見えた。
どうやら、バドとコロナとは面識はないらしく、お互い無反応だった。まあ、それなりの規模なら同じ学校に通っていたからといって、全員の顔を見知っているわけではないだろう。年が違えば、余計に。
「で、売りたいものってなんですか?」
「これ」
学生の言葉に短く答え、柊は数枚のコインをテーブルに置く。学生の対面に椅子があったが、掛けなかった。長居するつもりもない。
学生は無造作に出されたコインに、ぎょっと目を剥いた。
「精霊のコイン!?」
「らしいな」
柊の言葉に、学生はコインを手にとって、ひっくり返したり透かすように掲げたり、懐から取り出した魔法具を上に掲げたりした。
「……本物だ。サラマンダーの金貨ですね」
すごいや、と彼は目を輝かせ、買取額を提示した。
柊には相場がわからなかったが、双子のリアクションを見る限り、かなり良い額のようだ。しばらく生活するのに困らないだけの額でもある。
「じゃ、それで」
あっさり商談は成立。もらった代金を確かめ、懐にしまう――ふりをして、月衣に収めた。もう、掏りに遭うのはごめんである。
「助かりました。実は、精霊のコインが次の課題の必須材料で」
これで危ない思いして人里離れた奥地に行かなくて済みます、と学生は笑う。
「……なあ、さっき、ここから出てきた女なんだけど」
「ああ、さっきの美人さん」
柊の言葉に、学生はへらりと相好を崩した。まあ、あの女の容姿だけを見たなら、妥当なリアクションだろう。
「……あいつは、何か買ったのか? 売ったのか?」
「宝石をいくつか、こっちの言い値で売ってくれました。それなりに良い石だったのに、気前の良いお客さんでしたよ」
まあ美人相手でしたから、ボクもそんな吹っかけなかったんですけど、というおどけた言葉にも、今の柊には笑う余裕がない。
「……宝石、か……」
あの大きな宝石で胸を飾った二人。宝石を売買する女。――どういう関わりがあるのだろう。
「まあ、あなたも今後ともご贔屓に」
学生の上機嫌な声を背に受けて、柊達は学生の部屋を後にした。
と、階下に下りる際、柊は階段脇の突き当たり――あの女が入っていった部屋の気配を探るも、無人のようだった。
「二階の階段脇の部屋、誰が泊まってるんだ?」
降りてから、女将にそう問えば、彼女は不思議そうに首を傾げて、
「今日のお客さんは各階一人ずつっスよ?」
「……緑の服の女が、ここを通らなかったか? 茶髪を結い上げて、赤い花飾りをした」
柊の言葉に、彼女はますます首を傾げた。
「そんな人、見てもいないっス」
つまり、あの女はこのホールを通らずあの部屋を訪れて、帰りもここを通ることなく出て行ったのだろう。――おそらくは、あの空き部屋の窓から。
柊一人の時より時間はかかったが、昼前にはドミナについた。とりあえず、顔なじみの道具屋でコインを現金化しようとして、
「多分、宿に泊まってる魔法学校の学生さんの方が良い値で買い取ってくれますよ」
しかし、コインを見たマークは、にこやかにそう告げた。
「そうなのか?」
「はい。それに、うちは旅人向けに武具も扱ってるけど、基本日用雑貨の店なんで……ちょっと」
仕入れても捌きかねるんです、とマークは苦笑した。
なるほど、双子の話ではこのコインはそれなりの稀少品のはずだ。言ってはなんだが、この質素な店では扱いかねるのだろう。
「その宿って?」
「レイチェルがバイトしてる店の隣ですよ。“マナの祝福亭”」
マークの言葉に辞去して、三人は教えられた店へと向かった。
「多分、魔法道具の材料を集めるために旅してる学生だよな」
「むしろ、集めた材料を売り歩いて学費を稼いでるって方が正しいけどね」
宿にいる学生について、魔法学校の元学生だという双子が、口々に言った。柊は思わず眉を寄せ、
「学生なのに、学校行かなくていいのかよ」
「課外活動扱いで、ちゃんと単位も貰えますよ。レポートや学費をちゃんと定期的に出せば、ですけど」
私たちの年じゃその制度は申請できませんけどね、とコロナは言う。まあ、仮にも旅に出すのだから、年齢制限は当然だろう。
「そういや、その学校っていくつから入れるんだ?」
「基本的には満六歳からだったかな? 種族での例外や、特例試験をパスすれば別みたいですけど」
コロナの言葉に、ぼやくようにバドが続ける。
「結局、俺らは一年しかいられなかったけどなー」
「ってことは、お前ら今、七つか?」
柊の言葉に二人は頷く。コロナが溜息混じりに言った。
「私たち森人は寿命こそ長いですけど、成人するまでの成長速度は人間と変わりませんからね。たまに、老化が遅いんだから、成長も遅いんだろうって勘違いしてる人もいるみたいですけど」
「そーそー。魔法学校でも、たまに勘違いしてるやついたよな。俺らより明らかに年上のヤツが、こっちの耳見て年上扱いしてきた時は、笑っちゃったよ」
ちゃんと種族の勉強もしとけよなー、とバドが笑った。
へぇ、と二人の会話に柊は声には出さず呟く。コロナの言う『人間』とは、獣人などを含む大きな括りでの意味だろうから、『森人』というのはその『人間』の括りに入らない別種族なのだろう。多分、その老化速度の差から、括りが分けられているのだろうが。
しかし、森人の方が精神的に人間より早熟なのでは、と柊は思った。バドとコロナは年相応に子供っぽいところもあるが、頭の回転は速いし、語彙も豊富だ。もしかしたら、種族の問題ではなく、単純に二人の置かれて来た環境故かもしれないが。
柊が考えるでもなくそんなことを思っているうちに、例の宿についた。観音開きの扉は、質素だが広く作られている。
「いらっしゃいっス~」
入った先のホールで三人を出迎えたのは、大きな黄色い鳥だった。丸っこい胴に、大きな頭部。翼は短くて飛べそうにないが、逆に足はしっかりとしている。瞳は大きく、なかなか愛嬌のある容姿だった。頭部を飾るリボンと声からして女性(メス?)だろう。
「チョコボのヒナ?……にしちゃ、おっきいけど……」
ぼそっ、とバドが言う。それが聞こえたらしく、彼女はバドへと片翼とをズビシッと振るって、
「チョコボじゃないっス! カナリヤっス!」
「うわすんません!」
翼は寸止めだったが、突然のことに驚いてバドは叫ぶように謝罪した。
「わかってくれたならいいっス。自分はこの店のオカミのユカちゃんっス」
根に持つタイプではないらしく、鷹揚に頷いて自己紹介するユカちゃん。いや、客(しかも子供)に容赦なくツッコみを入れる時点で鷹揚といえるか微妙だが。
「あー、俺ら泊まりに来たんじゃなくて、ここの客に用があってきたんだけど」
魔法学校の学生なんだが、と柊が言えば、ユカちゃんはすぐに合点がいったらしい。
「ああ、あの出張素材屋さんっスね。それなら、二階に上がって右の突き当たりっスよ」
言って、左手にある階段の方を指し示す。許可を得て三人は二階に上がり、言われた部屋のドアをノックし――
「――あら、また会ったわね」
開けられたドアから現れた妖艶な笑みに、柊は一瞬絶句した。
「……あんた……洞窟の」
「覚えててくれたの。嬉しいわ」
ようやっと声を絞り出した柊の呟きに、メキブの洞窟で出逢ったチャイナ服の女は、にっこりと微笑んだ。
しかし、言葉とは裏腹にその翠の瞳はどこか冷たい。見惚れるようなその微笑すら、ただ妖しいだけだ。
「あの子は無事?」
彼女の言う『あの子』が真珠姫のことだというのは、考えるまでもなくわかった。
しかし――
「さあな」
柊は素っ気なく答える。あの後二人がどうなったかは柊も知らないし、そもそも知っていたところで、どこか得体の知れないこの女に教える義理はない。
「そう……心配だわ」
柊に返して呟く声も、どこかからかうような響き。口元の微笑もそのままで、どう見ても彼女の言葉を額面通りに受け取ることはできなかった。
「……ここ、魔法学校の学生の部屋だって聞いたんだがな」
それとも、あんたがその学生か? と皮肉のように訊いてやれば、女は変わらぬ笑みのまま頭を振った。
「私もここの子に用があっただけ。もう終わったけど」
「そうか。じゃあ、通してくれねぇか?」
柊の言葉に、女はわざとらしく目を見開いて、
「あら、ごめんなさい。気がつかなかったわ」
ドアを塞ぐように立っていた位置から横にずれる。
そうして、柊とすれ違って去って行く、刹那、
「あの忠告、忘れないでね――その子達のためにも」
「――な……!?」
息を呑んで振り返る柊に一瞥も向けず、その後姿は反対の突き当りの部屋へと消えていった。
「……師匠、今の人……知り合い?」
「いや……」
どこか戸惑ったようなバドの言葉に、柊は小さく、しかしきっぱりと答える。
「少なくとも、友達じゃねぇよ」
今までも、そして、おそらくはこれからも。あの女とはどこか相容れないと、はっきり感じた。
と、不安げに俯いていたコロナが、柊を見上げ、
「大丈夫……ですか?」
「……なにがだ?」
柊がきょとんと首を傾げるのに、コロナの顔は晴れない。
「だって……なんか、あの人……怖かった」
さっきまでの柊さんも、と小さく口の中で呟いたのが、柊の耳に届いた。
おそらく、あの女と柊が意識の水面下でぶつけ合った、殺気寸前の敵意を敏感に感じ取ったのだろう。
「――悪ぃ、居心地悪かったよな」
柊は苦笑して、わしわしとその頭を撫でる。
「わ!? ちょ……髪の毛ぐしゃぐしゃになっちゃいますよ!」
やーめーてー! というコロナに、柊は悪戯な笑みを向けてやる。それに、コロナもつられたように笑った。彼女の表情を曇らせていた陰りが消える。
「あのー……うちに用がないなら部屋の前で騒ぐのやめてくれません?」
と、開きっぱなしだったドアの中から、困惑したような声が届いた。
「あ、悪ぃ。用はあるんだ」
当初の目的を思い出し、柊は答える。
「買い取って欲しいもんがあるんだけど」
「そうですか。じゃ、入ってもらえますか?」
許しを得て、室内に入る。最後に入ったバドがドアを閉めた。
質素な部屋だった。シングルベッドが一つに、ナイトテーブル。部屋の主はそのテーブルについた椅子に腰掛けていた。
独特のデザインの青いローブと帽子は、おそらく制服だろう。まだあどけない容貌で、十代の半ばほどに見えた。
どうやら、バドとコロナとは面識はないらしく、お互い無反応だった。まあ、それなりの規模なら同じ学校に通っていたからといって、全員の顔を見知っているわけではないだろう。年が違えば、余計に。
「で、売りたいものってなんですか?」
「これ」
学生の言葉に短く答え、柊は数枚のコインをテーブルに置く。学生の対面に椅子があったが、掛けなかった。長居するつもりもない。
学生は無造作に出されたコインに、ぎょっと目を剥いた。
「精霊のコイン!?」
「らしいな」
柊の言葉に、学生はコインを手にとって、ひっくり返したり透かすように掲げたり、懐から取り出した魔法具を上に掲げたりした。
「……本物だ。サラマンダーの金貨ですね」
すごいや、と彼は目を輝かせ、買取額を提示した。
柊には相場がわからなかったが、双子のリアクションを見る限り、かなり良い額のようだ。しばらく生活するのに困らないだけの額でもある。
「じゃ、それで」
あっさり商談は成立。もらった代金を確かめ、懐にしまう――ふりをして、月衣に収めた。もう、掏りに遭うのはごめんである。
「助かりました。実は、精霊のコインが次の課題の必須材料で」
これで危ない思いして人里離れた奥地に行かなくて済みます、と学生は笑う。
「……なあ、さっき、ここから出てきた女なんだけど」
「ああ、さっきの美人さん」
柊の言葉に、学生はへらりと相好を崩した。まあ、あの女の容姿だけを見たなら、妥当なリアクションだろう。
「……あいつは、何か買ったのか? 売ったのか?」
「宝石をいくつか、こっちの言い値で売ってくれました。それなりに良い石だったのに、気前の良いお客さんでしたよ」
まあ美人相手でしたから、ボクもそんな吹っかけなかったんですけど、というおどけた言葉にも、今の柊には笑う余裕がない。
「……宝石、か……」
あの大きな宝石で胸を飾った二人。宝石を売買する女。――どういう関わりがあるのだろう。
「まあ、あなたも今後ともご贔屓に」
学生の上機嫌な声を背に受けて、柊達は学生の部屋を後にした。
と、階下に下りる際、柊は階段脇の突き当たり――あの女が入っていった部屋の気配を探るも、無人のようだった。
「二階の階段脇の部屋、誰が泊まってるんだ?」
降りてから、女将にそう問えば、彼女は不思議そうに首を傾げて、
「今日のお客さんは各階一人ずつっスよ?」
「……緑の服の女が、ここを通らなかったか? 茶髪を結い上げて、赤い花飾りをした」
柊の言葉に、彼女はますます首を傾げた。
「そんな人、見てもいないっス」
つまり、あの女はこのホールを通らずあの部屋を訪れて、帰りもここを通ることなく出て行ったのだろう。――おそらくは、あの空き部屋の窓から。
『――君が石にならないといいけど』
『あの忠告、忘れないでね――その子達のためにも』
『あの忠告、忘れないでね――その子達のためにも』
(やっぱ、得体が知れねぇな)
あの冷たい翠の眼差しを思い出しながら、柊はどこか薄ら寒い思いを覚え、頭を振った。
あの冷たい翠の眼差しを思い出しながら、柊はどこか薄ら寒い思いを覚え、頭を振った。