ケイレイの手慰み 鍵 28 

鍵 28

 「この鍵は、おまえのための鍵ではなかったんだ」
 マルクスは言葉を選ぶように言う。
「俺にはマヨールの本意はわからない。判らないけれど、思う。これはたぶん、物事があの時までに、どうしようもないことになった時のために、作られた」
「どういうこと」
 祖父の前でなければ、ノイナはもっと声を荒げていた。マルクスはそのノイナから瞳を逸らす。
「この鍵が作られたとき、おまえはまだ本当に赤子だった。覚えてる」
「・・・・・・なに?」
 赤子だった当人が、赤子だったころのことなど覚えているはずもない。
「マルクス、どういうことなのかはっきり言って」
「この鍵は、公爵家の嫡子に渡すための鍵ではなかったんだ。だから・・・・・・」
 マルクスはわずかに言いよどむ。
「お前の指輪は鍵じゃなかった」
 思わず驚いて、ノイナは指輪をつけた手を見た。精霊銀でできていて、指を二巻きするような形になっている。たしかに、そうだった。この指輪を使っても、神具を封じた筐は開かなかった。
「・・・・・・」
 マルクスは静かに祖父へと顔を向ける。
「太宗公爵殿下が私たちに残された手紙には、三つの鍵の一つの一つと書いてありました。私にはこの鍵なるものの全貌は知りようもありません。ただ私たちに関わる、一つについてならば、考えが及びます。それは公爵殿下が何らかの訳によって鍵を開けないときに限って、開かるべきものであったと考えています」
「・・・・・・ひらけない?」
 思わずノイナは口を差し挟む。祖父は咎めなかった。それどころか、あえて背もたれへと身を預け、お腹の上で指を組む。それが考え事をするときの癖なのは知っていた。けれど見た目には、聞いているのか、聞くつもりがあるのかすらわからない。マルクスはその様子を見、つづいてノイナへと目を向ける。口調を変えて彼は応じる。
「俺たちの鍵にはある条件があった。三つがそろわねば開かない。なぜか。それは、最後まで公爵の赦しなく鍵を開かせないためだ。勝手に鍵を開かれぬようにするためだ」
 だから、とマルクスは続ける。
「俺たちは初めから間違っていたんだ」
「・・・・・・間違っていた、って・・・・・・」
「太宗公爵が、ノイナを選ばなかったんじゃない。公爵は次の公爵を選ぶことはあっても、その次については示すつもりが無かったのだと思っている。次代の公爵選びに、太宗公爵が関わるつもりはなかった、ということかもしれない。俺はそう思っている。この代の、次の公爵を選ぶのは、マヨールではない。ミノールなんだ。マヨールはそれを犯すつもりは無かったんだと思う。だからマヨールはお前に鍵を託すことはしなかった」
 マルクスは続ける。
「公爵の許しなく、鍵を開かれるのを防ぎながら、公爵がいなくなったときにも、鍵が開かれるように作られた。そこが要なんだ。公爵がいないにもかかわらず、機神の鍵を開かねばならないとき、それがどんな時なのか、考えるのも恐ろしくはある」
「・・・・・・」
「でも、その時には、鍵は開かれるはずだった。なぜなら、一族の危機に、一族に機神が要るのならば、それを鍵と知るものは、かならず自ら集まったはずだから」
 そしてマルクスはナディアへと目を向けた。
「ナディア、君も初めから鍵だと知っていただろう。俺もだ。俺も鍵であると知っていた。そして最後の鍵の担い手も、己が託されたものが鍵だと知っていた」
 その胸にナディアは両の手を結びあわせている。鍵の指輪が光っていた。問い返すこともできないナディアに代わって、ノイナは問う。
「誰なの、その人は」
 振り向きノイナを見て、マルクスは先と変わらぬ静かな声で応じる。
「俺の姉だ。ゼノビア。彼女が最後の鍵の指輪の持ち主だった」
 執務室に静けさが満ちる。
 意外と言うより理不尽だと思えた。つづいてマルクスは振り返り、気まり悪げに立ち続けるティルティウスへと言った。公爵殿下に、指輪と手紙を、と。はい、と彼はうなずき、一歩踏み出す。小脇にしていた小さな鞄を開く。小さな封筒を開き傾けると、中から一つの指輪がティルティウスの掌に転がり出る。二巻きしたかたちの精霊銀の指輪、そう、マルクスや、ナディアのものと同じ形をした指輪だった。形の上では、ノイナが今もつけているものも同じ形をしている。
「ここへ」
 祖父が重々しく言い、ティルティウスは肩を震わせ、それでも、はい、と声高く応じる。それからぎくしゃくと踏み出して、祖父の執務卓に指輪とそれから封筒とを置いた。一礼して後ろ足から退く。ノイナは思わずマルクスへと踏み出していた。
「なぜ、なぜ侯家のものに?」
「侯家だからではないと俺は思っている。たぶん、俺の姉で、かつマヨールとそれなりに親しかったからだ」
 マルクスはナディアへと振り向く。
「覚えているだろう、ナディア。良く庭のあの部屋に行ったじゃないか」
 両の手を胸の前で強く握り合わせ、ナディアは応じる。
「それが、わけなの?」
「わけについうてま、俺は踏み込んではわからない。ここで俺が口にできるのは、俺たちに残された手紙からわかることだけさ」」
 マルクスは言う。
「この鍵は、何者かに機神を託すためのものじゃなかったと、俺は思っている。この鍵の役目は、公爵がいないにもかかわらず、機神の鍵を開き、俺を機神に乗せねばならないとき、ということが、どういうことなのか、考えてみてくれ。それは、何らかの形で一族の興廃がかかり、かつそこに公爵の判断が加わらない非常の刻だ」
 だが、と彼は続ける。
「その刻のための鍵が、その刻でもないのに、公爵のあずかり知らぬところで機神を甦らせてはならなかった。それは一族そのものを危機に晒す」
 言ってマルクスは再びノイナへと目を向ける。
「だからノイナ。俺たちは間違っていた。覚えているだろう。姉とお前の話を。姉は言っただろう。どういうことなのか、聞かせてもらわねばならないって」
 それはあまりに前のことで、ノイナの中からすら忘れ去られそうになっていたことだった。最初に、本当に最初に、侯家を訪れた時の一騒ぎのことを。
「・・・・・・」
「姉貴が鍵を封じたんだ。俺からも、おまえからも」」
 今日にあって、はじめてマルクスはすこしの笑みを浮かべた。いつもの彼らしいものをかすかに浮かべて。
 そして彼は続ける。俺にも不思議ではあったんだ、と。
「ナディアも、ノイナも、いずれ家を出て、鍵の衆参が必要な時にいなくなることがあり得た。その時にまで、意味も無く鍵を施したままにするか。姉も気にしていたらしい。律儀だろ?姉貴は父さんにも話さなかったんだ。これが機神に関わるものだと気付いたからだ。だから、あの後にも、俺にも何も言わなかった。ただ、嫁入りする前にティルティウスに鍵を託した」
「・・・・・・」
 ティルティウスは、少し俯いてただ聞いている。マルクスは続ける。
「だが譲られたこの鍵で機神の鍵がひらけるかどうかは、わからない。ひらけなかっただろうと、俺は思っている。マヨールが何かしら考えた、ある時が過ぎるまで、機神は封じられるようにしてあった。それは、俺には、俺のためのように感じられる。そう思いたいだけかもしれない。けれどマヨールはそれほど甘い人ではないとも思う。むしろ悪党だったんじゃないかと・・・・・・」
 たとえば、と言ってマルクスはナディアを見る。
「侯爵家が機神を求めて動き始めたとしたら、ナディアは、それに応じたか?」
「・・・・・・」
 ナディアは、答えあぐねるように目を逸らす。マルクスはすこしの笑みを浮かべる。
「君が気にすることは何もない。現にあの時、ナディアからすべてが始まったんじゃないか。君は、一族の苦境に、機神の鍵は開かれるべきだと考えた。鍵の主が自ら考え、動くことは、この俺たちの鍵の仕掛けの中に組み込まれていたと俺は思っている」
 ただし、とマルクスは話を続ける。
「鍵の主の誰か一人が、鍵は開かれるに値しないと思うならば、鍵は働き続ける。姉貴はそれをやったんだ。姉貴らしいと思う。あの人には勝てないよ」
 それからマルクスはノイナを見る。
「お前が間違っていたわけでもない。あるものにとって正しく、あるものにとって間違っている。それは常にあることだ。そして正しいと信じるものが、正しいと信じるがゆえに正しいとは、きっとマヨールは考えなかったのだと思う。マヨールは死の床にあった。これより先に、いつ機神の鍵を開くべきかなど、言い当てられるはずもない。それを考えるべきは次の公爵であり、その公爵が何かの折に鍵を開けなくなった時に限って、この鍵は開かれるように作られていた。俺にはそう思える」」
 マルクスは言う。
「すべての鍵は正しく働いていた。全ての者が、マヨールの期待する通りに動いていたと俺には思える。ノイナが機神をよみがえらせようとしたこともまた、あり得ることとしていたのかもしれない」
 ノイナは頭を振った。納得できない。マルクスを見据えて踏み出す。
「じゃあ、父上や皆は、助けられなかったっていうの。そのために機神を甦らせることはできなかったっていうの。父上も、死んでしまうだろうことが、決められていたというの!」
「それは・・・・・・」
 わからない。マルクスはノイナから目を逸らし、己でも信じていない風に呟く。
「俺には、マヨールの考えていたことがわかるはずがない」
 だが、とマルクスは続ける。
「ノイナ。すべては正しく動いたように俺には思える。お前が、すべての、そして最後の鍵となったことを含めて。俺たちの鍵は三つの鍵の一つの一つだった。一つは公爵の鍵、一つは俺とナディアと姉貴の鍵、最後の一つの鍵がある。これまでの二つとは別に。これまでの二つとは違った働きをするものだ。これまでの鍵とは違う役割を果たすためのものだ」
 そして、とマルクスは続ける。
「開かれるべき時が来れば開かれる。手紙にはそう書いてあった。開かれることがあらかじめ定められている。それどころか俺たちの鍵すら、ある刻をもってその働きを終えるようになっていたはずだ。姉貴もナディアも、時が来れば家を離れるのだから」
「もうよい」
 祖父は言った。マルクスは背を伸ばし、口をつぐむ。
 そのまま、一拍、二拍と時が流れる。静けさだけが立ち込めて、それもまた静かに流れゆく。
 もうよい、とはどういう事なのか。ノイナは祖父を見た。祖父はまるで眠っているように動かなかった。先と同じく背もたれに身を預け、お腹の上で指を組み合わせて、軽く俯いている。
 ナディアは胸の前で手を結び合わせて、どうすればいいのと言いたげにノイナを見つめている。ノイナにだって、そんなことはわからない。
 その中で、マルクスは顔を上げた。唇を引き結び、背を伸ばし、さらにかかとを合わせる。その軍人らしい所作の音だけが静けさの中に響く。彼は言った。
「公爵殿下にお願いがあります」
 祖父は答えなかった。このまま聞こえなかったと通すのだろうか。ノイナはそう思い、少しの時がさらに流れて、祖父はゆっくりと応じる。
「何か」
 マルクスは一歩踏み出した。
「ノイナに許しをいただきたく存じます。学院に再び帰る許しを」
 祖父は顔を上げる。
「お前は、そのためにここに来たのか」
 その声には、かすかに笑いの気配があるように思える。マルクスは堅い声で応じる。
「はい殿下」
「そのために、公爵家と、機神の秘密を露わにしたというのだな」
「・・・・・・もし公爵殿下がこれまでのことをご存じであったとしたなら、迂闊だったかもしれません。その罰は、改めて受けます」
 しかし、と彼は言う。
「ノイナには、もう少しだけ時が与えられると思うのです。自分が、鍵によって時を与えられたように」
 踏み出す暇さえノイナには無かった。マルクスはよどみなく続ける。
「そののちノイナと機神によりふさわしいものが現れたなら、私が退くことはやぶさかではありません」
「いい度胸だ」
 そのノイナさえ圧するように、低く祖父は応じる。
「この儂にそのような啖呵切ってよこすとは」
「なすべきことを成すことは、魂の自由に許されたことだと信じます」
「お前に成すべきことがあるとすれば、一人のためのみに動くことではないぞ」
「はい殿下。自分はそのつもりでおります」
 よどみなく応えるマルクスを、祖父は見据えていた。
 それから、よかろう、と応じた。

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最終更新:2013年06月12日 23:23