264年
景元五年→咸煕元年(魏)
皇帝
曹奐(字景明・魏常道鄉公)
皇后
(空位)→卞氏
皇太子
三公(魏)
晉王:→司馬昭(相國)
晋公:司馬昭→(廃止)
晋公:司馬昭→(廃止)
相國:司馬昭(晋公→晉王)
太傅:司馬孚(前太尉)
太保:鄭沖(前司徒)
太傅:司馬孚(前太尉)
太保:鄭沖(前司徒)
太尉:鄧艾(前征西將軍)→王祥(前司空)
司徒:鍾会(前鎮西将軍)→何曾(前征北將軍)
司空:王祥(前司隸校尉)→荀顗(前尚書左僕射)
司徒:鍾会(前鎮西将軍)→何曾(前征北將軍)
司空:王祥(前司隸校尉)→荀顗(前尚書左僕射)
その他の要職(魏)
錄尚書事:司馬昭(大将軍)
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大将軍:司馬昭(大都督を加号)
驃騎将軍:王昶?→司馬望(前衛將軍)
車騎将軍:孫壹?
衛将軍:司馬望→
驃騎将軍:王昶?→司馬望(前衛將軍)
車騎将軍:孫壹?
衛将軍:司馬望→
地方官
司隸校尉:
冀州牧:
幽州牧:
并州牧:
青州牧:
徐州牧:
兌*州牧:
揚州刺史:?
雍州刺史:諸葛緒
交州牧:孫壹?
梁州:
冀州牧:
幽州牧:
并州牧:
青州牧:
徐州牧:
兌*州牧:
揚州刺史:?
雍州刺史:諸葛緒
交州牧:孫壹?
梁州:
主な事件
- 咸熙元年春正月壬戌、檻車で鄧艾を徵する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 正月甲子、長安に行幸する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 正月壬申、使者を使わして璧幣をもって華山を祀る。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 正月、鍾會が蜀で反乱を起こすが、兵に討たれる。鄧艾もまた殺される《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 二月辛卯、益州の地にあるものを特に赦す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 二月庚申、明元郭后を葬送する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 三月丁丑、司空の王祥を太尉に、征北將軍の何曾を司徒に、尚書左僕射の荀顗を司空と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 三月己卯、晉公の爵を進めて王と為す。十郡に封じ、前と合せて二十とす。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 三月丁亥、劉禪を安樂公に封じる《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》景元五年三月丁亥、後主は家を挙げて東遷し、洛陽に至る。策命をもって太常を遣わし、劉禪を安樂縣公と為す。食邑萬戶、絹萬匹、奴婢百人、諸々を賜う。子孫は三都尉と為し侯に封じられた者は五十餘人。尚書令の樊建、侍中の張紹、光祿大夫の譙周、祕書令の郤正、殿中督の張通は皆列侯に封じられた。なお劉禅は晋の泰始七年に洛陽で薨じた。《三国志蜀書後主伝》諡は思公。子の劉恂が嗣いだ。《三国志蜀書後主伝に引く蜀記》
- 夏五月庚申、相國晉王が五等爵を復するよう奏上する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 五月甲戌、改年する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 五月癸未、舞陽宣文侯(司馬懿)を晉の宣王に、舞陽忠武侯(司馬師)を晉の景王に追命する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 六月、鎮西將軍の瓘は雍州兵が成都縣で獲た璧玉印各一を上申する。印には「成信」に似た字が見えた。周の成王の歸禾之義にちなんで百官に宣示し、相國府に収めた《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 初め、蜀を平定した直後、吳は永安によって攻めてきたので、荊・豫の諸軍を掎角の形勢で赴かせ救った。七月、呉の賊は皆遁退した《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 八月庚寅、中撫軍の司馬炎に命じて相國の副と為し、昔魯公が拜した儀礼にならった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 八月癸巳、詔して曰わく「前に逆臣の鍾會が反亂を企てたとき、相國左司馬の夏侯和、騎士曹屬の朱撫は成都にあって、中領軍司馬の賈輔、郎中の羊琇は各々鍾會の軍事に参与していたが、夏侯和、羊琇、朱撫は皆鍾會の凶言を拒み、危機に臨んで顧ず、軍を指し示した。輔語散將の王起は兵士を説いて有利な形勢を作った。これらの忠義を顕彰し広く知らしめる。夏侯和・賈輔の爵を進めて鄉侯と為し、羊琇・朱撫の爵位を關內侯と為す。王起を部曲の將と為す」《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 八月癸卯,衛將軍の司馬望を驃騎將軍と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 九月戊午、中撫軍の司馬炎を撫軍大將軍と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 九月辛未、詔して曰わく「吳賊の暴虐は極まりを知らない。孫休は鄧句を遣わして交阯太守に命じてその民を鎖につないで連行し兵に仕立て上げた。吳將の呂興は民心が憤怒したのを利し、また王師によって巴蜀が平定されたのを受けて即豪傑を糾合し鄧句等を誅殺し、太守長吏を駆逐して吏民を慰撫し、國命を待っている。九真郡と日南郡では呂興が逆を去り順に従ったとして応じようとしている。呂興は日南の州郡に書を届けて大計を示し、兵を合浦に進めて禍福を告げた。また都尉の唐譜等を遣わして進乘縣に留め、南中都督護軍の霍弋を通して上表し、交阯の將吏もまた各々上表してきた。曰く「時宜に合って呂興を督交阯諸軍事・上大將軍・定安縣侯と為しました。賜褒を乞い、辺境の荒廃を慰撫してください」と。今呂興を使持節都督交州諸軍事・南中大將軍と為し、定安縣侯に封じる」策命が至る前に興は下人に殺された《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 冬十月丁亥、詔して曰わく「今交阯の呉の將呂興は三郡を統べて万里の彼方から帰順している。武陵邑侯の相嚴等は五縣を糾合して臣従を請うている。豫章廬陵の山民は挙兵して吳に背き助北將軍と號している。また孫休は病死し、主帥が改まることで國內が乖離し人の心に動揺があるという。呉將の施績は賊の名臣だが、懷疑自猜し、嫌悪されている。以前より今に及ぶまで滅亡の兆しがここまで甚だしかったことはない。もし六軍を動員し南に長江を臨めば、吳會之域は必ず老幼を助けて王師を迎えるであろう。必然だ。しかしながら大動員をすればなお勞費がある。威德を告喻し仁信を開示して順を知らしめ附和同の利を示そう。相國參軍事の徐紹、水曹掾の孫彧は昔壽春にあって虜獲された者たちだが、徐紹は本呉の南陵督、孫彧は孫權の支屬で忠良である。徐紹を南に還えし、孫彧を副と為す。國命を宣揚し吳の人を告喻せよ。徐紹は散騎常侍を兼ねさせ、奉車都尉を加え、都亭侯に封じる。孫彧は給事黃門侍郎を兼ねさせ、爵は關內侯を与える。徐紹等が賜わった妾及男女家人で我が国にあるものは悉く随伴することを許す。國恩明らかをもって必ず還ることは出来ないだろうが、廣大に信を示せ」《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 十月丙午、撫軍大將軍で新昌鄉侯の司馬炎を晉の世子とするよう命じた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 是歲、屯田官を廃止し政役を等しくした。諸典農は皆太守と為し、都尉は皆令長と為す。勸募蜀の人で內移したい者を募り、廩二年を給った。また二十歲の賦役を除いた。安彌・福祿縣で嘉禾が生えたと伝えてきた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
- 正月十五日、魏の鍾会は成都に入った《三国志魏書鍾会伝》
- 正月十六日、鍾会は成都の政堂において太后の喪を発し、太后の遺詔を偽作して司馬昭を廃すよう申されたと宣言した《三国志魏書鍾会伝》
- 正月十八日、鍾会は胡淵率いる胡烈の軍兵に攻められ、姜維とともに亡くなった《三国志魏書鍾会伝》
誕生者
死没者
鍾会(魏の相国鍾ヨウの子・戦死・享年40歳)
姜維(蜀の大将軍・戦死)
姜維(蜀の大将軍・戦死)