メイガスナイト その②
――さあ帰ろ。
一人で遊んでも面白くないしな。
BGM “二つの色” by 葉山りく
一、
帰宅したらまずは撹拌していた鍋の様子を見て火から下ろさねばと、真っ直ぐに伸びた長い廊下を箒で飛びながら考えていた。しばらくはこの持ち帰った本を読みふけるという作業が待っているから、片手間でできるもの以外の実験を一旦やめなければならない。慎重を期するのは、以前本に没頭しながら複雑な工程を要する実験を平行して行っていたら、酷い目にあったからだ。忘れもしない、あの時は家中に魔力の残滓がこびりついてしまい、壁がじっとり湿ったり、木戸が膨らみ建付けが悪くなり、目は霞むわ咳は出るわ腋に汗は掻くわと、まあ酷い目にあったものだった。数日間、這う這うの体で駆け込んだ博麗神社での寝泊りを余儀なくされた。その失敗を前向きに生かし自動で鍋をかき混ぜる魔法を開発したりしたが、他はまだまだ研究中だった。
――あくまで本は借りたまでだ。
長ったらしい廊下で、誰とも擦れ違う事なく、そううそぶく。いつもならそんな言葉へ律儀に突っ込んでくれるはずの、絶滅危惧種のメイド長は、どうやら外しているようだった。館の中はおおよそあいつの手の上みたいなものなのだから、侵入者に一言物申すぐらいはしてきそうなものだが、今日はまだ見ていない。つまりそういう事なんだろうなと思った。
まあ、結果として、私はゆっくりしていくがな。角を曲がったところで、一息、ほうと言った。
……階段がある。普段の魔理沙ならば気にも留めない、これといった特徴もないものだ。
魔理沙は箒で風をたっぷりと掴んで緩くブレーキをかけた。ちらちら赤々と壁の蝋燭の火が揺れている。まだ日は落ちてないというのに館の中は真っ暗で気味が悪くて、人間が住む場所とはとても思えなかった。しかし。
音が、聞こえた気がした。
小石のような、何か固い小さい物を床の上に落とした時のような。コトリと。うっかりと手をペン立てにひっかけて倒してしまったような。コトリ、と。
いやいやそれは、そう。
コツーン――。
音がした。今度こそハッキリと聞こえたそれは、軽い足音のようだった。
不愉快を装って、眉をしかめた。
懐から取り出した手には愛用の八卦炉。階下へ、目を凝らした。時代がかった照明は至極頼りなく、ほとんど何も、見えなかった。
「そこにいるのは、ヒトか! アヤカシか!」
むわっと、階段の下から、気配が膨れ上がって魔理沙を包み込むような感じがした。冷静で慎重に、こちらを探ってきている。警戒している。警戒すべきだ。
――ヒトか、アヤカシか!
都合三度呼びかけた。そいつは黙りこくって、沈んだ雰囲気だけがあった。凛として張りのある魔理沙の誰何は膨れ上がった闇の中に響いてすぐに消えた。
左手も、炉へ添える。箒の加減は股下で微妙な修正をつける。ちらりと左右へ目をやって、確認をして、すぅっと息を吸ったその時だ。
階段を下ったすぐそこに、あまり見かけない気弱そうな男が一人立ってこちらを見上げていた。
何も言わない。
互いに見つめ合ったまましばらく無言を貫いていたが、上げた腕がつらくなり、構えを下ろす。よっと軽い調子で手を上げると、同じく返してくる辺り、とりあえず会話は成立しそうな手合いではあるようだった。そいつがやや強張ったような歩き方で魔理沙と同じところまで上がってくると、彼女も少し近づいていった。そいつは、停止する場所がわかっているようにすっと横に動いた。
やや高いところから、帽子をくいと上げて顔を向ける。
そいつは物珍しそうにじろじろと魔理沙を眺め回して、ええと、と言った。
「初めまして、ドッピオです。えっと、そっちは」
「霧雨魔理沙、見ての通り普通の魔法使いだ。別に珍しくもなんともないだろ?」
あ、ああ……と生返事を打ち、ドッピオは目を泳がせて箒から飛び降りる魔理沙を見つめた。箒を肩に乗せる彼女へ、幽霊でも見たような顔を向ける。
もちろん、幽霊もありふれたものであるのだが。
「……どーした。妖精が弾幕ぶたれたような顔して」
「あ、あ……いや」
あははと力なく笑うドッピオは、今さっき妖怪とかいうのを見た後だけど、と前置きをしてから「魔法使いなんて初めて見たから」といった。
「妖怪も魔法使いも見た事ないなんて、そんなヤツむしろ私が見た事ないぜ。どうしてここにいるんだ?」
その問いは魔理沙にだって跳ね返ってくる。と、小悪魔がいたなら口を挟んでいただろう。けれどそこには彼女達二人しかおらず、住居侵入の不法を責める者はいなかった。むしろ幻想郷にそんなものがあるのかも疑わしかった。
「……電話を借りに来たんだ。それで」
ドッピオは言葉尻を濁らせ言いよどむと、それだけで暗闇の廊下に静寂が戻ってくる。端と端も見えぬような空間の広がりである。
魔理沙は空白を埋めるように「それで、なんだ」と煮え切らないドッピオをうながした。
「マリサは出口を知ってるのかい」
「出口か、この館の? 残念ながら出るには」
気合の入ったペドフィリアのせいで出れないぜ、と言いかけた。
――違うのか。
どうもあのメイドは出ているようで、だったら。
随分とだだっ広い館だ。真っ直ぐ向かっても時間がかかるし、その上陰険な邪魔が入る。しかし、今ならば。
「……ここは無駄にでかいし、窓がないから下手するとレミリアに出くわすまで迷子なんだが……」
正直なところ、それほど興味の引かれるようなヤツではなかった。魔法への探究心こそが全ての原動力である魔法使い(例えばここの地下で引きこもってる近眼系魔法少女パチュリー・ノーレッジだとか、魔法の森に引きこもってる七色のフリーター、アリス・マーガトロイドなどに代表される)の目から見てもそいつは、地味で、どんくさそうで、特筆すべき点なんて見つけられそうになかった。しかし。
しかしである。そんな平凡な少年が、どうしてここにいるのだろうか。窓が開いていたわけでもあるまいし、さすがに門番が止めるはずだ。――止めるはずだ。
それが普通のヤツだったら。
どちらにしろ、案内するぐらいなら、損はなさそうだなと魔理沙は思った。
「出口か。出口までな。よし」
箒に再びまたがって、床からぎりぎりのところに浮かび上がる。
「ほら、乗れよ。此処は歩くにゃちと厳しいぜ? お前が飛べるってんなら別だが」
「あ、ああ……」
肯定か否定か、ともかく、自力で飛べないのは確かなようで、魔理沙が箒を寄せてやると、その後ろにドッピオが腰を下ろした。
「掴まってないと、落ちる」
「あ……うん」
おずおずと、手が腰に回された。
「それじゃあ、行くぜ」
ぐんと急な勢いが力となって体を押し、勢いよく飛び出した二人は景色が背後に流れるような速度であっという間に廊下を駆け抜けていった。押し退けられた風が静かになる頃には、既に廊下は元の暗さを取り戻していた。
※ ※ ※
身体に感じる力がまるで何か別のものに一瞬で切り替わったように、前から風が顔といわず胴と問わずぶつかるエネルギーは二人の素肌のところをびょうびょうと撫でていった。大空の下へ躍り出た途端、魔理沙はぐっと前傾になって箒の速度を上げたから、思わずドッピオは彼女の腰に回していた腕に力を入れて後ろからしがみつくような格好になった。ぱたぱたと服の端が纏わりつくようにはためいている。人が飛行するにはあまりに頼り無い装備だ。けれど魔理沙の魔法であるのか、気温や身体の負担を軽減する不思議な安定感が箒に備えられていて、ドッピオは恐々ながらも遠方へと目を凝らす事が出来た。人が、ひたすらに無粋な鉄の塊であるジェット機などから眺望するほどの高さではない。けれども身一つでは決して望む事の叶わぬであろう光景。ドッピオは魔理沙にしがみつきながら、どんどんと小さくなって視界から遠退いていく木々や赤い館、そして不意に目に飛び込んだ遥かな上空の眺めに、吸った息を吐くのも忘れてただ魅入っていた。魔理沙は勝手知ったるふうに言葉を投げかける。
「今下を通ったのが霧の湖ってヤツで、少し行くと人里がある。向こうのでかいのは妖怪の山だ。天狗が見えたら言ってくれ、あいつらはしつこいからな」
言われたところで、ドッピオはただただ頷く事しかできない。あまりに“非日常”過ぎて、今までの経験から外れた事ばかりで、すっかり気が抜けてしまっていた。
「ハハハハ! ドッピオ、お前なんだってそんなマヌケ面してるんだ? ……いや、後ろに目はないし、してそうだなってだけだなんだが……本当の、ホントの本番は、これからなんだぜ」
えっとドッピオが訊ね返す間もなく。
猛獣が獲物に飛び掛る寸前“ぐぐっ”と全身に力を入れるように、魔理沙たちは僅かな風にふわふわと、流されるような上昇から一転して――弾丸のように気流を裂いた。
体の真芯がすうっと引き抜かれたような寒気に似た感覚がドッピオの背筋を這う。今までの、頬を風がやや手荒く撫でていくような速度ではなく、たちまちドッピオの中から生来持って生まれたスピードに対する純然な恐怖が表に出てきて、
「ひぃぃぃッ!」
という声が喉から滑り落ちた。目を閉じる余裕もなく、意識がかき回されてぐるぐると視界が上下にシェイクされる。魔理沙の「力緩めてくれよ、さすがに痛いんだが」という言葉も届かず、ひたすら「速い! 速い!」と声を張り上げ続けて、回した腕の確かな重みにだけ気持ちを集中させようとした。
堪えきれず、とうとう魔理沙が吹き出す。黄金の瞳を輝かせて、狂ったように一層スピードを求めた。
それほど、短い時間ではなかった。
魔理沙が箒を森のとある場所に下ろした時にはもう、日は一際高く昇り、そして盛りをとうに過ぎて、ぬくいというよりは熱いまなざしを振りまきつつもやがて沈みかけているようなところだった。
腰に手を当ててううんと伸びをしながら魔理沙は「イマイチ速度がでなかったぜ」とカラカラ笑っていた。ドッピオはその横で浮浪者のように四つん這いになって、ううう――と唸りながら、めちゃくちゃに千切れ飛んでしまった意識をなんとか取り戻そうと足掻いていた。
「吐くんなら家の前はやめてくれ。日にそう何度も何度も――」
「う、お……」
意味の通じない呻き声が返される。話の通じなくなる前からどこに行けばいいかを聞いておかなかったから、とりあえず魔理沙は自分の巣につれてきたのだった。感覚としては、図書館で本を借りた、その延長に近い。
おお、本当にお前飛んだ事なかったんだなと魔理沙が言った。しばらくそうしていたが、どうにも駄目くさかったから、肩をすくめて我が家たる“住処”の扉を押し開けた。
本を入れた袋をどさりとその場に下ろす。あちらこちらへ乱雑に物が置かれている。こじんまりとした木造の閑居だ。
元々魔法の試行で真水が必要になる事も多かったし、河童なんかとつるむ様になってから水回りの環境はけっこう改善していた。一々汲みに行かなくてもよくなって、温泉脈を利用した暖房の魔法を使えばいつでも風呂に入れるようになった。二日ぐらいぶっ通して魔法書に噛り付いた後に入る温い風呂は、魔理沙にこの世の真理さえ体感させた。
もっとも、今はコップ一杯分の水を用意できればよかった。一応奥の部屋でざっと自動化処理していた実験のいくつかを確認してから、居間の窓を開け放つ。窓からはまだうずくまっているドッピオが見えた。
「――ほら、水だぜ。飲めるか、立てるか?」
「う……ありがとう……」
ふらつきながらも立ち上がったそいつに肩を貸してやって、中へ連れこんで椅子に座らせた。なんだか酔っ払いの介抱みたいだった。魔理沙が肩を貸すのはもっぱら霊夢が主なのだが(それと同じぐらい魔理沙も神社で前後不覚にまで飲む事もある)、霊夢のヤツは変に強情なところがあって、布団を貸してやろうとしてもいらないと突っぱね、そのままテーブルに頭をつけて寝息を立てだすのである。そんな時は、いかにも巫女装束の腋が寒々しそうだなとか妙にしみじみ思ったりする。多分覚えていないが自分も同じ事をやらかしているだろうから、まあ精々がおあいこだろうと勘定していた。
とりあえず、楽にしててくれとだけ告げて、帽子をテーブルの上に置いた。本来は食卓なのだが、今は本やらメモ紙やらが散乱していて、本分を果せない役立たずである。代わりにと、先ほどの本を持ち上げる。早目にちゃんとした保管場所に放り込んでおかないと、へそを曲げたりカビが生えたりする、酔いどれに負けず劣らず厄介な代物だった。
奥へ続く扉に手をかけたところで、背後から弱々しいながらも、
「すまない……」
という声が、耳に入ってきた。振り向くと、ドッピオが顔を上げて、若干青くなりながらも、気丈に唇の端を吊り上げていた。少年の精一杯の見得の痩せ我慢に、彼女はああとだけ短く返して、頷いた。ふと、私に礼を言われる筋合いはあるのだろうかとも思ったが、ともかく黙って、扉を閉めた。
極々軽い、音がした。
――さあ帰ろ。
一人で遊んでも面白くないしな。
BGM “二つの色” by 葉山りく
一、
帰宅したらまずは撹拌していた鍋の様子を見て火から下ろさねばと、真っ直ぐに伸びた長い廊下を箒で飛びながら考えていた。しばらくはこの持ち帰った本を読みふけるという作業が待っているから、片手間でできるもの以外の実験を一旦やめなければならない。慎重を期するのは、以前本に没頭しながら複雑な工程を要する実験を平行して行っていたら、酷い目にあったからだ。忘れもしない、あの時は家中に魔力の残滓がこびりついてしまい、壁がじっとり湿ったり、木戸が膨らみ建付けが悪くなり、目は霞むわ咳は出るわ腋に汗は掻くわと、まあ酷い目にあったものだった。数日間、這う這うの体で駆け込んだ博麗神社での寝泊りを余儀なくされた。その失敗を前向きに生かし自動で鍋をかき混ぜる魔法を開発したりしたが、他はまだまだ研究中だった。
――あくまで本は借りたまでだ。
長ったらしい廊下で、誰とも擦れ違う事なく、そううそぶく。いつもならそんな言葉へ律儀に突っ込んでくれるはずの、絶滅危惧種のメイド長は、どうやら外しているようだった。館の中はおおよそあいつの手の上みたいなものなのだから、侵入者に一言物申すぐらいはしてきそうなものだが、今日はまだ見ていない。つまりそういう事なんだろうなと思った。
まあ、結果として、私はゆっくりしていくがな。角を曲がったところで、一息、ほうと言った。
……階段がある。普段の魔理沙ならば気にも留めない、これといった特徴もないものだ。
魔理沙は箒で風をたっぷりと掴んで緩くブレーキをかけた。ちらちら赤々と壁の蝋燭の火が揺れている。まだ日は落ちてないというのに館の中は真っ暗で気味が悪くて、人間が住む場所とはとても思えなかった。しかし。
音が、聞こえた気がした。
小石のような、何か固い小さい物を床の上に落とした時のような。コトリと。うっかりと手をペン立てにひっかけて倒してしまったような。コトリ、と。
いやいやそれは、そう。
コツーン――。
音がした。今度こそハッキリと聞こえたそれは、軽い足音のようだった。
不愉快を装って、眉をしかめた。
懐から取り出した手には愛用の八卦炉。階下へ、目を凝らした。時代がかった照明は至極頼りなく、ほとんど何も、見えなかった。
「そこにいるのは、ヒトか! アヤカシか!」
むわっと、階段の下から、気配が膨れ上がって魔理沙を包み込むような感じがした。冷静で慎重に、こちらを探ってきている。警戒している。警戒すべきだ。
――ヒトか、アヤカシか!
都合三度呼びかけた。そいつは黙りこくって、沈んだ雰囲気だけがあった。凛として張りのある魔理沙の誰何は膨れ上がった闇の中に響いてすぐに消えた。
左手も、炉へ添える。箒の加減は股下で微妙な修正をつける。ちらりと左右へ目をやって、確認をして、すぅっと息を吸ったその時だ。
階段を下ったすぐそこに、あまり見かけない気弱そうな男が一人立ってこちらを見上げていた。
何も言わない。
互いに見つめ合ったまましばらく無言を貫いていたが、上げた腕がつらくなり、構えを下ろす。よっと軽い調子で手を上げると、同じく返してくる辺り、とりあえず会話は成立しそうな手合いではあるようだった。そいつがやや強張ったような歩き方で魔理沙と同じところまで上がってくると、彼女も少し近づいていった。そいつは、停止する場所がわかっているようにすっと横に動いた。
やや高いところから、帽子をくいと上げて顔を向ける。
そいつは物珍しそうにじろじろと魔理沙を眺め回して、ええと、と言った。
「初めまして、ドッピオです。えっと、そっちは」
「霧雨魔理沙、見ての通り普通の魔法使いだ。別に珍しくもなんともないだろ?」
あ、ああ……と生返事を打ち、ドッピオは目を泳がせて箒から飛び降りる魔理沙を見つめた。箒を肩に乗せる彼女へ、幽霊でも見たような顔を向ける。
もちろん、幽霊もありふれたものであるのだが。
「……どーした。妖精が弾幕ぶたれたような顔して」
「あ、あ……いや」
あははと力なく笑うドッピオは、今さっき妖怪とかいうのを見た後だけど、と前置きをしてから「魔法使いなんて初めて見たから」といった。
「妖怪も魔法使いも見た事ないなんて、そんなヤツむしろ私が見た事ないぜ。どうしてここにいるんだ?」
その問いは魔理沙にだって跳ね返ってくる。と、小悪魔がいたなら口を挟んでいただろう。けれどそこには彼女達二人しかおらず、住居侵入の不法を責める者はいなかった。むしろ幻想郷にそんなものがあるのかも疑わしかった。
「……電話を借りに来たんだ。それで」
ドッピオは言葉尻を濁らせ言いよどむと、それだけで暗闇の廊下に静寂が戻ってくる。端と端も見えぬような空間の広がりである。
魔理沙は空白を埋めるように「それで、なんだ」と煮え切らないドッピオをうながした。
「マリサは出口を知ってるのかい」
「出口か、この館の? 残念ながら出るには」
気合の入ったペドフィリアのせいで出れないぜ、と言いかけた。
――違うのか。
どうもあのメイドは出ているようで、だったら。
随分とだだっ広い館だ。真っ直ぐ向かっても時間がかかるし、その上陰険な邪魔が入る。しかし、今ならば。
「……ここは無駄にでかいし、窓がないから下手するとレミリアに出くわすまで迷子なんだが……」
正直なところ、それほど興味の引かれるようなヤツではなかった。魔法への探究心こそが全ての原動力である魔法使い(例えばここの地下で引きこもってる近眼系魔法少女パチュリー・ノーレッジだとか、魔法の森に引きこもってる七色のフリーター、アリス・マーガトロイドなどに代表される)の目から見てもそいつは、地味で、どんくさそうで、特筆すべき点なんて見つけられそうになかった。しかし。
しかしである。そんな平凡な少年が、どうしてここにいるのだろうか。窓が開いていたわけでもあるまいし、さすがに門番が止めるはずだ。――止めるはずだ。
それが普通のヤツだったら。
どちらにしろ、案内するぐらいなら、損はなさそうだなと魔理沙は思った。
「出口か。出口までな。よし」
箒に再びまたがって、床からぎりぎりのところに浮かび上がる。
「ほら、乗れよ。此処は歩くにゃちと厳しいぜ? お前が飛べるってんなら別だが」
「あ、ああ……」
肯定か否定か、ともかく、自力で飛べないのは確かなようで、魔理沙が箒を寄せてやると、その後ろにドッピオが腰を下ろした。
「掴まってないと、落ちる」
「あ……うん」
おずおずと、手が腰に回された。
「それじゃあ、行くぜ」
ぐんと急な勢いが力となって体を押し、勢いよく飛び出した二人は景色が背後に流れるような速度であっという間に廊下を駆け抜けていった。押し退けられた風が静かになる頃には、既に廊下は元の暗さを取り戻していた。
※ ※ ※
身体に感じる力がまるで何か別のものに一瞬で切り替わったように、前から風が顔といわず胴と問わずぶつかるエネルギーは二人の素肌のところをびょうびょうと撫でていった。大空の下へ躍り出た途端、魔理沙はぐっと前傾になって箒の速度を上げたから、思わずドッピオは彼女の腰に回していた腕に力を入れて後ろからしがみつくような格好になった。ぱたぱたと服の端が纏わりつくようにはためいている。人が飛行するにはあまりに頼り無い装備だ。けれど魔理沙の魔法であるのか、気温や身体の負担を軽減する不思議な安定感が箒に備えられていて、ドッピオは恐々ながらも遠方へと目を凝らす事が出来た。人が、ひたすらに無粋な鉄の塊であるジェット機などから眺望するほどの高さではない。けれども身一つでは決して望む事の叶わぬであろう光景。ドッピオは魔理沙にしがみつきながら、どんどんと小さくなって視界から遠退いていく木々や赤い館、そして不意に目に飛び込んだ遥かな上空の眺めに、吸った息を吐くのも忘れてただ魅入っていた。魔理沙は勝手知ったるふうに言葉を投げかける。
「今下を通ったのが霧の湖ってヤツで、少し行くと人里がある。向こうのでかいのは妖怪の山だ。天狗が見えたら言ってくれ、あいつらはしつこいからな」
言われたところで、ドッピオはただただ頷く事しかできない。あまりに“非日常”過ぎて、今までの経験から外れた事ばかりで、すっかり気が抜けてしまっていた。
「ハハハハ! ドッピオ、お前なんだってそんなマヌケ面してるんだ? ……いや、後ろに目はないし、してそうだなってだけだなんだが……本当の、ホントの本番は、これからなんだぜ」
えっとドッピオが訊ね返す間もなく。
猛獣が獲物に飛び掛る寸前“ぐぐっ”と全身に力を入れるように、魔理沙たちは僅かな風にふわふわと、流されるような上昇から一転して――弾丸のように気流を裂いた。
体の真芯がすうっと引き抜かれたような寒気に似た感覚がドッピオの背筋を這う。今までの、頬を風がやや手荒く撫でていくような速度ではなく、たちまちドッピオの中から生来持って生まれたスピードに対する純然な恐怖が表に出てきて、
「ひぃぃぃッ!」
という声が喉から滑り落ちた。目を閉じる余裕もなく、意識がかき回されてぐるぐると視界が上下にシェイクされる。魔理沙の「力緩めてくれよ、さすがに痛いんだが」という言葉も届かず、ひたすら「速い! 速い!」と声を張り上げ続けて、回した腕の確かな重みにだけ気持ちを集中させようとした。
堪えきれず、とうとう魔理沙が吹き出す。黄金の瞳を輝かせて、狂ったように一層スピードを求めた。
それほど、短い時間ではなかった。
魔理沙が箒を森のとある場所に下ろした時にはもう、日は一際高く昇り、そして盛りをとうに過ぎて、ぬくいというよりは熱いまなざしを振りまきつつもやがて沈みかけているようなところだった。
腰に手を当ててううんと伸びをしながら魔理沙は「イマイチ速度がでなかったぜ」とカラカラ笑っていた。ドッピオはその横で浮浪者のように四つん這いになって、ううう――と唸りながら、めちゃくちゃに千切れ飛んでしまった意識をなんとか取り戻そうと足掻いていた。
「吐くんなら家の前はやめてくれ。日にそう何度も何度も――」
「う、お……」
意味の通じない呻き声が返される。話の通じなくなる前からどこに行けばいいかを聞いておかなかったから、とりあえず魔理沙は自分の巣につれてきたのだった。感覚としては、図書館で本を借りた、その延長に近い。
おお、本当にお前飛んだ事なかったんだなと魔理沙が言った。しばらくそうしていたが、どうにも駄目くさかったから、肩をすくめて我が家たる“住処”の扉を押し開けた。
本を入れた袋をどさりとその場に下ろす。あちらこちらへ乱雑に物が置かれている。こじんまりとした木造の閑居だ。
元々魔法の試行で真水が必要になる事も多かったし、河童なんかとつるむ様になってから水回りの環境はけっこう改善していた。一々汲みに行かなくてもよくなって、温泉脈を利用した暖房の魔法を使えばいつでも風呂に入れるようになった。二日ぐらいぶっ通して魔法書に噛り付いた後に入る温い風呂は、魔理沙にこの世の真理さえ体感させた。
もっとも、今はコップ一杯分の水を用意できればよかった。一応奥の部屋でざっと自動化処理していた実験のいくつかを確認してから、居間の窓を開け放つ。窓からはまだうずくまっているドッピオが見えた。
「――ほら、水だぜ。飲めるか、立てるか?」
「う……ありがとう……」
ふらつきながらも立ち上がったそいつに肩を貸してやって、中へ連れこんで椅子に座らせた。なんだか酔っ払いの介抱みたいだった。魔理沙が肩を貸すのはもっぱら霊夢が主なのだが(それと同じぐらい魔理沙も神社で前後不覚にまで飲む事もある)、霊夢のヤツは変に強情なところがあって、布団を貸してやろうとしてもいらないと突っぱね、そのままテーブルに頭をつけて寝息を立てだすのである。そんな時は、いかにも巫女装束の腋が寒々しそうだなとか妙にしみじみ思ったりする。多分覚えていないが自分も同じ事をやらかしているだろうから、まあ精々がおあいこだろうと勘定していた。
とりあえず、楽にしててくれとだけ告げて、帽子をテーブルの上に置いた。本来は食卓なのだが、今は本やらメモ紙やらが散乱していて、本分を果せない役立たずである。代わりにと、先ほどの本を持ち上げる。早目にちゃんとした保管場所に放り込んでおかないと、へそを曲げたりカビが生えたりする、酔いどれに負けず劣らず厄介な代物だった。
奥へ続く扉に手をかけたところで、背後から弱々しいながらも、
「すまない……」
という声が、耳に入ってきた。振り向くと、ドッピオが顔を上げて、若干青くなりながらも、気丈に唇の端を吊り上げていた。少年の精一杯の見得の痩せ我慢に、彼女はああとだけ短く返して、頷いた。ふと、私に礼を言われる筋合いはあるのだろうかとも思ったが、ともかく黙って、扉を閉めた。
極々軽い、音がした。