従魔リョーシャは嘲笑う、果たしてそれは慈愛であるかと
「相変わらずアレにはオヤサシイのね、ドウシサマ?」
夕暮れに燃え沈む誰そ彼の隙間、扉の影からぬるりと這い出るように現れたのは深緋の瞳をした魔物であった。導師オーレリエは、液体状に揺らめき嘲笑するその存在にちらりと目をやることもない。ただそこに在るのが当然のように薄ら笑みを浮かべるだけだ。床の上を滑るように移動するその魔物の名はリョーシャという。スライムという分類名は持とうとも種族名を持たぬ程に弱く日陰で生きてきた彼の従魔だ。
「アドソンは私の可愛い弟子だからね、智に生きる者としては少々思い込みが激しくてそそっかしい部分があるけれどそこがまた良いだろう、人間的で。あの私を敬愛するひたむきな瞳など見ているだけで胸が踊るよ、どこぞの強かな下等生物とは違ってね」
「はン、悪かったわね、シタタカで。このヒヨワな身じゃシタタカでもないと生き延びられないのよ、知ってた?」
「まあ、そうだろうと思ってたよ、その程度に君たちは下等生物だろうからね」
「あのねえ、下等生物下等生物って、じゃあなんで私タチを作ったワケ?ホラ、答えなさいよカミサマ」
「はン、悪かったわね、シタタカで。このヒヨワな身じゃシタタカでもないと生き延びられないのよ、知ってた?」
「まあ、そうだろうと思ってたよ、その程度に君たちは下等生物だろうからね」
「あのねえ、下等生物下等生物って、じゃあなんで私タチを作ったワケ?ホラ、答えなさいよカミサマ」
不愉快そうに口元を歪ませるリョーシャに導師は僅かに首を傾げ。筆先を走らせながら答えたそれは昨晩の夕餉は何であったろうかと思い出す時のような、ごくごく軽い調子の回答であった。
「植物が栄養を作り出すように、ただ生きているだけで魔力を作り出す生物がいてもいいかなと思ったからさ。でも、ほら、観葉植物を愛でてもそれを自分達よりも上に見る人間なんていないだろう?だからどうしても下等生物と呼びたくなるのだよね、ああ安心してくれ、決して君たちに愛が無いわけではないんだ。私は自らの生み出した生物たちを平等に愛している」
「ヤメテよ気色悪い!アンタになんか愛されなくってケッコウよ、どうせロクデナシの毒にも薬にもならないどころかゴミ箱行き程度の思い入れしかない愛のクセに」
「おい、君は博愛懐疑主義者か?寿命の短い人間では不可能でも私には無理なことじゃないんだぞ」
「なあにが博愛よ絶賛エコヒイキ中でしょうアンタ。確かにアドソンは何でアンタの弟子やってんのかワカンナイくらいによくできてるけど!?私のコト下等生物呼ばわりしないし名前くれたし浄化できるからってゲロ不味い水寄越したりしないし話す時も観葉植物レベルじゃなくってちゃんと対等に扱ってくれるしアト自分が博愛だなんてくっだらない嘘吐いたりしないわね!」
「君は私を批判してるのかそれは、そうなんだな?」
「じゃあどのアタリが博愛なのか説明してみなさいな」
「それは君に配分された愛について説明すればいいのかい?お安い御用だ」
「ヤメテよ気色悪い!アンタになんか愛されなくってケッコウよ、どうせロクデナシの毒にも薬にもならないどころかゴミ箱行き程度の思い入れしかない愛のクセに」
「おい、君は博愛懐疑主義者か?寿命の短い人間では不可能でも私には無理なことじゃないんだぞ」
「なあにが博愛よ絶賛エコヒイキ中でしょうアンタ。確かにアドソンは何でアンタの弟子やってんのかワカンナイくらいによくできてるけど!?私のコト下等生物呼ばわりしないし名前くれたし浄化できるからってゲロ不味い水寄越したりしないし話す時も観葉植物レベルじゃなくってちゃんと対等に扱ってくれるしアト自分が博愛だなんてくっだらない嘘吐いたりしないわね!」
「君は私を批判してるのかそれは、そうなんだな?」
「じゃあどのアタリが博愛なのか説明してみなさいな」
「それは君に配分された愛について説明すればいいのかい?お安い御用だ」
間。
「私が君を従魔に選んだのはそろそろいい年になってきたし清らかな水と部屋中を満たす魔力というものを下界の薄い魔力で疲弊したこの体に味わわせてやりたくなったからなんだが、それを君一人で賄えると思った程度には私は君の能力を評価している。君がゲロ不味いと表現する水もあれは至って普通の水だ、ただアドソンのように浄化魔法をかけて渡したりしていないだけで。アドソンは何故紅茶を淹れる時はともかく庭の植物に水をやる時にまで一度浄化してから使うんだろうな?いけない話が逸れたね、だいたい君に対する私の愛などその体を覆う術式だけで充分じゃないか、組み上げるのは一瞬だったように感じただろうが本来作り上げた運命予定図を書き換える程のものなんだぞ水さえあれば何度でも体組織を構成できる再生能力なんて。ああでも再生なんて摂理に反する能力を植え付けてぴんぴんしてるのは、君がそうやって魔力を生成できる種族だからってのは間違いないね。そうじゃなかったら、能力を使う度に手足が一本ずつ黒くなってもげ落ちてただろう」
「そんなモン許可なく植え付けてんじゃねーわよこのキチガイカミサマ、ゾッとするじゃない!」
「私まだ話終えてなかったんだが。君は生まれついた時点でそんな摂理に反する能力を授かっても問題がない程の愛されボディだから私の博愛を認め感謝しなさいとそういう結びにする予定だったのに」
「しかも結局の所私を敬えって言いたいダケの意図が透けて見えるわよクソジジイ」
「その辺にしておかないと神への冒涜で天罰下しますよ下等生物」
「本ッ当アンタ最低ね、オカゲサマで今日も私の信心は下降の一途を辿ってるわよ!」
「私は今君に信仰心があったことに感動している」
「私は時々アンタが自殺志願者なんじゃないかと思ってるわ。窒息させてあげましょうか今すぐ」
「あ、本当に首締めないでくれ。流石にこの年でそれはちょっと辛い」
「そんなモン許可なく植え付けてんじゃねーわよこのキチガイカミサマ、ゾッとするじゃない!」
「私まだ話終えてなかったんだが。君は生まれついた時点でそんな摂理に反する能力を授かっても問題がない程の愛されボディだから私の博愛を認め感謝しなさいとそういう結びにする予定だったのに」
「しかも結局の所私を敬えって言いたいダケの意図が透けて見えるわよクソジジイ」
「その辺にしておかないと神への冒涜で天罰下しますよ下等生物」
「本ッ当アンタ最低ね、オカゲサマで今日も私の信心は下降の一途を辿ってるわよ!」
「私は今君に信仰心があったことに感動している」
「私は時々アンタが自殺志願者なんじゃないかと思ってるわ。窒息させてあげましょうか今すぐ」
「あ、本当に首締めないでくれ。流石にこの年でそれはちょっと辛い」
殺伐としているようで巫山戯たそのやり取りに、先に嘆息したのは従魔の方であった。分かっている、例え頭のおかしい会話をしていようとも相手は自身の主であり、そして原初の五柱に数えられるこの世界の神であるのだ。導師エストリア・イル・オーレリエ、契約の際知った真名をハルド・ラヴィエと言うその彼にしてみればこの程度戯れに過ぎない。仮にリョーシャが本当に彼を殺そうとすれば、何時もの穏やかな笑みのままに彼女を殺してみせるのだろう。ほんの気まぐれを起こして殺されてくれるかも知れないのだが、その程度に生まれ死に移ろいを繰り返す彼にとって命とは軽い。
「――で、どうすんのよ、本当に。アドソンが心配してたから言ってあげるけど、アンタこのまま此処に残って死ぬつもりなの?」
「ん?そうだな、聖都と心中したい程には此処には思い入れはないよ。しかし、まあ、一つの区切れ目を見届けようとすればそういう事になるだろうということは理解している。これだけ回数をこなすとね、人間の器を纏い感覚が鈍っていようとも自
身の死期というのは分かってくるものだよ」
「ん?そうだな、聖都と心中したい程には此処には思い入れはないよ。しかし、まあ、一つの区切れ目を見届けようとすればそういう事になるだろうということは理解している。これだけ回数をこなすとね、人間の器を纏い感覚が鈍っていようとも自
身の死期というのは分かってくるものだよ」
そう言ってするりと捲り晒した彼の腕、その肌は確かに黒く斑に染まっている。それが微かな痛みを伴い最初に浮かんだのは、聖女メメルが病の原因を解明したあの実験を始めるよりもずっと以前、恐らく初めに観測された事例よりも前に遡る。【負】によってもたらされたそれは、神の名を抱く彼の器を食らうかのようで。やがて体調不良を理由に聖都の中心部――【負】の発生場所である『塔』から遠ざかって落ち着いていた進行は、アドソンが旅立って以降の十数日に導師として采配を振るう内に急速に悪化していた。
「ちょっと『塔』に近付きすぎたとは思っていたんだけどね、年若い可愛い後進に頼まれたら先達として頑張りたくなるだろう?こうして節目の時まで持ったのだから、充分だ」
導師とはいえ、時錬士になれなかった修道士上がりのその身では【負】への耐性は一般市民と大差ない。きっと人としての彼では無理でも神としての彼はそれを跳ね除けることだってできたのだろう、しかしそれを行うことは一度もなかった。理由は従魔であるリョーシャが最も深く分かっている、それではわざわざ人の器に宿ってまで生きる意味が薄れてしまうからだ。彼が神としての力を行使した所など、リョーシャが知る中ではその身に刻み込まれた術式を構築したその一度だけである。自身が深く歴史に干渉することは好まず、あくまで望むのは当事者に近くありながら全体の眺められる最も良い席で世界の辿る顛末を見通すことだけ。本当に気まぐれで毒にも薬にもならぬ不可思議な男なのだ、彼という器が宿したこの神は。
「君はどうするんだい?よもや、この身朽ちるまで私に付き合ってくれるわけではないだろう。私の死体が残ろうが残るまいが、水しか摂取できない君にとっては関係のない話ではあるが」
「それもそうなのよねえ、けどコノママ引き下がったら私一方的に損したダケにならない?」
「大丈夫だ、何の問題もない。君はそうして世界の為に消費される運命にある」
「アンタが心待ちにしてる愉快な節目を見られなくシテ欲しいの。……まあソレはいいわ、屍肉の代わりになる対価を何か寄越しなさいな。そうすればイマスグこんなとこ出ていって、水のキレイなところで子作りに励むから」
「子作りといったって分裂じゃないか、君の種族は。いや、そうか、一応接合も挟まるんだったか、これは失礼した。しかし、対価と言ってもね…君は一体なにが欲しいんだい?」
「それもそうなのよねえ、けどコノママ引き下がったら私一方的に損したダケにならない?」
「大丈夫だ、何の問題もない。君はそうして世界の為に消費される運命にある」
「アンタが心待ちにしてる愉快な節目を見られなくシテ欲しいの。……まあソレはいいわ、屍肉の代わりになる対価を何か寄越しなさいな。そうすればイマスグこんなとこ出ていって、水のキレイなところで子作りに励むから」
「子作りといったって分裂じゃないか、君の種族は。いや、そうか、一応接合も挟まるんだったか、これは失礼した。しかし、対価と言ってもね…君は一体なにが欲しいんだい?」
沈みゆく夕日を反射し、その瞳が一瞬被食者にあるまじき剣呑な色を帯びる。これだからこの従魔は強かであるのだと、しかし再びそれを口にすることはない。一層愉快な心持ちでその要求を待つ彼に、其が従魔がにたりと笑んで要求を口にした。
「そうね、私にも魔法を扱えるようにしてチョウダイ。そしてそれがこの術式と共に、子孫代々遠き末裔マデ受け継がれるように。ソレが下等生物としてアンタに創られたカワイソウな私の種族にしてあげられる唯一の祝福だわ」
「――そうか、それが君の選んだ対価か。力を持った植物ほど滑稽なものは確かにないかもしれないな、愉快で堪らない。…そんな愉快な君には、君を従えた者としておまけを付けておいてあげよう」
「アラ、なあに?下らないモノ寄越したら許さないわよ」
「下らないものかどうかは、君たちの使い方次第かな」
「――そうか、それが君の選んだ対価か。力を持った植物ほど滑稽なものは確かにないかもしれないな、愉快で堪らない。…そんな愉快な君には、君を従えた者としておまけを付けておいてあげよう」
「アラ、なあに?下らないモノ寄越したら許さないわよ」
「下らないものかどうかは、君たちの使い方次第かな」
従魔の胸に刻まれた術式に触れた手が淡く燐光をまとう。ぽつりぽつりと紡がれる魔力に伴いその指先は深く沈み込んでいき、触れたのは彼の魔物の心臓部だ。くすぐったいように身悶える肢体へ創り上げるは、彼女が望んだだけの魔術回路。やがて過飽和状態になった魔力に耐え切れずに液状へ崩れていくその身を受け止めて、オーレリエは無造作に手を引き抜いた。
「もし君が、君の子孫が再び人に従おうと思ったら、その存在を強く思い願うといい。きっとその感情に比例して、相手には君が持つ再生能力が宿るだろう。しかし、消費されるのには君の魔力も含まれる。相手は慎重に選ぶべきとだけ助言しておこう」
「そりゃあ……ドウモ、有難いお言葉、……参考にさせてイタダクわ」
「そりゃあ……ドウモ、有難いお言葉、……参考にさせてイタダクわ」
どろどろに溶けた体組織から表情を伺うのは不可能に近い、が、確かにその時彼女は笑ったのだろう。感傷的な感覚であったかも知れないが、それは紛れもなく彼らが長きを共にした証であった。
無人となり静まり返った聖都の夜、彼の望んだ終わりは訪れる。
群青に浮かぶ真白い月を貫く塔、麗しの精霊合金の光が僅かに翳るのを見、男は笑う。
その手が祈りの形に組み合わされることはない。代わりに、最早役目を終えた塔に向かい、両の手を伸ばして。
群青に浮かぶ真白い月を貫く塔、麗しの精霊合金の光が僅かに翳るのを見、男は笑う。
その手が祈りの形に組み合わされることはない。代わりに、最早役目を終えた塔に向かい、両の手を伸ばして。
「最初に弑逆されたのは三柱の神。次に弑逆されるのは三人の王。
しかし、では、残りの二柱はどこへ消えたのか?
弑逆を免れた二柱の神は今どこにいるというのか?
一切の乱れのない安定した生活に反旗を翻した愚かな子供たちの末裔よ。
君はこの問いを、今だ回り続ける運命の糸車を、どうやって解いてみせる?」
しかし、では、残りの二柱はどこへ消えたのか?
弑逆を免れた二柱の神は今どこにいるというのか?
一切の乱れのない安定した生活に反旗を翻した愚かな子供たちの末裔よ。
君はこの問いを、今だ回り続ける運命の糸車を、どうやって解いてみせる?」
さあ、いきなさい人の子よ。ここが終わりで始まりだ。
それは、移り変わる世界にとっては祝ぎか呪いか。純粋な興味と好意は、時によっては凶器に成りうる。
世界時計が音もなく止まる。
さらさらと黒い砂粒へと変わりゆく歯車の向こう、窓枠の前に佇んでいたはずの男の姿は、初めから存在しなかったかのように消え失せていた。
それは、移り変わる世界にとっては祝ぎか呪いか。純粋な興味と好意は、時によっては凶器に成りうる。
世界時計が音もなく止まる。
さらさらと黒い砂粒へと変わりゆく歯車の向こう、窓枠の前に佇んでいたはずの男の姿は、初めから存在しなかったかのように消え失せていた。
------鳥は生まれ出る為、己を抱く卵を破壊する。生まれることを欲するならば、それは人もまた/聖ダヌス選書65節-----
加護なき島と流浪の神
少年は分厚い革表紙の本を手に、一人頷いた。その本の背表紙には題名も、著者名さえない。後付けでカバーがかけられているとはいえ、元は個人が書き留めたただの手記だからだ。
ジャン&メアリー・ベルキュリオ。それはこの島、マリスティアの発展に尽力した、一組の夫婦の名前。目立つことを厭い、決して島の代表になることはなく一介の聖職者として生きた二人の綴った文書は、歴史の表舞台には残らずともこの教会の地下書庫には密かに保存されていた。
これは、その内の一冊。彼らが目撃した、変わりゆく世界の記録書だ。
とはいえど、この島に移り住んだ彼らが事実目にした事柄は少ない。かつての同僚から聞き及んだ数々の断片的な話を最大限損なうことなく撚り合わせ、世界の現状と比較し、真実を推測している。推測に過ぎぬにも関わらずそれが概ね的を射ているのは、彼らの真摯さ故かそれとも何某かの直感が働いたのか。
どちらにせよ、と、少年は本の頁を進めてゆく。文章は王が弑逆され、世界の枠組みが崩壊するその瞬間を指し示す。口元を緩めた彼を見咎めるものは誰もいない。思い描くのは紺碧に浮かぶ真白い月だ。そして陰る、麗しの塔。
塔が崩れ落ちたその後のことは、皆が知る通りだ。
《導き手》が謳い、《神子》を捧げ、人命を用いて欠落を埋める。墓標島で定められた新たな信仰に基いて、多くの時錬士が僅かずつ命を削った。彼もまた例外でなく、その身を削り、そして崩れ消えた。その命尽きるまで、後世の子らの為に慣れない筆を取って。
少年は瞑目する。それは黙祷でも哀悼でもない。ただ、思い描くだけだ。彼が尽くしたその理由を、そして変わらなかったこの島を。彼らは死んだ。この島が豊かになるその様を見ることなく。それは厳然たる、書き換えようのない運命だ。
ジャン&メアリー・ベルキュリオ。それはこの島、マリスティアの発展に尽力した、一組の夫婦の名前。目立つことを厭い、決して島の代表になることはなく一介の聖職者として生きた二人の綴った文書は、歴史の表舞台には残らずともこの教会の地下書庫には密かに保存されていた。
これは、その内の一冊。彼らが目撃した、変わりゆく世界の記録書だ。
とはいえど、この島に移り住んだ彼らが事実目にした事柄は少ない。かつての同僚から聞き及んだ数々の断片的な話を最大限損なうことなく撚り合わせ、世界の現状と比較し、真実を推測している。推測に過ぎぬにも関わらずそれが概ね的を射ているのは、彼らの真摯さ故かそれとも何某かの直感が働いたのか。
どちらにせよ、と、少年は本の頁を進めてゆく。文章は王が弑逆され、世界の枠組みが崩壊するその瞬間を指し示す。口元を緩めた彼を見咎めるものは誰もいない。思い描くのは紺碧に浮かぶ真白い月だ。そして陰る、麗しの塔。
塔が崩れ落ちたその後のことは、皆が知る通りだ。
《導き手》が謳い、《神子》を捧げ、人命を用いて欠落を埋める。墓標島で定められた新たな信仰に基いて、多くの時錬士が僅かずつ命を削った。彼もまた例外でなく、その身を削り、そして崩れ消えた。その命尽きるまで、後世の子らの為に慣れない筆を取って。
少年は瞑目する。それは黙祷でも哀悼でもない。ただ、思い描くだけだ。彼が尽くしたその理由を、そして変わらなかったこの島を。彼らは死んだ。この島が豊かになるその様を見ることなく。それは厳然たる、書き換えようのない運命だ。
「…さて、思い出にばかり浸っているわけにはいかない。仕事をしないとね、仕事を」
切り替えるようにぱたりと本を閉じ、小脇に抱えたまま彼は書庫の奥へと向かう。
質素だが美しいステンドグラスの横、背の高い本棚の影に隠れるようにして備え付けられた小さな扉。取手に手をかけ横に押し開ければ、その先には簡素に積まれただけの石の階段が続いていた。
とん、とん、と規則正しく響く足音は軽い。暗い石壁に手にした蝋燭が影を描き出し、緩やかに上下する。少々長く感じられるほどの時間をそうして下った先、開けた石室は南方に位置するこの島の中で最も空気が冷たい場所だ。
ぽたぽたと最奥の石壁を水が伝う。その周辺の床に薄く積もっているのは、塩と、それから灰。慈しみの母と呼ばれた彼女の死体の残滓がここに存在していることを知るものは殆どいないだろう。形だけとはいえ、墓は確かに表の墓地にあるのだから。
質素だが美しいステンドグラスの横、背の高い本棚の影に隠れるようにして備え付けられた小さな扉。取手に手をかけ横に押し開ければ、その先には簡素に積まれただけの石の階段が続いていた。
とん、とん、と規則正しく響く足音は軽い。暗い石壁に手にした蝋燭が影を描き出し、緩やかに上下する。少々長く感じられるほどの時間をそうして下った先、開けた石室は南方に位置するこの島の中で最も空気が冷たい場所だ。
ぽたぽたと最奥の石壁を水が伝う。その周辺の床に薄く積もっているのは、塩と、それから灰。慈しみの母と呼ばれた彼女の死体の残滓がここに存在していることを知るものは殆どいないだろう。形だけとはいえ、墓は確かに表の墓地にあるのだから。
「久しぶりですね、アドソン。あいも変わらず、貴方の魔力は心地良い」
灰になっても、尚。
階段の最下段に本と燭台を置き、少年は灰の前へと立つ。確認するように一度灰を指へ取り、それから左右を見。無造作に広げた両の手は、かすかに燐光を纏っていた。
彼の持つ【創造】の力は【産み】の概念下にはない。だからこそその手は書き換える。溢れる魔力を動力に、構造を、概念を、世界に敷かれた絶対の法則を。存在し得ないものを想像し固定化しサンプルを捏ねて設計図を書き上げるのに、血肉と慈しみは必要ない。
ちり、ちり、と、言語と呼べるかも怪しい原初の文字が浮かんでは消える。やがてそれらは連なり、鎖となり、十重二十重にと紡がれ膨大な螺旋を形作る。繋がれた構造に矛盾がないかを眺め、時折つついては穴を潰し式を書き換え。そして、ふ、とゆるく息を吐き出すのと同時。
捧げるように軽く合わせた両の手に燐光が収束し、湧き出ずるようにして深い青色の結晶が現れる。まだ砂粒と言ってもいいそれは、魔力を帯びてちらちらと煌めいた。それは、紡がれた術式が完成させられこの世に正しく生まれるその時を待ち望むようで。
階段の最下段に本と燭台を置き、少年は灰の前へと立つ。確認するように一度灰を指へ取り、それから左右を見。無造作に広げた両の手は、かすかに燐光を纏っていた。
彼の持つ【創造】の力は【産み】の概念下にはない。だからこそその手は書き換える。溢れる魔力を動力に、構造を、概念を、世界に敷かれた絶対の法則を。存在し得ないものを想像し固定化しサンプルを捏ねて設計図を書き上げるのに、血肉と慈しみは必要ない。
ちり、ちり、と、言語と呼べるかも怪しい原初の文字が浮かんでは消える。やがてそれらは連なり、鎖となり、十重二十重にと紡がれ膨大な螺旋を形作る。繋がれた構造に矛盾がないかを眺め、時折つついては穴を潰し式を書き換え。そして、ふ、とゆるく息を吐き出すのと同時。
捧げるように軽く合わせた両の手に燐光が収束し、湧き出ずるようにして深い青色の結晶が現れる。まだ砂粒と言ってもいいそれは、魔力を帯びてちらちらと煌めいた。それは、紡がれた術式が完成させられこの世に正しく生まれるその時を待ち望むようで。
「ティアライト、……いえ。マリステライト、としましょうか」
書き入れられた最後のピースは、名前。物質が物質たり得る概念を与えられ、砂粒はただ一度だけ強く光を発した。あとはただ、ぱらりと、さしてファイアの強くないただの鉱物があるばかり。
「母の灰に抱かれるのならば、この名前が相応しい」
――聖母の涙。この石は他の数ある鉱物と違い、ただ水に触れ存在しているだけでゆっくりと魔力を生成できる構造になっている。かつて生み出したソリントルには遠く及ばないが、この小さな島の内側にだけ豊かさをもたらす為の燃料としてはこれで充分だ。これで、彼女の愛した子供たちが、これからもここで生きてゆけるだけの仕組みが確立する。
結晶をぱらぱらと蒔いて、満足気にそれを眺めていた少年はふと顎に手を当てる。
結晶をぱらぱらと蒔いて、満足気にそれを眺めていた少年はふと顎に手を当てる。
「しかし、ある程度粒が育ち核となれるまでの揺籠と養分はこの灰で賄えるとして。それ以降はどうしたものか」
元々はただの偶然として生まれ、作り出されたまま放置され神の管轄外にあったこの地に豊かさをもたらすということは、つまり力を用いて欠落を生み出すということだ。欠落が増えればそれだけ歪みも増す。歪みが大きくなり再び世界に穴が開くのは、自身の本意ではない。
しかし、まあ、と。歳不相応の笑みを浮かべ、彼は一人呟く。
しかし、まあ、と。歳不相応の笑みを浮かべ、彼は一人呟く。
「有難いことに、この島の民はリリアンの生き残りと時錬士の血を色濃く継ぐお陰で負への耐性が高い。元々そこまでの秩序などもたらす気はさらさらないし、民全員に負荷を分散させれば寿命が少々縮む程度で済むだろう。問題はその負荷を分散させるシステムの方だが、……私が成人する頃までに整えておけば問題ない」
なんにせよ、石が育つまではどうしようもないのだ。核が水に流されこの土地に完全に根付くまで、5年か10年か、それともそれ以上か。そればかりは、時の流れに任せるしかない。彼の管轄でない、流転し移り変わる運命とやらに。
「……まあ、この石以外が原因で発生する負の分については、やっぱり何人か生贄になってもらわないといけないけれど、それはあの愚か者達の決定に沿って神子を選出すればいいことだしね」
すたすたと階段の方へと向かい、本を手に取り。彼は一度だけ、灰を振り返る。
手のひらの上でぱらぱらとひとりでに捲れ歴史を辿ってゆく本が指し示すは、最後の頁、枠外に付け足されたその一文。
手のひらの上でぱらぱらとひとりでに捲れ歴史を辿ってゆく本が指し示すは、最後の頁、枠外に付け足されたその一文。
「"世界は、こうもまだ、緩く統べる者無く。神はかく語りき"」
書き留められた字をなぞり、彼は僅かに目を細める。それは親愛か、愉悦か。近頃見かけていなかったな、と、そうして彼は――ハルド・ラヴィエは、ゆっくりと息を吐き出した。
「舞台装置は整った。だが、それでもなお人は混沌を携え、神は指針を持ってそれを掃討するだろう。
しかし人の子よ、恐れることなく真理を突き進みなさい。
さぁ、世界を変える力を
綴り手たる貴方達に授けましょう―――」
しかし人の子よ、恐れることなく真理を突き進みなさい。
さぁ、世界を変える力を
綴り手たる貴方達に授けましょう―――」