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220年

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soutoku

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220年

建安二十五年→延康元年(漢)/黄初元年(魏)


皇帝

劉協(漢献帝)→廃位(山陽公)
曹丕(魏文帝)

皇后

曹節(曹操の娘)→廃位


三公(漢)

魏王:曹操→曹丕→(空位)

丞相:曹操→曹丕→(空位)  
相國:華歆(前御史大夫)  
御史大夫:華歆→王朗(前大理)/張音  
太尉:賈[言羽](前大中大夫)  


その他の要職(漢)

太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→

大将軍:夏侯惇(前前将軍・220)→(死去)
驃騎将軍:?
車騎将軍:?
衛将軍:?

地方官

荊州牧:孫権


主な事件

  • 建安二十五年春正月庚子(1月23日),魏王の曹操が薨去した。曹操の子の曹丕が御位を継いだ。《後漢書孝献帝紀》使持節御史大夫の華歆は丞相の印綬、魏王の璽紱を奉って曹丕に授けた。卞王后を尊んで王太后とした。《三国志魏書文帝紀》
    魏志に曰く曹操は享年66歳。
  • 二月丁未朔(2月1日)、日食があった。《後漢書孝献帝紀》
  • 二月已卯,前将軍の夏侯惇を大将軍と為す。濊貊、扶餘の単于、焉耆、于闐の王が皆奉獻の使者が来る《三国志魏書文帝紀》
  • 二月丙戌、史官は重、黎、羲、和の職務を修め、欽若昊天、歷象日月星辰をもって天を奉る時、奏上するよう命じた。《三国志魏書文帝紀》
  • 二月丁亥、故尚書僕射の毛玠、奉常の王脩、涼茂、郎中令の袁渙、少府の謝奐、万潜、中尉の徐奕、国淵等は、皆朝廷に忠直で仁義を踏履したが、早くに世を去った。子孫を愍み、その男子を皆郎中と為す《三国志魏書文帝紀》
  • 二月壬戌(2月16日)、大中大夫の賈[言羽]を太尉に、御史大夫の華歆を相國に、大理の王朗を御史大夫とする。散騎常侍、侍郎を各四人置く。宦人は諸署令を過ぎる官を得られないとし、金策に著すよう令し、石室に蔵した《三国志魏書文帝紀》
  • 三月、改元し、延康と為す。《後漢書孝献帝紀》
  • 三月庚戌、魏書の庚戌の令に言う、関所、津は通商の為にあり、池苑は災荒から守るためにある。重税を設けるのを禁ずる。民の便にならないためである。また池に網を張るのを禁じるのを除く。関所、津の税を軽くし、皆10分の一に戻せ。《三国志魏書文帝紀》
  • 三月辛亥、諸侯王、將相に粟萬斛、帛千匹を下賜する。金銀には各々格差があった。使者郡國に使者を循行させ、道理に反して暴虐を働く者のその罪を挙げよ《三国志魏書文帝紀》
  • 夏四月丁巳、饒安県で白い雉を見たと言い伝わった。
    注に引く魏書に曰く饒安県は田租を、勃海郡の百戶に牛酒を賜り、大いに三日の間宴を催した。太常は宗廟に太牢を祀った《三国志魏書文帝紀》
  • 四月庚午(4月25日)、大将軍夏侯惇が薨ず《三国志魏書文帝紀》王は素服を着て[業β]の東城門に御幸し、發哀した《三国志魏書文帝紀に引く魏書》
  • 五月戊寅(5月3日)、献帝は王に皇祖の太尉(曹嵩)を太王とし、夫人の丁氏を太王后と追尊するよう命じた。王子の曹叡を武德侯に封じた。《三国志魏書文帝紀》侍中の鄭称を武德侯の傅と為す《三国志魏書文帝紀に引く魏略》曹叡はこのとき年十五《三国志魏書明帝紀》
  • 五月、馮翊の山賊鄭甘と王照が降伏し、皆列侯に封じられた。《三国志魏書文帝紀》
  • 酒泉の黃華、張掖の張進等が各々太守を殺し叛く。金城太守の蘇則が討伐し、張進を斬り、黃華(後に兌*州刺史となる)を降す。《三国志魏書文帝紀》
  • 六月辛亥(6月7日)、東郊に兵を集合させる。《三国志魏書文帝紀》
  • 六月庚午(6月26日)、遂に南征に動く。《三国志魏書文帝紀》王が出征の際、度支中郎將で新平の霍性が上疏して諫めた。上疏を見た曹丕は怒って之を殺す。しかし後で悔やんで追わせたが及ばなかった。《三国志魏書文帝紀に引く魏略》
  • 秋七月庚辰(7月6日)、令して「百官有司はその職務に務め規範に則って諫め、将軍は陳軍法を詳らかにし、朝廷の士は制度を明らかにし、牧太守は政事について申し述べ、学者は六藝を考察せよ。私は兼覽するだろう」。《三国志魏書文帝紀》
  • 孫権が奉獻の使者を遣わし、蜀の将軍の孟達は兵を率いて降伏してきたので新城太守を領させた。武都の氐の王の楊僕が人民を率いて内属し漢陽郡に居した。《三国志魏書文帝紀》
  • 七月甲午(7月20日)、軍は[言焦]に宿営し、六軍及[言焦]の父老・百姓は邑の東で大いに饗宴する。令して[言焦]は霸王の邦にして真人を出だした。[言焦]の租稅を二年免じる。三老吏民は寿ぎ、日が暮れて止んだ。《三国志魏書文帝紀》
  • 七月丙申(7月22日)、魏王は親しく[言焦]陵を祀った。《三国志魏書文帝紀》
  • 八月、石邑県で鳳皇が集ったと報告があった。《三国志魏書文帝紀》
  • 冬十月癸卯、令して曰く「諸將の征伐に従軍し士卒の死亡者でいまだ収容されていないのを甚だ哀しむ。よってその郡国に告げ、小棺を支給し収め弔い、家に送って官は祀りを設けるように。」《三国志魏書文帝紀》
  • 丙午、行軍は曲リに至った。《三国志魏書文帝紀》



  • 冬十月乙卯、皇帝の劉協は遜位し、魏王の曹丕が天子となった。劉協を奉って山陽公と為し、邑一万戸、位は諸侯王の上にあり、奏上の際には臣と称さずともよく、受詔の際の拝せずともよい、また天子の車服、天地を祀ることを許され,宗廟、祖、臘はすべて漢制の如くであった。都は山陽の濁鹿城である。王に封じられていた四皇子は、皆降って列侯と為す。《後漢書孝献帝紀》公卿士人を召して、高廟を祀って告げ、兼御史大夫張音に璽綬を奉らせ冊をもって禅位を告げさせた。繁陽に壇を築き、庚午、曹丕は壇に登って帝位を受けた。百官は陪席した。延康を黃初と改元した。大赦を下した。《三国志魏書文帝紀》特集:禅譲




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