レグルス国の人物


レグルス帝国

国家指導者

ギース・ヴァンガード・クロムウェル

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ギース・ヴァンガード・クロムウェル
Ghis Vangard Clomwell
生誕 シリア ダマスカス
統一歴96年 12月15日
死去 シリア ダマスカス
統一歴149年 4月30日
職業 独裁者 政治家

概要
ギース・ヴァンガード・クロムウェルはレグルス第二帝国の独裁者、総統。レグルスの名家クロムウェル家の出自。父の支援の下で連合帝国期から若くして政治家となった。
連合帝国末期の第一次東地中海戦争前に開戦に反対するが失脚。しかし終戦後の混乱の中でヴィクトワール・ピサ警察長官と組みクーデターを敢行、独裁政権を確立する。だがその後政権の混乱が続き暗殺未遂が起きると突如辞任を表明、政治から引退した。
130年代末期から140年前半にかけてレグルス第二帝国が再び混乱すると復活、脆弱な与党だった帝国党をまとめ上げファッショ体制を構築、再び総統の座についた。総統としては破綻寸前の財政を略奪経済で誤魔化し国民の目を国内の不満から背けるため各地で戦争を繰り返した。
アフリカ大戦、トランスコーカサス戦争など各地で戦勝を飾り国内での支持が絶頂にあった時期にモレラ・フランス打倒を掲げ開戦した。レグルス戦争の始まりである。レグルス戦争では一貫して国内の動員へ努力し、国家総力戦を戦った。少なくとも虚飾の帝国であったレグルス国が最後まで総力戦を続けられた理由の一つはクロムウェルの貢献である。またクロムウェル最大の愚行とも言われる共産国家への宣戦布告はそうでもしなければ国家財政が破綻するという事実のため致し方ない面もあった。
しかし戦争全体の趨勢がレグルス不利となるとクロムウェルは軍需の面から軍に積極的に関与するようになり、末期にはクーデター未遂を起こした軍への不信から親衛隊を重用するようになった。
クロムウェルは一貫して戦争継続を求め続け、本土侵攻目前となってもそれは変わらなかった。クロムウェルは国外への逃亡を却下し続け帝都ダマスカスが戦場になってもダマスカスに留まり続けた。最後には残る政権幹部も官邸から追い出した後に自殺したとされている。


政治家

陸軍

キーロフ・フェルディナント・ジューコフ

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キーロフ・フェルディナント・ケッセルリンク・ジューコフ
Kilov Ferdinant Kesselringv Zhukov
生誕 シリア 不明
統一歴75年 6月19日
死去 レバノン ベイルート
統一歴156年 1月2日
職業 軍人 陸軍将校

概要
キーロフ・フェルディナント・ジューコフはレグルス第二帝国陸軍の軍人。137年から149年まで11年にわたりレグルス帝国陸軍最高司令官を務めた。その間の南コーカサス戦争アフリカ大戦レグルス戦争といったすべての主要な戦争に関与し、レグルス帝国の戦争計画を主導した。

経歴
統一歴85年6月19日にベイルート市内の病院で誕生。家庭は代々軍人の家系であった。父のアレクセイ・ジューコフはベイルート共和国の騎兵隊長で、たびたびキーロフを幼少期から職場に連れ出した。このためキーロフは騎兵に大きな憧れを抱くようになり、軍人の道を志すことになった。
キーロフは初等・中等教育を優秀な成績で通過しベイルート士官学校に入った。ここでもジューコフは類稀な才能を示し主席は確実とみられていたが、校長との反りが合わず次席に押し込まれた。このことはジューコフにとって大変な屈辱であり、士官学校卒業後ジューコフはベイルートを出奔しシリアに移った。当時のシリアは軍閥が群雄割拠する内戦状態にあり、訓練された軍事技能を持つジューコフはどこに行っても重宝された。その後もしばらくジューコフはシリアやイラクでフリーランスの傭兵として活動していたが、やがてバグダッドに居を構えメソポタミア王国に仕えるようになった。
メソポタミア王国でもジューコフの活躍は留まるところを知らず、元の武勇もあって僅か5年で少将にまで昇進した。しかしそれとほぼ同時期にかけてのちにレグルスを統一することになるティクリート侯国の活動が活発化、ジューコフもティクリートとの戦いに加わった。両国の決戦となったターミヤ会戦ではジューコフは戦線左翼からティクリート軍に対し襲撃を掛けたが、当時としては異例な数の機関銃掃射を受け部隊は壊滅、ジューコフ自身も馬を失いティクリート軍の捕虜となった。その後メソポタミア王国が壊滅するとジューコフはティクリート侯国に忠誠を誓い、機関銃騎兵部隊を指揮することになった。
レグルス統一が完了し第一帝国が成立するとジューコフは再編された陸軍騎兵部隊の司令官に充てられることになった。しかしジューコフはこれを固辞し、当時新しく編成されることになっていた機甲部隊司令の座を望んだ。この異例の要望は当初拒絶はずだったが、皇帝の耳に及び特例として許可されることになった。ジューコフは統一戦争の経験から騎兵が時代遅れになっていることと、将来的な機動戦力としての機甲部隊の価値を見越していたと言われる。海戦が主体となった第一次地中海戦争ではジューコフの機甲部隊は満足に活躍できなかったが、インド洋戦争のアラビア戦役では機械化された第2軍と第4軍が3倍以上の敵を破る大戦果を挙げ、ジューコフの名声を不動のものにした。続く第二次東地中海戦争でもジューコフと彼の機動部隊は本土防衛のために奮戦し、戦後には元帥に任じられた。レグルス帝国において元帥は陸海空軍にそれぞれ一人しかいない事実上の最高司令官であった。
ジューコフはクロムウェル政権成立後も最高司令官として各地の戦争を指揮し、華々しい勝利を収めた。ジューコフは誉高い帝国軍の顔としてプロパガンダにたびたび登場した。レグルス戦争でも同様に戦争計画を主導したが、レグルス史上最大の戦争であったこの戦争はもはや一人の手に負えるものではなかった。ジューコフは最後まで陸軍最高司令官であり続けたが、戦局を回天させることはついにできなかった。149年6月23日に赤軍によってクウェート市で逮捕された。連合軍はジューコフを戦争犯罪法廷で裁くことを検討したが、証拠不十分として釈放された。
釈放後ジューコフはしばらくの間クウェートで暮らしていたが、アッシリア赤軍がクウェートに侵攻するとルークリアへ亡命した。156年1月2日、新年パーティーの翌日に自宅で亡くなった。死因は脳卒中と診断された。
逸話
  • 幼いころから大変な馬好きであった。幼少期は父の隊の厩舎に出入りし、度々そこで寝泊まりしては母親から叱られていたという。騎兵から機甲科に移った後も馬への関心は絶えず、将校に昇進した121年には自分の牧場をクルディスタンに設けている。
  • クラウス・ケッセルリンク空軍元帥とは義兄弟の関係である。ケッセルリンクはジューコフの溺愛する妹アナスタシアと結婚し、両者の関係もまた親密だった。ケッセルリンクが148年に飛行機事故で亡くなった際にはワインを浴びるほど飲んで嘆いたという。

アントン・ホルバイン

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アントン・ホルバイン
Anton Holbein
生誕 シリア 不明
統一歴82年 3月12日
死去 シリア ダマスカス
統一歴148年 8月29日
職業 軍人 陸軍将校

概要
アントン・ホルバインはレグルス第二帝国陸軍の軍人。レグルス戦争中は本土防衛を司るG軍集団第二十三擲弾軍の司令官を務めた。反クロムウェルグループ「ワルキューレ」に参加しワルキューレの夜事件を引き起こすも失敗、逮捕された。逮捕後軍事法廷で死刑判決を下され、処刑された。最終階級は中将。

エミール・エーギル

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エミール・エーギル
Emil Egir
生誕 クルディスタン スレイマニヤ
統一歴83年 12月11日
死去 シリア ダマスカス
統一歴148年 8月4日
職業 軍人 陸軍将校

概要
エミール・エーギルはレグルス第二帝国陸軍の軍人。レグルス戦争中はダマスカス防衛を司る帝都防衛大隊司令官を務めた。反クロムウェルグループ「ワルキューレ」に参加しワルキューレの夜事件に関与、大隊によるダマスカス制圧を指揮した。クーデターの失敗が明らかになった後、大隊に投降を命じた後に拳銃自殺した。最終階級は上級大佐。

シュミット・エルケ

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シュミット・エルケ
Schmitt Elke
生誕 クウェート クウェート
統一暦95年 8月21日
死去 シリア ダマスカス
統一歴148年 8月4日
職業 軍人 陸軍将校

概要
シュミット・エルケはレグルス第二帝国陸軍の軍人。戦前までは陸軍の特殊部隊に所属していたとされるが、詳細は不明。レグルス戦争開戦時点で特殊部隊からは抜けており、クロムウェルの個人的な軍事アドバイザーの一人であった。クロムウェルとはプライベートでも親交があったが、密かに反クロムウェルグループ「ワルキューレ」に参加した。ワルキューレの夜事件では時限爆弾を用いてクロムウェルの暗殺を試みたが、失敗。その後の反クーデターグループとの衝突の最中に戦死した。最終階級は大佐。

海軍

エーリヒ・フォン・ローゼンベルク

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エーリヒ・フォン・ローゼンベルク
Erich von Rosenberg
生誕 クウェート ジャハラ
統一歴79年 3月4日
死去 シリア ダマスカス
統一歴148年 8月4日
職業 軍人 海軍将校

概要
エーリヒ・フォン・ローゼンベルクはレグルス第二帝国海軍の軍人。戦前はレグルス海軍で最も名誉とされる連合艦隊司令長官職を務めていたが、クロムウェル体制へ不満を隠さなかったため予備役編入されていた。反クロムウェル組織のワルキューレ・グループが結成されると海軍の重鎮として参加し、海軍へのグループの浸透に大きく貢献した。146年12月には軍内のグループの手助けによって現役に復帰している。ワルキューレの夜ではホルバイン、マイジンガーと共に全国戒厳令を発動した。クーデターの失敗が明らかになった後も抗戦を主張したが、首都防衛大隊の降伏を知ると拳銃自殺した。最終階級は大将。

セルゲイ・フォン・エーデルシュタイン

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セルゲイ・フォン・エーデルシュタイン
Sergei von Edelstein
生誕 パレスチナ ハーンユーニス
統一歴90年 9月10日
死去 シリア ダマスカス
統一歴148年 8月29日
職業 軍人 海軍将校

概要
セルゲイ・フォン・エーデルシュタインはレグルス第二帝国海軍の軍人。反クロムウェル的な姿勢を崩さなかったためレグルス戦争時にはペルシア湾艦隊司令という閑職に追いやられていた。戦争中、ワルキューレ・グループに参加しワルキューレの夜に関与した。クーデターの失敗後、憲兵によって逮捕。逮捕後軍事法廷で死刑判決を下され、処刑された。最終階級は少将。

空軍

ウルフリック・マイジンガー

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ウルフリック・マイジンガー
Wolfric Meisinger
生誕 シリア アイン・イッサ
統一歴75年 5月7日
死去 シリア ダマスカス
統一歴148年 8月29日
職業 軍人 空軍将校

概要
ウルフリック・マイジンガーはレグルス第二帝国空軍の軍人。レグルス戦争では開戦時に第一航空艦隊司令を務めるも連合軍による空爆に巻き込まれ重傷を負い、本国に後送された。退院を間近に控えた147年3月にクロムウェル直々の訪問を受け本土防空司令官のポストを打診され、これを快諾した。しかし実際に連合軍による本土空襲が始まるとレグルスの敗戦を確信、反クロムウェルグループ「ワルキューレ」に加わった。ワルキューレの夜ではアントン・ホルバイン、エーリヒ・ローゼンベルクとともに反乱の中核を担ったが、クーデターは失敗に終わった。マイジンガーはローゼンベルクと同じく拳銃自殺を図ったが弾丸の当たり所が悪く死亡には至らなかった。昏睡状態のマイジンガーは親衛隊によって拘束されダマスカス郊外の軍病院に収容された。マイジンガーに対する裁判は意識を取り戻してから行われることになったが、149年になってもマイジンガーが目覚めなかったため欠席裁判が行われ死刑判決が下された。その後マイジンガーは軍病院の庭で昏睡状態のまま射殺された。最終階級は大将。

親衛隊

レグルス国家再生政府

国家指導者

アンドレイア・レヴィツェンスク

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アンドレイア・レヴィツェンスク
Andreia Revitcensk
生誕 パレスチナ ガザ
統一歴99年 1月31日
死去 バングラディシュ ダッカ
統一歴182年 6月3日
職業 独裁者 政治家

概要
アンドレイア・レヴィツェンスクはレグルス帝国の官僚・レグルス国家再生政府の独裁者。アプソゴスイデオロギーと呼ばれる極端な中央集権と個人崇拝による国家の統制を主張する。秘密主義者として知られ、レグルス国家再生政府の閉鎖性と複合し知られている情報はあまりにも少ない。

経歴
現在知られているレヴィツェンスクのもっとも古い情報は、古いパレスチナ軍閥の役所の廃墟から発見された出生届に記載されていた。それによればレヴィツェンスクは統一歴99年1月31日にガザでユダヤ人の両親の下に生まれた。明らかな先天疾患はなかった。

幼少期のレヴィツェンスクに関する情報は極端に少ない。この頃の唯一の記録はダマスカスに家族とともに転居したことのみである。

レグルス帝国の公式の記録にレヴィツェンスクが初めて登場するのは126年のレグルス軍のロジスティクスについての提言書である。この文書は複数名の調査による共同執筆とされているがそのうちの一つにレヴィツェンスクの名前がある。この記録によればレヴィツェンスクはレグルス帝国の交通省に勤務していた。

再びレヴィツェンスクの名前が登場するのは129年のインド洋戦争で兵站の専門家として文民の身でインドに出向したという記述に残されている。これ以後レヴィツェンスクは長い期間をレグルス領南アジアで過ごすことになる。
南アジアでレヴィツェンスクは植民地テクノクラートとして優秀な才能を発揮した。特にバングラデシュでの活動は多くの人物の目に留まっており、幾つかの人物の日記にインド人の"効率的な"使用と高い生産性についての記述が散見される。
またこの期間でレヴィツェンスクに何かしら決定的な転機があったと考えられている。その証拠としてレヴィツェンスクは数週間にわたってアルプスの山麓で遭難したが、それ以前とそれ以後で明らかに人格に変容を生じたと考えられる証言や記録が残っている。この期間以後のレヴィツェンスクは秘教的仏教・イスラム教に強い関心を示すようになったと言われており、後の国家再生政府の指導に影響を与えた可能性が指摘されている。
インドでのキャリアを積んだレヴィツェンスクは143年にレグルス本国に帰国した。この時期はレグルス帝国が後のレグルス戦争に発展する軍事行動を決意した頃と完全に一致しており、恐らく大規模な軍事行動に伴う補給の専門家として召喚されたものと考えられる。実際これ以後レヴィツェンスクはレグルス戦争の各地の戦場に赴き補給線について多くのレポートを残している。またこの頃レヴィツェンスクは交通省の事実上のナンバーツーである事務次官にまで出世している。
この時期のレヴィツェンスクについては各地に記録が残っているが、中でも本国の効率的な国家社会主義官僚体制に強い関心を示していたことと、反対に、特に戦況が悪化してからは官僚に無理解と政治上の達成不可能なタスクを要求する指導部への不満を漏らしていたことが語られている。
147年レグルス戦争末期にレヴィツェンスクは再び南アジアに派遣された。これには資源が不足する本土に南アジアの資源を少しでも供給しようとする首脳部の意向があった。この時レヴィツェンスクは南アジアの全ての物流を掌握するポストに就任し、任務の達成に尽力した。しかし148年後半になるといよいよレグルスの敗戦は明らかなものになった。この段階でレヴィツェンスクは密かにレグルスを見限ったと考えられ、物資を自身の基盤の強力なバングラディシュに集積し意図的に本土への発送を遅らせた。
149年遂にレグルス帝国本土が降伏すると多くの人員や技術資料を積んだ亡命船団が次々にバングラディシュに入港した。その中には旧帝国の首脳部の幾人かも含まれており、彼らはレグルス帝国
の再興を目指しレヴィツェンスクに協力を要求した。既にレグルスを見限っていたレヴィツェンスクは彼らを"会議場所"に呼びつけるとこれを木っ端微塵に爆破、周到な計画通りに当日中に旧帝国ののシンパを拘束・抹殺するとレグルス帝国の正統後継政府(レグルス国家再生政府)を国際社会に宣言した。
国家再生政府の宣言はレヴィツェンスクの予想通り国際社会からはほとんど見向きもされず無視された。これで国際社会はバングラディシュに介入しないと自信を得たレヴィツェンスクは国内の急速なアプソゴスイデオロギーによる"教化"のプロセスを開始した。この過程で多くの反乱や出血が起きたが何れもレヴィツェンスク政権に打撃を与えられなかった。
しかしレヴィツェンスクに対する脅威は外部から迫っていた。レグルス国家再生政府の安全保障は保護者であるルークリア国にかかっていたが、同国は新ソ連大中華といった外部勢力の蚕食にさらされていた。レヴィツェンスクが動いたのはパキスタン戦争インド戦争だった。前者ではレヴィツェンスクは新ソ連に対し即時の進撃停止を要求、受け入れられない場合は核攻撃も辞さないとする警告を発し、これが無視されると実際に核攻撃を行いテヘランを破壊した。インド戦争でも新ソ連及び大中華に対し即時停戦を脅迫した。しかし大中華は引き下がったが新ソ連は引き下がらず、逆に新ソ連によって国家再生政府は核攻撃を受けた。この攻撃で国家再生政府は消滅、レヴィツェンスクも死亡した。


レグルス国民国

国家指導者

アーデルハイト・クロムウェル

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アーデルハイト・クロムウェル
Adelheid Clomwell
生誕 不明 不明
不明 不明
職業 政治家

概要
レグルス国民国の事実上の国家元首。国民国の樹立までは新ソ連内部でレグルス最高のための闘争を指導していたとされているが、これはクロムウェルの外見年齢(明らかに10〜20代)に反するためプロパガンダであると考えられている。権限上は国民国の独裁者といっても過言ではないが、政府内での力については疑問が呈されておりレグルスの名門クロムウェル家の血を継ぐものとして利用されていると考えるものが大半である。


最終更新:2025年07月16日 06:56