252年
嘉平四年(魏)
皇帝
曹芳(魏)
皇后
(空位)→張氏
皇太子
三公
太傅:(空位)
太尉:司馬孚(前司空)
司徒:高柔(前司空)
司空:鄭沖(前光祿勳)
司徒:高柔(前司空)
司空:鄭沖(前光祿勳)
九卿
録尚書事:司馬師(撫軍大將軍→大将軍)
光祿勳:
光祿勳:
その他の要職
大将軍:→司馬師(前撫軍大將軍)
車騎將軍:郭淮(前征西將軍)
驃騎將軍:?
衛将軍:
車騎將軍:郭淮(前征西將軍)
驃騎將軍:?
衛将軍:
地方官
雍州刺史:陳泰
主な事件
- 四年春正月癸卯、撫軍大將軍の司馬師を大將軍と為す《三国志魏書三少帝紀》
- 二月、皇后に張氏を立てる。大赦。《三国志魏書三少帝紀》
- 夏五月、二匹の魚が武庫の屋上に見られた。《三国志魏書三少帝紀》
- 冬十一月、詔して、征南大將軍の王昶、征東將軍の胡遵、鎮南將軍の母*丘儉等が吳を征討する。《三国志魏書三少帝紀》初め孫權は東興に隄を築いて巢湖をせき止め、後に淮南を征討した。壞れても修復しなかった。是歲、諸葛恪は軍を率いて隄の左右を山と結び両側に城を築いた。全端と留略に之を守らせ、軍を還えした。諸葛誕は司馬師に曰わく「文舒に江陵を逼迫させ、仲恭を武昌に向かわせ、吳の上流をくいとめた後に、精鋭兵で兩城を攻め、救援が至れば大いに捕獲すべきです」司馬師は之に従った。《三国志魏書三少帝紀に引く漢晉春秋》
- 十二月、吳の大將軍である諸葛恪が拒戰し大敗する。利在らず還す。《三国志魏書三少帝紀》母*丘儉と王昶は東軍が敗れたと聞き、各々屯を焼いて退却する。朝議は諸將の罪を問うとしたが司馬師は「私が公休の言を用いなかったからだ。私に誤りがあり諸將にどんな罪があるのか?」と言って悉く許した。時に司馬昭和が監軍として諸軍を統率していたので、唯司馬昭の爵を削るに留めた。是歲、雍州刺史の陳泰が并州と力を合わせ胡を討伐したいと願い出た。司馬師は之に従った。いまだ集合する前に、雁門、新興の二郡は遠く役務に駆り出されるのを思い造反する。司馬師はまた朝士に謝った。「私の過ちである。玄伯之責ではない!」これにおいて魏の人は喜び、報いんとおもうようになった。《三国志魏書三少帝紀に引く漢晉春秋》