エウセピアのスケッチ その3

 多分、次で最後の予定。これでミッシングリンクが繋がると思われる。


「辛そうですね」
「正直、今回の状況は予想していませんでした」

 766教育隊の訓練が終わり「学院」組の学生が帰った後の打ち合わせで、開口一番プロヴィウシアはナタリアにそう声をかけた。
 ナタリアは、肘を机について肩を落としてうなだれている。ほんのつい先ほどまでの冷徹な教官振りが嘘の様な落ち込みようである。

「とにかく、エウセピア学生は訓練についてきてはいます。今ならばまだ打てる手があるはずです」
「そうはいっても人間関係が理由だぞ? しかも、どちらが悪いという話じゃない。純粋に相性の問題だ。どうにかしようとしても、我々に打てる手はないな」

 ヴェルミリオム師が、片眉をはねあげてナタリアの言葉をばっさりと切って捨てた。その言葉に、ナタリアの頭が一層深くうなだれる。もっともこの魔族の牧師も、いつもよりもはるかに早いペースで煙草をふかしているのだが。

「無名ちゃんも、エウセピアちゃんも、言葉が足りない子達ですからね。二人とも入営していたならば、いくらでも手の打ち様はあるんですけど」
「……今日は失敗しましたが、方向性としては間違っていないはずです」
「はい。でも今のままだと、先にエウセピアちゃんが壊れちゃいますね。今日はあなたが間に合ったからよかったですけれど」
「身体の方は私の魔法で直せるが、心の方は無理だ。今のままだと春までもたん」

 そう、今日はいつもと変えてエウセピアとクラウディアではなく、エウセピアに無名を組ませて訓練したのだ。結果は、二人とも全く連携をとらずにナタリアから何度も怒声を浴びせられたあげく、無名がキレかけエウセピアも限界一歩直前にまでいっただけ。ナタリアが本気の殺気を二人に浴びせて止め、残りの訓練時間をずっと腕立て伏せさせ続けなければ、その場で無名が殺しにかかりかねないほどに険悪な雰囲気となったのだ。
 ナタリアが悪役となることで二人の仲を少しでも近づけようと意図してのことであったが、エウセピアも無名も、教官の理不尽極まりないしごきを意地で耐え続けた。そしてエウセピアに無視され続けた無名が、とうとう堪忍袋の緒を切ったところでナタリアは訓練を中止しなくてはならなくなったのである。
 訓練後、クラウディアが顔面蒼白になってエウセピアが更衣室で倒れたとすっ飛んできた時、ナタリアが常の通りの冷静な表情で応対できたのは、実に歴戦の軍人としての経験のおかげであった。両手で腹を押さえつけているエウセピアをクラウディアが抱きかかえるようにして馬車に乗せるのを平然とした表情で見送れたのも、戦場で何度も部下とともに死地へと飛び込んできた経験があったからにほかならない。
 だからといって、ナタリアが何も感じないというわけではない。なにかとフェイトを猫可愛がりするように、彼女は部下には甘い方であるし、人一倍情に深い上官でもある。それだけに、エウセピアと無名の仲がここまで険悪となってしまっては、辛いことこの上ない。なまじエウセピアが教官であり上官であるナタリアに懐くようになっただけに、懐かれた当の本人にとっては神経にやすりをかけられるような思いである。

「問題は、エウセピアちゃんが、なぜあそこまで無名ちゃんに怯えているか、でしょうね」

 プロヴィウシアが、さすがに困った表情をして腕を組む。
 今日も、エウセピアに無名と一緒に訓練を行うと伝えた瞬間、彼女は恐慌を起こし顔面蒼白になって両手で胃のあたりを掴んでみせたのだ。そのまま倒れるかと内心真っ青になった教官らであるが、そこで踏みこたえたあたり、エウセピアも随分と根性がついたものである。もっとも、その結果は予想だにしないほど悪いものであったが。

「エウセピアは何と?」
「判らないそうです。あと、とにかく、自分は大丈夫だと繰り返すばかりで」
「無名は?」
「同じく、判らない、と」
「とりあえず組み合わせを元に戻せ。エウセピアとお前の二人が倒れては元も子もないぞ」
「ですが」
「駄目です。今回は失敗しました。次の訓練日までに別の方法を考えます。ナタリア、あなたも今日は下番して休みなさい。これは命令です」
「……了解しました」

 いつになく真面目なプロヴィウシアの言葉に、ナタリアはふらふらと立ち上がって敬礼した。


「大丈夫? 落ち着いた?」

 「学院」の女子寮に戻ってすぐに私室へ戻り、エウセピアを寝台で横にならせたクラウディアは、寝台の傍に椅子を動かしてきて座り、彼女の右手を心配そうに握っていた。訓練中は白蝋のように血の気も失せた顔色であったのが、ようやく人並みに戻ってきている。軽く目をつむって浅く呼吸をしている姿が痛々しくて見ていられない。

「大丈夫です」

 ここしばらく、エウセピアは同じ言葉しか口にしない。当然のことながら、クラウディアは少女の言葉を真にうけることはできはしない。

「しばらく休んだ方がいい。教官にはわたしから説明するから」
「大丈夫です!」

 泣きそうな表情になってぎゅっと力をこめて右腕を握り返してくるエウセピアに、クラウディアは、それ以上は何も言えなくなる。
 何度も同じ問答を繰り返しては、最後はエウセピアが泣きだして話を続けられなくなって終わる。同じことが何度も繰り返されれば、クラウディアもそれ以上は何も言えなくなってしまう。
 クラウディアには、何故エウセピアがここまでかたくなに訓練にこだわり続けるのか、それが判らない。考えてみれば、彼女が何故近衛騎士として訓練を受けることになったのか、それすら知らないのだ。教育隊の四人の選抜に副帝レイヒルフト自身が関わっていることは聞いている。でも、その選考の基準が判らない。

「エウセピア」
「……………」
「なんで近衛騎士になることになったの?」

 クラウディアの問いに、エウセピアは黙って頭を左右にふるだけである。寄せられた眉が、何か苦悶に苛まれているように見えて、それ以上は言葉を続けられなくなってしまう。

「ごめん」
「……………」

 ふっと、安心したように表情がやわらいだエウセピアの様子に、クラウディアは、今度は自分が泣きたくなってしまった。


 無名がこんな風に意固地になるのは、クラウディアにだってはっきりと判っていた。だから、できる限り穏やかにさりげなく話を切り出したつもりであったのであるが、エウセピアの名前が出たとたんこの鬼族の少女の表情はこわばり、剣呑極まりないものへと変わってしまった。

「俺は悪くない」
「うん、それは判っている。だからさ、なにか思い当たることがないかなって」
「俺は悪くない」

 第901大隊の営舎の廊下は、日も沈みかけているせいもあって暗く、こわばった無名の表情の細かいところまで見分けることができない。彼女のぎゅっと握りしめられた拳が、何かに耐えているようで見ていて痛々しくなる。
 何故二人ともこうも頑ななのだろう、心配する自分の気持ちが二人に届かないことにクラウディアも辛くなってくる。

「……………」
「……………」

 窓から差し込む橙色の陽射しが、無名の面差しに陰をきざんでいる。何かを口にしようとして、でも言葉がみつからないもどかしさ。言いたいこがあるだろう。言うべきことがあるだろう。でも、それを言葉にすることができない。そんな彼女の姿が痛々しくて、クラウディアはきびすを返した。

「ごめん」
「……お前は悪くない」

 しぼりだすように呟いた無名の一言が悲しくて、クラウディアはずっと背中を向け続けるしかできなかった。


 黄金色の閃光が襲い来る。
 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、そして、九つ。その全てが空気を焼く雷の臭いをまとい、わずかに着弾のタイミングをずらして飛来する。
 半歩右足を前に出し、左肩を後ろにそらし、重心を左足から右足に移し、首を右に振り、右腕を胸の前に持ち上げ、左足を右足を軸に四分の一円動かし、六つまでを髪の毛一筋程の見切りで避け、残る二つを右手の長刀で斬って「殺し」、そして剣を振るった反動に合わせて身体を四分の一回転させ、最後の閃光をやり過ごし、左手の掌底を叩き込む。
 だが打ち込んだ掌底は長柄の石突に弾かれ、カウンターとして右足に向けて長斧の刃が打ち込まれた。その一撃を左足に重心をずらし際に右ひざを折ってかわすと、戻す右足のかかとで長斧の刃を踏みつけた。
 刃の軌跡が無理矢理変更されるのにあえて逆らわず、突っ込んできたそのままの勢いで飛び抜けると、避けられた雷弾の軌道を戻して牽制の攻撃をしかけ体勢を整えなおす。
 だが、着弾のタイミングを同じにしたために振るわれた長刀の一閃で三つが「殺され」、その空いた隙間に無理矢理身体をねじ込ませ追撃の一閃が逆袈裟に襲ってくる。
 その一撃を宙を蹴って上空へと逃げることで避け、くるりと宙返りし、さかさまの体勢から長斧を撃ち込んだ。

「クラウディアちゃん、何が起きているか判る?」
「とりあえず、相変わらず無名の動きが変態なのと、フェイトが捷いのくらいは判ります」
「まあ、目で見て追える動きではないわねえ。お互い視覚ではなく、魔導の「相」によって知覚して動いているから」

 フェイトと無名の戦いを見学しているクラウディアは、教官のプロヴィウシアの問いかけにそう曖昧に答えた。
 クラウディアの目には、宙を舞うフェイトが自身と生成した複数の雷弾をもって無名を攻撃し、それをわずかな動きで避けつつカウンターを返している様には見える。
 もっとも傍目には、無名の周囲を複数の黄金色の軌跡が高速で舞い、その中心で無名が剣舞を踊っているようにしか見えないわけであるが。

「フェイトちゃんはね、自身の魔力を電気に改質する能力を先天的に有しているわ。だから、あの娘の一撃を生身に受けたらその瞬間に全身を焼かれて終わり。そして無名ちゃんは、「魔眼」で「存在のほころび」を見て、それを斬る事で対象を「殺す」ことができるの。だから、彼女の一撃を身体に受けたら存在が「殺され」て終わり。一撃でも入れられれば勝ちな二人だもの、速度か技術か、どっちにせよ避けきった方が勝つ試合よね」
「装甲も無効なんですか?」
「魔導によって強化されたものなら、一撃は耐えられる可能性はあるわね。でも二撃目は無理」
「無茶苦茶だ」
「よねえ」

 すでにフェイトの生成した雷弾は全て無名によって「殺され」ており、互いに得物と肉体を使っての戦いへと移っている。

「それにしても、無名はいつの間に「魔眼」なんて物騒な代物を使えるようになったんです?」
「無名ちゃんが自分の目をえぐろうとした時のことは覚えているかしら」
「はい、教官殿」
「覚醒したのはその時らしいわね。あれからヴェルミリオム師が少しづつ封印を解いてゆきつつ、使い方を教えていったそうよ。まさか限定的とはいえ、一度に四相に目覚めるなんて天才もいいところよね。それを言ったらフェイトちゃんも八相全てに覚醒している「導師」なんだから、どっちもどっちなんだけれど」

 高位の魔導騎士による近接格闘戦である。まさにどちらの気力魔力が尽きるかという戦いになるわけである。

「それで、あのフェイトが操っていた弾は、なんなんです? 雷かなにかですか」
「そう。電気改質された魔力の塊ね。あれを複数同時に操って攻撃できるなんて、私もが知る限りでは二人目ね」
「もう一人いるんですか?」
「ええ。アムリウス・アドルファス・グスタファス卿。クラウディアちゃんも名前くらいは聞いたことがあるでしょう?」
「はい、教官殿。あの「北の白い悪魔」ですよ。知らないはずが無いです」

 アムリウス・アドルファス・グスタファス卿。
 内戦中の教会軍総司令官ヤン・アドルファス・グスタファス北方辺境候の嫡子の古人であり、「黄色中隊」と呼ばれた教会軍最精鋭の重魔道機装甲部隊を率いて開戦から敗戦までを常に第一線で戦い続けた英雄達の一人であった。
 並みいる皇帝軍の魔導騎士らが討とうとして果たせず、かえって皇帝軍は彼一人に少なくない数の機装甲を撃破され続けた相手であった。なにしろ、彼一人に皇帝軍のあまたの騎士達が翻弄される様に怒り狂ったリランディア帝が、銀貨10万枚の賞金をかけたことは知らぬ者とていない逸話の一つである。

「アムリウス卿はね、機神「アルブム・モノケロス」を駆って戦い続けたのだけれど、この機体には六枚の羽根が搭載されていて、これを騎士が自由に操って魔力砲撃を行う事ができたの。自由自在に空を飛んで、四方八方の死角から撃ってくるから、もう大変で。私もね、何をどうしても捕捉できなくて、逆にいいようにあしらわれてね。もう本当に大変だったんだから」
「それで生きて帰ってこられた教官殿が凄いと思います」
「ええ。で、話を戻すと、フェイトちゃんの戦い方は、アムリウス卿の戦い方をヒントに組み立てられたものなの。私もナタリアもアムリウス卿を何とか墜そうとして色々考えたから」

 結局、墜せなかったのよね。
 しみじみと昔を懐かしむような表情でそう語ったプロヴィウシアに、クラウディアは、はあ、と間の抜けたような返事をするしかできなかった。確かに、この撃墜数三桁に載せた大撃墜王が墜せなかった敵の戦技ならば、習得すれば大きな戦力となろう。

「というわけで、フェイトちゃんも最初は雷弾を一つしか飛ばせなかったのが、訓練を重ねて今では八つを自由に操れるようになったわ。それに合わせて無名ちゃんも「相」による知覚が鋭くなっていったわけ。その結果が、今の二人の試合に繋がっているの」

 果たして、フェイトと無名の二人の試合は、魔力と体力の尽きかけたフェイトの大振りな攻撃の隙をぬった無名の一撃が入って、審判のナタリアの制止が入って終わったところであった。


 無名はともかく、フェイトにまで魔法戦士として追い抜かれてしまっていた事に少なからずへこんだクラウディアは、学院の寮に戻ってからすぐに自室に向かった。そのあたりの気分も切り替え、学生としての自分に戻る。

「ウェーラ、エウセピアの様子はどう?」
「あ、お帰りなさい、クラウディア様。随分落ち着かれたようです」
「よかった。最初はどうなるかと思ったんだけど」

 クラウディアが視線を向けた先には、ウェーラに付き添われるようにして寝台でエウセピアが寝息を立てている姿があった。

「本当に。ここ最近ずいぶんと落ち着かれなくていらっしゃったから、心配で」
「ごめん。ウェーラがいてくれて、本当に助かっているんだ。最近ではわたしが話しかけるだけで半狂乱になるし」

 今日の訓練日、エウセピアだけ学生寮にて療養を命ぜられて待機することになったと伝達された時、彼女は文字通り髪を振り乱してクラウディアにとりすがった。自分は大丈夫だ、がんばれる、だから一緒に連れて行って欲しい、と。
 だが命令は命令である。ウェーラにつきそってもらい、なんとかなだめすかして自室の寝台に寝かせ、ようやく教練に出発することができたのである。その間、エウセピアが散々泣きはらしていた姿を見ていただけに、訓練の間もクラウディアは彼女のことが気が気ではなかったのだ。
 疲れきった様子で寝台の上に腰を下ろしたクラウディアに、ウェーラは椅子を動かして向き直った。眼鏡を外して目をこすっている彼女のことを、気遣わしげにそっと見つめる。

「……あの」
「うん?」
「わたし、思うんです。エウセピア様はクラウディア様のそばに居たいんじゃないかって」
「うん。それは判るよ。でも、それだけでこんなに必死になるのかな?」
「それは……、でも、そんな難しいお話じゃないと思うんです」
「そっか」

 ウェーラはうつむいて言葉を探して、でも見つからなくて、もう一度顔を上げた。

「きっと、そうなんです。わたし、そんな気がするんです」


 次の日の朝、じっとりと寝汗をかいて目が覚めたエウセピアは、枕元にクラウディアが付き添うように座って手ぬぐいで汗を拭いていてくれいるのに気がついて、また泣きそうになってしまった。

「うなされていたから。大丈夫?」
「大丈夫です」

 だから、今度こそ置いていかないで欲しい、とは続けられなかった。
 自分のことをクラウディアは気遣ってくれている。とても大切に想っていてくれている。それくらい判る。でも、何かがかみあっていない。すれ違っている。それが何だか判らないのがもどかしくて、辛い。
 エウセピアの返事に、そっか、とだけ呟いたクラウディアは、しばらく何かを考えるかのようにうつむいたまま黙っていた。

「エウセピア、君は、わたしにとって大切な友人だ。親友だとも思っている」
「はい」
「だから、話せることは何でも話して欲しいと思う。……今はまだ言葉が見つからないんだと思う。でも、話せる時がきたら、話を聞かせて欲しい」

 駄目だ。泣いてしまう。心配させたくなんてないのに。我慢しなくてはいけないのに。
 エウセピアは、そのまま枕に顔をうずめ、声をあげないように必死になってこらえた。言葉がみつからないことがこれほどもどかしいなんて。
 言葉を探して必死になって思考を巡らせているうちに、心を締め付ける何かに思考の焦点が定まってゆく。それは恐怖で、その恐怖は。


 枕に顔をうずめたまま、一向に起きようとしないエウセピアをおいて、クラウディアは食堂に向かった。彼女は学生で、病気でもないのに課業を休むことは許されはしないのだ。
 クラウディアがいなくなってから、仰向けになったエウセピアは、じっと天井を見つめていた。その木目を眺めていると、少しづつたかぶった気持ちがおさまってゆく。独り静かな気持ちで何かを考えるのは、本当に久しぶりであった。
 そうやって考えるべきこと、見つめるべきことに思考を集中させていると、自室の扉をノックする音がする。

「はい」
「お久しぶりです、愛しいエウセピア」
「……………」
「お加減はいかがかしら」

 幻覚ではない。妄想でもない。そこには、藍色の首元まで覆ったドレスをまとったメルツェデシアが立っていた。一呼吸遅れてから身体を起こしたエウセピアの元に近づいてくる貴婦人の姿に、思考が停止したまま何も言葉が出ない。
 メルツェデシアは、わずかに小首をかしげてエウセピアに向かって微笑むと、つきそってきた修道女に一言声をかけて下がらせた。

「貴女の御友人から手紙を頂きました」
「……はい」
「屋敷へいらっしゃい。ここでは話せないこともありましょう。許可は頂いております」
「はい」

 この人ならば、見つからない言葉も見つけてくれる。
 そんな確信がエウセピアにはあった。


 ユリウス・マクシムス家の帝都屋敷は皇宮に近いところに敷地を賜っており、敷地こそあまり広くはなかったものの、敷地一杯を外郭のように建物が囲み、その中庭に本屋敷が建てられている古い様式の宮殿であった。外郭の内側に通っている復層階の外廊には多くの人が行き交い、マクシムス公爵家がどれだけ権勢を誇っているを示していた。
 エウセピアは、メルツェデシアに髪をブラシですいてもらって身づくろいをすると、制服に着替えてユリウス・マクシムス家の家紋の入った馬車に乗って屋敷へと向かった。馬車の中で貴婦人と見つめあいながら、沈黙に満たされた時間を過ごす。無理に言葉を口にしなくてもよい、ということの心地よさにひたりながら、寝台の中でひたっていた思考をさらに深化させてゆく。この女性のそばにいるだけで、こんなにも心が落ち着くことに驚きとともに納得を感じ、そしてそれこそが「学院」に来るまでの日々の彩りのひとつであったことをようやく思い出してもいた。
 内屋敷の玄関に馬車が着き、馬車の扉が家令によって開けられ、メルツェデシアが馬車を降りる。そして、彼女に手をとってもらいつつ馬車を降りたエウセピアを、屋敷の入り口まで緋色の絨毯と、その両脇に並ぶ使用人らのお辞儀が出迎えた。
 驚きで一瞬足が止まったエウセピアを、メルツェデシアが微笑んで手をとっていざなってゆく。
 それは、メルツェデシアにとっての日常ではあっても、エウセピアにとっては非日常の光景であった。
 そして、非日常はどこまでも続き、煌々たる魔道光に照らされた緋毛氈の絨毯の廊下を歩んでいった先に背の高い両開きの扉があり、使用人の手によって開かれたそこには、古い調度で飾られた客間と、この屋敷の主人がエウセピアを出迎えた。

「久しいな。といっても、ろくに話をしたこともなかったか」

 そこには、灰色の豊かな頭髪と、綺麗に刈り込まれ整えられた髭をした、偉丈夫が立っていた。真白い普段着が鮮やかで、そして色黒の肌によく似合っている。

「しばらくゆっくりと休んでゆくといい。ここはお前の家でもあるのだからな」

 フェルヌス・ユリウス・マクシムス南方辺境公は、両手を広げ、そう豊かなバリトンを響かせて歓迎の言葉を発した。

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最終更新:2012年05月03日 23:54