第一巻伍ノ章、
柩を巡る策謀の中、英国血族――薩摩藩に対し野心の牙を剥いた二人の傭兵。
それを処断せんと田中新兵衛は刀を振り翳そうとするも、
時すでに遅く……
彼の躰は不可視のヒコックの墓碑銘の罠に捉えられており、僅かな身じろぎすら困難な状態に陥っていた。
“人斬り”として京で恐れられ、吸血鬼何するものぞと息巻いていた新兵衛が不様な己の姿に愕然とする中、ヒコックが言い放ったのがこの台詞。
力や速さ、技を正面からぶつけ合う闘いではなく、
周到に獲物を陥れる罠を仕掛け、第一の罠が破られようと、その獲物の油断を第二の罠で突き、万難を排した上でその命を奪う。
力と力を競い合う闘いにおいても決して他の武芸者に劣らぬ技能を持ちながら、徹底してその美学を貫こうとする
ヒコックの余裕と愉悦が表れた言葉であり、同時に
嵌ればその瞬間に『闘い』を不成立にしてしまう、彼の
墓碑銘の脅威を示す場面。
本編より
新兵衛はもはや身動きも取れなかった。歯の根が合わぬほどの寒さを感じる。身体が異様に冷え切っていた。
「馬鹿なッ……いつ、何を仕掛けられたというのだ……?」
ヒコックは、悠然と煙草を咥え、紫煙を吐き出した。
「どれだけの強者が相手だろうと、“闘い”そのものに持ち込ませないのが“狩り”の極意ってものだぜ」
「熊や虎と真っ向から立ち向かい、力と力で打ち勝つことは狩人の勝利じゃない。たとえそれが可能であったとしてもだ。
その爪牙を無力化し、狙った通りの罠に追い込み仕留めてこその本懐ってものなのさ」
「そして……誰にも見えないからこその『罠』ということだ」
新兵衛は、愛刀の柄を握るのが精一杯の状態にまで追い込まれていた。
一秒ごとに力、そして生気そのものが身体から奪われ、どこかへと消え去っていく。
まるで見えない亡者たちの手に群がられているかのようだ。
――そして、新兵衛は悟らざるを得なかった。
身動きさえ取れない以上、自分はもはや一太刀すら敵に浴びせることなくこの闘いに敗北したのだと……。
最終更新:2021年12月22日 21:47