おわりのげんおん/phantasm scape
もうずっと歩いてきた。ある1つの目的のためにずっと彼は戦ってきた。
けれども大切だった少女に彼は否定されて、彼もそれを思い出して、旅は終わってしまった。
ぼろぼろになった彼を休める安息の場所は、足元にある冷たい地面だけ。
けれども大切だった少女に彼は否定されて、彼もそれを思い出して、旅は終わってしまった。
ぼろぼろになった彼を休める安息の場所は、足元にある冷たい地面だけ。
演目を終えた彼に拍手を。そして今一度のアンコールを。ささやかに幕を開けるこれは、もう1つの愛の物語。
□
何も見えない。光の射さない無明の世界が広がっている。
頬を撫でる冷気を孕んだ爽やかな風。まるで全身の熱を奪っていこうかとするような無慈悲な風に、私の身体は震えました。
――それでも私は歩いて行きます。例え目の前が真っ暗な世界だとしても、臆せずに私は歩いて行きます。
頼りにすべきものはこの杖だけ。モノを掴むという感触がとても心強い。
それもこの内側から悲鳴を上げる身体の前では、心もとない存在かもしれません。
杖を前に出すたびに地面に散らばった何かに引っ掛かり、それに手をかけ、力を振り絞って越えていくのですから。
息を吐くたびに、黒い視界が白くぼやけていく感覚に襲われます。
途切れ途切れにこぼれる息に紛れた声は、もはや言葉を成していませんでした。
「……あぅっ!」
何かの残骸の先にも同じようなものは広がっていて、そのままつまづいてしまうことも多くありました。
体勢を崩し、がらがらと盛大な音を立てて私はその中に埋もれてしまいました。
けれども、私は手離しません。
まっすぐに伸びた棒切れも、必ず会ってみせるという希望も。
そして膝をつき、手で何とか礫を払い、杖に力を込めて立ち上がるのです。
ぐっと地面を押さえつける感触が杖から手へと伝わり、踏み締めるような確固とした手触りは私に活力を与えてくれました。
まだ大地の上に立つことを私は許されているのです。
ならば、許されている限り歩みを止めてはいけないのが道理でしょう。
正直に言ってしまえば、心の中で澱む不安は私の心を切り裂き、引き千切ろうとし、
いつも止めてしまえ、諦めてしまえと囁きかけています。
それでも、前へ進みました。
耳は塞ぎません。片方の手は杖を握るために、もう片方の手はあの人を見つけたときに彼の手を握るため在るのです。
あの人を、クレスさんを止めなければいけない。
その思いだけが、私を前へ前へと進ませていきます。
ティトレイさんは今頃、あの場にいた2人を止めていることでしょう。
とても救われたのと同時に、嬉しかった。
分かっていたからこそティトレイさんは私を1人で行かせてくれたのです。
もしあのまま着いてきてしまったら、どちらもクレスさんに殺されてしまっていたかもしれない。
私が言うのも何だか不思議ですけども、クレスさんはとても強い方ですから。
勇猛果敢に前線で戦い、私達を守り、それでも優しさを失わない人。
頬を撫でる冷気を孕んだ爽やかな風。まるで全身の熱を奪っていこうかとするような無慈悲な風に、私の身体は震えました。
――それでも私は歩いて行きます。例え目の前が真っ暗な世界だとしても、臆せずに私は歩いて行きます。
頼りにすべきものはこの杖だけ。モノを掴むという感触がとても心強い。
それもこの内側から悲鳴を上げる身体の前では、心もとない存在かもしれません。
杖を前に出すたびに地面に散らばった何かに引っ掛かり、それに手をかけ、力を振り絞って越えていくのですから。
息を吐くたびに、黒い視界が白くぼやけていく感覚に襲われます。
途切れ途切れにこぼれる息に紛れた声は、もはや言葉を成していませんでした。
「……あぅっ!」
何かの残骸の先にも同じようなものは広がっていて、そのままつまづいてしまうことも多くありました。
体勢を崩し、がらがらと盛大な音を立てて私はその中に埋もれてしまいました。
けれども、私は手離しません。
まっすぐに伸びた棒切れも、必ず会ってみせるという希望も。
そして膝をつき、手で何とか礫を払い、杖に力を込めて立ち上がるのです。
ぐっと地面を押さえつける感触が杖から手へと伝わり、踏み締めるような確固とした手触りは私に活力を与えてくれました。
まだ大地の上に立つことを私は許されているのです。
ならば、許されている限り歩みを止めてはいけないのが道理でしょう。
正直に言ってしまえば、心の中で澱む不安は私の心を切り裂き、引き千切ろうとし、
いつも止めてしまえ、諦めてしまえと囁きかけています。
それでも、前へ進みました。
耳は塞ぎません。片方の手は杖を握るために、もう片方の手はあの人を見つけたときに彼の手を握るため在るのです。
あの人を、クレスさんを止めなければいけない。
その思いだけが、私を前へ前へと進ませていきます。
ティトレイさんは今頃、あの場にいた2人を止めていることでしょう。
とても救われたのと同時に、嬉しかった。
分かっていたからこそティトレイさんは私を1人で行かせてくれたのです。
もしあのまま着いてきてしまったら、どちらもクレスさんに殺されてしまっていたかもしれない。
私が言うのも何だか不思議ですけども、クレスさんはとても強い方ですから。
勇猛果敢に前線で戦い、私達を守り、それでも優しさを失わない人。
『そんな、残念だな』
どこかにいる彼が呟きました。
『僕はもっともっと人を殺したくてたまらない。満たされない気持ちを癒す血が欲しくてたまらない』
闇の中に紛れているその人の声は、どこか嬉々として上擦っていて、寒気を催させるようなものでした。
あの人の姿が私の目に結ばれます。
裂けてしまいそうなほどの笑みが、あの人の顔面の皮膚の上に張り付いていました。
身体が赤くて赤くて、バンダナもマントも区別が付かないくらいに真っ赤で、
左手に握る剣も同じように真紅に塗られて、何もかもその色に染まっていて――――
私の知っている優しさなんて、どこにも見当たらない。
どこかにいる彼が呟きました。
『僕はもっともっと人を殺したくてたまらない。満たされない気持ちを癒す血が欲しくてたまらない』
闇の中に紛れているその人の声は、どこか嬉々として上擦っていて、寒気を催させるようなものでした。
あの人の姿が私の目に結ばれます。
裂けてしまいそうなほどの笑みが、あの人の顔面の皮膚の上に張り付いていました。
身体が赤くて赤くて、バンダナもマントも区別が付かないくらいに真っ赤で、
左手に握る剣も同じように真紅に塗られて、何もかもその色に染まっていて――――
私の知っている優しさなんて、どこにも見当たらない。
……止める? 殺される?
私は、クレスさんを心のどこかで殺人鬼と認めている?
なんて嘆かわしい女でしょうか。クレスさんはそんな人ではないと、散々口に出していたのに。
私は、クレスさんを心のどこかで殺人鬼と認めている?
なんて嘆かわしい女でしょうか。クレスさんはそんな人ではないと、散々口に出していたのに。
ここは閉ざされた世界。崩壊した村。空は恐ろしいほどに暗い。
緑も生命も息絶えたこの地に、私の求める優しさなど、どこにあるというのですか?
緑も生命も息絶えたこの地に、私の求める優しさなど、どこにあるというのですか?
□
僕は歩く。よろよろと群青の空を駆り心臓の高鳴りすら聞こえないほどに激走するも時速は10キロメートル。
近寄ってくる亡骸を斬って斬って血しぶきを上げながら瞼を開けたまま夢を見る。
壁にめり込んだ頭を引きずり出して、しかし元々そこには何もないようで石だけがある。
そのまま壁ごと叩きつけて家を崩壊させ、てらてらと歯茎をぎらつかせる。
思うがままに剣を振り回した。空を輪切りにし、体液や粘液が飛び散り相手を轢殺する。
3歩進んで3歩下がるも3歩進んでいる。1歩踏み出せば足の肉が一気にそげ落ちる前に骨が粉屑になる。
灰のように散っていく血は深紅に呑まれ、色のない視界が隅々にまで澄み渡った。
聞こえてくる子供の輪唱と斉唱、
『間違っている』
『間違っている』
『間違っている』
頭を抱え耳を塞ぐも当てられる手は血に塗れ、その微かな液体に声はハウリングし何度も何度も響き渡る。
立ちながらも膝をつき、堂々と立つように跪いて懺悔を請う。
そこには血の海が目一杯広がり、じくじくと伝わる凪の中で荒々しく波打つ。
心臓の音が聞こえる。無音の静寂。
ごめんなさい。
どうして?
僕は負けていない。俺は負けられない。
どうして?
違う。違う違う違う違う。
……どうして?
握られた剣を振るうと空気が盛大な音を立てて崩れる。
そしてまた肉は断たれ血の飛沫は舞い土煙が立つ。
僕の視界は明瞭だ、真っ赤に染まっている。不透明な単色の赤で世界は実に見晴らしがいい。
目の前に門がそびえ立ち悪魔達が耳元で囁き、……ああ、誰かの泣き声が聞こえる。
ぞわぞわと小さな声が耳の表面に張り付き、這い続けている。
とても甘美な心地。それでいて、寒気を催すほどの不快感。
俺はまた剣を振るい目の前の人間を開きにした。
血の花弁が散る。それを更に僕は断つ。
断って断って断って、広がる光景は血の雨と微塵になった肉。
僕の身体が熱く火照る。
近寄ってくる亡骸を斬って斬って血しぶきを上げながら瞼を開けたまま夢を見る。
壁にめり込んだ頭を引きずり出して、しかし元々そこには何もないようで石だけがある。
そのまま壁ごと叩きつけて家を崩壊させ、てらてらと歯茎をぎらつかせる。
思うがままに剣を振り回した。空を輪切りにし、体液や粘液が飛び散り相手を轢殺する。
3歩進んで3歩下がるも3歩進んでいる。1歩踏み出せば足の肉が一気にそげ落ちる前に骨が粉屑になる。
灰のように散っていく血は深紅に呑まれ、色のない視界が隅々にまで澄み渡った。
聞こえてくる子供の輪唱と斉唱、
『間違っている』
『間違っている』
『間違っている』
頭を抱え耳を塞ぐも当てられる手は血に塗れ、その微かな液体に声はハウリングし何度も何度も響き渡る。
立ちながらも膝をつき、堂々と立つように跪いて懺悔を請う。
そこには血の海が目一杯広がり、じくじくと伝わる凪の中で荒々しく波打つ。
心臓の音が聞こえる。無音の静寂。
ごめんなさい。
どうして?
僕は負けていない。俺は負けられない。
どうして?
違う。違う違う違う違う。
……どうして?
握られた剣を振るうと空気が盛大な音を立てて崩れる。
そしてまた肉は断たれ血の飛沫は舞い土煙が立つ。
僕の視界は明瞭だ、真っ赤に染まっている。不透明な単色の赤で世界は実に見晴らしがいい。
目の前に門がそびえ立ち悪魔達が耳元で囁き、……ああ、誰かの泣き声が聞こえる。
ぞわぞわと小さな声が耳の表面に張り付き、這い続けている。
とても甘美な心地。それでいて、寒気を催すほどの不快感。
俺はまた剣を振るい目の前の人間を開きにした。
血の花弁が散る。それを更に僕は断つ。
断って断って断って、広がる光景は血の雨と微塵になった肉。
僕の身体が熱く火照る。
あは、よく見たら、この人ただの壁。
□
『僕は同じだよ』
彼は優しい音色でそう言います。
『君に接してきた僕も、人を殺してきた僕も同じ。会話をするのも人を殺すのも同じこと』
違う、という私の声は呂律が回らず言葉になりませんでした。
代わりに首を振って私は形だけの否定を示します。
真っ赤なクレスさんは寂しそうな顔をして、暗闇の中へ溶け込んでいきました。
再び真っ黒な視界へと戻って、私はまた歩き始めました。
けれども、両足は重石でも乗せられたようにひどく重いものとなっていて、ろくに進むこともできませんでした。
どちらの足にも意思を運ぶ生きた血が通っていない。
足の感覚が泥の中に沈み込んだように消え失せ、膝が何度もがくりと折れ曲がります。
そのたび私は前にのめり込んでしまいましたが、ついに私は膝をついて倒れ込んでしまいました。
頬に触れる土の感触は固く冷たく、乾いた臭いが鼻腔に流れてきました。
そしてどこか鉄の臭いすらも奥から溢れてきます。
手に力を込めて立ち上がろうとしても、全身が重く少しも持ち上がりません。
ふるふると腕が震えるばかりで、とても情けない気持ちが湧いてきます。
『君は認めたくないだけだよね?』
耳元で囁く声。
私が思わず顔を向けると、そこにはしゃがみ込んだクレスさんがいました。
前髪は血で固まり、顔面にはたくさんの返り血が付き、それでもクレスさんは優しく笑っていました。
彼の手が私の顔を撫で、さらりと髪をときます。とてもひんやりとした手。
『僕は人を斬ったよ。それだけだよ?』
それでもグローブの皮革ごしの柔らかな指の感触は、確かに人間のもので、彼のもので、
触れて握りたくなってしまう心を私は必死に抑えていました。
触れてはいけないと、どこかで私は叫んでいました。
『僕は僕だ。でも、君は僕を僕として認めてくれないのかい?』
そんなの言葉遊びです。クレスさんは簡単に人を斬るような方じゃありません。
どんな事実があろうと、何か理由があるはずです。
私は必死にそう思い込んでいました。
目の前のクレスさんは、やはり悲しそうな表情をしていました。
子犬がしょんぼりとしたときのような幼さを見せて、私の中の母性を惑わすのです。
きゅう、と胸元の奥の青い何かが苦しくなる。
どうしてあなたはそんなに悲しそうな顔をするのですか。
誰かを殺したことが悲しいのでしょうか。それとも、私が認めないから?
彼は優しい音色でそう言います。
『君に接してきた僕も、人を殺してきた僕も同じ。会話をするのも人を殺すのも同じこと』
違う、という私の声は呂律が回らず言葉になりませんでした。
代わりに首を振って私は形だけの否定を示します。
真っ赤なクレスさんは寂しそうな顔をして、暗闇の中へ溶け込んでいきました。
再び真っ黒な視界へと戻って、私はまた歩き始めました。
けれども、両足は重石でも乗せられたようにひどく重いものとなっていて、ろくに進むこともできませんでした。
どちらの足にも意思を運ぶ生きた血が通っていない。
足の感覚が泥の中に沈み込んだように消え失せ、膝が何度もがくりと折れ曲がります。
そのたび私は前にのめり込んでしまいましたが、ついに私は膝をついて倒れ込んでしまいました。
頬に触れる土の感触は固く冷たく、乾いた臭いが鼻腔に流れてきました。
そしてどこか鉄の臭いすらも奥から溢れてきます。
手に力を込めて立ち上がろうとしても、全身が重く少しも持ち上がりません。
ふるふると腕が震えるばかりで、とても情けない気持ちが湧いてきます。
『君は認めたくないだけだよね?』
耳元で囁く声。
私が思わず顔を向けると、そこにはしゃがみ込んだクレスさんがいました。
前髪は血で固まり、顔面にはたくさんの返り血が付き、それでもクレスさんは優しく笑っていました。
彼の手が私の顔を撫で、さらりと髪をときます。とてもひんやりとした手。
『僕は人を斬ったよ。それだけだよ?』
それでもグローブの皮革ごしの柔らかな指の感触は、確かに人間のもので、彼のもので、
触れて握りたくなってしまう心を私は必死に抑えていました。
触れてはいけないと、どこかで私は叫んでいました。
『僕は僕だ。でも、君は僕を僕として認めてくれないのかい?』
そんなの言葉遊びです。クレスさんは簡単に人を斬るような方じゃありません。
どんな事実があろうと、何か理由があるはずです。
私は必死にそう思い込んでいました。
目の前のクレスさんは、やはり悲しそうな表情をしていました。
子犬がしょんぼりとしたときのような幼さを見せて、私の中の母性を惑わすのです。
きゅう、と胸元の奥の青い何かが苦しくなる。
どうしてあなたはそんなに悲しそうな顔をするのですか。
誰かを殺したことが悲しいのでしょうか。それとも、私が認めないから?
『君が悲しんでほしいと思ってるから、僕はこんな表情をしているんだよ。ひどいよ』
胸が締め付けられました。
クレスさんの表情はただの、皮膚で作られた仮面なのです。
そのまま彼は消えてしまいました。
残された暗闇の中、私はすすり泣いていました。
何て浅ましい女。私に否定されて悲しむ姿を見たかっただけだなんて。
それでまだクレスさんは正常だと、どこかで繋がりを求めようとするなんて。
私は――ただ、美化された理想の幻を押し付けているだけだった。
胸が締め付けられました。
クレスさんの表情はただの、皮膚で作られた仮面なのです。
そのまま彼は消えてしまいました。
残された暗闇の中、私はすすり泣いていました。
何て浅ましい女。私に否定されて悲しむ姿を見たかっただけだなんて。
それでまだクレスさんは正常だと、どこかで繋がりを求めようとするなんて。
私は――ただ、美化された理想の幻を押し付けているだけだった。
そして、けれど、私の中に構築された夢と幻は儚く砕け散るのです。
私はクレスさんが悲しむ姿なんて見たくないのですから。
私はクレスさんが悲しむ姿なんて見たくないのですから。
闇の中に、そこだけ切り取ったかのような白い蝶が現れ、ふわりふわりと空を飛びます。
ぼんやりと白い燐光の軌跡が、涙で滲んだ目を通して映りました。
こんなに暗いのに、一体何を探しているのでしょう。
どんな花、あるかも分からない花に魅かれ、羽をはばたかせているのでしょう。
もうここには羽を休める場所すらないのに。
私はそっと蝶に手を差し出し、1本だけ指を出しました。
飛んでいた白い蝶はふらふらと指に止まり、羽をたたみ静かになった後、すうっと消えていきました。
私は驚き、蝶がいた場所に指を這わせるも空を掴むばかりで、
そこに何か光があったと、残像が目に焼きつくだけです。
ですが、不思議と悲しみはありませんでした。蝶は最後に私を明るくしていったのです。
きっと探していた花はとても甘い香りがして、たとえ荒れた地であろうと綺麗に立派に咲いているのだと、そう思いました。
突き出た指をそっとさすり、杖を握り締めます。
私は動かなくなった足を奮い立たせ、もう1度だけ歩き始めました。
ぼんやりと白い燐光の軌跡が、涙で滲んだ目を通して映りました。
こんなに暗いのに、一体何を探しているのでしょう。
どんな花、あるかも分からない花に魅かれ、羽をはばたかせているのでしょう。
もうここには羽を休める場所すらないのに。
私はそっと蝶に手を差し出し、1本だけ指を出しました。
飛んでいた白い蝶はふらふらと指に止まり、羽をたたみ静かになった後、すうっと消えていきました。
私は驚き、蝶がいた場所に指を這わせるも空を掴むばかりで、
そこに何か光があったと、残像が目に焼きつくだけです。
ですが、不思議と悲しみはありませんでした。蝶は最後に私を明るくしていったのです。
きっと探していた花はとても甘い香りがして、たとえ荒れた地であろうと綺麗に立派に咲いているのだと、そう思いました。
突き出た指をそっとさすり、杖を握り締めます。
私は動かなくなった足を奮い立たせ、もう1度だけ歩き始めました。
□
それはよくあるおとぎ話。
魔王にさらわれたお姫様を助け出すために、騎士は魔王の城へと向かう。
だけど魔王の力は大きい。今の騎士の力では敵わない。
だから騎士は、魔王を倒すための力を求める。
たとえば伝説の剣だったり、封印の魔法だったり。
何であろうと、まずは力を手に入れなければ物語は先には進めないんだ。それが必然だから。
だから僕は、魔王を倒すための力を求めた。
魔王にさらわれたお姫様を助け出すために、騎士は魔王の城へと向かう。
だけど魔王の力は大きい。今の騎士の力では敵わない。
だから騎士は、魔王を倒すための力を求める。
たとえば伝説の剣だったり、封印の魔法だったり。
何であろうと、まずは力を手に入れなければ物語は先には進めないんだ。それが必然だから。
だから僕は、魔王を倒すための力を求めた。
取った方法は――――僕も魔王になること。
僕はいつしか、お姫様を助け出す騎士から魔王になっていた。
僕はいつしか、お姫様を助け出す騎士から魔王になっていた。
助けられる訳がない。だって、それじゃあお姫様はまた魔王にさらわれちゃうじゃないか。
嫌がるのも当然か。そして心の清らかなお姫様はさらった魔王を哀れむんだ。
そして、魔王を倒しに、また新しい騎士が。
騎士の、剣は、僕を斬って、斬って、死なない。
斬っても血は出なくてそれでも致命傷。見えない傷の中に僕の体があって包まれる。
僕の肉に僕は包まれ、俺の血で血塗れになって、ああ気持ちいい。
心臓は停止しているけど今も血潮は僕を駆け巡る。
目の前に広がるのは光源のない剣の墓標。
僕はそこに刺されたそれらを1つずつ抜いていって透明な敵を斬っていく。
魔王の城には雑魚がいっぱいいるものだから。すとんと剣はまた空振る。僕は助けに行くんだ。
緑の髪を毟って赤髪の女の蛆虫を潰して魔術師の身体にまた剣を突き刺して!
でも、でも、先に広がる無明の地平線はいつまでも果てしないんだ!
だって、俺は騎士じゃないんだから!!
嫌がるのも当然か。そして心の清らかなお姫様はさらった魔王を哀れむんだ。
そして、魔王を倒しに、また新しい騎士が。
騎士の、剣は、僕を斬って、斬って、死なない。
斬っても血は出なくてそれでも致命傷。見えない傷の中に僕の体があって包まれる。
僕の肉に僕は包まれ、俺の血で血塗れになって、ああ気持ちいい。
心臓は停止しているけど今も血潮は僕を駆け巡る。
目の前に広がるのは光源のない剣の墓標。
僕はそこに刺されたそれらを1つずつ抜いていって透明な敵を斬っていく。
魔王の城には雑魚がいっぱいいるものだから。すとんと剣はまた空振る。僕は助けに行くんだ。
緑の髪を毟って赤髪の女の蛆虫を潰して魔術師の身体にまた剣を突き刺して!
でも、でも、先に広がる無明の地平線はいつまでも果てしないんだ!
だって、俺は騎士じゃないんだから!!
(うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァッッ!!!)
僕が今まで見ていたミントはミントじゃなかった。
必死に魔王から助け出そうとしていたミントはいなかった。
あの子はコレット。似てはいるけど全くの別人だ。
僕の眼は幻想しか映してなかった。救うべき姫も滅するべき魔王も、助け出す存在であるはずの騎士さえも。
――違う。僕はこれからもこの光景を映し続けていくんだろう。
僕が本当に探している人を、ミントを見つけられない間は。
ミント、ミント。コレットと似ている人。でも――――どんな人だったっけ?
僕の中からぽっかりと抜け落ちてしまっている。輪郭さえも浮かばない。
僕が狂おしく求めている人であることは分かる。でも、誰なんだろう。
必死に魔王から助け出そうとしていたミントはいなかった。
あの子はコレット。似てはいるけど全くの別人だ。
僕の眼は幻想しか映してなかった。救うべき姫も滅するべき魔王も、助け出す存在であるはずの騎士さえも。
――違う。僕はこれからもこの光景を映し続けていくんだろう。
僕が本当に探している人を、ミントを見つけられない間は。
ミント、ミント。コレットと似ている人。でも――――どんな人だったっけ?
僕の中からぽっかりと抜け落ちてしまっている。輪郭さえも浮かばない。
僕が狂おしく求めている人であることは分かる。でも、誰なんだろう。
どこかにいるだろう、僕が知らない本当のミント。君は今どこにいるの?
僕が目を離していた内に、君はどこに行ってしまったの?
手が届くところにいるのか。それとも、僕が手が届かないところまで落ちてしまったのだろうか。
少なくとも僕の目が幻の霧に包まれている間は、現実にいる君の姿は見えないんだろう。
僕が目を離していた内に、君はどこに行ってしまったの?
手が届くところにいるのか。それとも、僕が手が届かないところまで落ちてしまったのだろうか。
少なくとも僕の目が幻の霧に包まれている間は、現実にいる君の姿は見えないんだろう。
なら、ならせめて。
現実の中にも僕の形骸はあるだろうから、どうか僕を見つけ出してくれ。
歪み、止まり切ってしまった心を動かしてくれ。
僕はひたすらに力を求めたけれど、結局、君を見つけ出すための力はどこにもない。
現実の中にも僕の形骸はあるだろうから、どうか僕を見つけ出してくれ。
歪み、止まり切ってしまった心を動かしてくれ。
僕はひたすらに力を求めたけれど、結局、君を見つけ出すための力はどこにもない。
□
そのひとがうたうとき/The Saver
2人は視界を持っていなかった。
片方はその視界を塗りつぶされ、もう片方は視覚を血に塗りつぶされていた。
例えこの静かで荒れた村で人影を見つけたとしても、彼も彼女も視認する方法がないのだ。
故に、互いが前方に現れたとしても、2人は気づかなかった。
片や頭と胸を押さえながらふらふらとした足取りで歩き、片や杖を使って前方を探りながらよろよろと歩く。
その様子は、街角で知らない人々が横をすり抜けていくような無感傷さと同義だった。
互いを繋げ合う要素が、距離がないのだ。
よって2人はそれぞれが独立した個人として前に進んでいく。
ふらふらと歩き、疲労の果てで彼女がやっと僅かな音に気づいたときには、2人はぶつかっていた。
片方はその視界を塗りつぶされ、もう片方は視覚を血に塗りつぶされていた。
例えこの静かで荒れた村で人影を見つけたとしても、彼も彼女も視認する方法がないのだ。
故に、互いが前方に現れたとしても、2人は気づかなかった。
片や頭と胸を押さえながらふらふらとした足取りで歩き、片や杖を使って前方を探りながらよろよろと歩く。
その様子は、街角で知らない人々が横をすり抜けていくような無感傷さと同義だった。
互いを繋げ合う要素が、距離がないのだ。
よって2人はそれぞれが独立した個人として前に進んでいく。
ふらふらと歩き、疲労の果てで彼女がやっと僅かな音に気づいたときには、2人はぶつかっていた。
そして、盲目の2人は出会った。
僅かな光源が、残り少ない命の灯を懸命に点し続けるようにして2人を照らす。
足りないがゆえの光の淡さで、辺りの輪郭は曖昧になっている。
すべてが光と影で構成されていた。
そして、とても透き通っている。風が青い羽を煌めかせる鳥のように、村を泳いでいく。
物質としての形を喪失しかけているこの村は、すべてが形のない光と影の明暗で作られていた。
足りないがゆえの光の淡さで、辺りの輪郭は曖昧になっている。
すべてが光と影で構成されていた。
そして、とても透き通っている。風が青い羽を煌めかせる鳥のように、村を泳いでいく。
物質としての形を喪失しかけているこの村は、すべてが形のない光と影の明暗で作られていた。
どさり、と力も入らない2人は呆気なく地面に倒れ、座り込んだ。
2人が顔を合わせた時、辺りを覆っていた破壊的な音色は一気に沈んでいった。
時間がぴたりと止まったかのような錯覚さえ感じる、澄み切った静寂だった。
暴れ狂うような熱を持っていた空気が一気に沈み込み、水の中のような涼しさに戻る。
音を構成する要素が分子1つ1つにまで分かれ、音を作れなくなったのかもしれない。
そうでなければ何故誰も声を出そうとはしないのか。
彼は目の前に現れたロングヘアーの少女を見つめたまま身動きしない。
この女の子の姿は、記憶の中には欠片も残っていなかった。
だけど、どうしてか目が離せない。目から視覚的ではない何かが僕に訴えかけているんだ。
頭ががんがんと痛む。まるでせめて少しでも残っていないかと脳の中を探し回っているかのように。
「……ぁ、……あ、ぁ」
エターナルソードを持ったまま、彼は側頭部を両手で抱え込み、呻くように呟く。
声を出すというよりは、息づかいがそのまま音になったようなものだった。
か細い声も、この静けさと視力を失ったことで聴力が鋭敏化したミントの前には普通に聞こえた。
「うえう……あん」
一体誰なのかと考えつつ、ごめんなさいと謝ろうと思っていたミントは、僅かな呟きだけで相手は誰なのか分かってしまった。
また幻なのだろうかとも考えたが、あの衝突の感触は嘘ではない。
姿が見えないなど理由にもならず、確信すらあった。
呂律の回らない口で、必死に彼の名を紡ごうとする。
杖を地に立てかろうじて立ち続けていた私に、大した活力は残されていません。
前線で戦わない法術士です。本来ならそのまま倒れていてもおかしくはないのかもしれません。
それでも私の意識を繋がせているのは、例え私を忘れてしまったような言葉でも、
この声が紛れもなく懐かしいあの人のものだという事実です。
だが、出会えた安息に埋もれる余裕もまたない。彼女は、彼を癒さねばならないのだから。
呻き声をなお上げ続けるクレスに、ミントは小さく1歩を踏み出す。
「うえう、あん!」
名は届かぬとも、せめて思いは届けとミントは声を出す。
全身傷だらけで血で薄汚れてしまった姿も、これまでの彼女の一途な経緯を思い返せば純白の証となる。
2人が顔を合わせた時、辺りを覆っていた破壊的な音色は一気に沈んでいった。
時間がぴたりと止まったかのような錯覚さえ感じる、澄み切った静寂だった。
暴れ狂うような熱を持っていた空気が一気に沈み込み、水の中のような涼しさに戻る。
音を構成する要素が分子1つ1つにまで分かれ、音を作れなくなったのかもしれない。
そうでなければ何故誰も声を出そうとはしないのか。
彼は目の前に現れたロングヘアーの少女を見つめたまま身動きしない。
この女の子の姿は、記憶の中には欠片も残っていなかった。
だけど、どうしてか目が離せない。目から視覚的ではない何かが僕に訴えかけているんだ。
頭ががんがんと痛む。まるでせめて少しでも残っていないかと脳の中を探し回っているかのように。
「……ぁ、……あ、ぁ」
エターナルソードを持ったまま、彼は側頭部を両手で抱え込み、呻くように呟く。
声を出すというよりは、息づかいがそのまま音になったようなものだった。
か細い声も、この静けさと視力を失ったことで聴力が鋭敏化したミントの前には普通に聞こえた。
「うえう……あん」
一体誰なのかと考えつつ、ごめんなさいと謝ろうと思っていたミントは、僅かな呟きだけで相手は誰なのか分かってしまった。
また幻なのだろうかとも考えたが、あの衝突の感触は嘘ではない。
姿が見えないなど理由にもならず、確信すらあった。
呂律の回らない口で、必死に彼の名を紡ごうとする。
杖を地に立てかろうじて立ち続けていた私に、大した活力は残されていません。
前線で戦わない法術士です。本来ならそのまま倒れていてもおかしくはないのかもしれません。
それでも私の意識を繋がせているのは、例え私を忘れてしまったような言葉でも、
この声が紛れもなく懐かしいあの人のものだという事実です。
だが、出会えた安息に埋もれる余裕もまたない。彼女は、彼を癒さねばならないのだから。
呻き声をなお上げ続けるクレスに、ミントは小さく1歩を踏み出す。
「うえう、あん!」
名は届かぬとも、せめて思いは届けとミントは声を出す。
全身傷だらけで血で薄汚れてしまった姿も、これまでの彼女の一途な経緯を思い返せば純白の証となる。
しかし、クレスにとっては違う。
この声もまた何かを訴えるものだった。
耳から這うように入り込んでは、僕の全ての神経を侵していく。
ノイズの奥に閉ざされているのに、そのノイズ自体が騒音を起こし阻害する。
そして蝕んでいく。絶え間ない音は僕を追い立て、どこまでも付いてくる。
誰だ、お前は誰だ、誰だ誰だ誰だ誰だ誰だあアァァァァァァァァッ!!
「……ッ、ああぁぁぁッ……!!」
目前で剣を振り回し、周囲を再び喧騒と破壊の渦に飲み込もうとするクレスに、ミントは思わず見えない目をつむった。
彼の振り絞るような痛々しい叫びと、突然の轟音に、耳からの情報にほぼ頼らざるを得ない彼女が
そんな行動を取ったのは何らおかしくない。
舞い上がった土の匂いが鼻をくすぐり、けれども悲痛に襲われた彼女の心を治すことはなかった。
喉が焼きつき貼りついてしまいそうな悲痛。
本当に、本当に目の前にいるのはクレスさんなのでしょうか?
確かにミトスからこの島でのクレスさんの行いは聞いています。ティトレイさんにもクレスさんのことを頼まれました。
それでも、私は目前で暴れ狂っているだろう人が、見知った剣士だとは到底思えません。
クレスさんの戦い方は流派に沿った、もっとスマートな戦い方。
あんな箍の外れた声はどんな戦闘でも、ダオスと戦った時でさえ聞いたことがありません。
クレスさんはもっと心優しい人です。ときどき笑えないダジャレを言ったりする、そんな人です。
ただクレスさんとよく似た声質で、違う誰かなのではないでしょうか?
それなら私を知らないのも納得できます。今、目の前にいるのはクレスさんの偽者――――
この声もまた何かを訴えるものだった。
耳から這うように入り込んでは、僕の全ての神経を侵していく。
ノイズの奥に閉ざされているのに、そのノイズ自体が騒音を起こし阻害する。
そして蝕んでいく。絶え間ない音は僕を追い立て、どこまでも付いてくる。
誰だ、お前は誰だ、誰だ誰だ誰だ誰だ誰だあアァァァァァァァァッ!!
「……ッ、ああぁぁぁッ……!!」
目前で剣を振り回し、周囲を再び喧騒と破壊の渦に飲み込もうとするクレスに、ミントは思わず見えない目をつむった。
彼の振り絞るような痛々しい叫びと、突然の轟音に、耳からの情報にほぼ頼らざるを得ない彼女が
そんな行動を取ったのは何らおかしくない。
舞い上がった土の匂いが鼻をくすぐり、けれども悲痛に襲われた彼女の心を治すことはなかった。
喉が焼きつき貼りついてしまいそうな悲痛。
本当に、本当に目の前にいるのはクレスさんなのでしょうか?
確かにミトスからこの島でのクレスさんの行いは聞いています。ティトレイさんにもクレスさんのことを頼まれました。
それでも、私は目前で暴れ狂っているだろう人が、見知った剣士だとは到底思えません。
クレスさんの戦い方は流派に沿った、もっとスマートな戦い方。
あんな箍の外れた声はどんな戦闘でも、ダオスと戦った時でさえ聞いたことがありません。
クレスさんはもっと心優しい人です。ときどき笑えないダジャレを言ったりする、そんな人です。
ただクレスさんとよく似た声質で、違う誰かなのではないでしょうか?
それなら私を知らないのも納得できます。今、目の前にいるのはクレスさんの偽者――――
――逃避すれば、逃げられるとでも思ったのか。
一体どうしてここまで身体を引きずらせて歩いてきたのか。
仮に目の前の男が別人だとしても、クレスでなければ見捨てることが出来るのか。
答えは否です。
私はどこまでも、どうしようもなく癒し手なのでしょう。
向き合ってしまった以上、目を背けることは私の心そのものが許しません。
私の目に結ばれるのは負の幻。打ち払わねばならないもの。
そして何も見えぬ闇に正しき幻を刻みつけるのです。
クレスさんは、たった1人しかいないのですから。
一体どうしてここまで身体を引きずらせて歩いてきたのか。
仮に目の前の男が別人だとしても、クレスでなければ見捨てることが出来るのか。
答えは否です。
私はどこまでも、どうしようもなく癒し手なのでしょう。
向き合ってしまった以上、目を背けることは私の心そのものが許しません。
私の目に結ばれるのは負の幻。打ち払わねばならないもの。
そして何も見えぬ闇に正しき幻を刻みつけるのです。
クレスさんは、たった1人しかいないのですから。
落陽の村で、光を追い出して生まれ始めた影が辺りを侵食する。
すう、と手を伸ばすかのように、影法師は長くなっていく。
星さえも現れ始めた空の下、2人の逢瀬はあまりに静かだった。
例えば夜中に誰にも悟られぬようにして出会う恋人達……そんなものとは比べ物にならない。
ボディランゲージでの愛情表現など何もなく、ただ向き合うのみで交わす言葉もない。
元々、2人は言葉を持ち合わせていないのだ。
クレスは剣を振り回し、ミントはただそこに佇む。
全く交わりあうことのない独立した行為に、2人の関連性は露も見えなかった。
相も変わらず、クレスは終わらぬ悪夢に苛まれ続けている。
肌に浮かんだ汗は止まる気配がなく、髪が首筋に張り付いている。
毛先や前髪にべっとりと固まった血はもはや黒く変色し闇の一部として同化していた。
髪に混じった砂がじゃりじゃりと不快な音を立てる。
立てられた指先は頭皮を抉り、その血液量からして爪も剥げているのだろう。
けれど、痛みは感じない。
肉体的な痛みなんて、どうしようもなく不足している何かに比べたら些細な感覚でしかない。
目の前の人は、そのおぼろげな外見を以って僕に訴えかけてくる。
どれだけ武器を振るおうと、この人だけは斬ることはできないと僕の腕が叫ぶ。
魔剣の柄が異様に固くなっていくのを感じ、ただの楕円の柱になって握る心地が失われていく。
剣を動かす手が鈍る。指先が震え、柄に絡まる指がほどけていく。
からん、とクレスの手からエターナルソードがこぼれ落ちた。
目で見て取れるほどに痙攣した手の先は所在なさげに宙に浮かんだままだ。
手からエターナルソードが消えた理由が、実際に見ても分からなかった。
どうして俺の手から落ちた? 空を掴むこの手は何?
指先に力が入らず、自分のあずかり知らぬところで先端が震えている。
ただ僕は真っ赤に染まった視界で自分の手を見つめ、それが現実であるかを分からないでいる。
背の音楽には誰かの狼狽した呻き声、困惑、動悸――ああ、僕のじゃないか。
つまり、俺はもう剣を、力を握る資格はないと。
そう。分かってるんだ。剣が剣を持てるはずがないんだって。
彼に求める理由などとうに崩壊しているのだ。
彼がここに立っているのは、ただ心臓が早鐘を打ち、時に二拍ほど遅れて鼓動しているだけだからなのだ。
どく、どく、どくどくり――どくっどく――――どくん。
身体中に血液と酸素を送り、なんとも無駄な時間を過ごしている。
鼓動の速さは生き物で決められている。もはやこれはただの浪費。
この島で悔やみながら死を迎えた者もいるというのに、生を無意味に費やすとは――なんという驕り。
さようならクレス。彼が存在する場所など世界のどこにも心の片隅にも、どこにもない。
すう、と手を伸ばすかのように、影法師は長くなっていく。
星さえも現れ始めた空の下、2人の逢瀬はあまりに静かだった。
例えば夜中に誰にも悟られぬようにして出会う恋人達……そんなものとは比べ物にならない。
ボディランゲージでの愛情表現など何もなく、ただ向き合うのみで交わす言葉もない。
元々、2人は言葉を持ち合わせていないのだ。
クレスは剣を振り回し、ミントはただそこに佇む。
全く交わりあうことのない独立した行為に、2人の関連性は露も見えなかった。
相も変わらず、クレスは終わらぬ悪夢に苛まれ続けている。
肌に浮かんだ汗は止まる気配がなく、髪が首筋に張り付いている。
毛先や前髪にべっとりと固まった血はもはや黒く変色し闇の一部として同化していた。
髪に混じった砂がじゃりじゃりと不快な音を立てる。
立てられた指先は頭皮を抉り、その血液量からして爪も剥げているのだろう。
けれど、痛みは感じない。
肉体的な痛みなんて、どうしようもなく不足している何かに比べたら些細な感覚でしかない。
目の前の人は、そのおぼろげな外見を以って僕に訴えかけてくる。
どれだけ武器を振るおうと、この人だけは斬ることはできないと僕の腕が叫ぶ。
魔剣の柄が異様に固くなっていくのを感じ、ただの楕円の柱になって握る心地が失われていく。
剣を動かす手が鈍る。指先が震え、柄に絡まる指がほどけていく。
からん、とクレスの手からエターナルソードがこぼれ落ちた。
目で見て取れるほどに痙攣した手の先は所在なさげに宙に浮かんだままだ。
手からエターナルソードが消えた理由が、実際に見ても分からなかった。
どうして俺の手から落ちた? 空を掴むこの手は何?
指先に力が入らず、自分のあずかり知らぬところで先端が震えている。
ただ僕は真っ赤に染まった視界で自分の手を見つめ、それが現実であるかを分からないでいる。
背の音楽には誰かの狼狽した呻き声、困惑、動悸――ああ、僕のじゃないか。
つまり、俺はもう剣を、力を握る資格はないと。
そう。分かってるんだ。剣が剣を持てるはずがないんだって。
彼に求める理由などとうに崩壊しているのだ。
彼がここに立っているのは、ただ心臓が早鐘を打ち、時に二拍ほど遅れて鼓動しているだけだからなのだ。
どく、どく、どくどくり――どくっどく――――どくん。
身体中に血液と酸素を送り、なんとも無駄な時間を過ごしている。
鼓動の速さは生き物で決められている。もはやこれはただの浪費。
この島で悔やみながら死を迎えた者もいるというのに、生を無意味に費やすとは――なんという驕り。
さようならクレス。彼が存在する場所など世界のどこにも心の片隅にも、どこにもない。
迸る絶叫。
痙攣していた僕の足は膝を畳み、地へと落ちる。
ぞわぞわと頭の中で何かが忙しなく蠢く。
瓶の中に閉じ込められた羽虫が行き場を求めて、ガラスにぶつかりながらも飛ぶように。
頭皮の裏側を走る寒気と痺れが僕の正常さを奪っていった。
上げられている奇声は掠れていき、どこかもう1枚壁を隔てた先にあるようなものとしか思えない。
頭を押さえ必死に痛みにこらえている姿すらもはや滑稽にしか見えない。
それほど僕は僕から遠くなってしまった。
「……あぁ、ぁ……」
ろくな言葉も発せられず、剣も落としたクレス。
普通ではない状況にミントは、自分の心が不安に覆われるのを感じた。
すぐ目の前にクレスがいるのに、とても心もとない。
彼がいつの間にか目の前からいなくなってしまっていても別におかしくないくらいだ。
自分の知るクレスが忽然と消えてしまう。そのことにミントは恐怖を覚えた。
どこかで彼を繋ぎ止めていなければ、あらゆることが終わるとさえ思った。
何も映さない目に宿る闇をかき消して、何もない真っ白な世界が目の前に現れるだろう。
終わりが来るのだ。
――心を包んでいる冷気を振り払い、彼女は目前の儚い少年がいるだろう位置を見据えた。
彼の存在を確かめたい。彼の体温を感じたい。
彼女もまた、クレスに繋ぎ止められていた。
痙攣していた僕の足は膝を畳み、地へと落ちる。
ぞわぞわと頭の中で何かが忙しなく蠢く。
瓶の中に閉じ込められた羽虫が行き場を求めて、ガラスにぶつかりながらも飛ぶように。
頭皮の裏側を走る寒気と痺れが僕の正常さを奪っていった。
上げられている奇声は掠れていき、どこかもう1枚壁を隔てた先にあるようなものとしか思えない。
頭を押さえ必死に痛みにこらえている姿すらもはや滑稽にしか見えない。
それほど僕は僕から遠くなってしまった。
「……あぁ、ぁ……」
ろくな言葉も発せられず、剣も落としたクレス。
普通ではない状況にミントは、自分の心が不安に覆われるのを感じた。
すぐ目の前にクレスがいるのに、とても心もとない。
彼がいつの間にか目の前からいなくなってしまっていても別におかしくないくらいだ。
自分の知るクレスが忽然と消えてしまう。そのことにミントは恐怖を覚えた。
どこかで彼を繋ぎ止めていなければ、あらゆることが終わるとさえ思った。
何も映さない目に宿る闇をかき消して、何もない真っ白な世界が目の前に現れるだろう。
終わりが来るのだ。
――心を包んでいる冷気を振り払い、彼女は目前の儚い少年がいるだろう位置を見据えた。
彼の存在を確かめたい。彼の体温を感じたい。
彼女もまた、クレスに繋ぎ止められていた。
ミントは闇雲に手を動かして彼の手を探した。
そして頭を抱えた手を探し当てると、そっと手を添えた。
手の存在に気付いたクレスは前方を向く。
そこには、ぼんやりと霞がかった視界に存在する女の子の姿。
とても線の細い、儚くもどこか強さを持つ姿。
人。人だ。肉の塊だ。
僕はもう力を持てない。力を持つ理由がない。
魔王になった騎士にお姫様を救えるわけなどないんだから。
壊して征服しきった何もない地平線を眺めるだけの、可哀想な魔王に存在意義はないんだ。
何をしていいのか分からない。何をすればいいのか分からない。だから、とりあえず――殺そう。
もう剣を握る資格なんてないけれど、こんな俺は殺すことしかできないのだから。
僕は足りない酸素を吸い込もうとするかのように首元に手を伸ばした。
そのまま組み敷き、手を思い切り下方へと押しつける。
ばさりと綺麗なブロンドヘアーが波を打って広がった。
目を細め、口を半開きにし、彼女はとても苦しそうな表情で喘いでいる。
白い手袋の嵌められた手を僕の手へと伸ばし、手をほどこうとしている。
光のない彼女の瞳に、にやりと笑っている僕の姿が映っていた。
(ころしてやる。ころしてやる……!!)
指の関節が曲がり、それが皮膚と骨に食い込む感触が心地いい。
ぎりぎりと肌が軋む。開けっ放しになった彼女の口から唾液が伝う。
ひゅうひゅうと掠れた息づかいが唯一の音で僕の耳を満たした。
彼女は手を添えるだけで、暴れもしなかった。
静かに、僕は彼女に死を与えようとしていた。まるで見たくないかのように。
それを見る俺を、ここで終わらせるかのように。
そして頭を抱えた手を探し当てると、そっと手を添えた。
手の存在に気付いたクレスは前方を向く。
そこには、ぼんやりと霞がかった視界に存在する女の子の姿。
とても線の細い、儚くもどこか強さを持つ姿。
人。人だ。肉の塊だ。
僕はもう力を持てない。力を持つ理由がない。
魔王になった騎士にお姫様を救えるわけなどないんだから。
壊して征服しきった何もない地平線を眺めるだけの、可哀想な魔王に存在意義はないんだ。
何をしていいのか分からない。何をすればいいのか分からない。だから、とりあえず――殺そう。
もう剣を握る資格なんてないけれど、こんな俺は殺すことしかできないのだから。
僕は足りない酸素を吸い込もうとするかのように首元に手を伸ばした。
そのまま組み敷き、手を思い切り下方へと押しつける。
ばさりと綺麗なブロンドヘアーが波を打って広がった。
目を細め、口を半開きにし、彼女はとても苦しそうな表情で喘いでいる。
白い手袋の嵌められた手を僕の手へと伸ばし、手をほどこうとしている。
光のない彼女の瞳に、にやりと笑っている僕の姿が映っていた。
(ころしてやる。ころしてやる……!!)
指の関節が曲がり、それが皮膚と骨に食い込む感触が心地いい。
ぎりぎりと肌が軋む。開けっ放しになった彼女の口から唾液が伝う。
ひゅうひゅうと掠れた息づかいが唯一の音で僕の耳を満たした。
彼女は手を添えるだけで、暴れもしなかった。
静かに、僕は彼女に死を与えようとしていた。まるで見たくないかのように。
それを見る俺を、ここで終わらせるかのように。
暗闇が更に塗り替えられていくと、私は思いました。
真っ暗な部屋で瞼を落としたときのような、そんな感覚です。
何もない景色は遠く離れていき、細く細く絞られていく。
私は死ぬのだ、と理解しました。
頭がぼんやりします。意識が遠くなっていく。
何の思考も滑り込む余地がなくなり、頭が重苦しい灰色の空気でいっぱいになっていきます。
洞窟で体験した息苦しさがもう1度だけ蘇ってくる。
私はクレスさんに殺される。
それはとても恐怖を覚えるのと同時に、昨晩にはなかった不思議な安堵感がありました。
刃でも何でもなく、その人の2つの手で命を奪われる。
愛する人の手に、私の首を絞めた感触が残る。
肌と肌を触れ合わせて、私は死ぬ。
きっと恐ろしい考えでもあるのでしょう。それでも、私は安心することができました。
クレスさんの存在を感じたまま死ぬことができるのですから。
喉元で強烈に感じる手の感触が消えていきます。
そして私の意識も、同じように――――それで、いいの?
真っ暗な部屋で瞼を落としたときのような、そんな感覚です。
何もない景色は遠く離れていき、細く細く絞られていく。
私は死ぬのだ、と理解しました。
頭がぼんやりします。意識が遠くなっていく。
何の思考も滑り込む余地がなくなり、頭が重苦しい灰色の空気でいっぱいになっていきます。
洞窟で体験した息苦しさがもう1度だけ蘇ってくる。
私はクレスさんに殺される。
それはとても恐怖を覚えるのと同時に、昨晩にはなかった不思議な安堵感がありました。
刃でも何でもなく、その人の2つの手で命を奪われる。
愛する人の手に、私の首を絞めた感触が残る。
肌と肌を触れ合わせて、私は死ぬ。
きっと恐ろしい考えでもあるのでしょう。それでも、私は安心することができました。
クレスさんの存在を感じたまま死ぬことができるのですから。
喉元で強烈に感じる手の感触が消えていきます。
そして私の意識も、同じように――――それで、いいの?
きらり、と何かが見えました。
それは1本の波打つ緑の線でした。やがて線は2本、3本と増えていきました。
あらゆるところから伸ばされ、あらゆるところに繋がる緑の稜線は、私を――いえ、世界を包んでいました。
私はこの感覚を知っています。
ティトレイさんを助けたいと願ったとき、あの種子から感じた流れ。とても優しく、暖かさに満ち溢れたもの。
そう、これはマナの――世界を漂う元素の流れ。
そして、流動する世界を繋ぐものであり、世界そのものの流れ。
世界の鼓動と呼吸が聞こえる。
織り合わされたさまざまな流れがメロディーラインを作り出して、それがまた重なり合って美しいアンサンブルを奏でる。
響きと調和が世界の形を作っているのです。
『ミント……』
声をかけられ、そちらの方を向くと、確かに1人の女性が立っていました。
何も映すことのない私の目にしっかりと像は結ばれています。
鮮やかな若葉色のロングヘアーの女性――私は、その方がすぐにマーテル様だと気付きました。
私の目に見える緑の稜線は、すべて彼女に集い、同時に分岐しているのですから。
マーテル様はすぐ目の前にまで来て、私の顔をじっと見つめました。
花のような、とてもいい香りがします。
それは1本の波打つ緑の線でした。やがて線は2本、3本と増えていきました。
あらゆるところから伸ばされ、あらゆるところに繋がる緑の稜線は、私を――いえ、世界を包んでいました。
私はこの感覚を知っています。
ティトレイさんを助けたいと願ったとき、あの種子から感じた流れ。とても優しく、暖かさに満ち溢れたもの。
そう、これはマナの――世界を漂う元素の流れ。
そして、流動する世界を繋ぐものであり、世界そのものの流れ。
世界の鼓動と呼吸が聞こえる。
織り合わされたさまざまな流れがメロディーラインを作り出して、それがまた重なり合って美しいアンサンブルを奏でる。
響きと調和が世界の形を作っているのです。
『ミント……』
声をかけられ、そちらの方を向くと、確かに1人の女性が立っていました。
何も映すことのない私の目にしっかりと像は結ばれています。
鮮やかな若葉色のロングヘアーの女性――私は、その方がすぐにマーテル様だと気付きました。
私の目に見える緑の稜線は、すべて彼女に集い、同時に分岐しているのですから。
マーテル様はすぐ目の前にまで来て、私の顔をじっと見つめました。
花のような、とてもいい香りがします。
『あなたにはたくさんの迷惑をかけてしまいましたね。私も、ミトスも』
私は首を横に振りました。こうして在れるのもきっと2人のおかげ。
辛いことを乗り越えられてきたからこそ、今の私がいるのです。
『……とても強い子。そうやってあなたは他人のために尽くしてきたのでしょう』
そんな、と身を縮み込ませて私は否定しました。
身体にせよ、心にせよ、人の傷を少しでも軽くしようとするのが私たち法術士の役目。
その力は微々たるものかもしれません。けれど、もし誰かが私の力を必要としてくれているのなら、これ以上の喜びはありません。
お褒めを頂くことでも何でもないのです。それが当たり前なのですから。
『そう……そうなのでしょうね。きっと他人のために動くことがあなたにとっての幸せ。
でも、それによってあなたは自身の本当の幸せを蔑ろにしてもきたはず』
――そうなのかもしれません。
私はいつしか口を縛らせ、下に俯いていました。
『今は、あなたがあなた自身の願いを唱えた。あなたは自分の幸せを求めた』
……やはり、私は自分の幸せを求めてはいけないのでしょうか。
他の人を助ける以外の、ただ大切な人と共にいたいというだけの幸せを。
『いいえ。むしろそれを願えたことを、私はとても喜ばしく思います』
マーテル様はにっこりと微笑んで私の顔を見つめていました。
とても無垢で、何の間違いもないと言いたいかのように。
『あなたの溢れんばかりの慈愛は、きっと多くの人を救ってきたでしょう。他ならぬ私の弟でさえ。
きっと、優しいあなたの言葉ならミトスに届いているはず』
ちくり、と胸が痛むのを覚えました。私は、彼が悲痛な声を上げていたのを覚えています。
私はただあの少年を傷付けてしまっただけではないかと、今も思い続けています。
それでもマーテル様は笑っていました。
ただ私を慰めようとするためではなくて、本当に心からそう願っているように、屈託もなく。
『だから……今度は、あなたが幸せになる番です。人に力を与えてきたあなたに、今度は私が力を与えましょう。
いいえ、私だけではありません。もっとたくさんの人が、過去から続く多くの誰かたちが、あなたに力を貸してくれる。
あなたが見たことのある人たちも、見たこともない人たちも、みんな』
私の頭に腕が伸び、髪がそっと撫でられました。
私は首を横に振りました。こうして在れるのもきっと2人のおかげ。
辛いことを乗り越えられてきたからこそ、今の私がいるのです。
『……とても強い子。そうやってあなたは他人のために尽くしてきたのでしょう』
そんな、と身を縮み込ませて私は否定しました。
身体にせよ、心にせよ、人の傷を少しでも軽くしようとするのが私たち法術士の役目。
その力は微々たるものかもしれません。けれど、もし誰かが私の力を必要としてくれているのなら、これ以上の喜びはありません。
お褒めを頂くことでも何でもないのです。それが当たり前なのですから。
『そう……そうなのでしょうね。きっと他人のために動くことがあなたにとっての幸せ。
でも、それによってあなたは自身の本当の幸せを蔑ろにしてもきたはず』
――そうなのかもしれません。
私はいつしか口を縛らせ、下に俯いていました。
『今は、あなたがあなた自身の願いを唱えた。あなたは自分の幸せを求めた』
……やはり、私は自分の幸せを求めてはいけないのでしょうか。
他の人を助ける以外の、ただ大切な人と共にいたいというだけの幸せを。
『いいえ。むしろそれを願えたことを、私はとても喜ばしく思います』
マーテル様はにっこりと微笑んで私の顔を見つめていました。
とても無垢で、何の間違いもないと言いたいかのように。
『あなたの溢れんばかりの慈愛は、きっと多くの人を救ってきたでしょう。他ならぬ私の弟でさえ。
きっと、優しいあなたの言葉ならミトスに届いているはず』
ちくり、と胸が痛むのを覚えました。私は、彼が悲痛な声を上げていたのを覚えています。
私はただあの少年を傷付けてしまっただけではないかと、今も思い続けています。
それでもマーテル様は笑っていました。
ただ私を慰めようとするためではなくて、本当に心からそう願っているように、屈託もなく。
『だから……今度は、あなたが幸せになる番です。人に力を与えてきたあなたに、今度は私が力を与えましょう。
いいえ、私だけではありません。もっとたくさんの人が、過去から続く多くの誰かたちが、あなたに力を貸してくれる。
あなたが見たことのある人たちも、見たこともない人たちも、みんな』
私の頭に腕が伸び、髪がそっと撫でられました。
『あなたは、クレスを癒したいと、今も思っていますか?』
少しの間を置いて、はい、と私は思い大きく頷きました。マーテル様は手を添えたまま優しげな表情を浮かべていました。
彼女の力が手を通じて私の中に流れ込んでくる気がしました。
ですが何故でしょうか。そこには、悲しい感情のかけらもありました。
――いいえ、理由は分かっています。今の私には、クレスさんを癒すほどの源はありません。
それこそ精神を、命を……いえ、もしかしたらそれ以上のものさえ犠牲にしなければいけない。
それでもいいんです。もう覚悟はできています。
私はクレスさんに殺されることを喜びもしたけれど、
クレスさんをあのままにしておくことの方が、私にはよっぽど辛いんです。
……でも、マーテル様。あなたはそれでいいのですか?
私が多くのものを犠牲にしなければいけないということは、それは「あなた」さえも含まれているのでしょうから。
『いいのですよ。私という存在が欠けてしまうかもしれないあなたを埋められるのであれば、それは私はあなたと1つとなるということ。
怖がるものなど、どこにあるのですか?』
その言葉に私の心は大きく震え、目元に熱いものがこみ上げてきて潤んでしまいました。
これで私は恐れることもなく決断を下すことができる。
私はここでマーテル様と出会えたことを本当に嬉しく思いました。
『永劫を生きる勇気が、あなたの中にはありますか?』
私は手を組み、目を閉じました。
『一線を越え、すべてを超越する勇気が、あなたの中にはありますか?』
そして祈りを捧げます。どうか力をお貸し下さい、と。
世界を包むメロディーが私の呼吸と重なっていきます。それは世界との契約。
少しの間を置いて、はい、と私は思い大きく頷きました。マーテル様は手を添えたまま優しげな表情を浮かべていました。
彼女の力が手を通じて私の中に流れ込んでくる気がしました。
ですが何故でしょうか。そこには、悲しい感情のかけらもありました。
――いいえ、理由は分かっています。今の私には、クレスさんを癒すほどの源はありません。
それこそ精神を、命を……いえ、もしかしたらそれ以上のものさえ犠牲にしなければいけない。
それでもいいんです。もう覚悟はできています。
私はクレスさんに殺されることを喜びもしたけれど、
クレスさんをあのままにしておくことの方が、私にはよっぽど辛いんです。
……でも、マーテル様。あなたはそれでいいのですか?
私が多くのものを犠牲にしなければいけないということは、それは「あなた」さえも含まれているのでしょうから。
『いいのですよ。私という存在が欠けてしまうかもしれないあなたを埋められるのであれば、それは私はあなたと1つとなるということ。
怖がるものなど、どこにあるのですか?』
その言葉に私の心は大きく震え、目元に熱いものがこみ上げてきて潤んでしまいました。
これで私は恐れることもなく決断を下すことができる。
私はここでマーテル様と出会えたことを本当に嬉しく思いました。
『永劫を生きる勇気が、あなたの中にはありますか?』
私は手を組み、目を閉じました。
『一線を越え、すべてを超越する勇気が、あなたの中にはありますか?』
そして祈りを捧げます。どうか力をお貸し下さい、と。
世界を包むメロディーが私の呼吸と重なっていきます。それは世界との契約。
「私は信じます。クレスさんと共に見る未来があるということを」
目を伏せた私を包み込むのは、優しく暖かな春の陽射し。
痛みのない温もりが肌に触れて、皮膚を通して内に溶けて澄んでいく。
それは人の抱擁にも似ていました。
雨が大地に染み込んでいくようにゆっくりと、草花が根を張るようにしっかりと、
暖かみは私の中で交わり重なり合っていき、やがて私そのもの――世界そのものとなっていきました。
痛みのない温もりが肌に触れて、皮膚を通して内に溶けて澄んでいく。
それは人の抱擁にも似ていました。
雨が大地に染み込んでいくようにゆっくりと、草花が根を張るようにしっかりと、
暖かみは私の中で交わり重なり合っていき、やがて私そのもの――世界そのものとなっていきました。
世界を形作る稜線が揺らめき、波紋を作り出しました。
そしてその次に目の前に広がったのは――――普通の梢より一回りも二回りも太い幹と、屋根のように大きく広がる鮮やかな緑の葉たち。
僅かに差し込む木漏れ日の中で見るそれは、まさに大樹と呼ぶにふさわしいものでした。
そしてその次に目の前に広がったのは――――普通の梢より一回りも二回りも太い幹と、屋根のように大きく広がる鮮やかな緑の葉たち。
僅かに差し込む木漏れ日の中で見るそれは、まさに大樹と呼ぶにふさわしいものでした。
法術は神や大地の加護によって許される術。
それなら、この力強い感触はまさにその加護だったのかもしれません。
私の力の一部として、いいえ、力そのものが私となって。
人としての境界線がだんだんと薄らいでいって――――……
それなら、この力強い感触はまさにその加護だったのかもしれません。
私の力の一部として、いいえ、力そのものが私となって。
人としての境界線がだんだんと薄らいでいって――――……
青白い喉元がさらに白く燃え上がる。
クレスの手に触れていたミントの手が淡い光を発する。
光に溶け込んでいくように、白い手袋のはめられた手が指先から消えていく。
生物のいない夕闇の村は、世界は思いのほか静かで、寂しい。
しかしその光は世界に満ちる孤独さえ取り払っていくように明るく、暖かい。
首を絞めるクレスの力が少しだけ緩む。
ミントは微かに笑い、囁くように小さく口を動かす。
光が一層強く満ちた。
クレスの手に触れていたミントの手が淡い光を発する。
光に溶け込んでいくように、白い手袋のはめられた手が指先から消えていく。
生物のいない夕闇の村は、世界は思いのほか静かで、寂しい。
しかしその光は世界に満ちる孤独さえ取り払っていくように明るく、暖かい。
首を絞めるクレスの力が少しだけ緩む。
ミントは微かに笑い、囁くように小さく口を動かす。
光が一層強く満ちた。
なくなってしまえ。よろこびも、かなしみも、なにもかも。
何も存在しない暗闇の中を、僕は真っ逆さまに落ちていく。
空気を裂くような落下の感触は感じない。それでも僕は落ちているのだと分かった。
投げ出された腕は上空に伸ばされていたし、背のマントは身体に張り付いている。
髪がばさばさとはためいて、海の中にいるかのように1本1本が揺らめいている。
ここの感触は、心地よかった。
柔らかいものに包まれているような、たとえば胎児を優しく包み込む羊水のような感覚。
そして暖かな母胎の中にいるような感覚だった。
もしかしたら僕は目を閉じ、赤子として眠っているのかもしれない――――そんなことすら考えてしまう。
僕はこの静かな闇の中にこのまま埋葬されてしまうのだろう。
何もないここに帰趨し、誰の目にも見つかることなく溶けて消えてしまう。
いつか心地よい倦怠感に呑まれて意識をふっと消せば、それが僕の最後だ。
この底なしの暗闇の泥に沈んでいくように同化して、そのままだ。
だって、僕は――もう、僕じゃないから。
空気を裂くような落下の感触は感じない。それでも僕は落ちているのだと分かった。
投げ出された腕は上空に伸ばされていたし、背のマントは身体に張り付いている。
髪がばさばさとはためいて、海の中にいるかのように1本1本が揺らめいている。
ここの感触は、心地よかった。
柔らかいものに包まれているような、たとえば胎児を優しく包み込む羊水のような感覚。
そして暖かな母胎の中にいるような感覚だった。
もしかしたら僕は目を閉じ、赤子として眠っているのかもしれない――――そんなことすら考えてしまう。
僕はこの静かな闇の中にこのまま埋葬されてしまうのだろう。
何もないここに帰趨し、誰の目にも見つかることなく溶けて消えてしまう。
いつか心地よい倦怠感に呑まれて意識をふっと消せば、それが僕の最後だ。
この底なしの暗闇の泥に沈んでいくように同化して、そのままだ。
だって、僕は――もう、僕じゃないから。
(クレスさん!)
ふわり、と僕の顔に何かが触れる。
ひんやりと柔らかかったそれは、すぐにじんわりと溶けて水になった。
頬を伝う一筋のそれは涙のようだと僕は思った。
ああ、僕はこれを知っている。
肌を刺すような寒さの中、彼女と外で座って見上げた――――
ひんやりと柔らかかったそれは、すぐにじんわりと溶けて水になった。
頬を伝う一筋のそれは涙のようだと僕は思った。
ああ、僕はこれを知っている。
肌を刺すような寒さの中、彼女と外で座って見上げた――――
頬からこぼれた滴が落ちていって、闇の中で白い小さな波紋が生まれる。
身体が一気に熱を覚える。
重くなっていた瞼がぱちりと開く。
柔らかな感触の中で感じる、突然の風。
髪とマントが強くはためき、僕は持っている2つの目で闇を見る。
間欠泉のような、劇的な運動だった。
突如現れた、白さの中に色に溢れた数多の連続的な光景が下から上へとせり上がって行く。
強い風を纏って、急速に駆け上っていく。
その鮮やかさに僕は目を瞠り、首を左右に振りながらそれらを見つめた。
戦闘。会話。仲間。風景。笑顔。悲痛。憎悪。恐怖。絶望。希望。あれも、これも。
そのどれもが見覚えのある景色だった。今まで僕が見てきたすべてのものだった。
暗闇は一気に、水に浸した布のように光と色に満ち溢れていく。
はるか上空の消失点まで光景の弾幕は上り、なおも止まることなく流れ続ける。
楽しかった思い出も、辛かった思い出も、今まで閉じ込められていた箱から解放されたかのように。
その中にはたくさんの人がいる。
父さんや母さん、チェスターやアミィ、クラースさん、アーチェ、すずちゃん、……ダオス、そして――
重くなっていた瞼がぱちりと開く。
柔らかな感触の中で感じる、突然の風。
髪とマントが強くはためき、僕は持っている2つの目で闇を見る。
間欠泉のような、劇的な運動だった。
突如現れた、白さの中に色に溢れた数多の連続的な光景が下から上へとせり上がって行く。
強い風を纏って、急速に駆け上っていく。
その鮮やかさに僕は目を瞠り、首を左右に振りながらそれらを見つめた。
戦闘。会話。仲間。風景。笑顔。悲痛。憎悪。恐怖。絶望。希望。あれも、これも。
そのどれもが見覚えのある景色だった。今まで僕が見てきたすべてのものだった。
暗闇は一気に、水に浸した布のように光と色に満ち溢れていく。
はるか上空の消失点まで光景の弾幕は上り、なおも止まることなく流れ続ける。
楽しかった思い出も、辛かった思い出も、今まで閉じ込められていた箱から解放されたかのように。
その中にはたくさんの人がいる。
父さんや母さん、チェスターやアミィ、クラースさん、アーチェ、すずちゃん、……ダオス、そして――
白い世界にいる僕の中でどす黒い何かが目を覚ます。
どこかぼんやりとしていた頭が、すっと透き通っていく。再び明瞭になる視界。
その中で僕はけたたましいほどの叫び声を上げていた。
そうか。なんて大事なことを忘れていたんだろう。
僕はこんなにも出会いに恵まれていた。僕を形成する大切なものの1つだった。
今まで通せんぼされていたけれど、もう僕には分かる。これがどんなに尊く愛おしいものかって。
だから同時に、その輝きの下に浮かぶ黒い影が僕を掴む。
大事な思い出を忘れ去って僕は何人もの罪なき人を殺した。
命を奪う瞬間に何物にも代えがたい悦びに浸っていた。
いもしない魔王と幻の少女を作り出して、大切な人たちの思いを無碍にしていた。
一体僕は何をしていたんだ。どうして、こんなことを。
内側から溢れだす業が怨磋の声を上げながら全身を侵していく。
止めどない悔恨と罪悪感が背に乗しかかり、圧死してしまいそうなほどに押しつけてくる。
頭の中がぐるぐると回転し、自身への憎しみが僕の脳ごと奪っていこうとする。
謝罪の言葉はどこにも届かない。そして誰も帰ってこない。
駄目だ。僕は喜びに浸っていい人間なんかじゃない。
僕はこの無に還るべき罪人なんだ。
上っていく光景に触れることはできないけど、発せられている熱を感じることはできる。
その熱が僕の中で凍えた何かを浮き彫りにさせる。
その中で僕はけたたましいほどの叫び声を上げていた。
そうか。なんて大事なことを忘れていたんだろう。
僕はこんなにも出会いに恵まれていた。僕を形成する大切なものの1つだった。
今まで通せんぼされていたけれど、もう僕には分かる。これがどんなに尊く愛おしいものかって。
だから同時に、その輝きの下に浮かぶ黒い影が僕を掴む。
大事な思い出を忘れ去って僕は何人もの罪なき人を殺した。
命を奪う瞬間に何物にも代えがたい悦びに浸っていた。
いもしない魔王と幻の少女を作り出して、大切な人たちの思いを無碍にしていた。
一体僕は何をしていたんだ。どうして、こんなことを。
内側から溢れだす業が怨磋の声を上げながら全身を侵していく。
止めどない悔恨と罪悪感が背に乗しかかり、圧死してしまいそうなほどに押しつけてくる。
頭の中がぐるぐると回転し、自身への憎しみが僕の脳ごと奪っていこうとする。
謝罪の言葉はどこにも届かない。そして誰も帰ってこない。
駄目だ。僕は喜びに浸っていい人間なんかじゃない。
僕はこの無に還るべき罪人なんだ。
上っていく光景に触れることはできないけど、発せられている熱を感じることはできる。
その熱が僕の中で凍えた何かを浮き彫りにさせる。
(クレスさん!)
聞き覚えのある声がする。必死に、けれど感情を込めて呼んでいる。
そういえば昼間近くにも同じことがなかったっけ。
何回も何回も僕の名前を呼んでいた。だけど僕は忘れていた。
ずっと僕を呼んでいたのに、僕は気づいてあげられなかった。
ごめんね。きっと君は思い出の中にいる人で、僕は君をすごく待たせてしまったんだろう。
でも僕は君には会えない。君に会う資格がない。
こんな血まみれの僕に会ったって、君は僕をクレスだと思うだろうか?
そんな訳がない。僕だって思わない。だから僕は君を抱き止めることなんてできないんだ。
そういえば昼間近くにも同じことがなかったっけ。
何回も何回も僕の名前を呼んでいた。だけど僕は忘れていた。
ずっと僕を呼んでいたのに、僕は気づいてあげられなかった。
ごめんね。きっと君は思い出の中にいる人で、僕は君をすごく待たせてしまったんだろう。
でも僕は君には会えない。君に会う資格がない。
こんな血まみれの僕に会ったって、君は僕をクレスだと思うだろうか?
そんな訳がない。僕だって思わない。だから僕は君を抱き止めることなんてできないんだ。
はるか先にある焦点から人影が1つ現れる。
落ちる僕に追いつこうとするかのように、影もまた落ちてくる。
ひらひらとローブがはためき、長い髪が風にあおられている。
だんだん影は大きくなり僕に近づいてくる。
その光景に、僕は――――剣の柄を握ろうとした。
落ちる僕に追いつこうとするかのように、影もまた落ちてくる。
ひらひらとローブがはためき、長い髪が風にあおられている。
だんだん影は大きくなり僕に近づいてくる。
その光景に、僕は――――剣の柄を握ろうとした。
僕は僕を待っている人のために力を求め力を得るために剣として人を殺す。
空に剣を振るい返り血を浴びて、僕の剣は更に輝きを増し錆で研ぎ澄まされる。
光のない丘にさくりさくりと剣を刺しながらずっとずーっと笑う。
飽くなき力を求め飽和した杯にいつまでも力への欲と、末に湧き出た赤い液体を注ぐ。
それが「剣」としての僕。
君が望むクレスはここにはいないんだ――――
空に剣を振るい返り血を浴びて、僕の剣は更に輝きを増し錆で研ぎ澄まされる。
光のない丘にさくりさくりと剣を刺しながらずっとずーっと笑う。
飽くなき力を求め飽和した杯にいつまでも力への欲と、末に湧き出た赤い液体を注ぐ。
それが「剣」としての僕。
君が望むクレスはここにはいないんだ――――
「――――クレスさん!!」
それでも彼女は、僕の名前を呼んでくれる。
僕は剣を振るっていた。一筋の太刀は見事に空を斬り裂いていた。
裂かれた空の向こうから金髪の少女が現れる。
腰まで届く髪、白い法衣、法術師の証である帽子、優しい青い瞳。
輪郭が一気に鮮明になり、欠けていたピースが繋がっていく感覚を覚える。
今なら、今なら確かに思い出せる。
この島で出会ったあの少女に重ねていた大切な、僕が待っている――待っていた人。
その彼女に、1本の赤い線が走っている。白の衣に際立つ、鮮烈な真紅の色が。
軌跡を繋ぐように赤い線は飛沫となって道を作り、それは――僕が握る剣の先に続いている。
裂かれた空の向こうから金髪の少女が現れる。
腰まで届く髪、白い法衣、法術師の証である帽子、優しい青い瞳。
輪郭が一気に鮮明になり、欠けていたピースが繋がっていく感覚を覚える。
今なら、今なら確かに思い出せる。
この島で出会ったあの少女に重ねていた大切な、僕が待っている――待っていた人。
その彼女に、1本の赤い線が走っている。白の衣に際立つ、鮮烈な真紅の色が。
軌跡を繋ぐように赤い線は飛沫となって道を作り、それは――僕が握る剣の先に続いている。
狂おしく僕は罪を繰り返す。僕の剣はもはや人を殺すことしか知らない。
叫び声は上がらなかった。自分でも何をしたのか分からなくて、呆然としていた。
ただただ嗚咽にも似た呻き声が口から洩れるだけで、僕は何もしようとしなかった。
僕が、彼女を斬った。大切な人を、ただ自分を否定したいだけの理由で斬った。
僕の名前を呼ぶ彼女を消せなければ何もかも終わりにできないからと、僕は、彼女を斬ったんだ。
――――なんて、馬鹿らしくて愚かしくて、取り返しのつかないことを。
ただただ嗚咽にも似た呻き声が口から洩れるだけで、僕は何もしようとしなかった。
僕が、彼女を斬った。大切な人を、ただ自分を否定したいだけの理由で斬った。
僕の名前を呼ぶ彼女を消せなければ何もかも終わりにできないからと、僕は、彼女を斬ったんだ。
――――なんて、馬鹿らしくて愚かしくて、取り返しのつかないことを。
降りてくる彼女は僕へと片手を差し伸べる。僕は手を伸ばすことが怖くて、動けなかった。
そんな僕の震える手を彼女は優しく包みこんでくれた。
指先が触れあう。僕はやっと届いていなかった場所に来ることができたんだ。
瞬時にそう理解するとだんだん呼吸のリズムが早まっていった。彼女とはひどく長く会っていなかった気がした。
僕は迫りくる罪の意識と、彼女を抱き止めたい欲求との中で葛藤していた。
確かに僕に彼女を抱き締める資格なんてない。
多くの人を傷付け殺し、挙句の果てに彼女の命まで奪おうとしてしまった僕に、どうしてそんなことが許されるだろうか。
けれど痛いほどに分かるんだ。この時を逃してしまったら、もう2度と抱くことなどできないということが。
僕が恐る恐る手を出すと、その手も彼女は握ってくれた。
そうだ、彼女はこんなにも優しい人だった。優しすぎて、時に人を傷付けてしまいかねないほどだった。
今この時だけは、どうか彼女の熱を感じさせてください。
包まれていた手を彼女の背へと回し、思い切り抱き締める。
剣で斬ったときとは違う柔らかい肉の感触が僕の胸を満たし、心地よい熱が余計な思考すべてを消していく。
幻じゃない。確かに彼女は、ミント・アドネードは僕の目の前にいる。
こんな僕が彼女を抱き止めていいのだろうか、という考えが今一度脳裏をよぎったが、今はただ喜びに埋もれていたかった。
そんな僕の震える手を彼女は優しく包みこんでくれた。
指先が触れあう。僕はやっと届いていなかった場所に来ることができたんだ。
瞬時にそう理解するとだんだん呼吸のリズムが早まっていった。彼女とはひどく長く会っていなかった気がした。
僕は迫りくる罪の意識と、彼女を抱き止めたい欲求との中で葛藤していた。
確かに僕に彼女を抱き締める資格なんてない。
多くの人を傷付け殺し、挙句の果てに彼女の命まで奪おうとしてしまった僕に、どうしてそんなことが許されるだろうか。
けれど痛いほどに分かるんだ。この時を逃してしまったら、もう2度と抱くことなどできないということが。
僕が恐る恐る手を出すと、その手も彼女は握ってくれた。
そうだ、彼女はこんなにも優しい人だった。優しすぎて、時に人を傷付けてしまいかねないほどだった。
今この時だけは、どうか彼女の熱を感じさせてください。
包まれていた手を彼女の背へと回し、思い切り抱き締める。
剣で斬ったときとは違う柔らかい肉の感触が僕の胸を満たし、心地よい熱が余計な思考すべてを消していく。
幻じゃない。確かに彼女は、ミント・アドネードは僕の目の前にいる。
こんな僕が彼女を抱き止めていいのだろうか、という考えが今一度脳裏をよぎったが、今はただ喜びに埋もれていたかった。
「ミント、ごめん、ごめんね。僕は君のことを記憶の中から消してしまってた。
違う女の子に君の姿を重ねて、本当の君のことを見向きもしなかった。
僕のことを忘れたのかなんて聞いておきながら、本当に忘れてたのは僕の方だったんだ」
ひどく長い時間そうしていたと思う。
懐抱したまま、頭を彼女の肩に置いて僕は謝罪の言葉を吐いた。ごめんね、ごめんねと何回も繰り返した。
それでもミントは首を横に振って、言葉は唱えずにぎゅっと抱き返してくれる。
「僕は……僕は取り返しのつかないことをたくさんしてしまった。君が思っている以上に。今も、君のことを。
それでも、君は僕の傍にいてくれるの?」
ミントは抱擁を解いてまっすぐに僕の顔を見つめた。
いつも通りの変わらない微笑みと、優しくも真摯な表情が顔に浮かんでいた。
「人は過ちを犯すものです。大切なのはそれを正せるかどうか。私は、クレスさんを信じています」
そう言って彼女は甲が傷ついた僕の手を取り、両手で包みこむ。
瞬時に痛みに引いていくのが分かった。肉が繋がり、傷口が塞がっていった。
彼女が術を唱えたのかどうかは分からない。分からないほど、そんな様子を見せなかった。
もしこれが法術だとしたら、彼女は瞬時に、言葉も紡がずに発動させたのだろうか。
ミントはユニコーンに認められたほどの優秀な法術士だ。
それでも、こんな芸当を旅では見せたことはない。
明らかに常識を超える――異常。
違う女の子に君の姿を重ねて、本当の君のことを見向きもしなかった。
僕のことを忘れたのかなんて聞いておきながら、本当に忘れてたのは僕の方だったんだ」
ひどく長い時間そうしていたと思う。
懐抱したまま、頭を彼女の肩に置いて僕は謝罪の言葉を吐いた。ごめんね、ごめんねと何回も繰り返した。
それでもミントは首を横に振って、言葉は唱えずにぎゅっと抱き返してくれる。
「僕は……僕は取り返しのつかないことをたくさんしてしまった。君が思っている以上に。今も、君のことを。
それでも、君は僕の傍にいてくれるの?」
ミントは抱擁を解いてまっすぐに僕の顔を見つめた。
いつも通りの変わらない微笑みと、優しくも真摯な表情が顔に浮かんでいた。
「人は過ちを犯すものです。大切なのはそれを正せるかどうか。私は、クレスさんを信じています」
そう言って彼女は甲が傷ついた僕の手を取り、両手で包みこむ。
瞬時に痛みに引いていくのが分かった。肉が繋がり、傷口が塞がっていった。
彼女が術を唱えたのかどうかは分からない。分からないほど、そんな様子を見せなかった。
もしこれが法術だとしたら、彼女は瞬時に、言葉も紡がずに発動させたのだろうか。
ミントはユニコーンに認められたほどの優秀な法術士だ。
それでも、こんな芸当を旅では見せたことはない。
明らかに常識を超える――異常。
僕の胸に一抹の予感が過ぎる。底の見えない沼から足を掴まれたような予感が。
それをかき消すように僕はミントを求める。
ミントの手を解いて僕の腕がミントの身体まで回る前に、僕が抱き締める前に、
彼女はもう1度だけ2人の手を重ね合わさせて、唇をそっと触れ合わせた。
それが、彼女にとっての僕への赦しだったのだろう。
それをかき消すように僕はミントを求める。
ミントの手を解いて僕の腕がミントの身体まで回る前に、僕が抱き締める前に、
彼女はもう1度だけ2人の手を重ね合わさせて、唇をそっと触れ合わせた。
それが、彼女にとっての僕への赦しだったのだろう。
永久に消えてしまう体温を感じるためなのか、自分の体温を相手に伝えるためなのか。
もしかしたら相手が目を覚ましてくれるかもしれないという期待のスイッチかもしれないし、単に哀惜のメッセージなのかもしれない。
彼女の意図が本当は何であるのかは、もはや僕には分からない。
ただそんなことを考えたのは、彼女の表情がどこか永訣を思わせる寂寞に満ちていたからだ。
もしかしたら相手が目を覚ましてくれるかもしれないという期待のスイッチかもしれないし、単に哀惜のメッセージなのかもしれない。
彼女の意図が本当は何であるのかは、もはや僕には分からない。
ただそんなことを考えたのは、彼女の表情がどこか永訣を思わせる寂寞に満ちていたからだ。
『さあ、もう1度問うよ。君は、誰だい?』
「剣」としての彼は僕であり、僕は彼だ。
殺意が薬の作用さえ上回って表れたんだ。それは間違いじゃない。
だけど、僕も彼ももう分かっている。こうなった以上もう満たされることはない、と。
どんなに杯に注いでも胸の空洞からぼろぼろ落ちていって、満たされない心は更に渇いていく。
そして僕が空洞を満たす何かを求めるのと等しく、僕の記憶の中にいる人たちは僕に何かを求めている。
このままではすれ違うばかりだ。
今この目に映っているのは終わりのない無の地平線。幻の向こう側には意味のない空しさしか存在していなかった。
彼では、支えるもののないこの抜け殻は重すぎる。無が空洞を満たすことなんて到底ありえないのだから。
このままでは彼女を本当に見つけ出すことなんてできない。捉えられるのは影や輪郭や一筋の記憶だけ。
幻に捕らわれていた僕には現実を見出すことはできない。
現実に存在している彼女を見つけ出すことはできない。
けれど――幻が取り払われて現れた、現実を覆う無さえもまた、幻想だ。
あるべきものの本来の姿を捉えられないというのなら、それは本物じゃない。
だから幻想を見続けている彼は、間違いだ。
そこに僕を待っている人はいない。僕を待ってくれている人は「ここ」にいる。
殺意が薬の作用さえ上回って表れたんだ。それは間違いじゃない。
だけど、僕も彼ももう分かっている。こうなった以上もう満たされることはない、と。
どんなに杯に注いでも胸の空洞からぼろぼろ落ちていって、満たされない心は更に渇いていく。
そして僕が空洞を満たす何かを求めるのと等しく、僕の記憶の中にいる人たちは僕に何かを求めている。
このままではすれ違うばかりだ。
今この目に映っているのは終わりのない無の地平線。幻の向こう側には意味のない空しさしか存在していなかった。
彼では、支えるもののないこの抜け殻は重すぎる。無が空洞を満たすことなんて到底ありえないのだから。
このままでは彼女を本当に見つけ出すことなんてできない。捉えられるのは影や輪郭や一筋の記憶だけ。
幻に捕らわれていた僕には現実を見出すことはできない。
現実に存在している彼女を見つけ出すことはできない。
けれど――幻が取り払われて現れた、現実を覆う無さえもまた、幻想だ。
あるべきものの本来の姿を捉えられないというのなら、それは本物じゃない。
だから幻想を見続けている彼は、間違いだ。
そこに僕を待っている人はいない。僕を待ってくれている人は「ここ」にいる。
僕は存在を宣言する。
僕は、クレス・アルベイン。
トーティス村の生まれで、ダジャレが大好きで、チェスター・バークライトとアミィ・バークライトと仲がよくて、
後に知り合ったクラース・F・レスター、アーチェ・クライン、藤林すずらと共にダオスを倒した張本人で、
剣士で、寒いダジャレが好きで、僕が待っている人と僕を待っている人がいる。
僕は、クレス・アルベイン。
トーティス村の生まれで、ダジャレが大好きで、チェスター・バークライトとアミィ・バークライトと仲がよくて、
後に知り合ったクラース・F・レスター、アーチェ・クライン、藤林すずらと共にダオスを倒した張本人で、
剣士で、寒いダジャレが好きで、僕が待っている人と僕を待っている人がいる。
だから僕は、幻より旅立って痛みを伴う現実の大地に立とう。
罪も業も消せないし到底償えるものではないけれど、それでも、僕は僕として立ち上がろう。
罪も業も消せないし到底償えるものではないけれど、それでも、僕は僕として立ち上がろう。
「彼の者を死の淵より呼び戻せ――――レイズデッド」
□
彼は急に身体が前のめりになる感覚を覚えて、はっと目を覚ました。
境をなくした手が勢いよく地へと着き、手首は体重を支えきれずそのまま倒れ込んだ。
陽は完全に沈む少し前にまで落ちており、存在を大きくした夜と影が村の地面を覆っている。
地面に、人影は1人分しかない。
呆然とするしかなかった。
彼は身を起こし、けれども地に手を付け四つん這いの体勢で地面を見つめた。
今まで自分の下にいただろう少女はどこにもおらず、荒れ果てた大地だけが、透き通ったように彼の眼に結ばれている。
地に何度も手をこすりつける。土に爪を立てグローブが破けるほどに削ってみてもただめくり返るばかりで、痕跡だけが刻まれていく。
汚れのない白などどこにもない。あるのは爪に挟まった土と、静かな闇だけだ。
それが紛れもない現実であることを悟って、彼は自分の思考が整然としていることに気付く。
目が何の間違いもなく世界を捉え、耳が物音の少ない静寂にそばだてている。
身体が痛みを正確に把握し、舌が口の中に広がる鉄の味を吟味する。
そして、はっきりと昔のことを――この島でのことも思い出せる。
吐き気さえ催すような、背筋の凍る過ち。
同時に覚える、背徳的でありながらどうしようもない愉悦の感情。
一体どんな表情で行っていたのだろうか、と考えるだけで罪悪感が身体を縛める。
今更すぎる感情だった。到底許される行為ではない。
かと言って嘆いても嘆いても限りがない。それほど彼が他人に行った仕打ちは重いものだった。
背面の冷たさで止まない後悔を感じ、抑え込まなければ叫び声を上げてしまうほどの情動に駆られる。
それでいて正面の胸の奥の何かは沸点に至っていない。
境をなくした手が勢いよく地へと着き、手首は体重を支えきれずそのまま倒れ込んだ。
陽は完全に沈む少し前にまで落ちており、存在を大きくした夜と影が村の地面を覆っている。
地面に、人影は1人分しかない。
呆然とするしかなかった。
彼は身を起こし、けれども地に手を付け四つん這いの体勢で地面を見つめた。
今まで自分の下にいただろう少女はどこにもおらず、荒れ果てた大地だけが、透き通ったように彼の眼に結ばれている。
地に何度も手をこすりつける。土に爪を立てグローブが破けるほどに削ってみてもただめくり返るばかりで、痕跡だけが刻まれていく。
汚れのない白などどこにもない。あるのは爪に挟まった土と、静かな闇だけだ。
それが紛れもない現実であることを悟って、彼は自分の思考が整然としていることに気付く。
目が何の間違いもなく世界を捉え、耳が物音の少ない静寂にそばだてている。
身体が痛みを正確に把握し、舌が口の中に広がる鉄の味を吟味する。
そして、はっきりと昔のことを――この島でのことも思い出せる。
吐き気さえ催すような、背筋の凍る過ち。
同時に覚える、背徳的でありながらどうしようもない愉悦の感情。
一体どんな表情で行っていたのだろうか、と考えるだけで罪悪感が身体を縛める。
今更すぎる感情だった。到底許される行為ではない。
かと言って嘆いても嘆いても限りがない。それほど彼が他人に行った仕打ちは重いものだった。
背面の冷たさで止まない後悔を感じ、抑え込まなければ叫び声を上げてしまうほどの情動に駆られる。
それでいて正面の胸の奥の何かは沸点に至っていない。
彼がこのままでいられる時間は少ないだろう。
今の彼は曲がった金属を無理やり元の形に戻しただけのもので、やがて弾性によって再び曲がった形に落ち着いていく。
何の加工もされていない姿が正しい形になるのではないのだ。
一度曲がってしまった剣が元の強度になるはずがない。
再びノイズが耳の中でざわついて、瞳孔が散大し、手足の先が震え、その果てに身体が血を求める。
理性もかき消えて、剣とか、騎士とかそんなものも関係なく、ひたすら壊して奪っていく。
確かにそれは彼の性でもある。
飽くなき力を求め、ひたすらアルベインの剣技を練磨していく。
強くあることはアルベイン流後継者としての自負であり、剣士としての誉れと誇りである。
だがその力は守りたいものを守るという、剣を振るう思いがあって初めて行使されたのだ。
今の彼は曲がった金属を無理やり元の形に戻しただけのもので、やがて弾性によって再び曲がった形に落ち着いていく。
何の加工もされていない姿が正しい形になるのではないのだ。
一度曲がってしまった剣が元の強度になるはずがない。
再びノイズが耳の中でざわついて、瞳孔が散大し、手足の先が震え、その果てに身体が血を求める。
理性もかき消えて、剣とか、騎士とかそんなものも関係なく、ひたすら壊して奪っていく。
確かにそれは彼の性でもある。
飽くなき力を求め、ひたすらアルベインの剣技を練磨していく。
強くあることはアルベイン流後継者としての自負であり、剣士としての誉れと誇りである。
だがその力は守りたいものを守るという、剣を振るう思いがあって初めて行使されたのだ。
確かに剣はモノだ。死にもしないし、殺されもしない。
屈強な剣なら刃もこぼれないし、折れることもないだろう。
しかし、結局はモノだ。者より下の、使われる側に成り下がる。
ましてや力を求めるだけの野蛮なものなら、それは他人を傷付けるだけが能の血を吸う魔剣。
それがどうして誰かを助く刃となる?
剣は誰かを傷付けるためのものではなく、誰かを守り抜くためのものだ。
そして力を持つ者は、力に対しての責任を負わねばならない。
責任が、理由があることを思い出せないのなら、いつまでも剣は剣のままで、奪うだけの存在でしかない。
与えることなど出来やしない。
屈強な剣なら刃もこぼれないし、折れることもないだろう。
しかし、結局はモノだ。者より下の、使われる側に成り下がる。
ましてや力を求めるだけの野蛮なものなら、それは他人を傷付けるだけが能の血を吸う魔剣。
それがどうして誰かを助く刃となる?
剣は誰かを傷付けるためのものではなく、誰かを守り抜くためのものだ。
そして力を持つ者は、力に対しての責任を負わねばならない。
責任が、理由があることを思い出せないのなら、いつまでも剣は剣のままで、奪うだけの存在でしかない。
与えることなど出来やしない。
この島に呼ばれて間もない頃、自身が考えていた願いを思い出す。
「最後の1人となり、その上で全員の蘇生を願う」。
結局自分の答えは揺らいでしまいそれを決めることはなかったが、今ならその選択を選ぶことも出来るだろう。
意識する前に剣が動き人体を斬り裂く。
返しで後方の人間の腹を貫き、抜いた反動で別の人間の首を刎ねる。
きっと、染みついてしまった殺すための剣は、アルベインの剣技と同じように、自分の中で混ざりに混ざって抜けることはない。
まさに意志が握っている剣に移ってしまったかのように。
現に身体がわなないているのだ。
肉を裂く感触が、骨まで届く手応えが欲しい。内側を満たす昂ぶりが欲しい。
恨み言にさえ聞こえてしまうような自分の後悔が嘘である訳では決してない。
けれども、自分でもどうしようもない感情が僅かな理性と共に同居しているのである。
たとえミントの力で癒されようと、脳まで及んだ薬物も、犯してきた業も、湧き上がる後悔も抜け切る訳がない。
ねじれていた時間を元に戻しても、元よりねじれていた時間だ、更に複雑に絡み合ってしまう。
異常こそ正常――――この理性、「クレス」でさえ一時の幻だ。
「最後の1人となり、その上で全員の蘇生を願う」。
結局自分の答えは揺らいでしまいそれを決めることはなかったが、今ならその選択を選ぶことも出来るだろう。
意識する前に剣が動き人体を斬り裂く。
返しで後方の人間の腹を貫き、抜いた反動で別の人間の首を刎ねる。
きっと、染みついてしまった殺すための剣は、アルベインの剣技と同じように、自分の中で混ざりに混ざって抜けることはない。
まさに意志が握っている剣に移ってしまったかのように。
現に身体がわなないているのだ。
肉を裂く感触が、骨まで届く手応えが欲しい。内側を満たす昂ぶりが欲しい。
恨み言にさえ聞こえてしまうような自分の後悔が嘘である訳では決してない。
けれども、自分でもどうしようもない感情が僅かな理性と共に同居しているのである。
たとえミントの力で癒されようと、脳まで及んだ薬物も、犯してきた業も、湧き上がる後悔も抜け切る訳がない。
ねじれていた時間を元に戻しても、元よりねじれていた時間だ、更に複雑に絡み合ってしまう。
異常こそ正常――――この理性、「クレス」でさえ一時の幻だ。
そんな彼をミントは道の上へと立たせた。紛れもなく、彼女の手で。
ミントはどこへ行ってしまった――――そもそも、彼女自体が幻ではなかったのか?
彼は現実を捉えきれていなかった。そして捉えられる今、ミントの気配も痕跡も失せている。
だがそんなはずがない。今も彼の手には首を絞めていたときの感触が残っている。
けれども、力を抜いてしまえば手の強張りも消えていき、彼女の体温も冷たい夜風にさらわれてどこかへ行ってしまう。
彼女がいた証拠など、簡単になくなる。
彼は現実を捉えきれていなかった。そして捉えられる今、ミントの気配も痕跡も失せている。
だがそんなはずがない。今も彼の手には首を絞めていたときの感触が残っている。
けれども、力を抜いてしまえば手の強張りも消えていき、彼女の体温も冷たい夜風にさらわれてどこかへ行ってしまう。
彼女がいた証拠など、簡単になくなる。
彼は、せめて温もりだけは逃さないようにと手を組んだ。
手に負った傷は跡もなく消え失せており、甲はつるりとした肌を見せている。
彼女は確かにここにいた。そして彼を正気に戻した。
だが同時に、確かに彼女は「どこかに行ってしまった」のだ。
傍らに杖もサックも投げ出して、彼が見ることのできない幻になってしまったのだ。
彼女を助け出し守ろうとさんざん戦ってきたのに、結局彼の願いは叶わなかった。
それどころか逆に助けられて、いつの間にか消えてしまった。
見つけ出すための力は得ても、きっともう彼女はどこにもはいない。神々の剣技を得てなお、認知できる世界にいない。
「痛い……痛い、ミント……ミント……」
正常に戻った身体が数々の傷跡によって激痛を発する。
黒い羽の生えた男に刺された傷も、切れた目尻の傷も痛い。
だがそれ以上に心が痛い。
先程までの空しさとは違って、空洞が埋まったかわりに鋭利な刃ごと一緒に埋め立てられたようだった。
この痛みこそ現実に存在している証。
心臓が正しく鼓動するたびに刃も連動して動き、中身を傷つける。
耐えきれない痛みを与え続けながら、いつかこの刃は心臓に届き穿つのだろう。
だって、ここまで彼女を求めたのに、彼女のいない世界に何の意味がある?
手に負った傷は跡もなく消え失せており、甲はつるりとした肌を見せている。
彼女は確かにここにいた。そして彼を正気に戻した。
だが同時に、確かに彼女は「どこかに行ってしまった」のだ。
傍らに杖もサックも投げ出して、彼が見ることのできない幻になってしまったのだ。
彼女を助け出し守ろうとさんざん戦ってきたのに、結局彼の願いは叶わなかった。
それどころか逆に助けられて、いつの間にか消えてしまった。
見つけ出すための力は得ても、きっともう彼女はどこにもはいない。神々の剣技を得てなお、認知できる世界にいない。
「痛い……痛い、ミント……ミント……」
正常に戻った身体が数々の傷跡によって激痛を発する。
黒い羽の生えた男に刺された傷も、切れた目尻の傷も痛い。
だがそれ以上に心が痛い。
先程までの空しさとは違って、空洞が埋まったかわりに鋭利な刃ごと一緒に埋め立てられたようだった。
この痛みこそ現実に存在している証。
心臓が正しく鼓動するたびに刃も連動して動き、中身を傷つける。
耐えきれない痛みを与え続けながら、いつかこの刃は心臓に届き穿つのだろう。
だって、ここまで彼女を求めたのに、彼女のいない世界に何の意味がある?
――――クレスさん。
どくり、と止まりかけの心臓が脈を打った。
鼓膜が微かな空気の流れを感じた。
彼は頭を上げて周りを見るも、どこにも人影はない。
結局自分は幻に悩まされながら求めるのか、と彼は顔を歪める。
鼓膜が微かな空気の流れを感じた。
彼は頭を上げて周りを見るも、どこにも人影はない。
結局自分は幻に悩まされながら求めるのか、と彼は顔を歪める。
――――ふわり、と何かが後ろから彼の身体を包みこんだ。
冷えた夜の風とは違う、春先の陽で暖められたような風。
懐かしい香りが鼻腔に流れ込む。
頬の皮膚が、まるで1本1本の糸の流れを感じているようにくすぐったい。
すっと痛みが引いていき、一気に意識が風へと奪われた。
心臓が高鳴る。速く、それでいて規則的に、人間として正しき鼓動を刻んでいる。
彼は後ろに振り返ることはせずに、自身の首の前で交差する腕に手を這わせた。
生きた涙を一筋流して、彼は静かに目を伏せる。
そして彼は小さく名前を呟いた。
これは幻ではない。これだけは現実だ。
たとえ一抹の夢であろうと、現実を理解できる今だからこそ彼はそう確信した。
冷えた夜の風とは違う、春先の陽で暖められたような風。
懐かしい香りが鼻腔に流れ込む。
頬の皮膚が、まるで1本1本の糸の流れを感じているようにくすぐったい。
すっと痛みが引いていき、一気に意識が風へと奪われた。
心臓が高鳴る。速く、それでいて規則的に、人間として正しき鼓動を刻んでいる。
彼は後ろに振り返ることはせずに、自身の首の前で交差する腕に手を這わせた。
生きた涙を一筋流して、彼は静かに目を伏せる。
そして彼は小さく名前を呟いた。
これは幻ではない。これだけは現実だ。
たとえ一抹の夢であろうと、現実を理解できる今だからこそ彼はそう確信した。
真に理由も目的も失くした。
それでも、クレスはクレスが何者であるかは思い出せた。自己の核を思い出せた。
もう元の形に帰結することはない。だからこそ、この僅かな時間を彼はクレスとして生きることにした。
理由も目的もないが、意味はある。力を振るう意味がある。
その意味で力を行使することがミントの願いであり、思い出の中の人々の願いであり、何より自身の願いなのだと彼は思った。
クレス・アルベインは確かにここにいたのだと、存在していたのだと。
犯してきた業は浄化できるものではない。それでも、彼は彼で在りたいと思った。
身体は奪うための剣を覚えている。いつか自我もそれに呑まれ、後悔すら覚えなくなるのだろう。
ならば自分がクレスで在る内に、本来の意味で――今まで通りに剣を握りたいのだ。
奪うための力ではなく、守るための力として。
それでも、クレスはクレスが何者であるかは思い出せた。自己の核を思い出せた。
もう元の形に帰結することはない。だからこそ、この僅かな時間を彼はクレスとして生きることにした。
理由も目的もないが、意味はある。力を振るう意味がある。
その意味で力を行使することがミントの願いであり、思い出の中の人々の願いであり、何より自身の願いなのだと彼は思った。
クレス・アルベインは確かにここにいたのだと、存在していたのだと。
犯してきた業は浄化できるものではない。それでも、彼は彼で在りたいと思った。
身体は奪うための剣を覚えている。いつか自我もそれに呑まれ、後悔すら覚えなくなるのだろう。
ならば自分がクレスで在る内に、本来の意味で――今まで通りに剣を握りたいのだ。
奪うための力ではなく、守るための力として。
彼は纏っていた風をほどき、落としてしまったエターナルソードを拾い上げる。
剣の重さや握り心地を再確認し、立ちあがって1度だけ真一文字に振るう。
乱れのない剣筋は、水面に走る波紋のように静かで流麗だった。
自分はまだ剣を握る資格がある。自分の思いに任せて、剣を使うことができる。
大切な人は見えないけれど、大切な人のために剣を振るえるのだ。
剣の重さや握り心地を再確認し、立ちあがって1度だけ真一文字に振るう。
乱れのない剣筋は、水面に走る波紋のように静かで流麗だった。
自分はまだ剣を握る資格がある。自分の思いに任せて、剣を使うことができる。
大切な人は見えないけれど、大切な人のために剣を振るえるのだ。
地に転がったままのミントの荷物を拾い、彼は東の方へと顔を向ける。
そうして彼は自分にとっての為すべきことをすべく、歩をまっすぐと進める。
既に日は落ち始め、辺りを夕闇が包みこんでいる。
それでも今度は黒い海に飲み込まれることなく、僅かばかりの時間を彼は生きていく。
そうして彼は自分にとっての為すべきことをすべく、歩をまっすぐと進める。
既に日は落ち始め、辺りを夕闇が包みこんでいる。
それでも今度は黒い海に飲み込まれることなく、僅かばかりの時間を彼は生きていく。
【クレス=アルベイン 生存確認】
状態:HP10% TP20% 放送を聞いていない 重度疲労
善意及び判断能力の喪失 薬物中毒 戦闘狂 殺人狂
(※上記4つは現在ミントの法術により一時的に沈静化。どの状態も客観的な自覚あり。時間経過によって再発する可能性があります)
背部大裂傷+ 全身装甲無し 全身に裂傷 背中に複数穴
所持品:エターナルソード ミントの荷物(ホーリィスタッフ サンダーマント ジェイのメモ 大いなる実り)
基本行動方針:「クレス」として剣を振るう
第一行動方針:???
現在位置:C3村西地区→???
状態:HP10% TP20% 放送を聞いていない 重度疲労
善意及び判断能力の喪失 薬物中毒 戦闘狂 殺人狂
(※上記4つは現在ミントの法術により一時的に沈静化。どの状態も客観的な自覚あり。時間経過によって再発する可能性があります)
背部大裂傷+ 全身装甲無し 全身に裂傷 背中に複数穴
所持品:エターナルソード ミントの荷物(ホーリィスタッフ サンダーマント ジェイのメモ 大いなる実り)
基本行動方針:「クレス」として剣を振るう
第一行動方針:???
現在位置:C3村西地区→???
サックの中では世界樹の種子がやさしく眠りについている。
目覚めはなくとも、すやすやと穏やかに眠っている。
目覚めはなくとも、すやすやと穏やかに眠っている。
つまり、どういうことかって? 彼女はいつでも彼と共に在るってことさ。
【残り9人】