巻七十七 列伝第二

列伝第二

后妃下

張皇后 章敬呉太后 貞懿独狐皇后 睿真沈太后 昭徳王皇后 韋賢妃 荘憲王皇后 懿安郭太后 孝明鄭太后 恭僖王太后 貞献蕭太后 宣懿韋太后 尚宮宋若昭 郭貴妃 王賢妃 元昭鼂太后 恵安王太后 郭淑妃 恭憲王太后 何皇后


  粛宗廃后庶人張氏は、鄧州向城県の人で、家は新豊県に移った。祖母の竇氏は、昭成皇后の妹である。玄宗は幼くして昭成皇后を失い、竇氏は叔母であったから母のように育て、愛情の深さは切実周到であった。が即位すると、鄧国夫人に封じ、親しく寵遇することは比類なかった。五人の息子は、張去惑・張去疑・張去奢張去逸張去盈で、全員顕官となった。張去盈は常芬公主を娶った。張去逸は皇后を生んだ。
  粛宗が忠王であった時、韋元珪を納れて孺人とした。太子に立てられると、孺人を妃とし、皇后は良娣となった。韋妃の兄の韋堅李林甫に陥れられて死んだから、太子は恐れ、韋妃と離別することを願い、妃は平服にして禁中に幽閉した。安禄山が叛くと、賊の手中に陥り、至徳年間(756-758)に薨じた。
  それより以前、韋妃が離別されると、良娣は専ら太子に侍ることができ、高い知性があって弁がたったから、よく太子の意に迎えて追従した。玄宗が西に行幸すると、良娣は太子とともに従い、渭水を渡り、民が道を遮って留まって長安を回復するよう願ったが、太子は聴さなかった。宦官の李輔国が密かに申し上げたから、良娣もまたその謀を称え、遂に計画を定めて北は霊武に赴いた。当時、軍の護衛は少なく、夕方になると、良娣は必ず寝所の前にいた。太子は「夜がくれるから心配しなければならないが、だからといって賊から守るのは婦人のすべき事ではない。少し気をつけなさい」と言ったが、「災難がおこって、もし突然のことがあれば、私がこれに当たりますから、殿下はおもむろに計略してください」と答えた。霊武に駐屯し、子を産んでから三日で、起き上がって戦士の衣を縫っていたから、太子は止めるよう命じたが、「今はどうして休んでいられましょうか」と答えた。乾元年間(758-760)初頭、冊立して淑妃となり、その父に尚書左僕射を追贈され、姉妹は皆封号を得て、弟の張清張潜大寧郡主延和郡主を娶った。遂に立って皇后となり、内外の命婦の全員に詔して光順門に朝賀した。
  皇后は引き籠もって、次第に政務に預かるようになり、李輔国とともに助け、多く天子に私事で謁見して権力を歪めた。自ら禁苑中で蚕を養蚕し、命婦たちと互いに礼し、儀物は非常に盛んであった。乾元二年(759)、群臣はに尊号を奉り、皇后もまた群臣をほのめかして自身の尊号「翊聖」を奉らせたから、帝は李揆に尋ねると、李揆は諌めて不可とした。ちょうどその時、月蝕となり、帝は咎が後宮にあるからとして、そこで沙汰止みとした。また李輔国とともに 上皇を西内(太極宮)に移そうと謀った。端午の日、帝は山人の李唐を召見すると、帝は幼い娘を抱きかかえており、李唐に向かって、「私はこの娘の今後のことを思っているが、問題ないだろうか」と言うと、李唐は「太上皇は今日もまた陛下のことを思われているでしょう」と言ったから、帝は涙をはらはらとこぼしたが、宮中は皇后に制せられており、ついに西宮に謁見しなかった。帝は重病となると、皇后は自ら箴(はり)で血を流して仏書を写経して誠意を示した。
  それより以前、建寧王李倓がしばしば皇后のことをに非難した。上皇は蜀にあって、七宝の鞍を皇后に賜ったが、李泌は分けて戦士の報償とすることを願い、李倓は李泌の願いを助けたから、皇后は怨み、ついに讒言により死に追いやった。これより太子は深く恐れ、皇后に仕えること非常に恭しかった。皇后はなおも危害を加えようと思ったが、しかし子の李佋は早世して、李侗は幼なかったから、太子は悩まされずにすんだ。宝応元年(762)、帝は重病となり、皇后は宦官の朱輝光らとともに越王李係を即位させようと謀ったが、李輔国・程元振が兵で太子を守り、皇后を別殿に幽閉した。代宗が即位すると、群臣はに廃して庶人とするよう申し上げ、殺害した。張清張潜は舅の竇履信とともに全員流刑となり、支党は誅殺された。


  粛宗章敬皇后呉氏は、濮州濮陽県の人である。父の呉令珪は、郫県の丞となって事件に罪とされて死に、そのため后は幼くして掖廷に入った。
  粛宗が東宮であったとき、宰相の李林甫は密かに敵対して推し量ることができず、太子は心の中では心配しており、頭髪は円形脱毛症となった。後に玄宗に謁見したが、玄宗は見て不快であり、そこで太子の宮に行幸して、東宮を見回してみると掃き清められておらず、楽器に埃や虫がたかり、左右には嬪侍がおらず、の表情は険しくなって、高力士に向かって、「この子はこんなところにいるのか。将軍は私に伝えづらかったのか」と言い、詔して京兆の良家の子を五人を選んで太子に近侍して楽しませようとしたが、高力士は、「京兆から選べば、人はなにかにつけて言い訳をします。掖廷にいる衣冠の子を採用するにこしたことがありません。いかがでしょうか」と言ったから、詔して裁可された。三人が選ばれ、后はその中におり、そのため寵愛を受けた。寝ると目覚めなくなるのを嫌がるようになり、太子はなぜかと尋ねてみると、「夢で神が私に降り、剣で中に入ろうとし、私を割って脅して中に入れば、ほとんど堪えることができません」と言ったから、蝋燭で見てみると、その跡は表面ではわからなかったが隠れているようであった。代宗が生まれると、嫡皇孫となった。生まれて三日で、帝は臨御して洗おうとした。孫の体はひ弱で、産婆は面倒事が起こるのを嫌がって、改めて他宮の赤ん坊を持ってきて渡したが、帝は赤ん坊を見ると不快となった。産婆は叩頭して言ったことが本当ではないと述べた。帝は「お前の知るところではない。いいから赤ん坊を連れてきなさい」と言い、ここに嫡孫を見て、帝は大いに喜び、日がな一日眺めて、「福はその父よりも上だな」と言った。帝は帰ると、ことごとく宮中の中で宴を行い、高力士に向かって、「太子と一緒に飲めれば、一日に三天子に会うことになるぞ。なんと楽しいことか」と言った。
  后の性格は謙譲かつ柔和で、太子は后への礼遇は非常にあつかったが、年十八歳で薨じた。代宗が即位すると、群臣は后を粛宗の廟に祀り、追尊して皇后とするよう願い、諡を奉り、建陵に合葬した。そこで墓穴を開いてみると、容貌は行きているかのようであり、衣はすべて赤く、見る者は感嘆し、聖子の符があると言っていたという。


  代宗貞懿皇后独孤氏は、どこの人か伝を失った。父の独孤穎は、左威衛録事参軍であった。
  天宝年間(742-756)、は広平王となると、当時、楊貴妃の外戚は天子の親類の中では最も貴く、秘書少監の崔峋の妻の韓国夫人はそのを皇孫の妃とした。は子の李偲を生み、所謂召王である。妃は母の実家をたよって、非常に驕慢であった。楊氏が誅殺されると、礼遇は次第に薄くなり、薨ずると、后が美麗であるから進められ、いつも夜を専らにした。広平王が即位すると、貴妃に冊立され、韓王李迥華陽公主を生んだ。
  大暦十年(775)薨ずると、追号して皇后となり、諡を奉った。は悲しみに堪えられず、そのため内殿に殯し、年と重ねても外に葬らなかった。三年後、始めて詔して都の東に陵を造営し、朝も夕も望見できるようにした。補闕の姚南仲が諌めて止め、そこで荘陵に葬った。宰相の常袞に詔して哀冊をつくり、帝は后に愛情深かったため、そのため葬儀は華美で、つとめてその心情を称えたから、常袞は非常に哀傷を述べ、これによって帝の心に適った。また群臣に詔して挽歌をつくり、帝はその中で最も悲しいものを選んで詠わせた。
  それより以前、后は愛情・待遇が第一であり、その宗叔の独孤卓は少府監に、兄の独孤良佐は太子中允の官職についた。


  代宗睿真皇后沈氏は、呉興の人である。開元年間(713-741)末、良家の子であるから東宮に入り、太子広平王に賜ったから、徳宗を生んだ。
  天宝の乱で、賊は后を東都(洛陽)の掖廷で捕らえた。広平王が洛陽に入ると、再び宮中に留め置かれた。当時、北方を討伐しようとしており、まだ長安に帰るほどではなかったが、しかし河南が史思明に占領されると、遂に后の所在は失われた。代宗が即位すると、徳宗が皇太子となり、詔して后の安否を探したが、探し出すことはできなかった。
  徳宗が即位すると、そこでまず詔を下して后の曽祖父の沈士衡に太保を、祖父の沈介福に太傅を、父の沈易直に太師を、弟の沈易良に司空を、沈易直の子の沈震に太尉を追贈した。一日に封ぜられた者は百二十七人となり、詔制は綾錦で縁取りを飾り、厩馬でその家に詔制を載せて賜った。沈易良の妻の崔氏は入謁し、は替えの衣服を賜い、王美人韋美人を呼び出して拝礼させ、詔して崔氏には答礼させなかった。
  建中元年(780)、前上皇太后の尊号を追冊し、含元殿で供宴のための幕を張りわたし、袞冕を着用し、出ては自ら左におり、東に向かって立ち、群臣は班位ごとに並んで、帝は奉冊を再拝し、嗚咽感涙したから、左右にいた者は皆が泣いた。ここに中書舎人の高参が議をたてまつって、「漢の文帝が即位すると、薄昭を派遣して太后を代から迎えました。今、漢の故事を採用すべきで、役人に日を選んで沈氏たちのもとに分派させて州県に行かせて意見を求めさせ、皇帝の孝行のお心を宣揚し、上天が幸いを降されることを願えば、希望に答えられるでしょう。皇太后の居場所を知ることができれば、その後に大臣を派遣して法駕を備えて迎え奉りましょう」と述べたから、帝はそこで睦王李述を奉迎使とし、工部尚書の喬琳を副使とし、昇平公主が起居に侍り、使者は全国に分派された。
  そのため宦官の高力士の娘が非常に禁中の事を知っており、女官の李真一とともにかつて后に従って遊んでいた。李真一は高氏に会い、疑って問いただすと、言っていることがはっきりとせず、しかし年齢や容貌は后に似ていた。また后はかつてに離乳食をあげようと干物を削っていて、左指を傷つけてしまい、高氏もまたかつて瓜が裂けて指が傷ついていた。この当時、宮中で后を知っている者はいなかった。ここに上陽宮に迎え、駆けつけて上聞した。帝は喜び、群臣は全員祝賀した。高力士の子はどうしようもすることもできず、詳細に事情を話したから、詔して死罪を許された。帝は側近に向かって、「私はむしろ百人もの偽者が現れようとも、一人の本物が得られればそれでよい」と言い、ここに太后と自称する者がしばしば現れたが、証拠を求めると、全員が返答に窮し、ついに帝の在世中に現れることはなかった。貞元七年(791)、詔して外高祖父の沈琳を追贈して司徒とし、徐国公に封じ、五廟を建立し、沈琳を始祖とした。詔して族子の沈房を金吾将軍とし、その祭祀を奉らせた。
  憲宗が即位すると、役人が建言して、「皇太后沈氏は世を去られてから二十七年、大行皇帝は至孝で、悲しみは極まりなく、建中年間(780-783)に詔を発せられ、使者を派遣してお迎えされようとしましたが、だいたい舟や車が行けるところで及ばなかったところはなく、歳月を重ねましたが、探す意味すらなくなってしまいました。願わくば大行皇帝の啓殯によって、群臣に詔して皇太后の喪を粛章門の内殿で発し、宦官が衣服を並べ奉って后の御座に置き、宮中で朝も夕も食事をたてまつり、天地宗廟に報告し、太皇太后の諡冊をたてまつり、神主(位牌)をつくって代宗の廟に祔り、御車を備え、褘衣(皇后の祭服)を奉り、元陵の祠室に納めましょう」と述べたから、詔して「よろしい」と述べた。


  徳宗昭徳皇后王氏は、下役人の家であったから、その系譜は失われた。が魯王となった時に納れて嬪とし、順宗を生み、もっとも寵愛・礼遇された。即位すると、淑妃に冊立され、その父の王遇に揚州大都督を追贈し、子や婚姻縁者は全員官を得た。
  貞元三年(787)、妃は長らく病み、はこのことを思って、遂に立てて皇后とした。冊礼が終わると皇后は崩じ、群臣は大宮で哭すること三日、帝は七日間朝服を脱いだ。葬ろうとするとき、后の母の郕国鄭夫人が祭奠することを願い、詔して祭物は日用で用いるものでなければ、祭ることを許した。ここに宗室・王・大臣・李晟渾瑊らは全員祭り、自ら道を発して毎日奠り、ついに殯礼に参加して終わった。靖陵に葬り、令・丞の官を設置することは他の陵と同じであった。廟を建立し、坤元の舞を奏でた。宰相の張延賞柳渾らに勅して楽曲を制作したが、帝は文を嫌って巧みではなかった。李紓は諡冊を奉って「大行皇后」としたが、帝は正しくないと言った。そこで翰林学士の呉通玄に詔して改撰させ、「咨(ああ)、后王氏」と冊した。しかし議する者がいたが、岑文本文徳皇后を冊して「皇后長孫氏」としていたから、礼することができた。永貞元年(805)、改めて崇陵に祔った。


  徳宗賢妃韋氏は、外戚の旧族である。祖父の韋濯は、定安公主を娶った。はじめ良娣となり、徳宗の貞元四年(788)、賢妃に冊立された。後宮の事で許されないことはなかったが、性格は明敏かつ淑やかで、言動はすべて規範にかなっていたから、は寵愛して重んじ、後宮ではその行いを習わない者はいなかった。帝が崩ずると、自ら上表して崇陵の園に留まった。元和四年(809)薨じた。


  順宗荘憲皇后王氏は、琅邪の人である。祖父の王難得は、功績によって名声が世間に知られた。代宗の時、皇后は良家であるから選ばれて宮中に入り、才人となった。順宗が藩王であったとき、帝は才人が幼いから、そのため順宗に賜い、のために孺人とし、憲宗を生んだ。王が東宮となると、冊立して良娣となった。皇后の性格は真心があり、宮中はその徳になびき、なびかない者はいなかった。順宗が即位したが、病はすでに重くなっており、皇后は医薬に侍って少しも怠らなかった。后に立てようとしたが、ちょうど病気が進行したから止んだ。憲宗に位を譲られると、尊んで太上皇后とした。元和元年(806)、尊号を奉って皇太后とした。
  皇后は慎重で慎み深く、深く外戚を抑え、わずかの貸し借りもなく、後宮を教え励まし、古えの后妃の風があった。元和十一年(816)崩じた。年五十四歳。遺令して、「皇太后は敬んで宰相に尋ねる。万物の理は、必ず中道に帰すという。未亡人はにわかに風疾を病んで、日に日に衰えていって、幸いにも天寿を終わろうとしている。陵寝に奉ることができ、願いは叶えられるのだから、何を悲しむことがあろうか。月日が変りゆくのは、古今誰しもが共にすることである。皇帝は三日で政務に戻り、服喪は二十七日でとくべきである。天下の吏民は、三日で止めさせなさい。宮中は朝も暮も葬礼してはならず、たやすく哭礼してはならない。婚姻・祭祀・酒肉の飲食を禁じてはならない。服喪が終われば音楽を演奏することを許せ。侍医に罪を加えてはならない。陪祀は旧制のようにせよ」と述べた。役人は諡を奉り、豊陵に葬った。


  憲宗懿安皇后郭氏は、汾陽王郭子儀の孫である。父の郭曖は、昇平公主を娶って、皇后を生んだ。憲宗が広陵王となると、美しかったから妃となった。順宗はその家に大きな功績があり、しかも母はもとより貴かったから、そのため礼遇は他の諸婦とは異なった。ここに穆宗を生んだ。元和元年(806)、貴妃に進冊した。元和八年(813)、群臣は三たび立てて皇后とするよう願ったが、は来年が子午相衝の忌があり、またこの時に後宮に寵愛の美女が多かったから、皇后が尊位を得ると、掣肘されて好き勝手にできなくなることを恐れ、そのため奏上は取りやめられた。
  穆宗が帝位を継ぐと、尊号を奉って皇太后とし、郭曖に太尉を、母に斉国大長公主を追贈し、兄の郭釗を刑部尚書に、郭鏦を金吾大将軍に抜擢した。皇太后は興慶宮に移御し、だいたい朔日・望日(十五日)・三朝(正月)に、は百官を率いて宮門に詣でて寿ぎをした。ある年、慶賀聘問して饗宴し、後宮・外戚や内外の婦人、車や騒がしく馬は嘶き、飾り立てた美女たちの声は宮中に満ちた。帝はまた豪奢で、朝も夕も供御し、美しく壮観を極めるようつとめ、大いに皇太后の意にかなった。皇太后にかつて驪山に行き、登って周囲を見渡し、景王に詔して禁軍を率いて従わせ、帝は自ら昭応県に到ってお迎えをし、帳に留まって酒飲みすること数日で帰還した。帝が崩ずると、宦官で皇太后を称制させようと謀る者がいたが、皇太后は怒って「私に武氏の真似をさせようというのか。今太子は幼いとはいえ、徳のあつい者を選んで補佐とすべきで、私にどうして外向きの政治をさせようというのか」と言った。
  敬宗が即位すると、太皇太后と号した。宝暦の事変で、太皇太后は江王を呼び寄せて皇帝の位を継がせた。これが文宗である。文宗の性格は慎み深く孝行者で、太皇太后に仕えて礼があり、おおむね新鮮な食物や全国の珍しい物を進めて、必ず宗廟・三宮太后(懿安太皇太后恭僖皇太后貞献皇太后)に献じて、その後に自らのものとした。
  武宗は狩猟や格闘技を好み、五坊の小児を選んで禁中に出入させた。他日太皇太后のご機嫌伺いし、従容として「どうやったら偉大なる天子になれるでしょうか」と尋ねると、太皇太后は「諌臣の上疏は詳細に見て、検討して用いるべきところは用いて、不可があれば、宰相に諮問しなさい。直言は拒んではならないし、偏った言葉も受け入れてはならない。忠良の者を腹心とすれば、偉大なる天子になるでしょう」と言ったから、は再拝し、戻って諌臣の上書を探してこれを閲覧すると、だいたいが狩猟の事について述べていた。これより狩猟に行くのは稀となり、小児の格闘技などに再び賜い物することはなかった。
  宣宗が即位すると、太皇太后によっては諸子にすぎなかったが、母の鄭氏は、もとは太皇太后の侍児であったから、以前の恨みがあった。の待遇や礼は次第に薄くなり、太皇太后は鬱々として心が晴れず、一・二の侍人とともに勤政楼に登り、飛び降りようとして、左右の者と一緒に落ちた。帝は聞いて不快となり、この日の夜に突然崩じた。役人は尊諡を奉り、景陵の外園に葬った。太常官の王暭は、太皇太后を景陵に合葬し、これによって神主を憲宗の室に祔ることを願ったが、帝は喜ばず、宰相の白敏中に謗らせた。王暭は「太皇太后は憲宗の東宮の元妃で、順宗に仕えて婦となり、五朝を経て天下に母となったので、異論があっても受け入れるわけにはまいりません」と言い、白敏中はまた怒り、周墀もまた責め立てたが、王暭はついに持論を曲げず、周墀は、「王暭は真っ直ぐに信じている」と言い、にわかに王暭を句容県令に貶した。懿宗の咸通年間(860-874)、王暭は帰還して礼官となり、以前の議論を申し上げ、そこで詔して太皇太后の神主を廟に祔った。


  憲宗孝明皇后鄭氏は、丹楊県の人で、あるいはもとは爾朱氏であるという。元和年間(806-820)初頭、李錡が叛くと、人相見がいて、皇后に天子を生むだろうと言った。李錡はこのことを聞いて、納れて侍人とした。李錡が誅殺されると、掖廷に没入し、懿安皇后に侍った。憲宗がお渡りになり、宣宗を生んだ。宣宗は光王となり、皇后は王太妃となった。即位すると、尊んで皇太后となった。皇太后は別のところにいることをよしとせず、そのため大明宮にて奉養し、朝に夕にと自らご機嫌伺いをした。懿宗が即位すると、皇太后を尊んで太皇太后とした。咸通三年(862)、は太皇太后を奉って三殿に宴し、翰林学士に命じて結綺楼の下に侍立させた。咸通六年(865)崩じ、西内(太極宮)に移仗し、諡冊を奉り、景陵の傍らの園に葬った。


  穆宗恭僖皇后王氏は、越州の人で、もとは役人の子であった。幼い頃にが東宮であったときに侍ることができ、敬宗を生んだ。長慶年間(821-825)、冊立して妃となった。敬宗が即位すると、尊号を奉って皇太后となり、皇太后の父の王紹卿に司空を追贈し、母の張氏に趙国夫人を追封した。文宗の時、宝暦太后と称した。大和五年(831)、宰相が建白して、太皇太后と宝暦太后は二人とも称号がまだ区別されておらず、前代の詔令があえて過失を非難することもなく、皆宮号によって称号としていたが、今宝暦太后が義安殿にいることから、義安太后とすべきであるとした。詔して裁可された。会昌五年(845)崩じ、役人は諡を奉って、光陵の東園に葬った。


  穆宗貞献皇后蕭氏は、閩(福建)の人である。穆宗が建安王となると、侍ることができ、文宗を生んだ。文宗が即位すると、尊号を奉って皇太后とした。
  それより以前、皇太后は家を去って長安に入ったが、再び家があるのかないのかを知ることがなく、ただ弟がいたのを覚えていて、帝は母のためにその地を調査させた。にわかに男子の蕭洪がいて、そこで皇太后の姉の婿の呂璋に申し述べて会わせると、皇太后は本当の弟を見つけたと言って、悲しみのあまり自分ではどうすることもできなかった。帝は蕭洪を金吾将軍に任じ、京師から出して河陽三城節度使とし、しばらくして鄜坊節度使に移した。それより以前、神策軍より節度使に出向する者は、軍中で行軍の費用を補い、節度使がそれを三倍で補償した。代金をまだ補償する前に死んだ者がいると、軍では補償金を蕭洪に補わせようとしたが、蕭洪は許さず、左軍中尉の仇士良はそのことを恨んだ。ちょうどその時、閩(福建)で男子の蕭本という者がまた皇太后の弟と称しており、仇士良がそのことを上奏すると、鄜坊から蕭洪を召喚して獄に下して取り調べをすると、蕭洪は成り代わりであることが判明し、詔して驩州に流刑として、道中で死を賜った。蕭本を抜擢して賛善大夫とし、寵により三世に遡って位を追贈され、帝は本物だと思い、十日もせずして、巨万の富を賜った。しかし皇太后には本当の弟がいたが、軟弱で自分から届け出することができず、蕭本はその家系の名前を得て偽り、仇士良が企みの中心となり、遂に疑われることはなかった。衛尉卿・金吾将軍を歴任した。ちょうどその時、福建観察使の唐扶が上言して、泉州の男子の蕭弘が自ら皇太后の弟であると申し上げたから、御史台に出向させて事実関係を取り調べ、昭義軍の劉従諌もまた上言して、蕭本とどちらが本物か見分けるよう要請したから、三司の高元裕孫簡崔郇に詔して審問し、二人とも偽りであることが判明した。蕭本を愛州に流し、蕭弘を儋州に流し、皇太后はついに弟を見つけられなかった。
  それより以前、大和年間(827-835)、懿安太后興慶宮にいて、宝暦太后義安殿にいて、皇太后は大内(大明宮)にいたから、「三宮太后」と号した。は五日ごとに安否を尋ね、歳時の慶謁を行い、複道より南内に到り、群臣および命婦は宮門に詣でて起居に付き従った。役人が四時の新物を献上すると三宮に送り、これもまた「賜」と称していたが、帝は「三宮に奉るのに、どうして「賜」というべきなのか」と言い、にわかに筆を探して「賜」字を抹消して「奉」とした。開成年間(836-840)、正月十五日夜、帝は咸泰殿に御して、大燃灯して音楽を奏でさせ、三宮太后を迎え、盃を奉って寿ぎを申し述べ、礼は家人のようにし、諸王・公主は全員付き従った。
  武宗の時、積慶殿に移り、また積慶太后と号した。大中元年(847)崩じ、今の諡を奉った。


  穆宗宣懿皇后韋氏は、先祖歴代の名前は亡失した。穆宗が太子となると、皇后は侍ることができ、武宗を生んだ。長慶年間(821-825)、冊立して妃となった。
  武宗が即位したが、妃はすでに亡くなっており、追冊して皇太后とし、尊諡を奉り、また皇太后の二人の妹を封じて夫人とした。役人が奏上して「太后の陵は別に号を定めるべきです」と述べたから、はそこで葬った園を名付けて福陵とした。その後、また宰相に「葬は光陵に一緒にするか、ただ廟に祭るのかどちらがよいか」と尋ねると、奏上して「参道は静かなのがよく、光陵は山につくって土を固めること、二十年になろうとしているので、今更掘ることはできません。福陵を築いてもう場所があるのですから、結局は完成させるべきです。臣らは神主(位牌)を奉って穆宗の廟に祭るのがよいと思います」と述べたから、帝はそこで詔を下して、「朕は誕生日のため太皇太后に拝礼すると、朕に向かって、「天子の孝は、継承が続くことより大なることはない」と言われた。今、穆宗皇帝は合祀の位を虚しくされているが、宣懿太后は嗣君である私を生んだのだから、廟に祭るべきである」と述べ、これより皇太后を奉って穆宗の室と合祭した。


  尚宮の宋若昭は、貝州清陽県の人で、代々儒学によって世間に知られた。父の宋廷芬は、文章をよくし、五人の娘を生み、全員が聡明で、文章をよくした。長女は宋若莘で、次は宋若昭・宋若倫・宋若憲・宋若荀である。宋若莘・宋若昭の文章は最も高名であった。全員の性格は潔白で、香水や化粧をいやしみ、流行を追わず、学問によって家の名声をあげようと願い、家もまた田舎の凡庸な名族と婚姻することを願わず、その学問を許した。宋若莘は妹たちを教えることは厳しい先生のようで、『女論語』十篇を著し、大抵は論語に準じ、韋逞の母の宣文君宋氏を孔子の代わりとし、曹大家(班昭)らを顔淵・冉伯牛の代わりとし、明婦の道のなすべきところを推進した。宋若昭もまた伝をつくって注釈とした。
  貞元年間(785-805)、昭義節度使の李抱真がその才能を上表し、徳宗は呼び寄せて禁中に入れ、文章を試験し、あわせて経史の大略を尋ね、はお褒めの言葉を賜り、全員を宮中に留めた。帝は詩をよくし、侍臣と唱和するごとに、五人は全員それに預かり、概ね進御すれば、今まで賞を受けなかったことはなかった。またその風操は高く、愛妾のような待遇にせず、学士と呼んだ。そのを抜擢して饒州司馬・習芸館内教とし、第一級の邸宅を賜い、穀や帛を賜った。
  元和年間(806-820)末、宋若莘は卒し、河内郡君を追贈された。貞元七年(791)より、宮中の書籍は、宋若莘に詔して総領させており、穆宗は宋若昭が最も通暁熟達しているから、尚宮に任じ、宋若莘の仕事を継がせた。憲宗・穆宗・敬宗の三朝を経て、皆に先生と呼ばれ、后妃は諸王・公主とともに率先して師の礼によって待遇した。宝暦年間(825-827)初頭に卒し、梁国夫人を追贈され、儀仗の行列によって葬儀が行われた。
  宋若憲が代わって宮中の図書を司り、文宗は学問を尊び、宋若憲が文章をよくするから、専ら論議し、非常に礼を尽くした。大和年間(827-835)、李訓鄭注が政権を握り、宰相の李宗閔を憎み、駙馬都尉の沈𥫃が多額の賄賂を宋若憲に贈って宰相とするよう求めていると讒言した。は怒り、宋若憲を宮中外の邸宅に幽閉し、死を賜い、家族を嶺南に移した。李訓・鄭注が失脚すると、帝はそれが讒言であったことを悟り、深く後悔した。
  宋若倫・宋若荀は早くに卒した。宋廷芬の息子はただ一人愚かで教えることができず、ただの民として一生を終えた。


  敬宗貴妃郭氏は、右威衛将軍の郭義の子で、郭義がどこの人であるかの記録は失われた。長慶年間(821-825)に、容姿によって選ばれて太子宮に入った。太子が即位すると、才人となり、晋王李普を生んだ。は早くに子を得たから、貞淑さと美貌は後宮の筆頭で、そのため寵愛は他とは異なった。翌年、貴妃となり、郭義に礼部尚書を追贈され、兄の郭環は少府少監となり、第一級の邸宅を賜った。文宗が即位すると、晋王を自分の子のように愛し、妃への待遇は衰えなかった。その薨年の記録は失われた。


  武宗賢妃王氏は、邯鄲の人で、その家系は失われている。年十三歳で、歌舞をよくし、宮中に入ることができた。穆宗潁王に賜った。性格は頭の回転がよく賢かった。開成年間(836-840)末、潁王は帝位を継いだが、妃は密かに計画を助け、そのため昇進して才人となり、遂に寵愛を得た。姿は細く背が高かったから、非常にに似ていた。苑中で狩猟をするごとに、才人は必ず従い、袍で騎乗し、服装は非常に光り輝き、ほぼ至尊と同じであり、一緒に馳せて出入りすると、見る者はどちらが帝であるかわからなかった。帝は皇后に冊立したいと思ったが、宰相の李徳裕が、「才人に子がおりませんし、また家ももとより名家ではありませんから、天下を欺いたと議せらえれるのではないかと恐れています」と述べたから、沙汰止みとなった。
  はしばしば方士の説に惑わされ、薬を長年服用しようとし、後に次第に病気となっていった。才人はことあるごとに親しい人に「陛下は毎日燎丹を服用し、私は不死になろうとしていると言っています。肌艶は消え失せ、私は一人心配しています」と言っていた。にわかに病状が進行して、才人は側に侍り、帝はじっと見て「私は息も絶え絶えで、心はすりきれた。お前とはお別れだな」と言った。「陛下の大いなる福はまだ尽きてはいません。どうして不祥を語るのですか」と答えた。帝は「本当に私の言う通りだったら、どうする」と言うと、「陛下が御万歳(崩御)の後、私は殉死いたします」と答えたが、帝は何も言わなかった。重病となると、才人はすべて常に貯えてきた物を宮中の人々に贈り、帝が崩ずるのを看取ると、ただちに幄下で自ら縊死した。当時の嬪媛は王才人が常にお上を独占していたことを妬んでいたが、全員が才人を義とし、このために感動して慟哭した。宣宗が即位すると、その節をお褒めになり、賢妃を追贈し、端陵の兆域に葬った。


  宣宗元昭皇后鼂氏は、その世系は不詳である。幼くして邸に入り、最も寵愛された。即位すると、美人となった。大中年間(847-860)薨じ、昭容を追贈され、翰林学士の蕭寘に詔してその墓の銘文をつくらせ、詳細に鄆王万寿公主を生むと記載した。後に夔王昭王ら五王が大明宮の内院にいて、鄆王一人が宮中を出た。即位し、これが懿宗である。外部の人間は非常に帝が年長ではなかったことを疑った。蕭寘は銘文を取り出して外廷に示し、そこで理解できた。は昭容を追冊して皇太后とし、尊諡を奉り、詔して皇太后の二等以上の親族の全員に官位を授け、宣宗の廟に神主(位牌)を配し、陵をつくって慶陵とし、宮・寝を設置した。


  懿宗恵安皇后王氏もまた、どこから来たのかの記録が失われた。咸通年間(860-874)、冊立して貴妃となり、普王を生んだ。咸通七年(866)薨。咸通十四年(873)、普王が即位し、これが僖宗となった。皇太后に追尊し、冊立して諡号を奉り、神主(位牌)を懿宗の廟に祀り、そこでその園を寿陵とした。皇太后の一族は喪服で奉り、は全員に官位を授けた。


  懿宗淑妃郭氏は、幼くして鄆王の邸宅に入った。宣宗の在位中、年齢が老いていき、悪人が立太子の事を申し上げた。鄆王は嫡長子であったから外宮に居住し、心は常に憂慮した。妃は左右を護侍し、日常を安心させて慰めたから、ついに無事に過ごすことができた。女子を生んだが、まだ言葉を話すことができないのに、突然「得活(生きられる)」と言い、鄆王は驚いて不思議なことだと思った。即位すると、妃を美人とし、昇進して淑妃となった。
  娘は同昌公主となり、韋保衡に降嫁した。韋保衡は内宅にいて、淑妃は公主がいるのを理由として、出入りして娯飲を禁じなかったが、この当時、韋保衡と密通しているのではないかと喧しく言われたが、その証拠をつかむことはできなかった。僖宗が即位すると、韋保衡は他の罪によって告発され、また前の悪事を蒸し返され、ついに貶地で死んだ。淑妃はそれでも禁中に居続けた。黄巣の乱で、天子は蜀に向けて出発することが突然であったから、淑妃は従うこともできず、遂に村落に流落し、どこで死んだのかわからなかった。


  懿宗恭憲皇后王氏は、その出身は微賎の出であった。咸通年間(860-874)、後宮に入り、寵愛を得て、寿王を生んで卒した。寿王は即位し、これが昭宗となり、皇太后を追号し、諡を奉り、神主(位牌)を懿宗の室に祀り、そのため葬って安陵と号し、皇太后の弟の王瓌を呼び寄せて官位を授けた。
  景福年間(892-893)初頭、王瓌は官位や地位が次第に重くなり、もまた外戚であるから頼ったが、中尉の楊復恭に妬まれ、上表して黔南節度使となった。王瓌は鎮所に赴任の途中、吉柏江に立ち寄ったが、楊復恭が密かに楊守亮を唆してその一家を皆殺しにした。


  昭宗皇后何氏は、梓州の人で、世系一族は世間にあらわれなかった。が寿王であったとき、皇后は寵愛を得た。しとやかで美しく、智慧が多く、厚遇は非常にあつかった。即位すると、淑妃となった。華州への巡狩に従い、詔して皇后に冊立した。
  光化三年(900)、は狩猟して夜に帰り、皇后は徳王を派遣して邸宅に帰ったが、劉季述に遭遇し、徳王を紫廷院に留めた。翌日、劉季述らは徳王を擁して兵を並べて百官を召喚し、帝を脅して譲位させた。皇后は賊臣が天子に危害を加えるのではないかと恐れ、そこで印璽を取って劉季述に授け、帝とともに同じく東宮に幽閉された。賊が平定されると、復位した。
  天復年間(901-904)、に従って鳳翔に留まり、李茂貞は帝に軍を労うよう要請したから、やむを得ず、皇后は帝に従って南楼に御した。ちょうどその時、朱全忠が帝の東遷を迫り、皇后は帝に向かって、「この後は大家は夫婦ともども委身を賊手に委ねるのです」と言い、涙が数行流れ落ちた。帝はさまようことすでにしばしばであり、権威はほとんど失われ、左右の者は反逆者か愚か者で、皇后は食事の時も近侍し、一時も側を離れることはなかった。洛陽に到着すると、帝は心配し、呆然として皇后と互いに死に別れする所と思った。後に弑逆された。
  哀帝が即位すると、尊んで皇太后となったが、宮中ではあえて哭さず、移って積善宮に居し、積善太后と号した。は天下を禅譲しようとし、皇太后もまた殺害された。それより以前、蒋玄暉朱全忠のために九錫を迎えようと、積善宮に入って諭したが、皇太后はどうすることもできず、蒋玄暉に会って涙を流して哀願し、母子の命を託した。宣徽使の趙殷衡が朱全忠に謗って、「蒋玄暉らは石像に銘文を刻んで積善宮に埋めて、唐を復興しようとしています」と言うと、朱全忠は怒り、ついに人を派遣して皇太后を縊殺し、醜名を加え、皇太后を廃して庶人とした。


   前巻     『新唐書』    次巻
巻七十六 列伝第一 『新唐書』巻七十七 列伝第二 巻七十八 列伝第三

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2025年01月18日 12:26
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。