「【系図】スペイン」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

【系図】スペイン - (2017/02/22 (水) 11:07:26) の編集履歴(バックアップ)



スペイン王フェリペ2世の系図


#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (系図_スペイン.PNG)


王フェリペ2世の家族


名前 在位 フェリペ2世の 備考
カルロス1世/神聖ローマ皇帝カール5世
(1500-1558)
1516-1556(40年) ヨーロッパ王族の血筋が集まったサラブレット。必然的に領土も集まった、神聖ローマ皇帝になってもっと集まった。
広大な領土をたくみに統治した有能な君主で、生涯かけてヨーロッパ全土から北アフリカまで駆け回った。1556年長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ、自ら退位してユステ修道院に隠棲した。
フェリペ2世
(1556-1598)
1556-1598(42年) 1580年ポルトガル王位を継承して領土が追加され『太陽の沈まぬスペイン帝国』を実現。
領土各地に副王を置く中央集権体制を整え、ほとんど宮殿に籠って政務に専念した「書類王」。「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」という烈々なカトリック教徒で、カトリックによる国家統合を理想とした。
フェリペ3世
(1578-1621)
1598-1621(23年) スペイン帝国を担うには力不足な「怠惰王」で、スペイン帝国は衰退への道を歩み始めた。


フェリペ2世の有能な兄弟


名前 フェリペ2世の 備考
マリア・デ・アブスブルゴ(1528-1603) 1548年従兄・神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と結婚。
父カルロス1世の要請により、不在時のスペイン摂政を勤めた。1552年ウィーンへ移住、1582年夫が亡くなるとスペインへ帰国し「異教徒のいない国に住めてとても幸せ」と言ったらしい。国政に出しゃばることはなかった。
フアナ・デ・アウストリア(1535-1573) 1552年従弟・ポルトガル王太子ジョアン・マヌエルと結婚。1554年夫死亡。
兄フェリペ2世の要請により、不在時のスペイン摂政を勤めた。←スペイン王父カルロス1世はヨーロッパ偵察で不在、フェリペ2世もイングランド女王メアリー1世と結婚して不在の間。
ドン・フアン・デ・アウストリア(1547-発疹チフス:1578) 異母弟 母親は父カルロス1世の愛人バルバラ・ブロムベルク。庶子。
ドン・フアンが13歳の時、フェリペ2世は宮殿に迎え王族として認知したが「殿下」という呼称は認めなかった。レパント海戦など数々の武名を馳せ、ネーデルラント総督を務めた。


フェリペ2世の短命な夫婦&遺伝子が心配な子供


名前 結婚 フェリペ2世の 備考
マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル(1527-産褥死:1545) 1543-1545(2年) 従妹 母親はフェリペ2世の叔母カタリナ・デ・アウストリア。
ドン・カルロスを出産した数日後に死亡。
ドン・カルロス・デ・アウストリア(1545-牢死:1568) 高尚な事に興味を示したことはなく、食べることにしか感心がない。子供のように愚かしい質問ばかりする。断絶状態の父に反逆し、ネーデルランドに行こうとして逮捕監禁され牢死。
イングランド女王メアリー1世(1516-卵巣腫瘍:1558) 1554-1558(4年) 親戚 母親はフェリペ2世の大叔母キャサリン・オブ・アラゴン。
結婚後は2人でイングランドを統治したが、フェリペ2世がスペイン王に即位してスペインへ帰国。一緒に住んだ時期は約2年、子供ナシ。
エリザベート・ド・ヴァロワ(ス:イサベル・デ・バロイス)(1545-1568) 1559-1568(9年) 父親はフランス王アンリ2世。
イングランド王エドワード6世が亡くなり婚約解消。フェリペ2世の息子ドン・カルロス・デ・アウストリアと婚約。が、カトー・カンブレジ条約の証としてフェリペ2世と結婚。
イサベル・クララ・エウヘニア(1566-1633) イタリア語で書かれた書類の翻訳など、スペイン語しか話せない父を亡くなるまで補佐した。1599年従兄アルブレヒトと結婚し、スペイン領ネーデルラントを共同統治者。2人が治めていた時代はネーデルラントの黄金時代と呼ばれた。
アナ・デ・アウストリア(1549-伝染病:1580) 1570-1580(10年) 母親はフェリペ2世の妹マリア・デ・アブスブルゴ。
フェリペ3世(1578-1621) フェリペ2世待望の男児。次のスペイン王。


王フェリペ2世の領地


スペイン王国はアラゴン王 フェルナンド2世 とカスティーリャ女王 イサベル1世 の結婚で誕生しました(1479年: カトリック両王 )。
その後も結婚、結婚、結婚、…で領地拡大。
戦争、戦争、戦争、…でますます拡大。ってことで、王フェリペ2世の領地はアチコチにあります。
wikipedia

王フェリペ2世の領地(1580年)
アゾレス諸島
カナリア諸島
サルデーニャ王国
シチリア王国
スペイン王国
ナバラ王国
ナポリ王国
ネーデルラント17州
フランシュ=コンテ地域圏
ポルトガル王国
マデイラ諸島
ミラノ公国

※スペイン帝国…本国、植民地、属領の総称。
※インディアス…スペイン人が発見・征服・植民した地域の総称。

+ なんでネーデルラントも領地なの?
1519年王カルロス1世(王フェリペ2世の父親)は 神聖ローマ皇帝 カール5世に即位。西・中央・南ヨーロッパを支配しちゃいます。
ちなみに皇帝カール5世の称号はこーんなに長いの。
カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公(prince)、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主。

神聖ローマ皇帝 カール5世 の領地(1550年)



フェリペ2世がポルトガル王位を継承したいきさつ(ポルトガル王の後継者問題)


ポルトガルの王様は
マヌエル1世→ジョアン3世→セバスティアン1世(後継者がないまま戦死)→エンリケ1世(枢機卿だったので未婚&高齢)→後継者問題が発生!

王エンリケ1世は王家の維持のために聖職を辞めて結婚相手を探そうとしたけど、ローマ教皇グレゴリウス13世はハプスブルク家に気を遣って却下。
聖職者じゃ結婚できない、そんなわけで次の王位継承候補者5人が登場。系図はこちらwikipedia(アヴィシュ王朝)をどうぞ。

候補者 親(マヌエル1世の) 意気込み
スペイン王 フェリペ2世 母:イサベル(長女) イベリア半島制覇のチャンスと王位継承を主張。ポルトガルの貴族、聖職者、官僚に賄賂をばらまく。もちろんエンリケ1世にもプッシュプッシュ。
庶子 アントニオ1世 父:ベージャ公ルイース(三男)
母:愛人
ポルトガル国民に支持されて王位継承を主張。実は王セバスティアン1世が戦死したときも王位継承を主張してる。やる気マンマン。
女性 ブラガンサ公妃カタリナ 父:ギマランイス公ドゥアルテ(七男) エンリケ1世に支持されて王位継承を主張。フェリペ2世はカタリナの夫ブラガンサ公ジョアン1世に買収(ブラジル国副王なんてどう?とか)を試みるが拒絶される。
フェリペ2世の家臣 サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト 母:ベアトリス(次女) ネーデルラント総督とかやってるしフェリペ2世に気を遣って辞退。
フェリペ2世の家臣 ラヌッチョ1世 母:マリア(孫)
父:パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ
パルマ公がフェリペ2世に気を遣って辞退。

次の王位継承者が決まらないまま王エンリケ1世が死亡。さっそく庶子アントニオ1世は即位宣言。独立を守りたいポルトガルもこれを支持。
そんなの絶対認めないフェリペ2世は軍を投入して、リスボンはたちまち陥落。っというわけで結局フェリペ2世が力ずくでポルトガル王位を継承。