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編集者より
- メリー・ウィドウの訳詞を作るにあたっては色々とネット上の情報も調べました。私の訳詞の方の「訳者より」にも書いたように、オペレッタは台詞部分のお芝居も重要なので、ドイツ語圏での上演以外ではその国の言葉での舞台にすることが普通です。となれば日本で上演するにあたっても当然日本語の歌詞を使っているはず。けっこうYouTubeに国内で収録されたプロダクションの全曲あるいはハイライトがアップされていましたので自分の訳詞の参考になるかと色々鑑賞させて頂きました。これがなかなか素晴らしいのです。メロディに合った自然な歌詞、思わず口ずさみたくなるような絶妙なワードチョイス、これは只者の仕事ではないな と追いかけてみると、野上彰(1909-1967)の訳詞がほぼすべてのプロダクションのベースになっていることが分かりました。
- 作詞者の野上は徳島の生まれ、詩や小説、翻訳など幅広い分野で活躍しました。恐らく今でも一番有名なのは團伊玖磨のメロディがついた「子守歌(むかしむかしよ 北のはて オーロラの火の 燃えている)」ではないかと思います。そんな彼のひとつの大きな仕事は1950~60年代はまだ日本語上演が普通だったオペラのリブレット作成でした。ここのブログ記事によれば当時の二期会・藤原歌劇団の翻訳上演の多くを行っていたのがこの野上彰なのだそうですが、日本語での翻訳上演がほとんど行われなくなった今となってはほとんど忘れ去られた歴史に。そんな中この「メリー・ウィドウ」で彼の仕事が今に遺されているというのはとても嬉しいことでした。
- 1967年に亡くなった野上は著作権法延長に幸いなことにしてギリギリで引っかかりませんでしたので、2017年の末に著作権が切れています。そこで彼の仕事をちゃんとした形で遺して置きたいと思い、ここに頑張って取り上げて見ることとしました。と言いつつこの作業、むちゃくちゃ大変でした。というのも日本では日本語訳詞に対するリスペクトが低いためか、①そもそもプロダクションに訳詞家の名前をクレジットしないことが多い②彼の著作権は最近まで生きていたのですが、既に訳者死後50年以上も経って相当多くの箇所に別の人の手が入ってしまい、もの凄い数のバリエーションができてしまってどれが野上のオリジナルなのか判然としなくなっている の問題2点。幸いなことに奈良教育大の方々が2024年の学生オペラで取り上げて下さったものが恐らく野上のオリジナルと思われる歌詞が使われ、しかも有難いことに字幕まで付けて下さっていましたのでこれをベースに、この公演でカットされていた部分や重唱で拾い切れなかった部分などは他の公演をYouTubeで聴き比べてたぶんこれが野上オリジナルだろうと思う歌詞を再構成しました。とはいえアマチュアがお金をかけずにできることはこの程度。どなたかプロの研究者の方にあとはお願いできればと思います。このままではどんどん手が入ってもはやオリジナルが分からなくなってしまう日も近いのではと危惧しています。
- また、野上の手になる部分で今回発掘できたのは歌われている部分だけ。台詞部分を彼が手掛けたかどうかは判然としておりません。そこで今回Wikiを仕上げるにあたって台詞部分はつい先だって作った私の訳を一人称や口調を少し歌われる部分に合わせて手直ししたものを残して置きました。野上の書いた部分とは色を変えています。
野上訳の魅力について
- 現在手に入るヴォーカルスコアが野上彰訳/中山知子補完のものしかないこともあり、上演となればこの野上訳を取り上げざるを得ないということもあるとは思いますが、やはり詩の世界にも音楽にもともに経験を積んだ天才の手になる詞は明快で自然。舞台で実際に歌われてとても映えるのがこの野上訳の長所です。凡百の訳詞者だと物語を説明する言葉を並べ立てて詞を書いてしまうところ、彼はメロディが訴えようとしている情感をしっかりと掴みその情感にしっくりくる言葉を選び抜いて素敵な歌を紡ぎ出してくれます。
- 第1幕のハンナ登場のアンサンブル(Hab' in Paris mich noch nicht ganz so aklimatisiert, 「華やかなパリの世界にまだ」)などまるでオリジナルが日本語かと思えるほどのナチュラルさ。片や流行歌でも鳴らした彼の腕はリリカルな曲ではその魅力全開です。第1幕のダニロのソロ(Wie die Blumen im Lenze erblüh'n,「恋の夜はすぐに」)や第2幕のカミーユのソロ(Wie eine Rosenknospe im Maienlicht erblüht, 「心の庭の バラの花は」)など覚えて口ずさみたくなるような美しい歌詞。その他にも随所に言葉選びの工夫が施されていて、原詞と(あるいは私の訳したものと)見比べて「ここをこう処理したか」と思わず唸らされることが何度も。いくつか例を挙げますと
第1幕 ヴァランシェンヌとカミーユのデュエットの最後
(V) Nimm vor dem Feuer dich in acht.
(C)und nimmt sich nie in acht!
- 「in achat」の部分の韻をどちらも「いま」で揃えている(これ、巧く歌いこなしてるペアの歌を聴くと痺れます)
第2幕 ハンナとダニロのデュエットから
Dummer, dummer Reitersmann,
der mich nicht verstehen kann!
- この原詞からこの日本語フレーズを思いつくのは天才的。ものすごく自然に聴こえますし、このデュエットの本質を突いています。
第2幕 幕切れ近くのハンナのソロ
こうでなくちゃ
トゥラララララ
何の人生
トゥラララララ
Des hat Rrrrasss'
so tral-la-la-la-la!
Macht ihr Spaß
so, tral-la-la-la-la!
- ここも音になって聴いてみると他の歌詞はあり得ないと思えるくらいハマっています。何度か聴いているうちに自分でもこの詞でメロディを口ずさんでしまいます。
第3幕 ヴァランシェンヌとグリゼットたちの踊りながら歌う場面
パリの夜なら
パリの夜なら
あたしが相手よ!
あたしが相手よ!
Ritantouri tantirette.
Eh voilà les belles grisettes!
Les grisettes de Paris.
Ritantouri tantiri!
- いやあ ここも実に上手い。パリのキャバレーの雰囲気など微塵も知らない日本人観客に響くワードチョイスは見事です。学生さんの上演で若いお嬢さんたちが力強く一所懸命歌い、踊っているのを見たら、私もダニロと同じように思わずマキシムに通い詰めてしまいそう...
- 歌で想いを表し、歌で会話をするというある意味不自然なことをやってる訳ですからそこで紡ぎ出される言葉は聴き手の中にすっと入って行って共感のできるものでないと、特にオペレッタやミュージカルのような題材が身近なものでは心に響かないということなのだと思います。この野上訳で上演されたメリーウィドウ、Youtubeでいくつか鑑賞させて貰いましたがこれまでの日本語上演への偏見を吹っ飛ばすような素敵な舞台ばかり。訳詞を今後続けて行く際のヒントをたくさん頂けて物凄く勉強になったのも思いがけない副産物ではありました。
- とはいいつつも、これだけ膨大なリブレットですのですべてが完璧という訳には行きません。また「やもめ(未亡人)」や取り上げようかどうか迷った某差別用語(結局私は取り上げることにしましした)など、50年以上の時を経て古くなった言葉も変えたいところでしょう。公演1つ1つで違っているくらい、後の手が入っています。特に第2幕「ヴィリアの歌」や「女女のマーチ」はかなり手が入ってしまいました。さてその改変がうまく行っているかどうか それは皆さんの耳でお確かめください。私はかなりの部分はオリジナルの方がずっと魅力的と思っていますが…(といいつつも新しいチャレンジには意味があります。だからこそ著作権の切れたオリジナルの古典はひとつの文化遺産としてちゃんと保存して皆が参照できるように公開されるべきと思うのです)
- ちなみにこのWikiのテキストに一番近い(つまり後の他の人の手が入っていないオリジナル)カットなしの全曲は板橋区演奏家協会さんのサイトで見ることができます。2008年とクレジットされている古いものの方がカメラアングルや録音のクオリティも良く、より楽しめるのではないかと思えました。特に野上の才能を味わえるのは第2幕のヴァランシェンヌとカミーユの2重唱から幕切れまで。この箇所、あまりに良く詞ができてるからでしょう。他の公演でもほとんど後の人の手は入っていないように思えます。
- この野上訳、もうひとつ不幸なことがあります。このオペレッタで一番有名なナンバー、第3幕でハンナとダニロによって歌われる有名な「ワルツ」ですが、ここだけはあまりにポピュラーなためか物凄い数の競合する日本誤訳詞があります。なかでも戦前に流行歌にまでなってたいへん良く知られた堀内敬三訳(高鳴る調べに いつか)の方を舞台でも野上彰訳(ときめく心に 高く)の代わりに差し替えて使っているケースが圧倒的に多いことです(1970年からの二期会のプロダクションから始まった習慣のようで、これがデファクトのようになって野上訳のワルツはほとんど日が当たらなくなってしまいました)。歌詞の美しさにおいてはいずれも甲乙つけがたいとは思うのではありますが、原詞の伝える心をより的確に表しているという点では私はこの野上訳の方が舞台で使うには適切ではないかと思えます。このワルツだけ単独で歌われている動画も含めて、野上訳の歌声をYouTubeで聴くことができたのはわずか数件に過ぎません。そもそもが歌詞の作者のクレジットを出しているところも非常に少ない状況。日本のオペレッタ、ミュージカル界ももっとリリシストに敬意を表して育てて行かないとまずいんじゃないの?と思えてしまう一幕でした。
最終更新:2025年05月16日 11:16