フランス王アンリ3世の系図




ギーズ公に振り回された王様


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フランソワ・クルーエ 画『アンリ2世、カトリーヌ夫妻とその家族』

在位 名前 備考
1515-1547
(32年)
祖父 フランソワ1世
(1494-1547)
神聖ローマ皇帝の 選挙 イタリア戦争 とスペイン王カルロス1世に挑んでは、ことごとく敗北。
新大陸の発見でもスペインに対抗して探検家アメリゴ・ヴェスプッチを援助。
ユグノーには比較的寛容だったけど、 檄文事件 (カトリックの批判)を契機に弾圧。
1547-1559
(12年)
アンリ2世
(1519-負傷:1559)
イタリア戦争を続行して、やっぱり敗北。
カトー・カンブレジ条約 (イタリアの権利放棄)を結んで、娘をスペイン王フェリペ2世の嫁に。
異端審問を設置してユグノーを迫害。
1559-1560
(1年)
フランソワ2世
(1544-脳炎:1560)
スコットランド女王メアリー・ステュアートと結婚。
母親 カトリーヌ・ド・メディシス に頼りっきりで、母親カトリーヌが摂政を担当。
が、その隙をついたギーズ公フランソワが実権を握ってユグノー迫害を強化。
1560–1574
(14年)
シャルル9世
(1550-結核:1574)
こいつも母親に頼りっきりで、母親カトリーヌが摂政を担当。
が、弱体化した王様は勢いづくギーズ公アンリ1世を止められず。
カトリックvsユグノーが激化してユグノー戦争に突入。
1574–1589
(15年)
アンリ3世
(1551-暗殺:1589)
久しぶりの自立した王。母親カトリーヌも影で応援。
ますます弱体化した王様は、勢いが加速したギーズ公アンリ1世にアレコレ指図される。
このままじゃ俺ヤバイ!っとギーズ公アンリ1世を暗殺。
1589–1610
(11年)
親戚 アンリ4世
ナバラ王アンリ3世
(1553-暗殺:1610)
ユグノーの代表。フランス王になると、天下統一のためカトリックに改宗。
ナントの勅令 (信仰の自由)を発布してユグノー戦争を終結。
ユグノー戦争でボロボロのフランスを立て直した「賢明で有能な良王アンリ」。


ざっくりユグノー戦争


フランス王と カトリック同盟 とユグノーのながーい内戦。
絶対に妥協しないカトリック、絶対に諦めないユグノー、和解を目指したいけど弱体化したフランス王は2つの間でふらふら。
はユグノーにとって前回より不利、は有利な平和協定です。
wikipedia

フランスの多くの地域は、王様じゃなく貴族が支配権を持ってるそうです。
アルトヴィッチが女王エリザベス1世に話してたノルマンディー地方も思いっきりカトリック。だからスペインが…。

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カトリックとユグノーの勢力図(たぶんユグノー戦争の後半)

王様 カトリック ユグノー 戦争 平和協定
シャルル9世 ギーズ公
フランソワ
コンデ公
ルイ1世
第1次戦争(1562-1563) アンボワーズの勅令 (1563.03.19)
ヴァシーの虐殺 (ギーズ公フランソワがWassyで礼拝中のユグノーを虐殺)で戦争開始。
●1562年9月イングランドとユグノーが ハンプトン・コート条約 を結ぶ。
●1563年2月ギーズ公が暗殺。
●アンボワーズの勅令…ユグノーの礼拝は貴族の領地と baillage sénéchaussée でOK。
ギーズ公
アンリ1世
第2次戦争(1567-1568) ロンジュモーの和議 (1568.03.23)
ミチェラード事件 (ユグノーがニームでカトリックを虐殺)で戦争開始。
●ラ・ロシェルなどの都市がユグノー側に就くことを宣言。
●ロンジュモーの和議…アンボワーズの勅令の同じ内容。
第3次戦争(1568-1570) サン・ジェルマンの和議 (1570.08.05)
●サン・モールの勅令(the Edict of Saint-Maur:ユグノーの礼拝禁止)やアレコレで戦争開始。
●1569年3月コンデ公が戦死。
●サン・ジェルマンの和議…
ユグノーの ラ・ロシェル モントーバン コニャック La Charité の自治権を保証。
ナバラ王
アンリ3世
第4次戦争(1572-1573) ブローニュの勅令 (1573.08.11)
サン・バルテルミの虐殺 (カトリックがあちこちでユグノーを虐殺)で戦争開始。
●ナバラ王が監禁されて、カトリックに強制改宗。
●ブローニュ勅令…ユグノーの礼拝はラ・ロシェル、モントーバン、 ニーム の自宅のみOK。
アンリ3世 第5次戦争(1574-1576) ボーリューの勅令 (1576.05.06)
●サン・ジェルマンのクーデター(ユグノーがナバラ王を救出しようとして失敗)で戦争開始。
●1575年9月 弟アンジュー公フランソワ がユグノーに合流。
●1576年2月ナバラ王が監禁から脱出して、ユグノーに改宗。
●ボーリュー勅令…ユグノーの礼拝はパリと宮廷外ならOK、議会への参加もOK。
第6次戦争(1576-1577) ポワティエの勅令 (1577.09.14)
●ボーリューの勅令を撤回(かなぁ?)に怒ったユグノーが武装蜂起で戦争開始。
●ポワティエ勅令…ボーリュー勅令を撤回。
第7次戦争(1579-1580) ル・フルクスの和議 (1580.11.26)
●ユグノーが ラ・フェール を陥落して戦争開始。
●ル・フルクスの和議…
今までに結ばれた平和条約のユグノーの権利を全部承認。弟アンジュー公フランソワが交渉。
●1584年6月弟アンジュー公フランソワが死亡。
●1584年12月スペインとカトリックが ジョアンヴィル条約 (スペインの資金援助)を結ぶ。
三アンリの戦い /第8次戦争(1585-1588) ナントの勅令 (1598.04.13)
ヌムールの勅令 (ユグノーの礼拝禁止、ナバラ王の王位継承権剥奪)で戦争開始。
●1588年12月王アンリ3世がギーズ公を暗殺。
●1589年8月カトリック狂信者が王アンリ3世を暗殺。ナバラ王がフランス王アンリ4世に即位。
アンリ4世 マイエンヌ公
シャルル
●ナントの勅令…
国教はカトリック。ユグノーは信仰の自由を保障して、礼拝も一定地域でOK。

+ ユグノーがイングランドを裏切った「ハンプトン・コート条約」
1562年9月22日コンデ公とイングランド女王エリザベス1世が結んだ約束。
ギーズ公とスペインのカトリック同盟を懸念してたイングランドは、ユグノーを応援する必要があったんです。
んが、昨日の友は今日の敵。あっさりユグノーに裏切られます。
wikipedia

今回のそれぞれの代表は 王様 カトリック ユグノー
フランス王シャルル9世(母親カトリーヌが摂政) ギーズ公フランソワ コンデ公ルイ1世

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アンボワーズの勅令

ハンプトン・コート条約

  • イングランドは軍を派遣して ル・アーブル ディエップ (王立の重要な港?)を占領してね。その間に俺達は他をヤル。
  • イングランドはユグノーを資金援助してね。

女王エリザベス1世はユグノーを応援してるけど、実はル・アーブル占拠を「失ったカレーの代わり♥」とも考えてます。
外交に無償の愛なんてナイのね。
カレーは 百年戦争 でイングランド領になって、1558年 カレーの戦い でギーズ公に奪還された港町。

そんなわけで、イングランドは約束通り3000人の軍を派遣してル・アーブルを占拠。


第1次戦争のユグノーとカトリックは、1563年3月「アンボワーズの勅令」で仲直り。
摂政カトリーヌはイングランドにル・アーブルからの撤退を頼んだけど、とーぜん女王エリザベス1世は拒否。
困った摂政カトリーヌは「そうだ!ル・アーブル奪還でもっと仲直りさせちゃえ」っとユグノーとカトリックの混合軍を出撃。

ユグノーに裏切らたイングランドは、1563年7月28日混合軍に降伏しました。


+ 仲直りのはずが第4次戦争になった「サン・バルテルミの虐殺」
サン・バルテルミの祝日 にユグノー指導者 コリニー提督 の暗殺未遂事件をキッカケに起こった、カトリックのユグノー大虐殺。
パリ市内から地方にも感染。そして第4次戦争に…。
虐殺されたユグノーはカトリックの発表では2,000人、ユグノーの発表では70,000人。正確な人数は不明です。
wikipedia

今回のそれぞれの代表は 王様 カトリック ユグノー
フランス王シャルル9世(母親カトリーヌが摂政) ギーズ公アンリ1世 ナバラ王アンリ3世

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ナバラ王とマルグリット・ド・ヴァロワ(摂政カトリーヌの娘)の結婚式

1570年8月5日カトリックとユグノーが「サン・ジェルマンの和議」を結んで第3次戦争は終了。
署名したのは王シャルル9世とコリニー提督です。
摂政カトリーヌは「そうだ!もっと仲直りさせちゃえ」っと、娘 マルグリット をユグノーのナバラ王に嫁がせると約束。

1572年8月18日娘マルグリットとナバラ王はノートルダム大聖堂で結婚。
んが、8月22日結婚式に出席したコリニー提督が狙撃されて負傷。
とーぜんユグノーは怒り心頭。半ば脅迫的に「誰がやったんじゃ!」っと摂政カトリーヌへ真相解明を要求。

+ コリニー提督を狙撃した犯人は謎
犯人は狙撃の大混乱中に逃げたので捕まってません。
そもそも2人の結婚は、カトリックもスペイン王フェリペ2世もローマ教皇も反対。アヤシイ首謀者がワンサカです。
歴史家達が考える首謀者は3人。有力株はギーズ公アンリ1世。

ギーズ公アンリ1世 コリニー提督が父親ギーズ公フランソワの暗殺を命令したと思ってる。
おまけにコリニー提督の狙撃犯は、ギーズ公が所有する家の方向から撃ってた。
ネーデルラント総督
アルバ公爵 (スペイン)
ネーデルラントはスペインから独立しようと モンスの戦い 八十年戦争 の1つ)の真っ最中。
プロテスタントに応援軍を派遣してるコリニー提督が脅威だった。
摂政カトリーヌ コリニー提督は息子王シャルル9世にとって良き助言者。コリニー提督大好き♥な息子が心配だった。
あと八十年戦争がフランスに飛び火するのもイヤ。


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8月23日摂政カトリーヌは王シャルル9世に「排除命令の署名」を説得

カトリックもユグノーも王様も何度も戦争してるから、みんなが相手を信じられないピリピリな関係。
摂政カトリーヌは「ユグノーが報復するじゃね?」っとビビリまくり。
おまけに報復のためかどうかは分からないけど、パリ郊外にはユグノー軍もワラワラいたから更にビビリまくり。

そんなわけで、疑心暗鬼な摂政カトリーヌは「排除しないと私達ヤバイ!」っと、パリ市内にいるユグノーの排除命令を決定。
疑心暗鬼なカトリックのギーズ公も「トドメを刺さないと俺達ヤバイ!」っと、宿にいるコリニー提督を惨殺。

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左:コリニー提督の暗殺未遂事件、右:パリ市内の大虐殺

摂政カトリーヌが排除したかったのは、リーダ格のユグノーだけ。スイス人傭兵に排除させてます。
んが、疑心暗鬼はパリ市民も同じ。みんながユグノー市民の排除を始めちゃって、無差別の虐殺は3日間収まらず。
8月26日王シャルル9世は「ユグノーの陰謀を妨害するために大虐殺を命じた」と公式発表。

おまけに虐殺は地方にも感染。
特に酷かったのは、かつてリーダ格のユグノーがいたカトリック都市 トゥールーズ ボルドー リヨン ブールジュ ルーアン オルレアン モー アンジェ La Charité ソミュール ガヤック トロワ
事態は摂政カトリーヌの予定以上に悪化しちゃって、いつの間にか第4次戦争に突入。

+ なんとか生き残ったユグノーのナバラ王
摂政カトリーヌの娘マルグリットの結婚相手は、ユグノーのナバラ王。
サン・バルテルミの虐殺の間、マルグリットは自分の部屋に夫やユグノー達を匿って暗殺者の侵入を拒否した。
っと考えられてます。

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Alexandre-Évariste Fragonard 画『サン・バルテルミの虐殺の夜、マルグリットの寝室』

その後ナバラ王は宮廷( サン・ジェルマン城 かなぁ?)に監禁されて、生き延びるためにカトリックに改宗。
1576年2月5日監禁から脱出してユグノーに改宗。マルグリットはパリに置いてきぼり。



+ ナバラ王アンリ3世が最後に生き残った「三アンリの戦い」
フランス王とカトリックとユグノーのボスキャラ最終決戦。
裏ではスペインがカトリック、イングランドがユグノーを応援しながら、こちらも1588年7月アルマダの海戦に突入。
ギーズ公が暗殺されて、王アンリ3世が暗殺されて、ナバラ王がフランス王アンリ4世に。
wikipedia

今回のそれぞれの代表は 王様 カトリック ユグノー
フランス王アンリ3世 ギーズ公アンリ1世 ナバラ王アンリ3世

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バリケードに行く手を阻まれる王様の軍隊

ギーズ公は、キッパリとカトリックに味方しない王アンリ3世にイライラ。
アレコレやり過ぎて、お出かけ中(この辺分からなかったです)に王アンリ3世に「パリに戻ってくるな!」と命令されました。

んが、1588年4月24日ギーズ公が王アンリ3世の命令をスルーしてパリに参上。
王アンリ3世はルーヴル宮殿に籠城して兵を招集。
パリ市民は「王様がギーズ公を逮捕するらしい!僕らのギーズ公を守れ!」と、5月12日 パリの主要道路を荷馬車や樽でバリケード

+ ギーズ公がやったアレコレ
1584年6月年次の王様になるはずだった弟アンジュー公フランソワが死亡して、王位継承権はユグノーのナバラ王へ。
このままではフランスがプロテスタントの国になる!
カトリックのギーズ公にとっては大ピンチ。スペインにとっても大ピンチ。そんなわけで、みんなでアレコレしてます。

ジョアンヴィル条約

1584年12月31日カトリックとスペイン王フェリペ2世がコッソリ結んだ約束。
wikipedia
  • スペインがカトリックを資金援助する。
  • ナバラ王とイングランド女王エリザベス1世に対抗するカトリック同盟を作る。
  • ルーアン大司教 シャルル1世・ド・ブルボン (ナバラ王の伯父)を次のフランス王にする。


ヌムールの勅令

1585年7月13日ギーズ公と、ギーズ公の圧力に屈した王アンリ3世が結んだ約束。
約束する前に、王アンリ3世は「こんなコトしたらフランスはカオスになるよぉ」っとギーズ公を説得したそうです。
wikipedia
  • フランスではカトリック教会以外は異教。
  • ナバラ王アンリ3世の王位継承権を剥奪。

この条約が成立して、ローマ教皇シクストゥス5世はナバラ王を破門してます。
カトリック教会では破門=王様失格。


パリの16区総代会(The council of sixteen/Seize)を組織

詳しいことは分かりませんでした。
ギーズ公が、駐仏スペイン大使 ベルナルディノ・デ・メンドーサ (もちろん裏で糸を引いてるのはスペイン王フェリペ2世)と16区総代会と手を組んで、王アンリ3世をどうにかする陰謀を企画してたみたいです。

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1618年のパリ(左側が北です)

16区総代会は大学、教会、商業…ごとに16区に分けた地区。 南岸地区 は大学や教会が行政を管轄してたみたいです。
詳しいことは分かりませんでした。
ちなみに21世紀の 20区に分けた行政区 は、19世紀に パリ改造 したもの。ゴチャゴチャな道路も真っ直ぐに大変身。
wikipedia



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王アンリ3世の 45人の親衛隊 がギーズ公を殺害

パリ市民に見捨てられた王アンリ3世は、身の危険を感じて5月13日 シャルトル ブロワ城 の近所)へ逃亡。
なんと、この逃げ道はギーズ公がわざとバリケードしなかった道。
パリを掌握したギーズ公は、最後の大問題「ナバラ王が次の王様」を阻止するために王アンリ3世に更なる要求をします。

「The Édit d'union」

1588年7月15日ギーズ公と、ギーズ公に強制された王アンリ3世がコッソリ結んだ約束。
実は王アンリ3世をパリから追い出したとき「ギーズ公を次の王様に!」って声もあったけど、ギーズ公はお断りしたそうです。
wikipedia

  • ユグノーを徹底的に排除するまで戦いを終わらせない。
  • ユグノーを政治に関わらせない。
  • ユグノーを王様にしない。(たぶんルーアン大司教シャルル1世・ド・ブルボンを次のフランス王にするってこと)


こうなってくると王アンリ3世にとってギーズ公は脅威。
そんなわけで、12月23日「ちょっと腹を割って話し合おうよぉ」っとギーズ公をブロワ城に呼び出して殺害。
ルーアン大司教シャルル1世・ド・ブルボンも投獄。ギーズ公の跡取り息子 シャルル1世 も投獄。これからはユグノーと手を組むよぉ!

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ナバラ王を次の王様に指名する王アンリ3世

とーぜん、怒り心頭のカトリックは王アンリ3世に宣戦布告。 カトリックのエライ人達 も王アンリ3世の殺害を公認。      
王アンリ3世はユグノーと一緒に パリ郊外 でパリ奪還を準備。
んが、1589年8月1日「書状を持ってきましたー!」っとやって来たカトリック狂信者 ジャック・クレマン が王アンリ3世を殺害。

死の床で王アンリ3世は、ナバラ王を呼び出して王位継承者に指名。
そして「残忍な戦いを終わらせるためには、王様がカトリックに改宗しないとダメだよぉ」っと言って、8月2日息を引き取ります。
管理職の苦労が偲ばれます。


+ カトリックとユグノーが仲良く暮らせる「ナントの勅令」
フランス王アンリ4世になったナバラ王だけど、とーぜんカトリックは猛反発。
カトリックに改宗して、やっと公認のフランス王に就任。信仰の自由の「ナントの勅令」でユグノー戦争も終了。
んが、志半ばで暗殺されます。

今回のそれぞれの代表は 王様 カトリック ユグノー
フランス王アンリ4世(ナバラ王アンリ3世) マイエンヌ公シャルル

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王アンリ4世の戴冠式

カトリックはユグノーの王様なんてお断り。
勝手に獄中のルーアン大司教シャルル1世・ド・ブルボンを王様に決定。んが、1590年5月9日ルーアン大司教が死亡。
困った…それでも王アンリ4世なんて死んでもお断り!

カトリックは勝手に王様を決めるし、パリも抵抗が激しくて奪還できない。このままじゃフランスがヤバイ!とってもヤバイ!
管理職の苦労をやっと理解した王アンリ4世は、1593年7月25日カトリックに改宗。
1594年2月27日 シャルトル大聖堂 で正式に戴冠式。ローマ教皇クレメンス8世は1595年9月17日 破門を解除

実はスペインもフランス王を狙ってた

スペイン王フェリペ2世は「ウチの娘 イサベル・クララ・エウヘニア だってフランスの王位継承権あるでー!」っと主張。
マイエンヌ公も支持。
フランスは サリカ法典 で女性の王位継承ダメだし、そもそもスペイン人の王様なんてヤバイ。1593年フランス政府は却下してます。

ちなみにマイエンヌ公は地位と財産の保証を条件に、1595年10月王アンリ4世と和解。


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1,500人の騎兵と一緒にパリへ入城

カトリックに改宗してやっとパリ市民にフランス王と認められた王アンリ4世は、1594年3月フランスの中核パリへ入城。
服従を拒否した120人のカトリック残党はパリから追放。
パリに入城したことで、他のカトリック都市もどんどん王アンリ4世を支持。よーし、お次はフランスの天下統一だぞー!

ってことで、カトリック残党を支援しながらフランス侵略を狙ってるスペインに宣戦布告。ついでにカトリック残党も成敗。
イングランドも王アンリ4世を応援。
1598年5月2日王アンリ4世とスペイン王フェリペ2世が平和協定を結んで終了。

+ イングランドも応援した「仏西戦争」
この戦争は王アンリ4世が、国民には「スペインはフランス侵略したいからカトリックを応援してるんだぞー!」、ユグノーには「俺はカトリックに改宗したけどスペインの傀儡じゃないぞー!」と分からせるための戦争なんだそうです。
大人の世界だねぇ。

戦争 王様軍 ユグノー 北ネ スペイン カトリック残党 南ネ
1595.06.05 Battle of Fontaine-Française × ×
1595 Capture of Ham
1595.06.20-06.26 Siege of Le Catelet ×
1595.07.14–07.31 Siege of Doullens ×
1595 Siege of Cambrai
1596.04.08–04.24 Siege of Calais ×
1596 Siege of Ardres
1597.03.11-09.25 Siege of Amiens × ×

平和協定の「ヴェルヴァン条約」

1598年5月2日王アンリ4世とスペイン王フェリペ2世が平和協定を結んで戦争終了。
王フェリペ2世は9月13日に亡くなっちゃったけど、跡継ぎの王フェリペ3世もこの平和協定を尊重してます。
wikipedia

  • スペインは王アンリ4世をフランス王として認めます。
  • スペインはフランスから軍を撤退します。



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「ナントの勅令」の切手

スペインを追い出したし、カトリック残党も手なずけた。
1598年4月13日王アンリ4世は、カトリックとユグノーが仲良く暮らせる「ナントの勅令」を発布。ユグノー戦争がやっと終了♥
王アンリ4世は、ユグノー戦争でボロボロのフランスを立て直した「le bon roi Henri:良王アンリ」と呼ばれてます。

信仰の自由の「ナントの勅令」

この時代ではとっても珍しい信仰の自由。あっ、もちろん自由といってもイスラム教やユダヤ教はダメ。キリスト教だけです。
抵抗するカトリック都市あったけど最終的には承諾。最後まで抵抗したルーアンも1609年承諾。
残念ながら、1685年10月18日王ルイ14世の「 フォンテーヌブローの勅令 」で終了。
wikipedia

語学力の限界でかなりアヤシイ翻訳だけど、中身はこんな感じ。他にもいろいろありました。
  • 戦争中に教会や家から略奪した金品は持ち主に返して、とにかく遺恨を残さないよう前向きに頑張りましょう。
  • 信仰は自由です。お互いチョッカイを出さないようにしましょう。
  • 公共施設(大学、病院…)は信仰の差別禁止です。カトリックもユグノーも受け入れましょう。
  • なにか不満があったら法廷で裁判しましょう。
  • ユグノーは必ずカトリックの教会にも 寄付(十分の一税) しましょう。
  • ユグノーは必ず礼拝OKの都市で礼拝(たぶん教会を建てられるってこと)しましょう。礼拝NGの都市では絶対ダメです。
  • ユグノーの避難地域(places de sûreté)には国王軍が常駐します。

裁判できる都市 ボルドー グルノーブル カストル
礼拝OKの都市 ラ・ロシェル、 モントーバン モンペリエ ソミュール スダン
礼拝NGの都市 パリ、 ルーアン ディジョン トゥールーズ リヨン 、他…
避難地域 ラ・ロシェル、モントーバン、モンペリエ、ソミュール、 ロワイヤン
ニオール コニャック ベルジュラック ニーム アレス ブリアンソン


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王アンリ4世と後妻マリー・ド・メディシスの家族

王アンリ4世は、1599年仮面夫婦の妻マルグリットと 結婚の無効 で離婚。
愛人 ガブリエル・デストレ と結婚するためです。
でも1599年4月愛人ガブリエルが急死。ガブリエルに助けられながらフランスを平和にしただけに、絶望の悲しみだったそうです。

絶望中の王アンリ4世は、愛人 カトリーヌ・アンリエット・ダントレーグ と結婚を約束。はぁ!?
んが、1600年10月 マリー・ド・メディシス (摂政カトリーヌ・ド・メディシスの遠縁)と政略結婚。今回もやっぱり仮面夫婦。
この裏切りに愛人カトリーヌは激怒。

王アンリ4世は、愛人がイッパイいたので「le vert galant:女たらし」とも呼ばれてます。
愛人の中でも愛人ガブリエルや愛人カトリーヌは 公妾
能力次第では「陰の実力者」になれる地位だけど、王様に飽きられたらアウト。子供は王位継承権ナシ。やっぱ結婚したいですよね。

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暗殺される王アンリ4世

1610年5月14日カトリック狂信者 フランソワ・ラバイヤック が王アンリ4世を刺殺。
ワインや干し草を積んだ馬車で道をふさいで、王アンリ4世の馬車が止まった時にプスプス刺した計画的犯行です。
なんでルートを知ってたのか?ラバイヤックはあくまで単独犯を主張。

王アンリ4世の息子ルイ13世がフランス王に即位すると、母親マリーは摂政を担当してます。
摂政マリーは夫の愛人カトリーヌをラバイヤックの共犯者として宮廷から追放。




最終更新:2016年12月01日 18:04