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197年

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soutoku

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197年

建安二年(漢)

皇帝

劉協(漢献帝)
袁術(仲皇帝)

皇后

伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)

皇太子

(空位)

三公(漢)

太傅:(空席)

太尉:(空席)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:曹操(196~209)

その他の要職(漢)

録尚書事:
■曹操(司隸校尉・196~?)

太常:
光禄勳:→
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→


大司馬:張楊(前安国将軍・196~198)
大将軍:韓暹?/袁紹(自称・197~202)
驃騎将軍:?
車騎将軍:楊奉(196~)
行車騎将軍:曹操?
衛将軍:董承

地方官

司隸校尉:曹操(司空・行車騎将軍・196~)
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:?
冀州牧:袁紹(191~202)
兗州牧:曹操?(前東郡太守)
荊州牧:劉表(192~208)


主な事件

  • 二年春正月、曹操は宛に至り、張繡は降伏するが後悔し、復反く。曹操は戰って敗れ流矢にあたる。長子曹昂、弟の子である曹安民は害に遭う。曹操は兵を引き舞陰に還る。張繡は騎兵を率いて来攻するが擊破される。張繡は穰に走り劉表と合流した。曹操は諸將に私は張繡等が降伏したとき人質を取らなかったばかりに失敗した。私は敗因を知った。諸卿見ていてくれ。今後また敗れることはないだろう」遂に許へ還る。《三国志魏書武帝紀操》 曹操の乘馬は絕影という。流矢にあたって頰及足に傷を負う。また曹操も右臂を傷つく。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》曹昂は騎馬に乗れなくなり馬を曹操に進呈する。曹操は故に免れた。曹昂は害される。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》舊制では三公が兵を領し謁見する際は、皆首の前で戟を交えた。曹操が張繡を討つため天子に謁見した時復古された。曹操は以後朝見することはなかった。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》
  • 曹操が舞陰から還えると、南陽、章陵の諸縣はまた張繡について離反した。曹操は曹洪を遣わして擊つも利あらず、葉に還り駐屯する。張繡と劉表は数度侵略してきた。《三国志魏書武帝紀操》
  • 建安二年春、袁術が自ら天子を称する。《後漢書孝献帝紀》袁術は淮南で稱帝する。人を遣わして呂布に告げたが呂布は使者を捕らえて其書を上奏した。術は怒り布を攻める。布は破れる。《三国志魏書武帝紀操》
  • 三月、袁紹は自ら大将軍と為す。#2《後漢書孝献帝紀》
  • 夏五月、蝗。《後漢書孝献帝紀》
  • 秋九月、漢水が溢れる《後漢書孝献帝紀》
  • 秋九月、袁術は陳に侵入し、曹操は東征する。袁術は曹操自らが来たと聞いて軍を棄てて逃走する。其將である橋蕤、李豊、梁綱、樂就を留める。曹操は蕤等を撃破し皆斬る。袁術は淮河を渡って逃げ、曹操は許に帰還する。《三国志魏書武帝紀操》袁術は陳王劉寵を殺す。#1《後漢書孝献帝紀》
  • 冬十一月、曹操は自ら南征し宛に至る。劉表の將である鄧濟は湖陽に拠っていたが之を攻め破る。鄧濟を生け捕る。湖陽は降伏した。舞陰を攻め、之を下す。《三国志魏書武帝紀操》淯水に臨み、亡き將士を祭る。流涕し、皆感慟。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》
  • この歳、飢饉。江淮の間に民相食う惨状。孫策が使いを遣わし奉献する《後漢書孝献帝紀》



誕生者




死没者




*袁術は陳に侵入した際、陳王劉寵を殺したものと思われる。
*この前年、三国志魏書武帝紀には十月頃曹操が大將軍を袁紹に譲った記述がある。詳細は不明。




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