虚ろな器 ◆LKgHrWJock
「姉さんは僕が守るから、だから……」
デニムが次に何と言うのか、私は既に知っている。
何故知っているのかは分からない、何故知っているのかと疑問に思うことすらない。
私の心を形作る想いは一つ。デニムと離れたくない、ただそれだけ。
けれども、全てを言い終えたら、デニムはどこかに行ってしまう。
だから私は彼の言葉を遮った。続きを言わせないために。彼を手放さないために。
「待って、デニム。訊いておきたいことがあるの。貴方は私のことをもう名前では呼んでくれないの?」
言いながら、宙に向けて手を伸ばす。そして私を抱きしめるデニムの背に腕を回す。
恋人同士がするような形で私はデニムに触れることができる、それをデニムが受け入れてくれる、
それがただ嬉しくて、私は自然と笑顔になる。しかしデニムは笑わない。怪訝そうな顔で私に問う。
「名前……?」
「そうよ。二人きりなんだから名前で呼んで欲しいって頼んだときには応じてくれたのに」
「ああ、そうだったね。姉さんが望むのなら、僕はいつでもそうするよ」
「姉さんが望むのなら、ね。つまり、貴方は私を名前では呼びたくないってことかしら?」
「いいや、そんなことはない。僕だってそうしたいよ、ベルサリア・オヴェリス女王陛下」
少し困ったような、少し寂しそうな、いつもどおりの淡い笑顔で、デニムは穏やかにそう言った。
転落する。デニムを抱きしめ、そして抱きしめられたまま、心だけが落ちてゆく。
「デニム、悪ふざけはやめて。二度とそんな堅苦しく呼ばないでと言ったはずよ」
「何を言ってるんだ、望んだのは君じゃないか。二人きりのときは名前で呼んで欲しいんだろ?
だからそうしたんだ。知ってるはずだ、君の本当の名前はベルサリア。ベルサリア・オヴェリス」
もう、デニムは笑っていなかった。
ランスロット・タルタロスを思わせる冷酷な目で私を見据え、彼と同じことを口にした。
「やめなさい、デニム。その名前では呼ばないでと言っているのが分からないの?
どうして私を困らせるの……。私の言うことが聞けないの?」
「……
カチュア、君は孤独なのだよ」
また、
タルタロスと同じ言葉。しかも今度は彼の口調を真似ていることがはっきりと分かる。
私は孤独、それは多分間違っていない。だって、寂しさは私の中から決して消えはしないのだから。
でも、それをデニムに指摘されるのは耐えられない。何故なら、彼に手放されたも同然だから。
僕には姉さんの孤独は癒せないし癒すつもりもないと宣告されたも同然だから。
それだけでも許せないのに、その上デニムはタルタロスの言葉を真似て私をからかっている。
知っていたのね。タルタロスが私に言ったことを。私がどんな気持ちになったのかを。
なのに貴方は助けてくれなかった。タルタロスの声が聞こえるほど近くにいたのに、なのに。
それどころか、私があの男の手に落ちるのを黙認し、挙句の果てにこんな真似を――
デニムの背を抱いたまま、もう一方の手を自らの携える短剣に伸ばした。
殺してやる。私のものにならないなら。私で遊ぶなら。私を捨てるなら。貴方を殺して私も死ぬ。
そんなことをすればヴァレリアの未来は潰えるけれど、でもそれは貴方が悪いのよ、デニム。
だって貴方は私の気持ちを知っていたのだから。私の人間性をも知っていたのだから。
なのに私をそんな風に扱うなんて、貴方には破滅願望があるんだわ。だから――
何の前触れもなく、男の声がした。神経に纏わりつくような声、初めて耳にする声だった。
言葉の意味は分からない。間近で聞こえる声なのに、何を言っているのかが聞き取れない。
ただ、激しい苛立ちを覚えた。邪魔しないで! 私には大切な用事があるの。
デニムのことなの。何よりも大切なことなの。貴方に構っている暇なんかないわ。
そう思いながら、短剣を振りかざす。でも、そこには誰もいない。あるのはただ暗闇のみ。
男の声が私の意識に侵入する。首の辺りから聞こえる声。逃れたいと思うのだけれど、
骨を震わせるほどの存在感と神経に突き刺さる違和感が無視することを許さない。
黙って! 私は行かなきゃいけないの。デニムを探さなきゃいけないの。
それでも男は喋り続ける。声は明瞭になってゆき、その言葉が聞き取れるようになる。
「――“救いの手”を受け入れるか、あくまでも拒絶するかについては――」
黙りなさい。デニムでもないくせに、私にそんな口を利かないで。
デニム以外の人から差し伸べられる救いの手なんて、汚らわしいだけだわ。
受け入れるか拒絶するか、そんなことを考える必要すらないの。だからもう静かになさい。
私はまだ眠っていたいの。夢の続きに戻らなきゃ。そうしてデニムを殺さなきゃ。だから――
――夢……?
そこでやっと、自分の思考のおかしさに気付く。
目を開くと、見知らぬ天井がそこにあった。男の声はもう聞こえない。
夢だった。それを認識した途端、胸の中で燃え盛っていた殺意の炎が静かに消えた。
そうよ、デニムがあんなことを言うはずがないわ。だって、デニムは私を愛しているのだから。
あれはただの夢。現実じゃない。その正しさを確認し、実感するために、デニムの言葉を思い出す。
『それでも僕は姉さんを愛している!』
……それは、今日の昼間のこと。
この奇妙な世界で知り合った
マルスという少年と二人で森の中を歩いていたときのこと。
木立の間から現れたデニムは、私の手を掴むと、何も言わずに駆け出した。
私は苛立ち、憤った。私を捨てておきながら、どうして私の自由を奪うのかしら。
私は新しい弟を見つけたのに。私の言うことをよく聞いて、私に寂しい思いをさせない、
出来のいい弟、マルス。私を一人にしておきながら、新しい弟まで奪うなんて。許せない。
私は手にした短剣をデニムに振りかざそうとした。そのとき、デニムが言ったのだ。
それでも僕は姉さんを愛している、と。私に殺されようとしているのに、抵抗もせずにそう言った。
私の全てを、暗部も含めた全てを受け入れる覚悟がなければ、あんなことはできない。
デニムは私を愛している。本当に、本気で愛している。
そう確信したからこそ、私は新しい弟を捨てた。
デニムは私を愛している。これが、現実。
――本当に、そうなのかしら?
当然でしょ。あのときのデニムの表情を見れば分かるわ。
何かを諦めたような顔で、どこか醒めたような目で、愛していると私に言った。
そして、殺意を捨てた私を見て、事務的な仕事を終えたような顔で薄く笑った。
底なしの虚無に沈み込むような表情をデニムが私に見せたのは、初めてのことだった。
――おかしいわ。私のことを愛しているのに、どうしてそんな顔をするのかしら?
別におかしくなんかないわ。デニムがあんな顔をしたのは、私がこういう人間だからよ。
自分の生命を脅かすような人間を愛してしまったのだから、絶望的な気分にもなるわ。
それを知っても尚、憎むことや嫌うことはおろか愛を捨てることすらできないというのに、
どうして“普通の人”と同じように屈託なく笑うことができるのかしら。
デニムは繊細なのよ。愛だとか何だとか奇麗事を言いながら笑顔で他人を貪るような
鈍感な連中とは心の造りが違うの。おかしいなんて思う方がおかしいわ。
――でも、表情と言葉が一致しないのはおかしなことだわ。
そう、おかしい。いくら言葉を重ねても、この感覚を覆すことはできない。
それは、本能的な違和感だった。
デニムは私を愛している、いくらその根拠を積み重ねてみても、隙間から違和感が滲み出る。
消すことのできない思考の隙間を塗り潰してほしくて、私は生身のデニムを求めた。
しかし、室内に人の気配はない。自分の立てる物音のほかには、何も聞こえてこなかった。
「デニム……? デニム、何処なの?」
慌てて半身を起こす。ベッドが軋み、世界が揺らぐような眩暈に襲われた。
貧血特有の気分の悪さが、傷のない身体に昼間の出来事を思い出させる。
長髪の剣士に斬られ、死の淵に落ちていくはずだった私を、デニムが助けてくれたのだ。
でも、どうやって? それはデニム自身も覚えていないという。
――本当に?
それは本当なのだろう。嘘や隠し事の類いを抱えているようには見えなかった。
けれどもその一方で、デニムに異変が生じていることも事実だと言えた。
たとえば、この城に戻る直前のこと。
デニムは
参加者名簿を眺めながらとても嬉しそうに笑っていた。
しかし、その笑顔は、これまでデニムが見せていたものとは明らかに質が違っていた。
もしもランスロット・タルタロスが憎悪や復讐心といった人間的な感情を抱いたならば、
そしてそれを満たすすべを見つけたならば、そんな風に笑うのではないかと思いたくなるような。
顔立ちは同じなのに、中身は別人。デニムという器に、タルタロスの魂が入っている。
そんな印象を受けずにはいられない、冷酷で残忍で大人びた笑みをデニムは浮かべていた。
そして、
第一回放送の直前のこと。
デニムの態度に不可解なものを感じて問いただそうとした私の両肩を押さえつけたときの、彼の顔。
そこに人間らしい温かみはなかった。物を見るような冷たい目、残忍な期待に歪んだ口元。
デニムのそんな表情を私は初めて目にしたけれど、それが彼なのだと私は素直に受け入れた。
だって、デニムが私を求めてくれたのだから。これまで隠していた表情を見せてくれたのだから。
デニムが私を自分よりも劣った存在として扱う、それはつまり、デニムと二人きりのときだけは
私は姉であることからも女王であることからも自由になれるということなのだから。
自由になることを、デニムが許してくれたということなのだから。
それに何より、私はデニムを愛している。そして、デニムは私を愛しているのだから。
――でも、もし、その前提が誤っているのだとしたら?
そう、長髪の剣士に斬られ、死を覚悟したときのこと。
私はデニムに訊いた。私を愛しているというのは、家族としてなのか、それとも女としてなのか、と。
デニムは答えなかった。けれども私はそれで良かった。
だって、デニムは私を愛している、それは確かなのだから。
彼の私に対する愛は、容易く言葉にできるほど軽いものではないのだから。
――でも、もし……、
『僕は姉さんを愛している』という言葉に、私の知らない思惑があったのだとしたら?
嘘や偽り、或いは隠し事の類いが秘められていたのだとしたら?
信じていた世界が崩れてゆく。自身の存在が、急に心許なく思えてくる。
デニムがあんな目で私を求めたのは、私を愛しているからではなかったの?
デニムが私の質問に答えなかったのは、私を愛しているからではなかったの?
デニムの存在を確認したくて、デニムに愛されていることを実感したくて、私はベッドから抜け出した。
私を置いて、デニムは何処に行ったのだろう。デニムは今、何を思っているのだろう。
一刻も早く探し出さなければ、彼は私の手の届かないところに行ってしまう。そんな気がした。
けれども、いくらデニムの名を呼んでも、それに答える声はない。物音一つ返ってこない。
眠りに落ちる直前の記憶は、私を抱き締めるデニムの温かい腕。
最後に聞いた言葉を脳裏で反芻してみると、世界の崩壊が停止した。
デニムはやはり私を愛しているのだと思えてくる、そう思っても許されるような気がしてくる。
でも、一度崩れた世界はもう元には戻らない。崩壊の途中で時間が停止しただけのこと。
『姉さんは僕が守るから、だから……』
ごめん、と呟き、私の知らない呪文を唱えるデニム。
ねっとりと纏わりつくような抗いがたい睡魔に襲われ、全身から力が抜けた。魔性の強制睡眠。
でも、どうしてデニムは私にそんなことをしたのだろう。異変なんて何一つとして起きていなかったのに。
それに……、デニムは何処で、何時の間に、私の知らない呪文を覚えたのだろう。
眠りをもたらす魔法の存在は私も知っているけれど、でもそれは悪夢を伴うものだったはず。
こんな術は知らない、噂に聞いたことすらない。でもデニムは当たり前のように行使していた。どうして?
デニムの見ているもの、感じていること、知っていること、経験したこと。
それら全てが私の知っているデニムとは、私自身とはかけ離れているように思えた。
そして、私たちの距離が縮めば縮むほど、致命的な乖離は進行してゆく。
それはもはや「人は変わる」だとか「男女の仲になればこれまでの関係は壊れる」だとか
そういう次元の話ではなかった。私が感じているのは、もっと異質で悪辣な違和感。
「デニム、何処なの……?」
扉を開け、廊下に出た。空気は冷たく、辺りは静まり返っていて、私に答える者はいない。
一刻も早くデニムを探し出さなければ。でも、何処に行けばいいのだろう。
私は自分がデニムに置き去りにされた理由すらも知らないのに。
一体何が起きたのか、或いは何も起きなかったのか、それすらも知らないのに。
【C-6/城(寝室近くの廊下)/夜(臨時放送後)】
【カチュア@タクティクスオウガ】
[状態]:失血による貧血
[装備]:魔月の短剣@サモンナイト3
[道具]:支給品一式、ガラスのカボチャ@タクティクスオウガ
[思考]:1:一刻も早くデニムに会い、その無事を確認したい。
2:デニムは本当に私を愛しているの?
3:デニムは私に一体何を隠しているの?
[備考]:アズリアの私服(
イスラED参照)に着替えています。
一日目19時の
臨時放送を聞き逃しました。
放送があったこと自体は知っているのか、それすらも気付いていないのかは
後続の書き手の方にお任せします。
最終更新:2011年01月28日 15:06