「……僕が死んだら。その後、ステラはどうするつもりでいるの?」
画架の向こうの寝台で、筆を止めたセレスの瞳に視線を絡め取られたまま、私は考えることを先延ばしにしてきたそれにまだ答えを見出せないでいた。
けれどゆっくりと、でも確実にセレスの時は流れ、小さな身体に残された強い火にも揺らぎが見え始めている。
私がこの場所に留まっている唯一といっていい理由、それはこの少年がいたから。
私が重ねてきたことが正しかったのか、いや……それは一つの方法ではあったけれど、けして正しいなどと言えるものでない事に私はもう気づいている。
この先、再び遥かな誓約を果たしながら、この少年の身に降りかかった悲しいすれ違いを繰り返さない為にどうしたら良いのか、この私に出来ることとは一体何なのか、その答えはまだ見つからない。
「……わからない」
喘ぐように吐き出した呟きは、思いのほか私自身を揺るがせる音となって静かな夕暮れの室内に響いた。
「わからないんだ、セレス。私は……この世に魔法がはびこる事をずっと忌避としてきた。かつてそれがもたらしたものがどのようなものだったかを知るからだ」
そう、むしろその魔法という技術がもたらした物のうち、この世界にとって最悪といえるものの一つが、魔導師たちが興味と自分たちの都合のよいものに世界を繋げ書き換えるための鍵として造り出された自分自身であるがゆえに。
こんな世界に思い入れなどなかった。かといって自らがかつて存在したとされる世界のことなど、いくつもの存在の集合体として造られた私のうちに記憶などなく、還りたいと思うこともない。
還る場所もなく、この世界に受け容れられた存在でもない私が、この世界で見つけたいつ果てるとも知れない悠久の時間のなか自分というものを保つ術、それをあの
遥かな日、あの燃え落ちる都と、離散していく人の群れとの間で私と同じ異邦者である同胞の前で交わした-再び世界に魔法による過ちを犯させない-という誓約に求めていたに過ぎないのかもしれない。
誰のためでもない、ただ空っぽで虚しい自分を誤魔化しで満たすためだったのかもしれない。
「私は、魔法というものがもたらす物が忌むべきものしかない……ずっとそう信じてきた。かつてそのようにしか魔法が使われるのを見たことがなかった。再び世界に戻った魔法がどのように使われるのかをも見てきた……だから私は魔術士の命を刈ることに躊躇いを持たなかった」
小さくうんと肯くセレスの声は、私がかつて誰にも漏らしたことのない吐露に同意でも否定でもない響きで、ただ言って構わないと許しをくれるように私の中の何かにそっと触れる。
「でも今は……それすらも……続けていける気がしないんだ」
かつてあの魔術士が語った言葉。
『君があの子の父親をもっと早くに殺していれば、あの子の母親は心を病むこともなく、もしかしたら想う相手と幸せに暮らせたのかもしれない。けれどそこにあの子はいない。もしかしたら心を病んでしまった母親の呪詛にあの子の身体が蝕まれる前に君があの子の母親を殺していたなら、あの子がこれほど早く命の火を尽きさせることにはならなかったのかもしれない。けれど果たしてそれはあの子が望んだ未来であったのか……誰にも分からないし、誰にも決められない』
魔術士は正しい。
彼の指摘が正しいことは理解できたけれど、そこに答えは見つからない。
どこでそれを見つければいいのか、わからない。
無意識下で発露したとはいえ、母親の呪詛に身を蝕まれてなお母親への愛情を失わず、母親が自分を望んでくれたのか、自分自身が母親に与えたものが苦しみだけであったのかどうか。それを望み、知ろうとしたこの少年とともにいれば、私も自分の望みが何なのか、その答えが得られるような気がして……
「ステラ自身がどうしたいのかが、まだ見つからないんだね」
セレスの言葉に無音の肯定を返しながら、だからまだ私を置いていかないでくれと縋る視線を投げるが、それに気付いているかのように少年は柔らかく微笑んで小さく首を振る。
「僕にはステラがどんなものを見てきたか、その為に選んだものがどんなに苦しかったのか少しも分からないし想像もできないけれど……。何かを始める前に答えなんて出ないんだなぁって思ったよ。今ステラが苦しんでることは、ステラが以前に選んできたことがあるからこそ出た、一つの答えなんじゃないかな」
「答え?……こんなぐちゃぐちゃで不様なものがか」
「本当にそんなものなのかどうかは僕にはわからない。でも……うん。それは終わりの答えじゃなくて、次を探す為の一つの答えなんだと思うよ。だから……」
「……だから?」
こだまのように繰り返し、乾いた砂が水を求めるように言葉を待つ私にセレスは少しだけ困ったように一瞬視線を外したけれど、もう一度私を見つめなおすときゅっと唇を一度引き絞り、ゆっくりとそれを開いた。
「もし、次の答えを探す方法が見つからないのなら、この場所で探せばいいよ」
それは……と俯きかけた私を遮るようにセレスがハシバミ色の瞳で真っ直ぐに私を見つめ、言葉を継ぐ。
「一緒にそれを探すって約束したけど、僕はもうすぐ居なくなってしまうから……。でもここでステラが先生になってくれたら、きっと……きっと僕のようにステラに助けてもらえる子が居るはずだから。そしたらきっとその子たちが、次の答えを探す方法をステラが見つけられるように助けてくれるから……」
僕がきっと出来ないことを、僕の代わりに……。
そういってセレスが見せた表情に、私の中の何かが熱く熱く熱せられるようで……苦しかった。この感情をなんと呼ぶのか私にはまだ分からないけれど……熱くて、痛くて、でも柔らかく温かい。
「……セレス、でも私は……」
私の中に入り込もうとする、かつてなく柔らかいそれを、自身に不釣合いなものだと押し返すかのように、掠れる声で頭を振った私を見てセレスが表情をくしゃっと歪める。
「できるよ。だってもう僕を助けてくれたじゃないか。だから……きっとできるし、きっと見つけられるよ。ステラ……」
出来ることなら……。
この少年の柔らかな言葉に身を委ねてしまいたい。
私がそのようなものでも構わない。答えを見つける時間はまだある。
そう言ってくれるかのように差し伸ばされたものに応じられたら……。
でも私にそう思わせてくれる唯一の存在である少年は、間もなく私の前から消えてしまう……。
この言葉だけを抱いて自らを認めることができないほど、私は……自分を信じることができないから。
お願いだ……。
お願いだ、この世の神と呼ばれるものたちでも、私が憎んだ魔法でもいいから……。
お願いだ、私が自分を信じて次のものを見つけて選べるまで……この小さな少年を……私から奪わないでくれ。
それがどんなに身勝手で、どこまでも自分のためだけの願いだと分かっていても……私はそう願わずにはいられなかった。
最終更新:2012年12月12日 02:11