国家秩序本部(SH,State order Headquarter)は新ソ連領域内のテロル鎮圧と反乱分子の諜報・摘発・制圧を行う秩序維持機関、秘密警察。新ソ連に二つしかない本部の一つであり特定の省庁に属せず大統領に直属する機関とされている。現在の長官はジークフリート・レンベルク。
機能
過去には令状なしの強制捜査や逮捕拘束を行うことが認められるなど絶大な強大な権限を有していたが、現在では改革のメスが及び権限は弱体化している。かつてはテロリストや反体制派を鎮圧する秘密警察としての側面が強かったが、現在では国内諜報を担当する諜報機関としての面が強い。
歴史
150年代後半にかけて黎明期にあり、政治的混乱も続いていた新ソ連では依然として政府に対する反発が強く数多くのテロや暗殺事件が頻発していた。当時の新ソ連の指導者であったカールハインツ・メッケルニッヒは生涯に渡り5度にわたる暗殺未遂を受けた人物で、三度目の暗殺未遂後に従来の治安警察組織はその役目を果たせていないとして国家秩序本部を創設した。秩序本部には令状なしの逮捕権(予防拘禁)や強制収容所の建設、更には治安戦目的で独自の軍事力を保有していた。初代長官にはオズワルド・ヴェーヴェルスベルクが就任した。ヴェーヴェルスベルクは当時一介の高級官僚の一人でしかなかったが国家秩序本部長官就任以後自身の政治的権力拡大に邁進した。秩序本部の警察機関としては異様なほどの権力はこの過程で得られたものであった。またヴェーヴェルスベルクは西禍論と呼ばれる反ヨーロッパイデオロギーを唱え秩序本部内で独自のカルト的地位を確保した。これらの活動によてメッケルニッヒの死後には後継者争いで優位に立つまでに至った。
しかしヴェーヴェルスヴベルクと国家秩序本部の拡大は彼の反対派に強い危機感を与えた。メッケルニッヒの死後まもなくして反ヴェーヴェルスベルクブロックが形成、事実上自分以外の全員が敵に回ったヴェーヴェルスベルクは失脚を余儀なくされた。その後ヴェーラー政権下でヴェーヴェルスベルクは収容所長に左遷され彼の後任には秩序本部内非ヴェーヴェルスベルク派最有力のジークフリート・レンベルクが就任した。しかしヴェーヴェルスベルクは失脚後も虎視眈々と復活の機会を狙い秩序本部内での影響力を再び高めた。
このような動きを警戒したジェルジンスキー政権は第三次中東戦争で奪還したパレスチナに秩序本部の統治領域として秩序領域パレスチナを設置しヴェーヴェルスベルク派を追放した。この処分で秩序本部は政治的に中立な新ソ連本国派と急進的な秩序領域派に分かれることになった。
秩序領域ではヴェーヴェルスベルクが目指す欧州への復讐のための国家運営が行われ、核実験の決行や弾道弾開発に成功するなど盤石に見える地位を築いた。
しかしアークランド懲罰戦争中にヴェーヴェルスベルクが急死すると情勢は急転換した。ジェルジンスキーは秩序領域が混乱し戦時中のこのタイミングを千載一遇の好機とみなしそれまで不文律とされていたパレスチナへの革命軍不侵入を破りパレスチナに進駐を行った。核報復の危険すらあったこの賭けは秩序本部の混乱から完全に成功に終わり一部の秩序領域の部隊が最後まで抵抗し焦土作戦・決死の戦闘を行ったほかは平和裏に武装解除が行われた。ジェルジンスキーは自らの負債償還として迫りつつある自身の任期の中で国家秩序本部の大改革を断行した。
大改革後の秩序本部は大きく縮小した。ヴェーヴェルスベルク派幹部は全員が国家反逆罪で逮捕され、肥大化した秩序本部の諸機関は解散させられた。最終的に秩序本部は大統領直轄の地位を残しつつも公安警察としての機能のみを残すことになった。
組織構成
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第一局
国家秩序本部第一局は秩序本部の人事及び編制を所轄する。局長はヴォルグラム・ステルグリッド。
第二局
国家秩序本部第二局は秩序本部の総務を所轄する。局長はウラジ-ミル・アントノフ。
第三局
国家秩序本部第三局は連邦内のテロルの研究及び殲滅を実施する。局長はアルトゥーレ・エンゲル。
第四局
国家秩序本部第四局は連邦内の一般犯罪の撲滅を実施する。局長はガヴリロ・アディオス。
第五局
国家秩序本部第五局は連邦内の諜報活動を所轄する。局長はミアハ・ディグレル。
第六局
国家秩序本部第六局は連邦外の諜報活動を所轄する。局長はミハエル・イリーチ。
第七局
国家秩序本部第七局は連邦内の一般破壊活動の阻止及び殲滅を実施する。局長はアル・ザルツマン。
第八局
国家秩序本部第八局は国家保安部で対処しきれない問題に対し軍事力を用いた治安維持を行った。局長はオーギュスト・ジャコバン。第八局の戦力は連邦軍から独立した指揮系統、兵站を有していた。現在は廃止されている。
第九局
国家秩序本部第九局は国家秩序本部の財政を統括する。局長はエルヴィン・ストラーダ。過去には強制収容所、SHの物品管理、第八局に供給される兵器の生産を行っていた。
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強制収容所
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新ソ連の強制収容所は主にメッケルニッヒ政権の後半建造・整備が進められた。政権や国家秩序本部によって反政府分子・テロリストと判断された人々や重罪人が収監された。また殆どの新ソ連内のヨーロッパ系人種は強制収容の対象になった。多くの場合囚人の刑期は無期限であり、無制限かつ無償の労働力として利用される。強制収容所では他の同一の施設で見られるように恐怖、疲労、猜疑心によって支配され従順な労働力として使用される。強制収容所は最終的なあらゆる形態の犯罪者の"根絶"を目的としている。法的に犯罪者を収容する施設と不穏分子等政治犯を収容する施設は異なるが、実態としてはどちらも大差なく運用されていた。
歴史
新ソ連の指導者であったカールハインツ・メッケルニッヒはその政権の中頃に多くの暗殺危機を受けパラノイアを発症した。結果としてそれは病的なまでの「不穏分子」の摘発運動に繋がり、摘発された人々を収容する施設の必要性に迫られた。結果として新ソ連の各地に強制収容所が建設された。
メッケルニッヒの死後、新ソ連では自由化と民主化が進んだが、国家の中で独自の地位を持つ国家秩序本部の管轄である強制収容所はブラックボックス化され改革は遅々として進まなかった。新ソ連国内の強制収容所の廃絶は政治犯の国外労働刑が定められる176年まで待たなければならない。
実態
殆どの強制収容所は国家秩序本部の方針に従いその囚人の労働力を最大限に引き出す事を目標としていた。過度な残虐行為はその有用性を確認できなかったため制限されていた。
強制収容所では報酬と囚人ヒエラルキーなどの形でそのシステムを維持していた。
強制収容所の労働者は砂漠の緑化作業やウランの採掘、麻薬の生産など危険であったり過酷な労働に従事することを余儀なくされた。
代表的な強制収容所
新ソ連の強制収容所の中で最も有名なのがラウダンツ強制収容所とパルミラ強制収容所である。前者は山岳に位置する犯罪者の収容所であり、後者はシリア砂漠の中央に位置する政治犯収容所である。どちらもその規模で有名である。
ラウダンツ強制収容所は新ソ連北東、クルディスタンPSRの中央ユーラシア国境付近の山岳地帯に位置する。収容所の施設は山岳に穴を開ける形で造られており、殆どの収容房は日が差し込まない。その構造から要塞と呼ばれる事がある。ここでは大規模なケシの栽培とウラン鉱山の採掘が行われている。ケシは強制収容所内部でアヘンへの精製が行われ、一部が囚人の報酬として解放され残りは密輸出に回される。ウランの採掘では放射線防御が甘くレグルス人を持ってしても危険性が高く5年以内の致死率は9割を超える。メッケルニッヒの死後からパレスチナ秩序領域の設置まで政争に敗れていたヴェーヴェルスベルクはこの強制収容所の所長に左遷されていた。
パルミラ強制収容所は砂漠の中央に位置し、最寄のオアシスから70km離れた場所にある。ここには最も危険な政治犯が収容され、代表的な人物に無政府主義テロリズムの指導者ヨーゼフ・ドレスラーがある。この施設はかつてレグルス時代に収容所として用いられていたものを再利用したもので、レグルス戦争で破壊され放棄されていた物を修復して使用している。施設の4割はレグルス時代の物をそのまま用いていた。
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最終更新:2024年07月18日 16:55