レースの道から退いてどれだけ時間が経っただろうか。
引退発表したのがつい昨日のように感じられる。
つい先日は私の大好きなトレーナーさんと温泉旅行にも行った。
突然誘われて正直、私も驚いた。
静かな時間を二人でのんびり過ごすのは本当に心地良いものであり、またいつか行きたいと思った。
さて次は何処へ行こうか。机に置いている卓上カレンダーに目を向ける。何も書かれていない。ずっと遠くに行けそうだ。
そうだ、あの場所へ行こう。私が以前から行ってみたいと思っていた「旅の始まり」の地へ。
決まったはいい。だが、今回の旅はいつも以上に長くなる。
そこで私は一筆、トレーナーさん宛の手紙を書くことにした。
書き終わり、封筒に白紙の旅程表と一緒に入れる。
そしてそれを私の後輩のマイブリッジシネマに託す。彼女にはただ、「休み明けに私のトレーナーに渡しておいて」とだけ伝えておいた。
トレーナーさんは心配するだろうけど大丈夫だ。きっとあの人なら私を追って来てくれるだろう。
迷惑をかけないように同室の子宛に事情を書いたメモを残し、まだ夜が明けない休日の早朝に部屋を出る。
早朝の府中の空気は綺麗であった。人もほとんど歩いていない。静かな空気の中、私はバックパック一つで歩んでいく。
列車に乗り空港へ向かう途中、私は故郷へ寄り道した。朝の船橋は休日にもかかわらず、多くの人で溢れかえっていた。ハンドドリップのコーヒーを買い、駅のホームのベンチへ腰掛ける。
コーヒーから立ち上る湯気をぼんやりと眺めた。
船橋の街は昔と変わらない。駅前を行き交う人々も、開店準備を始める店々も、忙しそうに道路を走る車も。
それなのに私だけが、どこか違う時間を歩いているような気がした。
現役の頃は、次のレース、次の目標、次の挑戦が常に目の前にあった。勝つために走り続け、未来を証明するために駆け続けた。
けれど今は違う。
自由になった。
だからこそ少しだけ不安になる。
私は本当に前へ進めているのだろうか。
紙コップを両手で包みながら考える。
だが、その答えを探しに行くのもまた旅なのだろう。
冷えた朝の空気を吸い込み、私は小さく笑った。
考えるのは道中でもできる。
今はまず、行こう。
残ったコーヒーを飲み干し、再び列車に乗り込む。
空港に着き、乗る予定の飛行機を確認する。海外へ行くのは何回目だろうか。遠征以外でも何度か行ってはいるが、一人で行ったのは片手で数えられるくらいの回数だ。しかも今回はトレーナーさんには何も言っていない。こんなことは初めてだ。
空港のラウンジで朝食を摂りながら窓の外の景色を見る。すっかり日の昇った空は青く澄んでおり、まるで私の旅を歓迎しているようだった。下の方に目を向けると休日でも多くの人が働いているのがよく見える。学生がこんなにのんびりと食事をしていても良いのだろうかと少し複雑な気持ちになる。
食事を済ませて搭乗口のそばの椅子に腰かける。
早く行きたいという想いと、トレーナーさんに伝えるべきだったかもしれないという後悔の想いが交差する。少しドキドキする。
スマートフォンを取り出す。
トレーナーさんとのメッセージ画面は、一番上に固定されたままだった。
『今から海外行ってきます』
そう打ち込んでは消す。
また打ち込んでは消す。
結局、送信ボタンを押すことはなかった。
代わりに閉じた画面へ小さく呟く。
「ごめんなさい。でも、今回は先に行きます」
きっと怒るだろう。
呆れるかもしれない。
それでも最後には笑って追いかけて来る。
そんな確信にも似た信頼が、私の背中を押していた。
しばらく待っていると搭乗の案内の放送が流れる。
私は立ち上がり、窓の外に停まる飛行機を見つめた。
あの翼の先には、私がまだ見たことのない景色がある。
そしてもしかしたら、まだ知らない私自身も。
バックパックの肩紐を握り直し、私は搭乗口へ向かって歩き出した。
座席に腰を下ろし、窓の外を見つめる。
地上では整備員たちが忙しそうに動き回っていた。
本当に行くのだ。
今さらながら実感が湧いてくる。
トレーナーさんは今頃何をしているだろう。
まだ手紙は届いていないはずだ。
同室の子も、起きたら驚くだろうな。
きっと心配をかけてしまう。
マイブリッジシネマも事情を知らない。いつもの旅行だと思っているかもしれない。
少しだけ胸が痛む。
それでも私は行かなければならなかった。
答えのない問いを抱えたまま。
やがて機体が滑走路へと向かう。
エンジン音が大きくなる。
背中が座席へ押し付けられた。
窓の外の景色が勢いよく流れ始める。
そして次の瞬間、機体は空へと舞い上がった。
小さくなっていく街並みを見下ろしながら、私は心の中でそっと呟く。
「行ってきます」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもよく分からなかった。
ーーー
数時間後。
機内食のトレーを片付け、暇つぶしに機内エンターテインメントを眺める。
いつもならアクション映画かSF映画を選ぶ。
だが、その日は何故か恋愛映画に目が止まった。
自分でも珍しいと思う。
軽い気持ちで再生したはずだった。
しかし気付けば私は画面に見入っていた。
遠く離れた恋人同士。
すれ違い。
言葉にできない想い。
再会。
ありふれた物語だった。
それなのに妙に胸に刺さる。
主人公が大切な人へ向けて書いた手紙の場面で、ふと自分が日本に置いてきた一枚の紙きれを思い出した。
トレーナーさんへ残してきた手紙。
もし映画の主人公が私だったら。
もし相手がトレーナーさんだったら。
そんなことを考えてしまう。
あり得ない話なのに。
エンドロールが流れる頃には、窓の外はすっかり夜になっていた。
私はヘッドホンを外し、静かに目を閉じる。
エンジン音が心地良い。
次第に意識が遠のいていった。
ーーー
目を覚ました時には、乗り継ぎ地であるドバイへ到着していた。
巨大な空港を歩きながら自然と笑みが浮かぶ。
懐かしい。
ここには良い思い出があった。
トレーナーさんと二人三脚で挑んだドバイワールドカップ。
世界中の強豪を相手に走ったあの日。
パドックで交わした言葉。
レース直前に握ってくれた手。
ゴール板を駆け抜けた瞬間の歓声。
今でも鮮明に思い出せる。
あの勝利は間違いなく私一人では辿り着けなかった。
ファストフード店でハンバーガーを注文し、カウンター席へ座る。
待ち時間の間、スマートフォンのアルバムを開いた。
レース後の記念写真。
遠征先で撮った写真。
温泉旅行の写真。
笑顔のトレーナーさんの写っている写真が何枚も並んでいる。
自分でも驚くほど自然に見返していた。
番号を呼ばれ、受け取ったハンバーガーにかぶりつく。
美味しい。
美味しいはずなのに。
何故だろう。
今日は少しだけしょっぱく感じた。
スマートフォンの画面には、温泉旅館の前で撮った二人の写真が映っている。
私はしばらくその写真を見つめたまま動けなかった。
やがて搭乗時刻を知らせる通知が表示される。
ロンドン行き。
今回の旅の最初の目的地。
スマートフォンをポケットへしまい、立ち上がる。
「さて、行こうか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
それでも胸の奥では、もう一人の旅の同行者のことを考えていた。
ドバイを発った機体は西へ向かって飛び続ける。
窓の外には雲が広がっていた。
地図アプリを開く。
現在地を示す小さな飛行機のマークは、もう日本から遠く離れた場所にあった。
不思議な気分だった。
あれほど慣れ親しんだ国が、今は何千キロも向こう側にある。
トレセン学園も。
寮の部屋も。
トレーナーさんも。
指先で画面を拡大してみる。
もちろん距離は縮まらない。
当たり前だ。
私はスマートフォンを閉じた。
機内エンターテインメントの画面を開く。
何か映画でも観よう。
作品一覧を眺めていると、以前トレーナーさんと一緒に観た映画を見つけた。
遠征先のホテルで夜更かししながら観た作品だ。
懐かしくなって再生する。
台詞を覚えているくらい何度も観たはずなのに、以前とは違って見えた。
隣の席で感想を言い合う相手がいないからだろうか。
映画が終わった後は機内サービスのゲームを起動した。
これもトレーナーさんとよく遊んだものだった。
コンピューターと格闘しながらふと苦笑する。
気付けば今日一日で思い出していることのほとんどに、あの人がいる。
旅をしているのは私なのに。
まるで一緒に連れて来てしまったみたいだ。
ーーー
ロンドンへ到着した頃には、すっかり夜になっていた。
長い移動で身体が重い。
入国審査を終え、予約していたホテルへ向かう。
タクシーの窓から見える街並みは日本とはまるで違った。
歴史の積み重なった建物。
石畳の道路。
柔らかなオレンジ色の街灯。
もっと見ていたい気持ちはあったが、今は眠気の方が勝っている。
ホテルでチェックインを済ませる。
部屋に入ると、バックパックを床へ置いた。
ようやく着いた。
そんな安堵が込み上げる。
シャワーを浴びる。
熱い湯が旅の疲れを洗い流していく。
バスローブを着てベッドへ倒れ込む。
スマートフォンを手に取る。
画面にはイギリス時間が表示されていた。
今頃、向こうは何時だろう。
トレーナーさんは手紙を読んだだろうか。
そこまで考えたところで意識が途切れた。
ーーー
目を覚ます。
時計を見る。
午前六時。
まだ身体は少し重い。
時差ぼけだろうか。
私はベッドから起き上がり、窓へ向かった。
カーテンを開く。
そして窓を少しだけ開けた。
ひんやりとした朝の空気が流れ込んでくる。
思わず深呼吸する。
朝日に照らされたロンドンの街並みが目の前に広がっていた。
赤茶色の屋根。
古い煉瓦造りの建物。
ゆっくり走る二階建てバス。
見慣れない景色ばかりだ。
しばらく無言で眺める。
そしてようやく実感した。
私は本当に日本を離れたのだ。
誰も私を知らない場所。
知らない歴史。
知らない文化。
胸の奥が少しだけ高鳴る。
ホテルのレストランへ向かう。
朝食ビュッフェには様々な料理が並んでいた。
焼きたてのパン。
ベーコン。
スクランブルエッグ。
色鮮やかなサラダ。
フルーツ。
せっかくだからと少しずつ皿へ載せていく。
気付けば随分と栄養バランスの良い内容になっていた。
思わず笑ってしまう。
きっとトレーナーさんの影響だ。
現役時代からあの人は私の食事にうるさかった。
「旅先だからって好きなものばかり食べるなよ」
そんな声が聞こえてきそうだった。
席に座る。
周囲では旅行客や家族連れが楽しそうに話している。
私は一人だった。
寮では誰かしらと一緒に食事をしている。
遠征なら隣にトレーナーさんがいた。
静かな朝食も嫌いではない。
それでも今日は少しだけ広く感じた。
ーーー
身支度を整え、市内へ出る。
ロンドンの街は歩いているだけで楽しかった。
歴史書で読んだ場所。
写真で見た建物。
長い年月を生き抜いてきた石造りの街並み。
時間の積み重なりが目に見えるようだった。
博物館では展示物を眺めながら何度も足を止めた。
何百年も前の人々が残したもの。
遠い過去が確かに存在していた証。
そういうものに私は昔から惹かれる。
ふと考える。
もしトレーナーさんがいたら何と言うだろう。
たぶん難しい解説文を読んで首を傾げている。
そして私が横から説明して。
最後には「なるほどね」と笑うのだ。
そんな光景が自然と浮かんだ。
街角のパブを見つけた時も同じだった。
昼間から賑わう店内。
木製の看板。
窓越しに見えるビールのジョッキ。
もしトレーナーさんがここにいたら。
きっと嬉しそうに店へ入るだろう。
何を飲むだろうか。
どんな料理を注文するだろうか。
想像するだけで少し楽しかった。
ーーー
午後。
私はグリニッジへ向かった。
ここにはどうしても来たかった。
時間の基準となる場所。
時間と旅を愛する私にとって、一種の聖地だった。
展示を見て回り、売店へ立ち寄る。
そこで一つの懐中時計に目が留まった。
シンプルな金色の懐中時計。
私がいつも持ち歩いているものによく似ている。
ショーケースの外から眺める。
精巧な作りの内部がよく見える。
自然とある人物の顔が浮かんだ。
トレーナーさん。
これを渡したらどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。
喜んでくれるだろうか。
「お揃いですね」
そう言ったら。
何故だか胸が少し温かくなる。
私は迷うことなくレジへ向かった。
ーーー
気付けば辺りは暗くなっていた。
ホテル近くのレストランへ入る。
運ばれてきた料理はどれも美味しかった。
味には文句の付けようがない。
それなのに少しだけ物足りない。
一緒に「美味しいね」と言ってくれる人がいないからだろうか。
ふと向かいの席を見る。
当然そこには誰もいない。
私は小さく苦笑した。
ーーー
ホテルへ戻る。
現地のニュース番組を流しながら荷物を整理する。
画面にはイギリスのウマ娘レースが映っていた。
観客の歓声。
真剣な表情の選手たち。
国は違っても同じだ。
皆、自分の夢のために走っている。
現役を退いた今でも、その姿を見ると胸が熱くなる。
番組が終わる頃には眠気も近付いていた。
シャワーを浴びる。
髪を洗う。
タオルで拭く。
ドライヤーを手に取る。
その時だった。
不意に思い出す。
トレーナーさんが髪を乾かしてくれた日のことを。
遠征先のホテル。
温泉旅行。
何気ない時間。
大きな手。
優しい温度。
思い出してしまうと駄目だった。
ドライヤーの音だけが静かに響く。
私は鏡越しの自分を見つめる。
こんなにも遠くまで来たのに。
こんなにも自由な旅をしているのに。
今日一日、考えていたことのほとんどがあの人だった。
ベッドへ横になる。
天井を見上げる。
明日はどこへ行こう。
そんなことを考えながら目を閉じる。
最後に浮かんだのも、やはりトレーナーさんの顔だった。
ーーー
翌朝。
目が覚める。
まず最初にスマートフォンへ手を伸ばした。
通知は何も来ていない。
メッセージも。
着信も。
私は小さく笑った。
「そうですよね」
あの人はこういう時、連絡より先に行動する。
きっと今も私を追いかけている。
そんな気がしてならなかった。
根拠はない。
けれど不思議と確信だけはあった。
私はベッドから起き上がる。
今日こそ行こう。
私がずっと憧れていた場所へ。
『旅の始まり』の地へ。
ーーー
昨日と同じレストランで朝食を取る。
栄養バランスの整った食事。
少しだけ慣れてきたロンドンの朝。
それでも向かいの席が空いていることには最後まで慣れなかった。
ーーー
部屋へ戻り、身支度を整える。
今日選んだのは黒いワンピースだった。
落ち着いた色合い。
どこか礼服にも見える。
そして見る人によっては、何色にも染まっていないウエディングドレスにも。
鏡の前で一度だけ回ってみる。
悪くない。
私はショルダーバッグを肩に掛けた。
中にはいつもの懐中時計。
そして昨日買った、もう一つの懐中時計。
ーーー
駅へ向かう。
高速列車へ乗り込む。
発車するとロンドンの街並みは次第に遠ざかっていった。
やがて車窓の景色が変わる。
広大な緑。
なだらかな丘陵。
風車。
ぽつりぽつりと建つ小屋。
まるで絵本の世界だった。
私は窓へ額を預ける。
「心が洗われるなぁ」
自然とそんな言葉が漏れる。
もしトレーナーさんがいたら。
きっと窓を指差しながらはしゃいでいる。
そんな姿が簡単に想像できた。
ーーー
ダーリントン駅へ到着する。
乗り換えまで少し時間がある。
ホームに立ちながら深呼吸する。
ここまで来た。
あと少し。
夢にまで見た場所へ。
そして。
もし本当にトレーナーさんが来たら。
何て言おう。
謝るべきだろうか。
ありがとうと言うべきだろうか。
そんなことを考えている自分が少しおかしくて笑ってしまう。
ーーー
やがて小さな列車がホームへ滑り込んできた。
目的地へ向かう鈍行列車。
私は乗り込む。
列車は静かに走り出した。
九分。
たった九分。
それなのに随分長く感じた。
そして列車は終点へ到着する。
ドアが開く。
私はホームへ降り立った。
しばらくその場で立ち尽くす。
胸が熱くなる。
何度も本で見た。
写真でも見た。
けれど本物は違う。
空気も。
音も。
光も。
全てが違う。
「ここが……」
思わず呟く。
「ここが夢にまで見た場所か」
私はしばらく駅を歩き回った。
古い建物。
歴史を感じるホーム。
鉄道という旅立ちの始まりの瞬間を見届けてきた空間。
何とも言えない幸福感があった。
やがてホームのベンチへ腰掛ける。
次の列車が近付いてくる音が聞こえた。
私は何となく到着する列車へ目を向ける。
もしかしたら。
そんな予感があった。
列車が停車する。
扉が開く。
降りてくる人はいない。
いや、一人だけいた。
長旅の疲れを隠しきれない様子でホームへ降り立つ人影があった。
くたくたになった足取り。
見慣れた姿。
私は立ち上がる。
そして気付けば名前を呼んでいた。
「トレーナーさん!」
トレーナー視点のストーリーは過去へ行く、そして未来へにて