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ナーランダ僧院
nalanda-mahavihara.com
全世界仏教徒の悲願 インド ナーランダ僧院の再興
ナーランダ僧院 建立由縁
東方東漸 〜日本の地に蘇る 天竺の聖地〜
紀元5世紀の昔、北インド全土を統治したクマーラグプタ一世により、釈尊が仏教を説き弘められた王舎城にほど近い地に建立されたナーランダ僧院は、尊い仏教を探究して万人に弘めるという至高の使命を果たすべく、大いに発展を続け、一万人を超える優秀な学僧が全世界から参集して一心に学ぶ、世界最高・最大を誇る仏教最高学府として、世に名声を轟かせました。
7世紀、稀代の名僧と謳われた中国の玄奘三蔵は、全人類救済の理想に燃え、自らの命を顧みず、遙か西方、天竺のナーランダ僧院を目指しました。国禁を破って厳戒の国境線を越え、激しい渇きに死の淵をさまよいながら、広大な熱砂の砂漠を渡り、氷雪に覆われた天山山脈を越え、前人未踏の難路を、血を吐く思いで歩んだ末、ナーランダ僧院にたどり着きました。そこで、玄奘三蔵は天竺随一と謳われた高僧から親しく教えを受け、仏教の真髄を授かりました。そして、出発から幾歳月を経て、故郷の中国に教えを弘めるべく、再び長い旅を経て帰郷し、数多の経典と、尊い仏教をもたらしたのです。
それより500年の時を経た12世紀、学僧たちが学問の議論にふけって、仏教弘宣を怠った結果、ナーランダ僧院は、異教徒の侵略を受けて破壊され、現代では、僅かに残る煉瓦の土台に往時の隆盛の跡を偲ばせるのみです。その復興は、全世界の佛教徒 八百年来の夢でしたが、玄奘三蔵が中国にもたらした仏教が、釈尊の予言に従って、さらに東方東漸した東の涯、日本の地へと伝わり、21 世紀の現代に至って、全世界佛教最高会議 佛教サミット 初代会長・念佛宗 御開祖による御提唱の下、日本国 念佛宗により、ナーランダ僧院が再現されました。
現代のナーランダ僧院は、正面の大石柱をくぐるや、釈尊が六年間の苦行をされた前正覚山、また、スジャータより乳粥の供養を受けられた尼連禅河の如き情景が眼前に広がり、成道に至る釈尊の御足跡を彷彿させる、真に仏縁深き一大建築であります。この地は、世界に伝わる仏教の流れを、釈尊の原点に返って一つに結束させる聖地にして、全世界 仏教興隆の源たるにふさわしき仏教教学の殿堂であり、まさしくここから、大いなる精神文明の時代が、全世界へ発信されていくことでしょう。
再興までの軌跡
ナーランダ僧院は、今より1,600年の昔、北インドの王舎城にほど近い地に、クマーラ・グプタ王が創建した僧院です。
王舎城は、遥か2,500年の昔、北インドに栄えたマガダ国の首都で、釈尊が仏法を説かれ、衆生済度に励まれた、仏教に大変ゆかりの深い都であり、この地に建立されたナーランダ僧院は、仏教をはじめ、哲学、文学、数学、美術等々、あらゆる学問を教育・研究する世界一の総合仏教大学として大いに発展し、全世界に、その名を轟かせました。
7世紀、中国の名僧、玄奘三蔵は、インドの地に連綿と伝えられた真の仏の教えを中国へ、もたらしたいとの情熱に燃え、国禁を破って中国国境を越え、一路、インドの地を目指しました。大砂漠を渡り、氷河に覆われた高山を登り、何度も命を失いかけながら、はるばる、ナーランダ僧院へたどり着いた玄奘三蔵は、僧院一の高僧から大歓迎をもって迎えられ、わずか5年間で、あらゆる教えを会得しました。
惜しまれつつ、インドの地を後にした玄奘三蔵は、唐の皇帝から、国をあげての歓迎を受け、中国の仏教を大きく発展させました。玄奘三蔵がナーランダ僧院からもたらした、仏の教えと経典の数々は、やがて、シルクロードを経て東の果ての日本へ伝えられ、今もなお、不滅の輝きを放っています。
玄奘三蔵が学んだ当時のナーランダ僧院は、全世界から選抜された1万人もの学僧が学び、仏道実践に励んだということです。
第四回佛教サミット共同宣言に基づき、釈尊の理想である、「世界の平和と人類の安寧」へ向かうため、全世界に仏教を興隆する礎と するべく、佛教之王堂に隣接する地に、現代におけるナーランダ僧院を建立せんとするものです。
仏教興隆に向けて 玄奘三蔵の心を未来の学僧に託す
2008年(平成20年)11月1日
念佛宗総本山「佛教之王堂」落慶法要に続いて、ナーランダ僧院地鎮式が、カンボジア王国ノロドム・ シアヌーク前国王陛下・皇太后陛下をはじめとする来賓の方々、並びに、世界32ヶ国の仏教最高指導者御臨席の下、執り行われました。
仏教徒八百年来の悲願である「ナーランダ僧院」へ思いを馳せ、世界の平和と人類の安寧がもたらされる時代の到来を祈念して、世界の国家元首、国家指導者、政府要人、文化人および全世界五大陸からの仏教最高指導者の方々が、一同で再建を発願し、記念植樹が行われました。
念佛宗ナーランダ僧院 建立の槌音が響き渡る
2010年(平成22年)10月11日
式典には、タイ王国より、マハー・チャクリ・シリントーン王女殿下を主賓としてお迎えし、世界十三ヶ国の駐日特命全権大使閣下御夫妻の御臨席を賜りました。王女殿下より主賓御挨拶を賜った後、杭打の儀が執り行われ、ナーランダ僧院建立への槌音が、三草山に高らかに響き渡りました。
[ 主賓 タイ王国 マハー・チャクリ・シリントーン王女殿下 ご挨拶 ]
先ず冒頭に、栄えあるナーランダ僧院の起工式という、歴史的な慶事に際し、心より御祝いを申し上げます。
かつて、北インドの地に創設されましたナーランダ僧院は、およそ八百年もの歴史の中で大いに発展し、世界中へ仏教を伝播・興隆させる上で、大いなる役割を果たしました。その名は、世界最大の僧院として 歴史に残っております。
この偉大なる僧院の再興は、2005年にタイのバンコクで開催されました、第四回 佛教サミットの共同宣言に端を発し、そして今、久世圓心定猊下の弛まぬ御努力と御指導力の下に、日本国兵庫県加東市の地に実現することになりました。
一仏教徒としまして、私が、この歴史的行事に主賓として参列させて頂きましたことは、誠にこの上ない栄誉であり、深く感謝いたします。
この一大仏教研修施設において、僧侶たちは、上座部仏教、大乗仏教、チベット密教の垣根を越えて、釈尊の至高の精神を継承するべく、「一切経」から仏教の真髄を学ぶことができます。
類稀なる御指導力により、全世界三十ヶ国を超える仏教最高指導者をまとめ、仏教興隆のために全生涯を捧げておられます久世圓心定猊下に対し、私は、心からの感謝と深い敬意を表します。
日本国念佛宗、並びに、ナーランダ僧院のさらなる御発展を心から願いますと共に、尊い仏教で結ばれたタイ王国と日本国、そして、世界の国々との絆が、ますます強まりますことを祈念いたします。
文化を築く「石の文化」
「石の文化 二重橋」
皇居 正門石橋を彷彿とさせる、重厚感と気品を有する 石造りの二重橋には、8基のランプが配されています。欄干や側面に到るまで、蓮や宝相華の彫刻が施され、石の堅固さと、彫刻群の繊細さと温かみを兼ね備えた、石の文化を象徴とする橋となっています。
「石彫刻 象」
二重橋を渡り大階段を登ると、左手に展開する、今にも動き出しそうな象の彫刻群。ナーランダ僧院を見上げる 六牙の父象、そして、母象と三頭の無邪気な子象が配されています。象の家族は、仏教護持と、温かな家族の絆を象徴しています。
「石彫刻 鹿」
二重橋を渡り大階段を登ると、右手に展開する鹿の彫刻群。釈尊 初転法輪の聖地 サルナート「鹿野苑」にて、鹿たちが遊ぶ光景が、佛教最高学府の前に示現しています。九頭の鹿の石像は、鹿の毛まで再現した精緻な
石彫刻です。
「石彫刻 石仏」
東西に、法話棟、中講堂など、数々の学び舎が立ち並ぶ中、各棟のペディメントには、世界各国の御仏が鎮座しています。それぞれに、御顔も、御衣も異なり、世界各国の風土を感じることができます。どの国の石仏なのかを想像しながら見て歩くことで、仏教を身近に感じられるでしょう。
「石彫刻の粋を集めて」
石彫で荘厳された学棟にて、暖かな日差しの中、堅固にして穏やかな心を育みます。
文化を築く「自然との調和」
「春の桜」
草木が芽生え、万物が動き出す季節。満開の桜が、佛教最高学府を鮮やかに彩ります。
「夏の芝生」
大空の下、青々とした芝生が、石の文化と調和して、美しい緑の世界が広がります。
「秋の彩り」
優しく鳴く虫の声と、黄金色の銀杏と、山々の紅葉が、より一層秋を豊かに彩ります。
「冬の静寂」
雪の中に佇む石仏が、閑けさの中に、仏教の深淵微妙の世界を表します。
「夜の月」
遮るものがない澄みきった夜空に、煌々と輝く月の光に照らされて、真理を求める心が
宿ります。
「霞の陰影」
大自然の中で、石の建築・彫刻が、様々な表情を見せ、幻想的な世界を展開します。
文化を築く「十大弟子」
「二重橋の十大弟子」
釈尊の時代に生を受け、釈尊の教えに直接触れて感動され、共に歩まれた十人の弟子。釈尊がおられたからこそ、仏教があり、十大弟子の実践があったからこそ、その後の仏教興隆があります。私たちのお手本として、身近な存在である御弟子方に思いを馳せて。釈尊の十大弟子のブロンズ像が、二重橋の上に寂かに座して、人々を智慧の殿堂へと導きます。
智慧第一 舎利弗尊者
舎利弗尊者は十大弟子の中でも、智慧第一と讃えられる、最も高名な方です。
聡明だった彼は、釈尊に弟子入りするや、仏教史上に燦然と輝く大事業、「祇園精舎建立」の総責任者を任され、須逹多長者と共に、精舎を建立を達成されました。
神通第一 目連尊者
舎利弗尊者と共に、教団の柱となった目連尊者は、あらゆる神通力を身につけていました。未来を知り、自由自在に空を飛び、姿を消せる…。誰もがうらやむ能力を身につけていたのですが、外道に何度も命を狙われました。それは自らの過去世の「業」が原因であることを悟り、最後は自らの意志で神通力を封じ、あえて外道に撲殺されて「業」を果たしたといわれています。
頭陀第一 摩訶迦葉尊者
大富豪の家に生まれた摩訶迦葉尊者は、求めに求め抜いて、ついに師、釈尊と出遇うことができました。頭陀(少欲知足)第一と称され、山林にこもり、自らの修行に没頭していましたが、釈尊御入滅後は、教団の中心となり、結集(経典編纂会議)を開催しましました。今に、仏教が残っているのは、この結集のお蔭です。
解空第一 須菩提尊者
「諸法皆空」、あらゆるものは空であり実体がないという真理を、誰よりもよく理解したことから「解空第一」と称されました。さらに、一切の執着を捨て去り、思いやりの心を大切にされました。そうして、他人と争わないことから「無諍第一」と呼ばれ、多くの人々から尊敬され供養を受けたことから「被供養第一」とも呼ばれました。
説法第一 富楼那弥多羅尼子尊者
大変な雄弁家で、説法は弟子の中でも群を抜いていました。インド西方の教化にあたっては、釈尊と交わした求道の問答の末、尊者の決意に感心された釈尊は、西方伝道を許可されたとも伝えられています。心からの弁舌で人々を仏の道へと導き、仏教興隆の大きな柱となりました。
論義第一 摩訶迦旃延尊者
西インドのアバンティ国出身で、毅然とした姿勢で 国王を仏教に導きました。仏の教えを詳細に解説する第一人者で、「一夜賢者の偈」が有名です。
「過去を追うな。未来を願うな。過去は、すでに捨てられたものだ。そして、未来はいまだ到来せず。それ故、ただ現在のものを、それがあるところにおいて観察し、揺らぐことなく、動ずることなく、よく見きわめて、実践せよ。ただ今日なすべきことを熱心になせ。誰が明日、死のあることを知っているだろうか。まことに、かの死神の大軍と遭わずにすむはずがない。このように見きわめて、熱心に昼夜おこたることなく努める者。かかる人を一夜賢者といい、寂静者、寂黙者というのである」
天眼第一 阿那律尊者
釈尊の説法中に居眠りをして叱責をうけ、自らの行いを恥じ、眠らぬ誓いをたて、視力を失ってしまいました。しかし、真理を見る眼(天眼)を得て「天眼第一」と仰がれるに至りました。「恥じる心」のことを、仏教では「慚愧」といい、強く戒められています。
持律第一 優波離尊者
インドの階級制度において最下位の身分に生まれながら、釈尊の教団の中で、高弟として活躍し、「持律第一」と仰がれるほどに敬われました。それは、教団の一人一人に対する温かい心配りがあったからでした。戒律にのっとり、弟子たちを善き方向へと導かれました。
密行第一 羅睺羅尊者
釈尊の御子息であり、釈尊が悟りを得て帰国した際に出家して、最初の沙弥(少年僧)となりました。慢心と闘い、奢ることなく、人知れず努力し、戒律の微細な規則まで厳密に守り「密行」を完成することができました。
多聞第一 阿難尊者
釈尊の従者として、25 年間お仕えし、説法を最も多く聴聞されました。しかし、肝心の「悟り」を開くことができたのは、釈尊が涅槃に入られて後、七葉窟で開催された結集の直前でした。記憶力に優れ、経典の編纂には、阿難尊者の記憶に基づいて経典編纂会議がまとめていかれました。
全世界 仏教徒 八百年来の悲願「 ナーランダ僧院 」落慶
令和5年9月13日
タイ王国 マハー・チャクリ・シリントーン王女殿下 記念 佛教最高学府
仏 教 興 隆 の 拠 点 と し て
ナーランダ僧院の落慶を祝して、主賓マハー・チャクリ・シリントーン王女殿下を中心に、佛教サミット代表者、念佛宗代表者、世界各国の王室、国家指導者、駐日特命全権大使、総領事の手により、歴史的なテープカットが執り行われました。 皆が心を一つにしてテープカットを行った瞬間、落慶を寿ぎ、五色の散華が降り注ぎ、祝賀式典を華やかに彩りました。
十二世紀、古のナーランダ僧院が破壊されて以来、実に八百年もの歳月が流れました。これまで誰も成し得なかった、仏教最高学府の再興は、まさしく全世界の仏教徒の八百年来の悲願であり、東方東漸の地における仏教興隆の新たなる拠点の誕生は、世界から賞讃される慶事です。
最終更新:2025年02月15日 11:59