ケイレイの手慰み 学院 ノイナの許嫁 3

ノイナの許嫁 (3)

 運の悪いことに、今日は馬車を拾えなかった。
 マルクスは、仕方なく乗合馬車に乗ることとなった。乗合馬車で悪いことは無いのだが、どうにも居眠りしづらい。どこででも寝られるつもりであるけれど、今携えている鞄を掏り取られると厄介なことになる。
「・・・・・・」
 帝都はマルクスの育った街だ。大きく、高く、暗く、まぶしく、寒いかもしれないが、多くの人の息遣いがある。悪いものばかりではない。だが良いものばかりでもない。その人らの中で、石畳を踏んで馬車の車輪が回り始める。揺れる馬車の中で空いている席を見繕って座り、マルクスは息をつく。鞄は足の間に挟み置く。
 疲れている、というほどではないのだが、気忙しく落ち着かない。今、マルクスは軍装ではなく、当世風の私服を着ている。着替えるために軍大から一度宿舎へ戻り、宿舎で着替えて学院へ向かう。軍人であることを示すには、胸につけた学生章のみだ。それは身分と立場をあきらかにしてるとは言えない。しかし赴くのはあえて俗世から離れた修道院に作られた「学院」なのだ。そこに赴くとき軍装がふさわしいか、少し迷った。そしてその躊躇のまま、最初の一度に私服を選ぶと、次も軍服は選べなかった。
 このアムリウス神父への取材は、マルクスの自主研究という形をとっている。マルクスの自主研究のために、その他の課題が免除されるわけでもない。とはいえ事実上命令であった。事実上の命令であったからこそ、校外取材ができた。空飛ぶ機神、それだけがあっても乗り手が使いこなせねば意味が無い。空飛ぶ機神はいくつかあるが、それがどのように使われるかは、所蔵の家の秘中の秘であるはずだ。
 レオニダス公爵家には、最初のレオニダス公自身が書き残した多くの記録があり、それは空飛ぶ機神の乗り手でなければ気付かぬようなもろもろのことが描かれていたが、人一人の経験のみに頼る気はマルクスには無い。もっとも、最初のレオニダス公爵もそう思っていたようで、経験のみならぬ考察を進めていた。今、マルクスが鑓の機神の乗り手になったなら、それをさらに進めるべきだ。
 軍大はこの手の自主研究を奨励していたが、必須のものではない。必須のものではないはずだが、学生評価には組み込まれている。要するに課業のみでは筆頭にはなれぬということだった。筆頭はもちろん獲得した方がいい。家格の上でも、今後の諸々を考えても。
 マルクスのほかに、自主研究をしているらしい同級は幾人もいた。ガイユス殿下、つまりガイユス・シリヤスクス・アキレイウス学生もその一人であるらしかった。噂は当てにならないが、その示すところでは、工兵初の将官となることが定められているという。流石にマルクスは「将官になることが定められている」とは思っていなかったけれど。他に道が無い、はあるかもしれない。そちらの方が大変だろうとは思う。
 乗合馬車はゆっくりと止まり、後ろの扉が開かれる。御者補が停留所の名を告げる。何人かが降り、何人かが乗りこんでくる。先より少し混んで、席はすべて埋まっていた。再び乗合馬車は進み始める。揺られながら待つ時が続く。
 アキレイウス学生のほかに、もう一人図書館でよく見かける学生がいた。ゲルトリクス学生だ。
 それも通りすがりに見かけたわけではない。軍大付属図書館の奥には、立ち入り管理区域がある。入るためには事前の許可が要り、かつ出入りそのものも管理担当従卒にいちいち記録される。筆記用具の持ちこみも許されない。閲覧も仕切られた分類区内部に限られている。
 そのような立ち入り管理区域への許可を得られるとなると、ただの自主研究でもないはずだ。ゲルトリクス学生もマルクスに気付いたようだった。そして彼の姿を見かけなくなった。
 あちらが避けたのだろうと、マルクスは考えていた。最初に会ったとき、探りを入れるようなことを言ったのはまずかったかもしれない。実際、あのとき実際、かまをかけたのも事実ではあった。マルクスとて、事件の経緯前後をくわしく知りえたわけではない。事件にかかわったトルステンヌス一門と、その中のゲルトリクス伯家を一つに思い出せたのはただの偶然だ。北方一門は、つまるところゴーラ諸国との争いを刻んできた。そのことをたまたま覚えていただけだ。
 そのゲルトリクスが、家門を捨てたと言いながら、なおここにいるのはなぜだろうか。マルクスの場合は、隠そうとするだけ無駄なことなのだが、ゲルトリクスは違う。
「・・・・・・」
 だが過ぎた好奇心は、あらゆるものを滅ぼす。我が身のみならず。
 やがて乗合馬車は再び止まる。後ろの扉が開かれ、修道院前と告げられる。席を立つのはマルクスのみでなく、乗合馬車に乗っていた多くのものらだった。修道院とはいえ、神愛分配の任はあり人の出入りはある。マルクスはそれらの人と同じように馬車を降り、修道院ではそれらの人たちと別れて奥へと向かう。奥は修行と修練の場であり、修道院の真の姿でもある。学院らもその中に含まれている。修道士に身分証と許可証を示し、奥への許しを受ける。
 許しと言っても、どこへでも入れるわけではない。案内役に伴われて、まずは学院の事務室へと通されるのみだし、そこで案内役が代わり、上級教育課程棟に得た倉庫室へと向かう。倉庫室の鍵を開くが、アムリウス神父を呼びに行くのはマルクス一人だ。わけのわからないことになってはいるが、マルクスが異物なのだ。そうしてマルクスは廊下を歩いた。
 遠く学生たちのざわめきが聞こえてくる。いまさらのことだが、ノイナがまだこの学院にいることを思い出したりもする。もっともノイナのいるのは女子部で、アムリウス神父が担任する男子部とは厳しく分けられているらしい。いまマルクスが歩くのは上級教育課程のためのものだ。上級教育課程は成人による研究と、教育者の教育を行う。そこにあるのは大人ばかりのはずだ。
「・・・・・・」
 呼ぶ声が聞こえたような気がして、マルクスは足を止める。足を止めてから、誰が己を呼ぶのかと思い返しもする。ここで誰がマルクスを知っているのだと。
「・・・・・・」
 人の気配に振り返る。
 振り返った先の廊下の向こうで人影が動く。隠れようとするには、動きが鈍い。鈍いというより固まったようだった。マルクスは問うた。
「自分に用件ですか」
 すこしぶっきらぼうだったろうか。けれど人影は言う。
「・・・・・・あの、マルクス様でよろしいですよね・・・・・・」
 胸に本を抱えた女子部の学生に見えた。だがマルクスは人影が誰だか思い出せずにいた。
「はい。マルクス・ケイロニウス・レオニダス騎士長ですが、ご用件ですね」
「・・・・・・」
 固まる子、というのは何度も見かけた。というより、ルキアニスがそうだった。固まってしまったら、先々導いてやらねば用件が進まない。だからマルクスは学生姿に向きなおり、歩み寄ってゆく。
 女学生は、胸の本を強く抱え、マルクスから目を逸らし、一歩退く。マルクスも足を止めた。
「ご用件なら、伺います。どのようなお話ですか」
「・・・・・・」
「どちらからのお遣いですか」
「・・・・・・」
「では、御用の方のところまで行きましょう」
「・・・・・・違います!」
 彼女は不意に言う。
「ごめんなさい!」
 本を胸に抱えたまま、深く頭を下げる。顔を上げてもマルクスを見もせずに、髪を振って振り返る。そのまま駆けだして行った。
 角を折れて彼女の後ろ姿は見えなくなり、ただその足音だけが廊下を響き渡り、遠ざかってゆく。
「・・・・・・」
 こういうことは何度かあった。ずいぶん久々だ、と思い、それもそのはずで士学に入ったあたりから、そういうことは無くなっていた。今日はまだいい方だ。悪い時には徒党を組んで待ち伏せし、本人でなく取り巻きがマルクスに詰め寄ったりもする。そこまで考え、初めて思い出した。先週か、その前か、同じく廊下で出会った。出会ったというか、不注意だったマルクスが彼女にぶつかったのだ。彼女は抱えていた本を取り落とし、マルクスはそれを拾おうとし、そこでアムリウス神父のお叱りを受けた。
「・・・・・・」
 女というのは良くわからない。あんなことをされても、どうしようもないではないか。もっとも、当人とて何か考えたわけでもないのかもしれない。肩をすくめ、マルクスは廊下を歩きはじめる。早すぎず、しかし遅過ぎぬように時を見たのに、すっかりくるってしまった。
 聴取調査は最初の佳境に入っていた。皇帝軍と教会軍北方辺境侯部隊との最初の大規模衝突だった。マグヌス将軍の大返しに続いて、アルトリウス殿下の近衛軍が帝都に入りつつあった。
 それは北方辺境侯の敗北が確定したその時であったけれど、以後、十年にわたる帝都北方戦の本当の始まりを告げる戦いだった。
 そして、今でも語り草となる、アルトリウス殿下のレギナ・アトレータと、アムリウス卿のモノケロスの一騎打ちの行われた戦いでもあった。

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最終更新:2013年06月02日 02:53