鍵 29
ノイナは今もまだ、少し信じられぬ気持ちでいた。
それでも馬車は進み、学院へと近づいてゆく。
ほんとうに学院に戻れる。うれしくはあったけれど、どうしてよいか判らなくもある。押し寄せる出来事が多すぎた。この一月ばかり、いやそれどころかこの一年の間に、嵐のように何もかもが押し寄せて、過ぎ去り、そしてまた次の風が押し寄せてくる。学院に行く前のノイナは、学院を去る前のノイナとはちがっているし、今再び学院への道を往くノイナもまた、それまでのどのノイナとも違っている。
何よりも今は待ち遠しい。
入学のときと同じように、馬周りを廻り、そして馬車は静かに止まる。踏み台が置かれ、馬車の扉が開かれ、そして降りるときになって、吹きすぎる風に首をすくめもする。冬はもう近い。
玄関ではすでに、シスターらがノイナを待っていた。女子部の長と舎監だ。舎監のほうはもうおなじみだったけれど、女子部の長とは、ノイナはあまり会ったことはない。そして普段はこのように表に出ることの少ないシスターが玄関に出てきていることを不思議がってか、何人かの学生が様子をうかがうようにある。
馬車を降りたノイナは、淑女の礼を行った。シスターらは聖職者の礼をもって応じる。ノイナは顔を上げ、言った。
「一度は学院を去ることとなりましたが、今再び許しを得て、戻ってまいりました」
「おかえりなさい。お知らせは届いておりました。ふたたびあなたをお迎えすることができて、わたくしたちもうれしく思っています。たとえあなたが、この学院に戻ることが出来なくても、あなたがこの学院のものであったことは変わりませんしまた、あなたがここで培ったものは失われぬはずだと信じております」
この学院を去るときも、そのように言われた。たぶんアリアもそう言われたはずだ。あるいは近衛騎士団の子らが戦場に赴くときも、そう言われていたかもしれない。
「先生方も、あなたの戻ってこられるのをお待ちになっておられましたよ。冬季考査のための補習授業をされるとかで」
「・・・・・・励みます」
ノイナはそのために学院に戻ってきたのだから。
舎監に促され、初めてこの学院にやってきたときのように、大きな鞄を引き上げて歩く。そのころにはもう、実習室に報せが届いたのだろう。何人もの顔見知りが廊下に姿を見せていた。
ほとんど真っ先に現れたのはサーリアで、足を止めることなくそのまま歩いて追いついてくる。ノイナに並んで歩き、それから、おかえりなさい、と言った。
「荷物を持つわ」
「ありがとう。大丈夫。前より軽いから」
「もう、大丈夫なの?」
探るように問うサーリアに、うん、とノイナは応じる。
「卒業まで」
「よかった・・・・・・」
サーリアは足を止めて息をつくように言う。それから少し足をはやめて歩くノイナに追いついてくる。
「きっとみんな、喜ぶ」
そのころには廊下にも人が増え始めて、遠巻きに様子を確かめ、あるいはおかえりーなどと小さく手を振ったりもする。
舎監が元の部屋、つまりウェーラとノイナの部屋を開き、それから持ち物の検査をすることを告げる。わずらわしいけれど、それもまた、学院のやり方なのだ。検査されるほうも、要領はわかっている。ノイナは鞄を開いて見せ、舎監はそれを検める。その間にも間口の向こうの廊下には、つぎつぎと学生たちが集まってくるのがわかる。ノイナには少し意外でもあった。嫌われてはいないようだったけれど、好かれ親しまれているわけでもないと思っていた。
あなたたち、いいかげんにしなさい、さわがしいですよ、などと舎監は言うのだが、ざわめきは止まることもない。
「合唱部のみんな、礼拝堂で練習してるって」
間口から軽く身を傾け、そっと囁くようにサーリアは言う。
「ありがとう」
その前に、集まってきた皆に何事か言わねばならなそうだった。
「みんな、ご心配をおかけしました。卒業までこの学院で過ごす許しを得られました」
わあ、とか、おめでとうとか、声が上がる。みんな、通してあげて、とサーリアが言い、女学生たちはなぜかきゃあきゃあと声を上げて道を開く。その中にドロテアが居ないのが彼女らしいと思えた。居ないのはドロテアだけでなく、セレニアやクラウディアら取りまとめ役らもで、彼女らも騒ぎに乗じるわけには行かないのだろう。
いつのまにか足も軽く、小走りに階段を駆け下りる。
中庭はすっかり秋の終わりの風情で、ほんの一月の時の流れが、ずいぶん長かったように思える。この学院で駆けるのは、はしたないことだったけれど、もう止まらなかった。
礼拝堂の扉は、いつも通り開いていた。いつもは、裏から回るのだけれど、今日はその気にすらならなかった。中から声は聞こえない。いつもは発声練習をして、時には腹筋運動をして、にぎやかなくらいなのに。
礼拝堂の低い階段を一息に駆けあがる。
足音だけが響いて、その先には何もないのではと思えた。
けれど。
「さんはいっ!」
聞きなれたウェーラの声が響く。
『主のみ愛は、世に満ち溢れり。
君よ涙拭いて、おもてを上げよ
君よ一人にあらず、いかなる時も
世に生けることは、愛に生きること。
悲しみの涙は、君より降る慈雨』
合唱の声が、礼拝堂に響いて、そして大気の中に吸い込まれてゆく。
『歩けよ。果てない道。
歌えよ。空越えるよう。
み愛は、常に降る。
約束の国は、我らが前にあり』
ノイナはただ立ち尽くして、その歌声が、静かに消えてゆくまで、動くこともできなかった。
「ノイナさんおかえりなさーい」
わあ、と声があがり、ぱちぱちと手を叩く音さえ響く。それはもちろん、礼拝堂の奥の合唱隊の列からだ。
「こっちこっち」
「はやくおいでー」
口々に言う合唱列の真ん中、指揮台の上にウェーラがいる。
「最後の最後になって、走ってくるんだもの。だから慌てちゃった」
彼女は困ったような笑みを見せる。
「待ってたよ。おかえりなさい」
小首をかしげる仕草に、彼女の髪が揺れる。
「・・・・・・」
どう応えれば良いのか、判っていた。判っていたけれど、震えて声が出なかった。
それでもどうすればいいのかだけは、判っていた。
歌の通り、踏み出して、歩いてゆくだけだ。その先に何があるのか、どんな風が吹き、どんな声が響くのか、今はわからない。時の流れのように果てしなく終わりなく続くように見えて、いつかはノイナに許された刻も終わる。
それでも、空は続き、道は続き、歩み続けるものは絶えないだろう。
人が約束の地にたどりつくことが無かったとしても、人はきっと歩き続ける。
最終更新:2013年06月13日 22:56