228年
太和二年(魏)
皇帝
曹叡(魏)
皇后
毛氏(明悼毛皇后・河內人)
三公
太傅:鍾繇
太尉:華歆(前司徒)
司徒:王朗(前司空)→(死亡)
司空:陳群(前鎮軍大將軍)
司徒:王朗(前司空)→(死亡)
司空:陳群(前鎮軍大將軍)
九卿
その他の要職
大司馬:曹休(前征東大將軍)→(死亡)
大将軍:曹真(前中軍大將軍)
驃騎大將軍:司馬懿(前撫軍大將軍)
大将軍:曹真(前中軍大將軍)
驃騎大將軍:司馬懿(前撫軍大將軍)
地方官
主な事件
- 二年春正月、司馬懿は新城を攻め破る。孟達を斬り其首を都に送る。新城の内、上庸、武陵、巫縣を分けて上庸郡と為し、錫県を錫郡と為す《三国志魏書明帝紀》司馬懿は孟達の將の李輔と孟達の甥の鄧賢を誘った。賢等は門を開き軍を招き入れる。孟達は3ヶ月と6日囲まれ、敗れる。その首は洛陽の四達之衢で焚かれる《三国志魏書明帝紀に引く魏略》
- 蜀大將の諸葛亮が天水、南安、安定三郡を攻め、吏民は之に応じて叛く。大將軍の曹真を都督として關右に遣わし、並んで右將軍張郃の軍を進めて街亭を討つ。大いに破る。諸葛亮は敗走する。三郡を平らぐ《三国志魏書明帝紀》
- 丁未,長安に行幸する《三国志魏書明帝紀》
- 夏四月丁酉、洛陽宮に還る。死罪以下の囚人を赦免した《三国志魏書明帝紀》
- 四月乙巳,諸葛亮討伐の論功行賞を行う。封爵増邑に各々格差があった《三国志魏書明帝紀》
- 五月、大旱魃《三国志魏書明帝紀》
- 六月、詔に曰う「尊儒貴学。王教の本だ。博士を選びその才に任せ常に側に置くだろう。郡國に申し渡せ。經學の士を挙げよ」《三国志魏書明帝紀》
- 秋九月、曹休は諸軍を率いて皖に至り、吳將の陸議と石亭に於いて戦う。連敗す《三国志魏書明帝紀》
- 乙酉,皇子の曹穆を立てて繁陽王と為す《三国志魏書明帝紀》
- 庚子、大司馬の曹休が薨ず《三国志魏書明帝紀》
- 冬十月、詔して公卿近臣は良將各一人を挙げよ《三国志魏書明帝紀》
- 十一月、司徒の王朗が薨ず《三国志魏書明帝紀》
- 十二月、諸葛亮が陳倉を囲む。曹真は將軍の費曜等を遣わして之を拒む《三国志魏書明帝紀》これより先、將軍の郝昭に陳倉城を築かせる。諸葛亮は郝昭と同鄉の靳詳に城外から何度も説得させるが聴かず。このとき城兵は合せて千余人。諸葛亮は数万。東に救援を求めることも出来ず。諸葛亮が兵を進めて雲梯・衝車を立てて城に臨むと火箭をもって逆射し雲梯、梯、梯上人を皆燒死させた。又繩を以て連石磨を衝車に落し衝車を折る。さらに井闌百尺城中に射込む。土で丸填塹を造り、城をよじ上ろうとした。郝昭は又內側に重牆を築く。諸葛亮は又突を穿って城裏に出んと欲す。郝昭は又城內に地を穿ち橫に広げた。昼夜相攻拒こと二十餘日。諸葛亮は計無く、救援が至ったので引き退いた。詔してよく守備したことを嘉みし、列侯を賜う。及都に還り、帝は引見し慰勞する《三国志魏書明帝紀に引く魏略》
- 十二月、遼東太守公孫恭の兄の子である公孫淵が公孫恭の位を奪う。公孫淵は遼東太守を領す《三国志魏書明帝紀》
誕生者
死没者
曹休:大司馬