懿安皇后
?-851
中唐の妃嬪、皇太后。
憲宗の妃。姓は郭氏。
郭曖と
斉国昭懿公主の娘。救国の功臣
郭子儀の外孫にあたる。憲宗が広陵王に封ぜられると妃となり、
穆宗・
李悟・
岐陽荘淑公主を生んだ。元和元年(806)貴妃に進冊し、元和八年(813)には群臣が皇后に立てるよう上奏したが、結局皇后とはならなかった。
穆宗が即位すると尊号を奉って皇太后とし、
興慶宮に移った。穆宗が崩ずると、
武則天にならって称制させようとする者がいたが、拒否し、
敬宗が即位し、太皇太后と号した。
文宗が即位すると、
恭僖皇太后・
貞献皇太后とともに「三宮太后」と称された。敬宗・文宗・
武宗は孫であったため尊崇されたが、
宣宗が即位すると、直接的な血縁関係はなくなったため、次第に冷遇されて鬱となり、大中五年(851)
勤政楼から飛び降りして、同日中に崩じた。
景陵に合葬された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
『新唐書』
巻七十七 列伝第二 后妃下 憲宗懿安皇后郭氏
『旧唐書』巻五十二 列伝第二 后妃下 憲宗懿安皇后郭氏
外部リンク
最終更新:2025年01月17日 15:40