Et, Ils ont assisté à la fin
島守ベルキュリオは問う、ここは真に聖なるかと
神の加護厚き島ティアライト。島守ジャン・ベルキュリオは、何度目ともつかぬ深い溜息を吐いた。
彼は時錬士だ。王に仕え民を守るべく、聖都で訓練を積み上げてきた。仲間内で特に秀でた才があったわけではないものの、彼は自身の職に誇りを抱き、人々の期待に応えるべく努力を怠らずにこれまで生きてきたつもりだ。一年ほど前、人員交代でこの島に派遣されるまでは。
勿論、この島が人の立ち入らぬ文明から隔絶された未開の地であるというのは知っていた。生活と記録の為に使われる多少の利器以外は世界時計すら持ち込むことを許可されないのは、魔物やドラゴンすら寄りつくことのできない神聖な土地柄故だと。
しかし、果たして。本当にこの島は神聖であるのだろうか。彼は今、自身がこれまで信じてきた事柄について、疑問を抱かずにはいられなかった。
彼は時錬士だ。王に仕え民を守るべく、聖都で訓練を積み上げてきた。仲間内で特に秀でた才があったわけではないものの、彼は自身の職に誇りを抱き、人々の期待に応えるべく努力を怠らずにこれまで生きてきたつもりだ。一年ほど前、人員交代でこの島に派遣されるまでは。
勿論、この島が人の立ち入らぬ文明から隔絶された未開の地であるというのは知っていた。生活と記録の為に使われる多少の利器以外は世界時計すら持ち込むことを許可されないのは、魔物やドラゴンすら寄りつくことのできない神聖な土地柄故だと。
しかし、果たして。本当にこの島は神聖であるのだろうか。彼は今、自身がこれまで信じてきた事柄について、疑問を抱かずにはいられなかった。
確かに未開の地でありながら、この島で魔物を見かけたことはただの一度もない。ふくよかな土を覆う植物、こんこんと湧き出る透明な泉。しかし、ただ、それだけだ。ここにはそれ以外のものは何もない。彼は恐ろしくてならなかった。この島で、自身以外の生物をこれまで一度も見たことがないという事実が。
最初のうちは、自分の勘違いだろうと言い聞かせた。次は、そんなことがあるはずないと有り余る時間を利用して島中を歩き回った。けれど、やはり、それは事実でしかなかったのだ。
野兎の姿も、鳥のさえずりも、ごく有り触れた癇に障る虫の羽音さえ。なにひとつ生物の気配が感じられないこの島でただ一人ごうごうとうねる波と葉擦れの音だけを聞き続ける毎日に疑問を抱かず耐えられる者など、そうはいないだろう。
彼が時錬士とは言わず修道士でいいからあと一人この島に補佐を派遣して欲しいと要望書を提出してから、もう半年近くになる。王都から色良い返事がくる気配はない。それもそうだろう、人民の住まぬ離島に、とは思うものの、これでは仕事という名の下に行われる拷問としか思えなかった。
最初のうちは、自分の勘違いだろうと言い聞かせた。次は、そんなことがあるはずないと有り余る時間を利用して島中を歩き回った。けれど、やはり、それは事実でしかなかったのだ。
野兎の姿も、鳥のさえずりも、ごく有り触れた癇に障る虫の羽音さえ。なにひとつ生物の気配が感じられないこの島でただ一人ごうごうとうねる波と葉擦れの音だけを聞き続ける毎日に疑問を抱かず耐えられる者など、そうはいないだろう。
彼が時錬士とは言わず修道士でいいからあと一人この島に補佐を派遣して欲しいと要望書を提出してから、もう半年近くになる。王都から色良い返事がくる気配はない。それもそうだろう、人民の住まぬ離島に、とは思うものの、これでは仕事という名の下に行われる拷問としか思えなかった。
「待遇が悪くないのに、先任が任期を終えると同時に島守の座を退いた訳だよ…一体、なんなんだこの島は」
補佐が駄目ならと頭を捻り、この島には見慣れぬ植物が数多く生育しており研究の余地がある云々と不慣れながらもそれらしい言葉で飾り立てた書きかけの要望書を握りつぶし、ベルキュリオは質素な机に突っ伏した。
誰かに相談することもできず延々と一人思考を巡らせているのは、憂鬱を加速させる。人が住まぬが故やることもなく代わり映えのしない毎日は、忙しさでそれを誤魔化すことすら許されない。
せめて景色でも眺めれば気晴らしになったのかもしれないが、その景色そのものが悩みの種とあってはそれすら望めない。一度こうして突っ伏してしまうと、顔を上げるのすら嫌気が―――と、その時、窓の外でうっすらと光が灯った気がした。
誰かに相談することもできず延々と一人思考を巡らせているのは、憂鬱を加速させる。人が住まぬが故やることもなく代わり映えのしない毎日は、忙しさでそれを誤魔化すことすら許されない。
せめて景色でも眺めれば気晴らしになったのかもしれないが、その景色そのものが悩みの種とあってはそれすら望めない。一度こうして突っ伏してしまうと、顔を上げるのすら嫌気が―――と、その時、窓の外でうっすらと光が灯った気がした。
「何だ?」
たとえ感情がどうであったとしても、この島の島守である以上見てみぬふりはできない。そうして重たい頭を持ち上げれば、きらきらと輝いているのは薄紫の光だった。
精霊の加護によってのみ成し得る、時空を、時間を歪める魔術。それは時錬士にのみ許された移動転移魔術であるが、しかし今日は生活必需品が送られてくる日ではない。となれば、ようやく教会が修道士の派遣を認めたのかと、立ち上がった彼の足取りが軽くなったのも無理はない。
しかし魔法陣の中央に現れたのは、彼が望んだ同僚とは違う、祈りの形に手を組み合わせた三人の女性だった。
精霊の加護によってのみ成し得る、時空を、時間を歪める魔術。それは時錬士にのみ許された移動転移魔術であるが、しかし今日は生活必需品が送られてくる日ではない。となれば、ようやく教会が修道士の派遣を認めたのかと、立ち上がった彼の足取りが軽くなったのも無理はない。
しかし魔法陣の中央に現れたのは、彼が望んだ同僚とは違う、祈りの形に手を組み合わせた三人の女性だった。
「……あなた達は、」
ぱちん、と燐光が弾ける。
魔除け銀が含まれちらちらときらめく真白のローブ、肌にはっきりと浮かび上がった黒斑。
聖女ではない。おそらくただの一般市民だ。まかり間違っても、この辺境の島に送られてくることはなさそうな。
魔除け銀が含まれちらちらときらめく真白のローブ、肌にはっきりと浮かび上がった黒斑。
聖女ではない。おそらくただの一般市民だ。まかり間違っても、この辺境の島に送られてくることはなさそうな。
「――ベルキュリオ殿、ですか?」
次々と疑問は湧き上がるばかりだったが、ベルキュリオは彼女達の不安げに揺れる瞳に、口にしかけた言葉を一旦飲み込んだ。言葉、というのものは、どちらかといえば苦手分野だ。良く言えば誠実、悪く言えば愚直。腹の内がどうであれ他者を喜ばせることも欺くことも容易にできてしまうからこそ、言葉は選ばねばならない。
飲み込んだ感情により相応しい言葉を吟味して、できるだけ相手を脅かさない言葉を紡ぐ。
飲み込んだ感情により相応しい言葉を吟味して、できるだけ相手を脅かさない言葉を紡ぐ。
「ええ、そうです。ここの島守をやっております、時錬士のジャン・ベルキュリオです。
失礼ですが、あなた方は聖女でも時錬士でもないように思われる。よろしければ、どちらからこられたのか伺っても?」
「第二都市、リリアンから。…ここまでは、時錬士のイリオス殿の術で」
「イリオス?」
失礼ですが、あなた方は聖女でも時錬士でもないように思われる。よろしければ、どちらからこられたのか伺っても?」
「第二都市、リリアンから。…ここまでは、時錬士のイリオス殿の術で」
「イリオス?」
イリオスは彼と同じ時錬士だ。彼よりも数期後に試験に合格した者であるためそこまで親しくはないが顔は見知っているし、その優秀さはこの目で確認している。
時錬士の魔術は王の為にしか使うことを許されない。それでもなおイリオスが一般人の彼女たちをここまで転送してきたということは、おそらく、リリアンで余程緊急事態が起きている。
彼女たちの重装備も、それに対して設えられたものなのだろうか。だとすればその脅威とは何だ、肌の露出部分に現れた黒斑は、……この辺境の島へ隔離せねばならない程に、あの美しい第二都市を汚染しているのだろうか。
彼にはそこまでしか推測できなかったが、彼女たちに詳しい話を聞くのは後でいい。そう判断して、自身の生活している小屋を指す。いくらイリオスが優秀な時錬士といえど、魔法耐性のない者に移動転移魔術は相応の負担を強いる。彼女達の足取りがしっかりしているといえども、黒斑が一体何なのか分からない現状ではなおさら。
…実際島守が一人しか生活していない小屋に大したものなどあるはずもないのだが、暖かい飲物程度ならすぐに用意できる。さして気温の下がらぬこの島に、予備の毛布はいったい何枚あっただろうか。そう思考を巡らせるベルキュリオに、三人のうち一人が控えめに声をかける。
時錬士の魔術は王の為にしか使うことを許されない。それでもなおイリオスが一般人の彼女たちをここまで転送してきたということは、おそらく、リリアンで余程緊急事態が起きている。
彼女たちの重装備も、それに対して設えられたものなのだろうか。だとすればその脅威とは何だ、肌の露出部分に現れた黒斑は、……この辺境の島へ隔離せねばならない程に、あの美しい第二都市を汚染しているのだろうか。
彼にはそこまでしか推測できなかったが、彼女たちに詳しい話を聞くのは後でいい。そう判断して、自身の生活している小屋を指す。いくらイリオスが優秀な時錬士といえど、魔法耐性のない者に移動転移魔術は相応の負担を強いる。彼女達の足取りがしっかりしているといえども、黒斑が一体何なのか分からない現状ではなおさら。
…実際島守が一人しか生活していない小屋に大したものなどあるはずもないのだが、暖かい飲物程度ならすぐに用意できる。さして気温の下がらぬこの島に、予備の毛布はいったい何枚あっただろうか。そう思考を巡らせるベルキュリオに、三人のうち一人が控えめに声をかける。
「あの、ひとつ、お聞きしても」
「ええ、構いませんよ。何か不都合でも有りましたか?」
「そういうわけでは。ただ、その、……ここは本当にティアライトなのですか?」
「ええ、構いませんよ。何か不都合でも有りましたか?」
「そういうわけでは。ただ、その、……ここは本当にティアライトなのですか?」
彼の足が止まったのは、それが予想外の問いだったからではない。
「どうして、そう思われましたか?」
「い、いえ、あの、決して疑っている訳では、ただ、その、少し。少しだけ…」
「……この島が、気味悪く思えましたか」
「い、いえ、あの、決して疑っている訳では、ただ、その、少し。少しだけ…」
「……この島が、気味悪く思えましたか」
答えはない。が、さまよう視線は何よりも雄弁だ。それは彼にとって、自身の抱く不安が間違っていないことを示す天啓のようにさえ思われた。
濃緑の葉に青い海。自然豊かであるはずの島に生物の気配がしない風景。それはあまりにちぐはぐで、まるで、自分たちが未だ完成していない箱庭の中に放り込まれたようで。
濃緑の葉に青い海。自然豊かであるはずの島に生物の気配がしない風景。それはあまりにちぐはぐで、まるで、自分たちが未だ完成していない箱庭の中に放り込まれたようで。
神に愛されているはずのこの島を、強い風が薙いでいく。風に煽られ高波と共に飛沫を上げる海など、リリアンに住んでいたという彼女達は見たこともなかっただろう。彼だって半年前までは、海とはいつでも凪いでいて穏やかなものだと、確かにそう思っていたのだから。
ベルキュリオは無言のまま空を見上げた。返事などできようはずもない。
空はただ一様に灰色で、気分の重くなるような曇天ばかりが広がっていた。
ベルキュリオは無言のまま空を見上げた。返事などできようはずもない。
空はただ一様に灰色で、気分の重くなるような曇天ばかりが広がっていた。
--------神の試練はいつでも唐突だ、悪魔のもたらす災いと同様に/聖ダヌス選書17節-------
錬士アドソン、麗しの塔がもたらす災禍の一端を見ゆ
「アドソン、おい、アドソン!」
美神の塔を有する聖都ロイダー、その中心部に座するトリネシス聖堂。規模は小さいながらも繊細な合金細工の装飾が花硝子の七色を反射し石造りの天井を彩る様から玉天蓋と名高い、その麗しき聖堂の廊下。
自身の名を呼ぶ声に錬士アドソンが振り向けば、遠くによく跳ねた赤毛が見え僅かに表情を緩める。
呼び掛ける声は、同期である修道士グウェルド・レスタ・ファズマーのものだった。彼とは随分古くからの友であり、幼馴染だといってもいい関係だろう。
自身の名を呼ぶ声に錬士アドソンが振り向けば、遠くによく跳ねた赤毛が見え僅かに表情を緩める。
呼び掛ける声は、同期である修道士グウェルド・レスタ・ファズマーのものだった。彼とは随分古くからの友であり、幼馴染だといってもいい関係だろう。
「やっと見つけた、探したぞアドソン」
「一体どうしたんだ、グウェルド。そんなに急いで」
「少しお前と話したいことがあってな。その、あれだ、」
「一体どうしたんだ、グウェルド。そんなに急いで」
「少しお前と話したいことがあってな。その、あれだ、」
柄にもなく、すっと声を潜めて。聖女メメルの話だと、彼はそう続けた。
「……分かった、では場所を変えよう」
決して背が低い訳ではないアドソンよりもさらに頭一つ分は背が高く声もよく響く彼と内密な話をする場所として、いくら人通りが少ないとはいえ大聖堂の廊下が相応しいとは思えない。
ちらちらと光の差す廊下を進み、元来調べ物の為に使用許可を得ていた第三資料室に体を滑り込ませて錠を降ろすと、彼はゆっくりと息を吐いて言葉を紡ぐ。
ちらちらと光の差す廊下を進み、元来調べ物の為に使用許可を得ていた第三資料室に体を滑り込ませて錠を降ろすと、彼はゆっくりと息を吐いて言葉を紡ぐ。
「お前、聖女メメルの話は何処まで知ってる?」
「そこまで詳しくはない。ただ、謎の疾病の研究を行なっていたと」
「皮膚に浮かんだ黒斑が広がり、いずれ塵になるあれだな。あれの原因が分かったらしい」
「本当か?自らの体に移植したほどだ、さぞや喜ばしい、……」
「そこまで詳しくはない。ただ、謎の疾病の研究を行なっていたと」
「皮膚に浮かんだ黒斑が広がり、いずれ塵になるあれだな。あれの原因が分かったらしい」
「本当か?自らの体に移植したほどだ、さぞや喜ばしい、……」
病の原因解明という朗報にも関わらず、旧友の顔は曇ったままだ。
医術研究を主とする彼がこの手の話を喜ばぬわけがない。アドソンが短く名を呼べば、悪い、と軽く額に手を当てる。
医術研究を主とする彼がこの手の話を喜ばぬわけがない。アドソンが短く名を呼べば、悪い、と軽く額に手を当てる。
「なにかまずいものが原因だったのか。排除不能であるとか、できなくはないが対策が難しいものか?」
「そうだったら、よほどましだっただろうな。…今回の件の原因は、『塔』から流れ出る不活発エネルギーじゃないかって話だ。聖女メメルとリナリアの対照実験で、ほぼ確定したといっていい」
「そうだったら、よほどましだっただろうな。…今回の件の原因は、『塔』から流れ出る不活発エネルギーじゃないかって話だ。聖女メメルとリナリアの対照実験で、ほぼ確定したといっていい」
『塔』が病の原因である。
たとえアドソンの専門が宗教研究と浄化魔術であるといえ、それの表す意味が分からぬ訳がない。
絶句したアドソンを前にグウェルドは備え付けの椅子に腰を下ろし、理解しやすいように少々噛み砕きながらも詳しく続きを話し始めた。
狂信的な聖女であるメメルは本来『美神の塔』から流れ出る魔力に崇拝すべき【神】の姿を見出し研究していたこと。しかしその丁度魔力が漏れ出す部分から半径1km圏内で件の病が発生していたこと。自ら進言し移植を受けたメメルはやがて身体の痛みを訴えるようになり、その四肢は黒く染まり出していたこと。その後研究の為に同じように移植されたリナリアは、――病を発症せず、何の問題もなく、『塔』から離れた場所で通常通りの生活を送っているということ。
たとえアドソンの専門が宗教研究と浄化魔術であるといえ、それの表す意味が分からぬ訳がない。
絶句したアドソンを前にグウェルドは備え付けの椅子に腰を下ろし、理解しやすいように少々噛み砕きながらも詳しく続きを話し始めた。
狂信的な聖女であるメメルは本来『美神の塔』から流れ出る魔力に崇拝すべき【神】の姿を見出し研究していたこと。しかしその丁度魔力が漏れ出す部分から半径1km圏内で件の病が発生していたこと。自ら進言し移植を受けたメメルはやがて身体の痛みを訴えるようになり、その四肢は黒く染まり出していたこと。その後研究の為に同じように移植されたリナリアは、――病を発症せず、何の問題もなく、『塔』から離れた場所で通常通りの生活を送っているということ。
「お、王に何かがあったのか。『塔』が暴走するような、何かが」
「せめてそう思いたいが、それにしてはあまりに『塔』と、そして王自身には異常が感じられない。俺達は謁見することはできないが、下から確認できる範囲ではそう感じられる」
「それでは、」
「ああ、」
「……我らが王が人民に死をもたらし、人柱を作っているとでもいうのか」
「せめてそう思いたいが、それにしてはあまりに『塔』と、そして王自身には異常が感じられない。俺達は謁見することはできないが、下から確認できる範囲ではそう感じられる」
「それでは、」
「ああ、」
「……我らが王が人民に死をもたらし、人柱を作っているとでもいうのか」
深く重たい沈黙こそが、是であった。
それから、さらにもう一つ。
それから、さらにもう一つ。
「お前は、黒の騎士団を知っているか?」
「黒の騎士団?……いいや、聞き覚えはないな」
「ハヌマ・エノワス・メルファー76番姫の設立された組織だ」
「76番姫か、あの方は行動力があられる方だな、以前から思っていたが。…今その話をするということは、なにか問題があるのか?その組織に。よもやこの話の流れで、私に王姫に対する崇拝の念を抱かせたいわけではないだろう」
「黒の騎士団?……いいや、聞き覚えはないな」
「ハヌマ・エノワス・メルファー76番姫の設立された組織だ」
「76番姫か、あの方は行動力があられる方だな、以前から思っていたが。…今その話をするということは、なにか問題があるのか?その組織に。よもやこの話の流れで、私に王姫に対する崇拝の念を抱かせたいわけではないだろう」
混乱した精神を落ち着かせる為にだろう、日頃より少々多弁になっている。
壁に寄りかかり頻繁に指を組み直しながら、グウェルドを見る表情は険しい。
壁に寄りかかり頻繁に指を組み直しながら、グウェルドを見る表情は険しい。
「問題、というにはまた違う気がするが」
「随分歯切れが悪いな、いつものようにはっきりずけずけとものを言え。…王が人柱を作っているだろうことを聞いた今。恐れる話など、そうはないだろう」
「もし、姫が、王の弑逆を目論んでいたとしたら」
「随分歯切れが悪いな、いつものようにはっきりずけずけとものを言え。…王が人柱を作っているだろうことを聞いた今。恐れる話など、そうはないだろう」
「もし、姫が、王の弑逆を目論んでいたとしたら」
お前は恐れぬのかと。ゆるやかに見開かれた橄欖色の瞳に、深く濃い碧眼は伏せられた。
我らこの地に住まうものにとって、王はそれだけ絶対的な存在だ。
弑逆、とその単語を口に出し。吐き出した呼気は、アドソン自身も驚くほどに震えていた。
我らこの地に住まうものにとって、王はそれだけ絶対的な存在だ。
弑逆、とその単語を口に出し。吐き出した呼気は、アドソン自身も驚くほどに震えていた。
「……王姫は止めるつもりなのか。死を以って、王を。人民を食い殺すことを良しとせずに」
だとすればそれは、どれだけ思索しようとも及びつかぬほどの覚悟であろう。
死を恐れぬわけではない、が。世界を守る王の為ならば死すらを受け入れられるほどに思考は調律されている。
その中で生まれ出る為に羽を広げ声を上げる彼女らの、なんと気高いことだろう。
それが、世界にとって善であれ悪であれ。
死を恐れぬわけではない、が。世界を守る王の為ならば死すらを受け入れられるほどに思考は調律されている。
その中で生まれ出る為に羽を広げ声を上げる彼女らの、なんと気高いことだろう。
それが、世界にとって善であれ悪であれ。
「私達は、思考停止に陥っていたのかもしれない。学問に励み、思索に耽りながらも。
王とは何か、世界とは何かを…向き合い、考えねばならないのか」
「おそらく、そうなるだろう。間違いなくこれから世界は変わる。どう変わるかは、俺には分からんが…すでに端々が綻び始めている。向き合わねば、諸共崩れ落ちるだけだ」
王とは何か、世界とは何かを…向き合い、考えねばならないのか」
「おそらく、そうなるだろう。間違いなくこれから世界は変わる。どう変わるかは、俺には分からんが…すでに端々が綻び始めている。向き合わねば、諸共崩れ落ちるだけだ」
アドソンは窓外を仰ぎ見る。この狭い書庫に通風の為にだけ備え付けられたものでは外の景色など見えようはずもないが、それでも麗しの塔を視界に収めようとして。
だが最早、瞼の裏に焼き付いているその姿でさえ薄ら寒い複雑な気味の悪さを呼び起こすばかりだ。それは否定しようにも、真実の断片を耳にしてしまった以上は決して拭い去ることのできない感情だった。
だが最早、瞼の裏に焼き付いているその姿でさえ薄ら寒い複雑な気味の悪さを呼び起こすばかりだ。それは否定しようにも、真実の断片を耳にしてしまった以上は決して拭い去ることのできない感情だった。
------鐘は鳴らされるだろう、規則正しく、わずかの狂いもなく。我らの為でなく、神に捧げられる為に/聖ダヌス選書21節-----
導師オーレリエ、禍つ時を告げる書簡に蒼玉の空を識る
聖都ロイダーの外れ、都市の喧騒を厭うように建つ小さな小屋の二階。
時精霊が午前の茶会の時間に近いことを告げる穏やかな日差しの中、導師オーレリエは書簡を片手にゆるく息を吐いた。
時精霊が午前の茶会の時間に近いことを告げる穏やかな日差しの中、導師オーレリエは書簡を片手にゆるく息を吐いた。
「―――ふむ。どうやらエルスカリテに気を使わせてしまったようだ」
「エルスカリテ導師に、ですか?」
「エルスカリテ導師に、ですか?」
その手紙は、グウェルドが師から預かりほとんど表に現れることのないオーレリエ導師にとアドソンに渡したもので。手紙の秘匿性を保つ封蝋も、きちんとそれがエルスカリテによるものであると示していた。故にアドソンもそれの差出人を疑っていたわけではないが、いかんせん受取人は自身の師だ。一体どのような内容であろうかと内心不可思議に思っていたところに、気を使わせてしまったとは、どういうことなのだろうか。
そうして軽く首を傾げたアドソンをちらりと見、オーレリエは同封されていた竜皮紙の契約書に印を捺した。それは軽い取引に用いられるとは思えぬ正式なインタリオ・リングによるもので、思わずアドソンが疑心を口にしたのも無理はない。
そうして軽く首を傾げたアドソンをちらりと見、オーレリエは同封されていた竜皮紙の契約書に印を捺した。それは軽い取引に用いられるとは思えぬ正式なインタリオ・リングによるもので、思わずアドソンが疑心を口にしたのも無理はない。
「師よ。不躾なことであるとは存じておりますが、一体それは何の書簡だったのですか」
「珍しいですね、貴方が口を挟むなど。大したものではありませんよ」
「大したことがないものに、インタリオ・リングの印章などお使いになられないはずだ。違いますか?」
「珍しいですね、貴方が口を挟むなど。大したものではありませんよ」
「大したことがないものに、インタリオ・リングの印章などお使いになられないはずだ。違いますか?」
そう続ければ、困ったように曖昧に微笑んで。本当に大したことはないのですが、と。師が続けた言葉は、アドソンにしてみれば充分衝撃を受けるに足るものだった。
「貴方に、ティアライトに行ってもらおうと思いまして」
ティアライト。それは第二都市リリアンの側にぽつりと浮かんだ、神に愛された島の名だ。時錬士ベルキュリオが島守を務めており、現在は避難場所としてリリアンからの人民を受け入れているという。その島に向かうということは、つまり、現在危機的状況にある聖都を離れ一人安全な場所へ行くという事だ。
「そんな、私は……」
「アドソン。アドソニア、私の可愛い教え子よ。これはもう、私の印が捺されました。その意味が分からぬほど、お前は未熟ではないでしょう?」
「アドソン。アドソニア、私の可愛い教え子よ。これはもう、私の印が捺されました。その意味が分からぬほど、お前は未熟ではないでしょう?」
穏やかだが、有無を言わさぬ口調だった。自身が授けた賜名を更に呼称として短く使っていた導師に似つかわぬ呼びかけも合わせて。一瞬硬直したアドソンがなおも言葉を紡ぐことができたのは、一重に彼女が持つ『王に仕える者』の信念故のものだろう。
「恐れながら、導師。この緊急時に人民の誘導もせず、私だけ安全な場所に逃げろと仰るのですか。
私は錬士として、貴方に見出された聖女として民の力となるべく鍛錬を怠らなかった。たとえこれが王のもたらした災禍であれ、王の為人民の為にと誓いを立てた者としてそのような指示を聞くことはできません」
私は錬士として、貴方に見出された聖女として民の力となるべく鍛錬を怠らなかった。たとえこれが王のもたらした災禍であれ、王の為人民の為にと誓いを立てた者としてそのような指示を聞くことはできません」
光を孕んでほのかに明るくきらめく黒檀の髪が揺れる。瞬いた瞳の強さに導師は目を細めた、それは聞き分けのない子供を慈しむかのような。
「アドソン、貴方は少々思い違いをしている。確かに未来のある貴方には安全な場所に居て欲しいという師としての思いがないと言えば嘘になりますが、…この契約書は、仕事の依頼ですよ」
「……仕事?」
「ええ、そうです。れっきとしたお仕事です」
「……仕事?」
「ええ、そうです。れっきとしたお仕事です」
ぱらりとめくったのは先程師の手に渡ったエルスカリテ導師からの書簡だ。何枚にも渡るそれには、導師の美しく読みやすい緻密な字で件の仕事について綴られていたのだろう。端的に概要を読み上げる師の声に淀みはない。
「今回の問題によって第二都市の生存者が移動してきたことにより、元々島守一人だけが生活していたティアライトは現在飽和状態にあります。ベルキュリオ君も頑張っているようですが、流石に一人で手が回る範囲を越えている。元々人員の派遣依頼はきていましたが、この事態を慮り、物資と共に先遣隊として計4名の錬士と修道士が派遣されることになりました。
そのうちの一人に、アドソン、君はどうだろうかとエルスカリテから打診があった。それだけの話です」
そのうちの一人に、アドソン、君はどうだろうかとエルスカリテから打診があった。それだけの話です」
何か質問は?と。このように噛み砕いて説明されれば、充分に師の言葉の意味が分かる。エルスカリテに気を使わせてしまったようだ、と、導師として王に限りなく近いと言われるほどに人望を集める彼らしい采配だ。アドソン自身とあまり変わらぬ年回りではあるが、これほどに出来た人間もそうはおるまい。彼女も自身の師オーレリエを尊敬していない訳ではないが、グウェルドが仕える彼は別格と言っていいだろう。
「異論はありませんね?アドソン」
「……ええ。ですが、師よ。もう一つだけお聞きしても」
「構いませんよ。なんでしょう」
「師は、どうされるおつもりですか。問題解決がいつであれ、あまり長い間ここにおられるのは御身体に障るでしょう。聖都を離れる目処はつけておいでなのですか?」
「暫くは私も前線へ復帰することになるでしょうが……貴方が心配するほどのことではありません。私だって王の使徒なのですから、こんなときまで休んでなどいられませんよ」
「……ええ。ですが、師よ。もう一つだけお聞きしても」
「構いませんよ。なんでしょう」
「師は、どうされるおつもりですか。問題解決がいつであれ、あまり長い間ここにおられるのは御身体に障るでしょう。聖都を離れる目処はつけておいでなのですか?」
「暫くは私も前線へ復帰することになるでしょうが……貴方が心配するほどのことではありません。私だって王の使徒なのですから、こんなときまで休んでなどいられませんよ」
するすると黒樹の万年筆が紙の上を滑り、濃紺色の跡を残していく。短くはない添え書きをしてから丁寧に白封筒へと収め、深緋色に色付けられた羽根蝋を炙り封をして。差し出されたそれは、エルスカリテ導師宛てのものだろう。宛名が書かれていない封筒は、彼の人の元まで手渡しで届けろと言外にアドソンに告げている。
彼女の師も大概お人好しであるのだ、こうして自らの唯一の弟子を危険から遠ざけようとするほどに。それが日頃は表に出ないだけで、オーレリエもまた、導師と選ばれるだけの人徳を持ち合わせた者であるのだから。
彼女の師も大概お人好しであるのだ、こうして自らの唯一の弟子を危険から遠ざけようとするほどに。それが日頃は表に出ないだけで、オーレリエもまた、導師と選ばれるだけの人徳を持ち合わせた者であるのだから。
「私は大丈夫です。何も気にせず、役目を果たしておいでさない」
「――承知致しました、我が敬愛なる、エストリア・イル・オーレリエ導師。私、メアリー・アドソニア・シルフィオネ。不肖の弟子ながら、貴方様の期待に沿うよう務めて参ります」
「――承知致しました、我が敬愛なる、エストリア・イル・オーレリエ導師。私、メアリー・アドソニア・シルフィオネ。不肖の弟子ながら、貴方様の期待に沿うよう務めて参ります」
故に彼女は額突いた、これが今生の別れにならぬようにと祈りながら。祈る王が居らぬなら、願う相手は鳥でいい。いつだって希望を運んで来るのは、鳥であると決まっている。地に伏せた橄欖は、その時確かに鮮やかな蒼を見ていた。
------進め、行く先が知れずとも。足を止めたものは、淀み、沈みゆくのみ。/聖ダヌス選書58節-----