僕は昔、ロウのストーリーが嫌いだった。ロウサイドのキャラクターの、口を開けば何かにつけて「神が云々」といった感じの台詞がとても嫌で、10代の頃は続編の『真・女神転生2』もそうなのだが、ロウルートでクリアしたことがなかった(する気にならなかった)ほどだ。
そのロウルートの水先案内人であるロウヒーローに関しては、ゲーム発売当時から賛否両論が多く、僕自身も、復活後のロウヒーローの、あの機械的な印象が好きになれずにいた。だが歳を重ねた今では、このロウヒーローのキャラクター性も“アリ”ではないかと思っている。
復活後のロウヒーローの台詞を読んでいくと、ロウヒーローは“自分の境遇をありのままに受け入れた者”として描かれている。少し言い方をかえれば、“運命を受け入れた”ということになる。だからカテドラルでの死に際でも、自分が神に捧げられた存在でしかないと気付いても、ロウヒーローはあきらめにも似た心情を吐き、死んでいくのだろう。
大抵のゲームや漫画の主人公、あるいはそれに近い存在の立場のキャラクターは、こんな態度を示さない。“運命は自分で切り拓く”であったり、“定めや掟を破る”というテーマでストーリーが進み、その中でいかに主人公が成長していくかを描くのが一般的だ。自分の魂が神に捧げられる供え物であることに納得するなどという、ばかばかしいほど物分りのいいキャラクターはまず出てこない。普通に考えてみてそんなキャラクターを主人公サイドに置いてもつまらないだろうし、また、あるルールや常識をぶち破って暴れまわる姿の方が、人の精神的な欲求に応えられるというのもあるだろう。実社会ではまずそんなことは簡単にできない、という現実性もある。
現実的な、身に迫る圧迫感や閉塞感に嫌でも置かれるようになった年齢・立場・状況になってこそ、初めてこのロウヒーローという愚直なまでにロウの精神を貫く、ロウの本質を受け入れる姿を、プレイヤーも受け入れられるようになるのではないか。
ロウヒーローのように、自分の信ずるものに少しの疑いもなく生きていくことができたら、どんなに幸せだろうと思う。そう考えると、メシア教徒たちの台詞も理解できる。「何の疑いもなくロウを受け入れる」。それこそが、メシア教徒たちにとっての“幸福”なのでは、と。
ゲーム中では“神のため”という部分のみが誇張され、プレイヤー側のロウとはなんぞやという疑問に対し、理解を深めるためのメッセージが足りなかったのではないかと思う。ロウという“生き方”を、もっと豊かなメッセージで説明できていれば、きっとロウヒーローも、もっと受け入れられていたキャラクターになり得たのではないかと思う。
僕と同じように“昔はロウヒーローが嫌いだった”という人は、今だからこそ『真・女神転生』をロウでプレイし直してみてほしい。“運命を切り拓く”ではなく、“ありのままに運命を受け入れる”ロウヒーローの生き方には、実社会に生きる一個人として、何かしらの示唆を得られるのではないだろうか。
最終更新:2018年12月22日 16:39