ネーデルラント17州
1556年神聖ローマ皇帝
カール5世
(王フェリペ2世の父親)が退位。ハプスブルク家は
スペイン系
と
オーストリア系
に分かれます。
ってことで、ハプスブルク家の領地も分割。
ネーデルラントはスペイン系ハプスブルク家の領地
ネーデルラント17州
になります。スペイン王フェリペ2世の領地ね。
八十年戦争で「ネーデルラント連邦共和国」「スペイン領ネーデルラント」に分離
The Netherlands in the time of Elizabeth(1905年:Charles Colbeck著「The Public Schools Historical Atlas」)
ネーデルラント総督
八十年戦争(オランダ独立戦争)
作者不明「Queen Elizabeth I Feeds the Dutch Cow」(1585年頃)
こちらの画は王フェリペ2世が牛(ネーデルラント連邦共和国)に跨がって無駄にメチャクチャいぢめてます。
女王エリザベス1世は牛にエサを与えて応援。
王フェリペ2世に抵抗する反乱軍リーダのオラニエ公
ウィレム1世
(オレンジ公ウィリアム)が元気になった牛の乳搾りしてます。
+
反乱軍リーダのオラニエ公ウィレム1世ってどんな人?
神聖ローマ帝国の領地
ネーデルラントの領地
フランスの
オラニエ公国
(古蘭語:オラニエ、仏語:オランジュ、英語:オレンジ)
William Robert Shepherd 画「Central Europe about 1477」(1926年:The Historical Atlas)
ってことで、幼いオラニエ公は「カトリック教育を受ける」ために故郷
ナッサウ伯領
からネーデルラントへ送られます。
信仰も
ルター派
からカトリック教徒に改宗。
領地は自分で統治できるまで皇帝カール5世がサポートします。ちなみにナッサウ伯はオラニエ公の弟
Johann VI
が相続。
神聖ローマ皇帝カール5世のお気に入り
オラニエ公はネーデルラント総督
Mary of Hungary
(皇帝カール5世の妹)の下で大貴族にふさわしい教育を受けます。
1551年
騎兵隊
の隊長を皮切りにガンガン出世。
フランスとスペインのイタリアを巡る
イタリア戦争
(1551–1559年)ではスペイン軍を率いちゃいます。
ネーデルラントではネーデルラント総督を補佐する
国家評議会
(外交と防衛を担当する機関)のメンバーになります。
1555年皇帝カール5世はネーデルラント(
ブルゴーニュ公
)を息子フェリペ2世に継承。
ブルゴーニュ公継承式典でオラニエ公が痛風で歩けない皇帝カール5世に肩を貸して支える役目を担ってます。
王フェリペ2世と敵対
王フェリペ2世はスペイン人をガンガン送ってネーデルラントを統治。ネーデルランドの自治なんて許しません。
オラニエ公はネーデルラントのご不満を政治で解決しようと奮闘。
国家評議会でエフモント伯
Lamoral
とホールン伯
Philip de Montmorency
たちと一緒に反対派閥を作ります。
Cornelis Kruseman
画「Philip II, King of Spain, Reproaches William I, Prince of Orange, in Vlissingen upon his Departure from the Netherlands in 1559」(1832年)
オラニエ公ウィレム1世著「the Apology」(1580年)によると1559年夏「スペイン人を追い出せー!」と決意したそーです。
なんか
カトー・カンブレジ条約
でフランスへ行って「信仰の自由」に目覚めたんだって。
ちなみに1559年王フェリペ2世はオラニエ公をホラント伯領、ゼーラント伯領、ユトレヒト領の州総督に任命してます。
決心の時期はさておき、オラニエ公は1564年頃から国家評議会で公然と王フェリペ2世をビシバシ批判し始めます。
Even though he had decided for himself to keep to the Catholic faith, he could not agree that monarchs should rule over the souls of their subjects and take from them their freedom of belief and religion.
王フェリペ2世は己のカトリック信仰だけを尊ぶアホアホ、民に慕われる王様になろうとしないアホアホ、それどころか民から信念と信仰を奪うアホアホ。
乞食党
の反乱にも資金援助(1566-1567年:
反乱一覧表
)。
1567年フェリペ2世は治安回復にスペイン軍を投入。オラニエ公は「処刑されちゃう!」と故郷ナッサウ伯領へ亡命します。
反乱軍のリーダ
ちなみに
騒乱裁判所(血の裁判所)
は亡命しなかったエフモント伯とホールン伯を逮捕。1568年2人を処刑しちゃいます。
亡命したオラニエ公は神聖ローマ帝国の傭兵を雇って反乱軍を結成。
ネーデルラントの「超有名で超人気の政治家」から「反乱軍のリーダ」に変身します。1573年信仰も
カルヴァン派
に改宗。
作者不明「The duke of Alba arrests Egmont and Hoorne after an invitation for a meal, September 1567」(1621年)
国民の父オラニエ公はオランダの国歌「
Wilhelmus
」になってます。こちらは1568年版(訳は超テキトー)。
Wilhelmus van Nassouwe ウィルヘルム・ヴァン・ナッサウ(=
ナッサウ家
のウィレム1世)
Ben ick van Duytschen bloet, 我は
父祖の地
の由緒正しき血筋(=ネーデルラントの王様になったスペイン王と同等の血筋)
Den Vaderlant getrouwe Blyf ick tot in den doet: 永遠に祖国に忠誠を誓おう
Een Prince van Oraengien Ben ick vrij onverveert,
オラニエ公
、我は何ものにも臆せず自由なり
Den Coninck van Hispaengien Heb ick altijt gheeert.
スペイン王
に忠誠を誓う(=州総督として神とネーデルラントの人々に貢献)。
歌詞の中でオラニエ公は旧約聖書に登場する「イスラエル王
サウル
に仕えた
ダビデ
」に例えられてます。
王サウルは超ダメダメな暴君。
神の恩寵で王サウルをやっつけたダビデは全イスラエルの慈悲深い王様になります。めでたしめでたし。
八十年戦争の始まり
王フェリペ2世にとってネーデルランドは「De landen van herwaarts over:その辺の地域」。ネーデルランドの自治なんて許しません。
ご不満なネーデルラント貴族たちは「権利と自由を守る
貴族同盟
(その後の
乞食党
)」を結成。
ネーデルラント各地でも「
偶像破壊運動
」が勃発。鎮圧しようと王フェリペ2世がスペイン軍を派遣して八十年戦争が始まります。
wikipedia
サヴォイア公
1555年
オラニエ公が国家評議会に就任
王フェリペ2世(皇太子)がネーデルラント(ブルゴーニュ公)を継承
1556年
4月5日
王フェリペ2世がスペイン王に即位
パルマ公妃
1559年
オラニエ公がホラント伯領、ゼーラント伯領、ユトレヒト領の州総督に就任
1565年
12月
ネーデルラント貴族たち(貴族同盟)が請願書「条例の緩和」を作成
1566年
4月5日
ネーデルラント貴族たち(乞食党)が請願書「条例の緩和」をネーデルラント総督パルマ公妃に提出
8-10月
偶像破壊運動
1567年
4月17日
アルバ公がスペイン軍を率いてイタリアを出発
4月
オラニエ公が故郷ナッサウ伯領へ亡命
8月
アルバ公がスペイン軍を率いてネーデルラントに到着
9月5日
アルバ公が騒乱裁判所(血の裁判所)を設立
9月9日
アルバ公がエフモント伯Lamoralとホールン伯Philip de Montmorencyを逮捕
アルバ公
1568年
6月5日
ネーデルラント総督アルバ公がエフモント伯Lamoralとホールン伯Philip de Montmorencyを処刑
八十年戦争(
反乱一覧表
)
+
「乞食党」の誕生
作者不明「Spaanse tirannie in de Nederlanden, 1566-1597」(1618年頃)
王フェリペ2世は条例「placards:ネーデルランドの異教徒は非合法。処刑だー!」を発布。冷酷なプロテスタント弾圧します。
カトリック教徒もドン引きするほど冷酷なの。
1564年オラニエ公たちが「条例の緩和」を要請。でも1565年10月王フェリペ2世のお返事は「
緩和なんて許さない
」でした。
「貴族同盟」の誕生
王フェリペ2世のお返事は火に油。1565年12月ネーデルラント貴族たちが集まって請願書「条例の停止」を作ります。
請願書は各地を回って大勢の貴族たちが署名(貴族同盟)。
1566年4月5日300人の貴族たちが総督パルマ公妃に請願書を提出します。総督パルマ公妃は大勢の貴族たちにビックリ!
Famiano Strada
画「Hendrick van Brederode presents Margareth of Parma the Petition of the Nobles for the Compromise of Nobles, 5 April 1566」
4月8日総督パルマ公妃は「請願書を王フェリペ2世に送ります」と約束。お返事が来るまで条例を一時停止します。
貴族同盟も「お返事が来るまで大人しくします」と約束。
でも7月31日王フェリペ2世のお返事は「
停止なんて許さない
」でした。総督パルマ公妃を惑わす
三部会
の召集も禁止。
「乞食党」の誕生
そんなお返事が来ることをまだ知らない貴族同盟は4月8日夜に「とりあえず停止だー!」の祝杯を挙げました。
貴族同盟リーダ
Hendrick van Brederode
が「我々の国のためなら乞食にだってなる」と宣言。
「乞食」は宮殿に押し寄せた貴族たちにビックリした総督パルマ公妃を側近
Charles de Berlaymont
が励ましたセリフです。
N'ayez pas peur Madame, ce ne sont que des gueux.
大丈夫ですマダム、あれはただの「乞食」の群れです。
この失礼極まりないセリフを聞いた貴族たちは忘れなかった。こーして「乞食党:Geuzen」が誕生します。
wikipedia
作者不明「the emblem of the Geuzen resistance movement against Philip II of Spain in The Netherlands during the Eighty Years' War」(16世紀)
ちなみに次のネーデルラント総督アルバ公
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
はリーダBrederodeを追放しちゃいます。
でもその信念までは追放出来なかったの。
ネーデルラント貴族たちは軽蔑を含んだ言葉「乞食」に誇りを持って名乗り続けます。
+
ネーデルラントの不満爆発で八十年戦争
ネーデルラントのご不満その1「重税」
神聖ローマ皇帝カール5世(王フェリペ2世の父親)は
神聖ローマ皇帝の選挙
の懐柔工作資金に莫大なお金を投入しました。
おまけに戦争、戦争、…でますます出費。
王フェリペ2世は領土と一緒に膨大な借金も継承してます。「太陽の沈まぬ帝国」はお貧乏なの。
王フェリペ2世も戦争、戦争、…で出費がかさみます。イタリア銀行から借金しても足りません。
そうだ!ネーデルラントから資金調達しよう!
ネーデルラントにしてみれば王フェリペ2世の一方的な重税(Beden)は「
代表なくして課税なし
だろ」って感じです。
ネーデルラントのご不満その2「ビジネス干渉」
15世紀後半のネーデルラントは近代的な経済の先駆け「標準ルールによる中継貿易(intensive trade)」で繁栄してました。
アムステルダムはバルト海の取引
ハンザ同盟
で優位なポジションをゲト。
アントワープは北西部ヨーロッパの
商品集散地
を独占。イングランドもスズ、羊毛、…を輸出してます。
wikipedia
Comercio en el siglo XV
中央集権の王フェリペ2世はネーデルラントのビジネスにも干渉。何をするにもいちいち「王様の許可」を強要します。
でも16世紀のスペインはとーっても遠い。
ネーデルラントはいちいち「王様の許可」をゲトするのに4週間以上も掛かっちゃいます。これはイライラだねー。
ネーデルラントのご不満その3「プロテスタント弾圧」
16世紀のヨーロッパはあちこちで
宗教改革
(プロテスタントの脱カトリック教会運動)が絶賛勃発中です。
ネーデルラントも1540年代
カルヴァン派
がスタート。
カトリック教徒の王フェリペ2世はプロテスタントなんて許しません。ってことで、スペインよりも冷酷な
異端審問
で弾圧。
wikipedia
Jan Luyken画「Beeldenstorm, 1566」
反発したプロテスタント教徒がネーデルラント各地でカトリック教会が崇めるモノを破壊します(1566年:
偶像破壊運動
)。
王フェリペ2世はネーデルラントにスペイン軍を派遣。
1567年8月アルバ公
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
が1万人のスペイン軍とイタリア傭兵を率いて到着します。
ネーデルラントの不満爆発で八十年戦争
1567年9月アルバ公は
騒乱裁判所(血の裁判所)
を設立。異教徒や異議を唱えるカトリック教徒をビシバシ処刑します。
総督パルマ公妃の心配もスルー。
12月王フェリペ2世の真意を理解した総督パルマ公妃は辞任。アルバ公がネーデルラント総督に就任します。
作者不明「The duke of Alba arrests Egmont and Hoorne after an invitation for a meal, September 1567」(1621年)
+
スペイン軍の兵站ルート(スパニッシュ・ロード)
「スパニッシュ・ロード」はスペインからネーデルラントへ兵士を安全に運ぶ兵站ルート(
兵站
:兵士、武器、食料の輸送)です。
1566年
偶像破壊運動
の治安回復を目論んだフェリペ2世が調査。
スペイン軍はこのルートを1567-1620年まで年1-2回ご利用。空いてるときは商人がご利用してます。
wikipedia
El camino español de los tercios
ネーデルラントはとーっても遠い
スペイン軍は
ミラノ公国
(イタリア)~
フランドル伯領
(ネーデルラント)の距離1,000kmを平均23km/日で歩きます。
船なら200km/日だけど嵐や海賊の危険があるの。
それに船で輸送できる兵士は最大17,600人、陸路なら123,000人です。こちらは「スパニッシュ・ロード」のご利用記録。
年
出発日
到着日
延日数
兵士
1567年
06月20日
08月15日
56日
Alba
10,000人
1573年
05月04日
06月15日
42日
Acuña
5,000人
1578年
02月22日
03月27日
32日
Figueroa
5,000人
1578年
06月02日
07月22日
50日
Serbelloni
3,000人
1582年
06月21日
07月30日
40日
Paz
6,000人
1582年
07月24日
08月27日
34日
Carduini
5,000人
1584年
04月26日
06月18日
54日
Passi
5,000人
1585年
06月18日
08月29日
42日
Bobadilla
2,000人
1587年
09月13日
11月01日
49日
Zúñiga
3,000人
1587年
10月07日
12月07日
60日
Queralt
2,000人
1591年
08月01日
09月26日
57日
Toledo
3,000人
1593年
11月02日
12月31日
60日
Mèxic
3,000人
旅慣れたスペイン人の「24km/日(1577年夏)」「37km/日(1578年冬)」って記録があります。
夏の方が遅いのは暑かったんだって。
1日の移動距離には人数、お荷物の量、気温、…アレコレが関係するっぽい。ちなみ旅行者は平均19km/日で歩きます。
El camino español de los tercios
「スパニッシュ・ロード」を最初にご利用したのは1567年アルバ公
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
です。
提供された地図はとーっても大ざっぱ。
ってことで、よく知らない地形ではガイドを雇う必要がありました。ロードと言ってもちゃんとした道路じゃないのね。
えっ!移動中は野宿なの!?
開通したての「スパニッシュ・ロード」にはレストランもホテルもありません。でも自分で荷物を運ぶには限界がある。
食料は道沿いのお家から提供という名の強奪。
宿泊所は茂みの下や簡単に組み立てられる仮兵舎。近くに街があれば士官だけ宿に泊まれます。
Pieter Snayers
画「La infanta Isabel Clara Eugenia en el sitio de Breda」(1628年頃)
地方知事は「毎回強奪されたら困る!」と自主的に「etapés:野営地」を設置するようになります(1580年以降?)。
民家を借り上げた臨時宿泊所もアリ。
価格設定も細かく決めてサービスに対する略奪を防ぎます。スペイン軍もお荷物が減って一石二鳥。
スペイン軍の撤退(残酷な画があるのでご注意下さい)
スペイン軍は反乱軍オラニエ公をビシバシ制圧。制圧ついでにスペイン軍のイタリア傭兵が街で
略奪
を始めちゃいます。
ってことで、ネーデルラントが「スペイン軍を追い出せー!」と一致団結(1576年:
ヘントの和約
)。
1577年7月ネーデルラント総督
ドン・フアン・デ・アウストリア
は約束通りネーデルラントからスペイン軍を撤退します。
wikipedia
アルバ公
1569年
反乱軍オラニエ公が「海の乞食団」を結成
1571年
7月
ネーデルラント総督アルバ公がネーデルラントに新たな課税
1572年
4月1日
「海の乞食団」がブリーレを占領
反乱軍オラニエ公がホラント伯領とゼーラント伯領のオランダ総督(Stadtholder)に就任
ルイス
1575年
9月
王フェリペ2世が破産宣告
ドン・フアン
1576年
3月
ネーデルラント総督ルイスが急死。総督ドン・フアンが就任
11月3日
ネーデルラント総督ドン・フアンがルクセンブルク公国に到着
11月4日
アントワープ包囲戦
11月8日
ネーデルラントが「ヘントの和約」で一致団結
1577年
1月7日
ネーデルラント総督ドン・フアンとネーデルラントが「Perpetual Edict」を締結
2月12日
ネーデルラント総督ドン・フアンが「ヘントの和約」に合意
4月
ネーデルラント総督ドン・フアンがスペイン軍をネーデルラントから撤退
5月1日
ネーデルラント総督ドン・フアンがブリュッセルへ入城
7月24日
ネーデルラント総督ドン・フアンがナミュール城塞を占拠
12月8日
ネーデルラントがオーストリア大公Matthiasをネーデルラント総督に指名
12月10日
ネーデルラントが「第2ブリュッセル同盟」で更に一致団結
+
ホラント伯領とゼーラント伯領の反乱
ネーデルラント総督アルバ公
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
はちっぽけな反乱軍なんて楽勝で制圧できるはずでした。
でもスペインがオスマン帝国との戦争で破産寸前になっちゃったの。
ネーデルラントに送金する余裕なんてナシ。スペイン軍の維持にお金がいっぱい必要な総督アルバ公は困っちゃいます。
wikipedia
王フェリペ2世「必要経費はネーデルラントから調達せよ!」
総督アルバ公「オケ♥」
ネーデルラント「1569年3月新たな課税はナシって話し合ったじゃん!嘘つきー!」
ってことで、1571年7月総督アルバ公はネーデルラントに新たな売上税(Tenth Penny:不動産以外は10%の課税)を課します。
ネーデルラントは一方的な課税にドン引き。
スペインに忠実な地方政府ですら心が離れて行ちゃいます。ちなみに王フェリペ2世は1575年9月
破産宣告
。
「海の乞食団」の誕生
1569年反乱軍オラニエ公は「Desperado:無法者」で名を馳せる船乗りに
私掠免許
を発行します。「海の乞食団」の誕生。
「海の乞食団」は海や陸で襲撃した略奪品をイングランドで販売。
王フェリペ2世はプンプン。1572年3月1日女王エリザベス1世は怒らせたらヤバイ…と「海の乞食団」を入港禁止にします。
wikipedia
作者不明「Capture of Den Briel by the Watergeuzen, 1572」(1613年頃)
ホラント伯領とゼーラント伯領の反スペイン
王フェリペ2世の方針転換
総督アルバ公は反乱軍をビシバシ制圧して5千人以上をビシバシ処刑。でも事態はちっとも好転しません。
逆にネーデルラントで「反スペイン」が大きくなっちゃったの。
1573年王フェリペ2世はネーデルラント総督を
ルイス・デ・レケセンス
に交代。反乱軍に譲歩して沈静化を図ります。
wikipedia
作者不明「De troon van de hertog van Alva, 1569」(1569年)
アルバ党「陛下、ネーデルラントを従わせるには力ずくで押さえ込んだ方がイイです」
エボリ党「陛下、ネーデルラントを従わせるには自治させた方がイイです」
王フェリペ2世「戦争でネーデルラントは統治できなかった。乞食党に譲歩して沈静化せよ」
スペイン宮廷でネーデルラントに対する不満の高まりもあって王フェリペ2世は方針転換したのでございます。
ちなみにエボリ党方式でも事態はちっとも好転しないの。
ってことで、あっという間にアルバ党方式に逆戻りしちゃいます。アルバ公も宮廷の重要ポストに復活。
+
ネーデルラントが「スペイン軍を追い出せー!」と一致団結(1576年:ヘントの和約)
スペイン軍にはお給料を払う契約で雇われた兵士「イタリア
傭兵
」が大勢います。でもスペインは破産寸前でお金がナイ。
お給料の未払いにプンプンのイタリア傭兵は制圧した街から略奪。
ってことで、スペインに忠実なネーデルラント15州(ホラント伯領とゼーラント伯領を除いた州)の堪忍袋の緒が切れちゃいます。
wikipedia
ネーデルラント各地で起こったスペイン軍の血なまぐさい略奪を「
Spanish Fury
:スペインの狂暴な怒り」と呼びます。
金品を奪うだけじゃなく住民もビシバシ殺害。
こちらの画は有名なSpanish Fury「アントワープの略奪(1576年11月4日:
アントワープ包囲戦
)」です。そーゆー時代なのね。
俺たちでスペイン軍の略奪をナントカするぜー!(組織改革)
Bartholomeus van Bassen
画「Interior of the Great Hall on the Binnenhof in The Hague, during the Great Assembly of the States-General in 1651」(1651年頃)
ってことで、とうとうスペインに忠実なネーデルラント15州の堪忍袋の緒が切れちゃいます。
俺たちでスペイン軍の略奪をナントカするぜー!
でもずーっとスペインの下僕だった俺たちじゃナントカできない。9月
三部会
はナントカできるように組織改革します。
年数回だった三部会を毎週開催(≒連邦議会)。開催するのは持ち回りの三部会長(rotating presidency)。
フランドル州総督アールスコート公
Philipe de Croÿ
を
国家評議会
の国家評議会長(≒ネーデルラント総督)に指名。
鬼の居ぬ間に一致団結(1576年:ヘントの和約)
次のお仕事は「スペイン軍の略奪を終わらせる=オラニエ公の反乱を終わらせる=反乱軍オラニエ公との和平交渉」です。
総督ドン・フアンが来たら邪魔されるから急がなくちゃ!
国家評議会長アールスコート公(15州)と反乱軍オラニエ公(ホラント伯領とゼーラント伯領)が和平交渉を開始します。
1576年10月30日和平交渉を合意。11月8日三部会が批准してネーデルラントが一致団結します(1576年:ヘントの和約)。
ネーデルラントからスペイン軍を追い出して権利と自由を取り戻すぞー!
こんなに早く一致団結できはのは「アントワープの略奪(1576年11月4日:
アントワープ包囲戦
)」の後押しもありました。
アントワープの略奪(1576年11月4日:アントワープ包囲戦)
「アントワープの略奪」はスペイン軍がアントワープ市民を含む2万人を殺した略奪です。
破産宣告
して身軽になった王フェリペ2世はちゃんと40万
フローリン
(お給料を含む)をネーデルラントに送ってるの。
でも船で運んでる途中イングランドに奪われちゃいました。
wikipedia
スペイン船「げっ!嵐。イングランドの港に避難させて下さい」
女王エリザベス1世「スペイン船の寄港を許す。しかし40万フローリンは没収ぢゃ♥」
スペイン軍「またお給料の未払いかー!略奪だー!」
略奪を扇動したのは
アントワープ城砦
の指揮官
Sancho d'Avila
です。アントワープを守るスペイン軍が市民を殺害。
お陰様で八十年戦争が始まってからの10年間に築き上げたスペインの成果が全てパア。
スペインに忠実だったアントワープも「反スペイン」になっちゃいます(1579年:
ユトレヒト同盟
)。
交戦地帯になった「ネーデルラントの経済、金融、文化の中心アントワープ」はその後どんどん衰退していきます。
中心は
アムステルダム
(ホラント伯領)へお引っ越し。
イングランド商人も「交戦地帯に行くのはキケン」と別市場を模索。1582年までにアントワープとの取引を全て終了します。
スペイン軍の撤退
1576年11月3日総督ドン・フアンは
ルクセンブルク公国
に到着します。ネーデルラントの一致団結を止めるには遅すぎた。
ってことで、為す術なく「ヘントの和約」に合意。
1577年4月約束通りスペイン軍をネーデルラントからイタリアへ撤退させます。∩( ・ω・)∩ ばんじゃーい♥
wikipedia
5月1日三部会は束通り総督ドン・フアンの
ブリュッセル
(政治の中心地)への
入城
を受け入れます。
スペイン軍を追い出したからもう安心♥
でも反乱軍オラニエ公は安心しなかった。もし総督ドン・フアンがその気になったらスペイン軍はすぐ戻って来るんです。
+
あっという間に終了の「ヘントの和約」(1577年:第2ブリュッセル同盟)
1577年2月ネーデルラント総督ドン・フアン・デ・アウストリアは為す術なく「ヘントの和約」に合意しました。
でもスペインだってアホじゃない。
総督ドン・フアンは「ヘントの和約」の前に
三部会
と「Perpetual Edict:永続令」を結んだのでございます。
wikipedia
「Perpetual Edict:永続令」はネーデルラントがスペインに支配されてた頃に逆戻りしそうな内容です(訳は超テキトー)。
「ヘントの和約」を受け入るコト。
「反スペイン」の州も王フェリペ2世と総督ドン・フアンを受け入れるコト。
「反スペイン」の州もカトリック教会を受け入れるコト。
スペイン軍、イタリア傭兵、神聖ローマ帝国の傭兵、…は王フェリペ2世が許可した後20日以内にネーデルラントを出国するコト。
署名した両名は「ヘントの和約」に反する同盟を破棄するコト。
政治犯を
恩赦
するコト。
総督ドン・フアンは特に「カトリック教会の維持」に拘りました。ココは鬼の居ぬ間に大急ぎで作った「ヘントの和約」の弱点。
弱点を突かれた三部会はヘラヘラして乗り切ったんだって。
それどころか「ネーデルラントがスペイン軍のお給料の未払いを負担」まで約束しちゃってます。あちゃー。
総督ドン・フアンが約束を破った「ヘントの和約」
1577年7月総督ドン・フアンは軍事的な要所
ナミュール城塞
を占拠しちゃいます。(1577年:
Siege of Namur
)。
神聖ローマ帝国の傭兵を雇って護りもバッチリ。
8月イタリアへ撤退したスペイン軍に「ネーデルラントに戻れ」と命令を出します。「ヘントの和約」はあっという間に終了。
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ってことで、12月三部会はオーストリア大公
Matthias
(神聖ローマ皇帝
マクシミリアン2世
の息子)を総督にご招待します。
約束を破った総督ドン・フアンと決別だー!
ちなみに総督Matthiasは若くて未熟だった。スペイン軍と戦う財源も持ってなくて1581年神聖ローマ帝国に帰ります。
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カトリック教会とプロテスタント教会で内部分裂した「ヘントの和約」(1577年:第2ブリュッセル同盟)
1577年12月総督ドン・フアンと決別したネーデルラントは「第2ブリュッセル同盟」で更に一致団結します。
全ての州がカトリック教会とプロテスタント教会を等しく保護だー!
でも21世紀の私たちには当たり前の
信仰の自由
も16世紀の皆さんには当たり前じゃなかったの。各地で混乱が起こります。
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ルクセンブルク公国は「第2ブリュッセル同盟」に入らなかったっぽい。この辺の詳細はぜーんぜん分かりませんでした。
「北部:ネーデルラント連邦共和国」「南部:スペイン領ネーデルラント」に分離
ドン・フアン
1578年
1月
パルマ公がスペイン軍を率いてネーデルラントに到着
1月31日
ジャンブルーの戦い
3月31日
秘書官アントニオ・ペレスが個人秘書フアン・デ・エスコベドを暗殺
7月31日
レイメーナムの戦い
パルマ公
10月1日
ネーデルラント総督ドン・フアンが死亡。総督パルマ公が就任
1579年
1月6日
ネーデルラント南部(フランス側)が「アラス同盟」でスペイン側へ寝返り
1月23日
ネーデルラント北部が「ユトレヒト同盟」で一致団結
1580年
9月29日
ネーデルラント北部がアンジュー公フランソワを「ネーデルラントの自由の擁護者」に指名
1581年
7月26日
ネーデルラント北部が「ネーデルラント連邦共和国」と独立宣言(統治権否認令)
+
ネーデルラント総督ドン・フアン・デ・アウストリアってどんな人?
スペイン海軍の将官
ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼと母親パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリア(王フェリペ2世の異母姉)
ドン・フアンはコンプルテンセ大学で聖職者になる準備をします。父親カール5世がドン・フアンの将来を決めてたの。
でも1565年
オスマン帝国
がマルタ島を攻撃(
マルタ包囲戦
)。
スペイン海軍は
無敵艦隊
を
バルセロナ港
に待機させます。僕の将来は敷かれたレールでいいのだろうか…?
ドン・フアン「僕も無敵艦隊に参加したいです」
王フェリペ2世「ダメ!聖職者の準備を続けよ」
ドン・フアン「んじゃ、勝手にバルセロナに行くぜ」「(バルセロナに到着)うげっ!無敵艦隊が出発しちゃってたあ!」
王フェリペ2世「ドン・フアンには聖職者の素質がなさそうだ」
レパント海戦の英雄
1571年10月7日神聖同盟は
パトラ湾
(
レパント
)でオスマン帝国との海戦に勝利します(
レパント海戦
)。
ちなみにパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼも
ガレー船
のどれかで参戦。
総司令官ドン・フアンはこの勝利で「英雄」になります。王位継承権を持たないハプスブルク家の一員が英雄になったの。
英雄の野望
英雄になったドン・フアンは「僕も王様になりたい」と思うようになります。
でもヴェネツィア共和国とオスマン帝国が和平条約を結んで神聖同盟は崩壊状態…僕が活躍する舞台が無くなっちゃったぜ!
1573年もっと活躍したいドン・フアンは自分の艦隊だけで
チュニス
(オスマン帝国)を占領します。
アントニオ・ペレスとフアン・デ・エスコベド
ドン・フアンは「僕が占領=僕の王国」を夢見てチュニスの単独占領を王フェリペ2世に提案したのかもしれません。
王フェリペ2世は不審を抱いたの。
ってことで、王フェリペ2世の秘書官
アントニオ・ペレス
にドン・フアンの野心をコントロールさせます。
秘書官ペレスはドン・フアンに艦隊の軍資金とイタリアの
司教総代理
の地位を提供します。
オスマン帝国がこれに反応。
「司教総代理ドン・フアンが占領中のチュニス」を取り返しちゃいます(1574年:
Conquest of Tunis
)。
でもドン・フアンはヘコタレません。今度は「僕はイングランドの王様になりたい」と思うようになります。
イングランドは亡命したスコットランド女王
メアリー
を絶賛軟禁中。
ドン・フアンがイングランドに侵攻して女王エリザベス1世を廃位して女王メアリーと結婚すればオケでーす♥
ドン・フアン「陛下、ちょっとお話しがあります。
マドリード
(スペイン)に行っていいですか?」
王フェリペ2世「ダメ!イタリアで司教総代理を続けよ」
秘書官ペレス「陛下、ドン・フアンの野望がヤバイ方向へ向かってます」
ネーデルラント総督の野望
1576年ネーデルラント総督
ルイス・デ・レケセンス
が急死。王フェリペ2世はドン・フアンを次の総督に指名します。
ネーデルラントでは「
ヘントの和約
」が絶賛進行中。
でも総督ドン・フアンは野望を叶えるためにネーデルラントじゃなくマドリードに行っちゃいます。
王フェリペ2世「なんでマドリードに来た?すぐネーデルラントへ行け」
総督ドン・フアン「イングランドに侵攻しましょう♥」
王フェリペ2世「ダメ!すぐネーデルラントへ行け」
総督ドン・フアン「んじゃ、殿下の称号(
Infante
of Castile)が欲しいです」
王フェリペ2世「ダメ!すぐネーデルラントへ行け」
総督ドン・フアン「んじゃ、せめて『手中に(イングランドの王様)』と命じて下さい」
王フェリペ2世「はいはい、そなたに『手中に(反乱軍の制圧)』を命じる。すぐネーデルラントへ行け」
都合良く解釈できる王命「手中に:in one's hands」をゲトした総督ドン・フアンは大急ぎでネーデルラントへ行きます。
スパニッシュ・ロード
を使わず敵地フランスを突破。
敵地フランスを突破するときはイタリア貴族Ottaviano Gonzagaの使用人
ムーア人
に化けたからへーきへーきです。
1577年2月「ヘントの和約」でネーデルラントも一件落着。総督ドン・フアンはこの平和の間に野望を叶えようと思います。
イングランドに侵攻する軍資金が欲しい♥
ってことで、6月個人秘書エスコベドをマドリードに送ります。
個人秘書エスコベド「陛下、総督ドン・フアンが面会を求めてます」
王フェリペ2世「ダメ!ネーデルラントで総督を続けよ」
秘書官ペレス「陛下、総督ドン・フアンの野望がヤバイ方向へ向かってます」
王フェリペ2世はますます不審を抱いたの。
なんか秘書官ペレスがアレコレ小細工して「総督ドン・フアンが謀反を企んでる」と信じ込ませたっぽいです。
ネーデルラント総督の死
1577年8月
ナミュール城塞
を占拠中の総督ドン・フアンは撤退したスペイン軍に「ネーデルラントに戻れ」と命令しました。
ちょうどこの頃スペインではお宝を積んだ
インディアス艦隊
が
セビリア
に到着。
未払いだったお給料を精算した王フェリペ2世はパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼが率いるスペイン軍を送り込みます。
1578年1月ネーデルラントに到着したパルマ公はネーデルラント南部をビシバシ制圧していきます。
もっと制圧したいけど兵士も軍資金も足りない。
総督ドン・フアンはマドリードにいる個人秘書エスコベドに「王フェリペ2世に軍資金援助の依頼」を頼みます。
秘書官ペレス「陛下、総督ドン・フアンの野望がヤバイ方向へ向かってます」
秘書官ペレス「陛下、総督ドン・フアンが謀反を企んでます」
秘書官ペレス「陛下、個人秘書エスコベドを暗殺しましょう」
王フェリペ2世「オケ」
個人秘書エスコベド「きゃー!」
3月秘書官ペレスが裏切り者の個人秘書エスコベドを暗殺しちゃいます。王フェリペ2世も暗殺に同意。
総督ドン・フアンは「なぜ暗殺されたのか?」と手紙を送ったの。
王フェリペ2世からのお返事で「僕は不審を抱かれてる」と理解します。とーっても必要だった軍資金援助も絶望的。
ちなみに王フェリペ2世が暗殺に同意した具体的な理由は証拠が残ってません。21世紀の歴史家はこんな感じに憶測。
「総督ドン・フアンが勝手にイングランドに侵攻しようとしてる」と思ったから。
「総督ドン・フアンが勝手に反乱軍オラニエ公と同盟を結ぼうとしてる」と思ったから。
「総督ドン・フアンが勝手にスペインに帰国して王フェリペ2世を倒そうとしてる」と思ったから。
9月28日
チフス
が悪化した総督ドン・フアンはパルマ公を次のネーデルラント総督に指名。10月1日死亡します。
遺言は「父親カール5世の隣で眠りたいです」。
王フェリペ2世は
エル・エスコリアル修道院
の
王子の霊廟
に埋葬。ちなみに父親カール5世の棺はご近所
王家の霊廟
です。
+
ネーデルラントとはぜーんぜん関係ないけど…秘書官アントニオ・ペレスのその後
個人秘書フアン・デ・エスコベドの暗殺
秘書官ペレスは「王フェリペ2世がネーデルラント総督
ドン・フアン
の野望に不審を抱いてる」をご利用します。
信頼する
フアン・デ・エスコベド
を総督ドン・フアンの個人秘書にして監視。
でも個人秘書エスコベドは総督ドン・フアンに本気で仕えて身も心も捧げちゃいました。あちゃー!
ってことで、秘書官ペレスは王フェリペ2世が2人に不審を抱くようにアレコレ裏工作します。
個人秘書エスコベドの報告書を改ざん。
1578年3月裏切り者の個人秘書エスコベドを暗殺します。アレコレ裏工作に騙された王フェリペ2世も暗殺に同意。
アントニオ・ペレスとフアン・デ・エスコベド
10月総督ドン・フアンの死亡で王フェリペ2世は個人秘書エスコベドの暗殺に疑問を抱きます。1579年秘書官ペレスを逮捕。
なかなか尻尾を掴めなかったけど1584年「横領と王様に送られる書類の改ざん」で起訴。
1585年秘書官ペレスに「役職の剥奪」「宮廷から10年間追放」「懲役2年」「罰金」の判決が下ります。
エボリ大公夫人アナ・デ・メンドーサも一緒に逮捕
メディナ・シドーニア公爵とエボリ大公夫人
1573年「和平派エボリ党」の夫エボリ大公が死亡。未亡人になったエボリ大公夫人は修道院で生活しました。
その頃リーダを引き継いだ秘書官ペレスはアレコレ裏工作。
1576年俗世に戻ったエボリ大公夫人は秘書官ペレスと同盟を結びます。2人は愛情豊かな関係だったのかも。
1578年秘書官ペレスが裏切り者の個人秘書エスコベドを暗殺しちゃいます。
暗殺の動機は不明。
2人の愛情豊かな関係を暴露しようとしたのかも。そして2人はこんな陰謀を企んでたのかもしれません。
ポルトガル王国
をスペインから切り離そうとしてた(エボリ大公夫人の息子Diego de Silva y Mendozaを
ポルトガル王
にするっぽい)。
ネーデルラント総督ドン・フアンの「僕はイングランドの王様になりたい」に反対してた。
鉄格子の窓とエントランス上のバルコニー(パストラーナ城)
1579年王フェリペ2世は秘書官ペレスと一緒にエボリ大公夫人も「国家機密漏洩」で逮捕します。
Pinto城
(マドリード)、その後
Torremocha城
(〃)に幽閉。
1581年
パストラーナ城
(エボリ大公夫人の息子Ruy II Gómez de Silva y Mendozaの公爵領
パストラーナ
)に移されます。
幽閉生活のエボリ大公夫人は1日1時間だけバルコニー(Plaza de la Hora)に出ることが許されます。
1590年元・秘書官ペレスが刑務所(マドリード)を脱獄。
王フェリペ2世の命令でエボリ大公夫人の部屋のドアと窓に鉄格子がセット。幽閉生活13年目の1592年死亡します。
王フェリペ2世vs元・秘書官アントニオ・ペレス
1587年王フェリペ2世は元・秘書官ペレスを「個人秘書エスコベドの暗殺」で再逮捕します。
「王様が暗殺に関与してる証拠の書類」を回収したかったの。
1590年4月19日拷問に負けなかった元・秘書官ペレスは仲間の手助けで刑務所(マドリード)を脱獄します。
4月23日王フェリペ2世は脱獄した元・秘書官ペレスを提訴します。
個人秘書エスコベドを暗殺するために王様にウソの情報を与えた。
自分の利益のために職権乱用した。
あろうことか取り調べ中に逃げ出した。
7月1日マドリード裁判所は死刑判決します。元・秘書官ペレスを身柄確保したら即刻処刑しちゃうぜー!
アラゴン裁判所は元・秘書官ペレスを王フェリペ2世から護るために刑務所(prison of manifestados)に匿います。
王フェリペ2世からの起訴も却下。
9月1日王フェリペ2世は「アラゴン王」の名においてアラゴン裁判所に元・秘書官ペレスを再度起訴します。
アラゴン裁判所のダラダラ裁判にイライラした王フェリペ2世は元・秘書官ペレスを
異端審問
に起訴します。
異端審問はカスティーリャ王国とアラゴン王国で共通の教会管轄。
1591年5月13日アラゴン王国の皆さんが「王フェリペ2世が我々の司法を侮辱した」と暴動を起こします。
王フェリペ2世はカオス化したアラゴン王国の鎮圧にカスティーリャ軍を送ります。アラゴン裁判所も軍隊には勝てない。
11月10日元・秘書官ペレスはサラゴサの刑務所から逃亡。
アラゴン王国はあっという間に鎮圧。12月20日王フェリペ2世は裁判長Juan de Lanuza y Urreaを裁判ナシで処刑します。
元・秘書官アントニオ・ペレスの逃亡生活
1591年11月23日の夜羊飼いに化けた元・秘書官ペレスは大雪のピレネー山脈を超えて
ナバラ王国
に行きます。
その後
ベアルン
(フランス:
カトリーヌ・ド・ブルボン
の領地)へ。
イングランドに「僕が知ってる秘密の情報」を売り込んで生計を立てようとします。でも女王エリザベス1世からの反応ナシ。
1595年フランス王
アンリ4世
のご招待でフランスへ行きます。ちなみにご家族はマドリードの刑務所でずーっと監禁生活。
王フェリペ2世が死亡した1598年解放されたっぽい。
その後元・秘書官ペレスは妻
Juana Coello
と一緒に生活したっぽい。1611年パリで死亡します。
+
ネーデルラントを再征服せよ!(1579年:「アラス同盟」「ユトレヒト同盟」)
24 juli 1577 tot en met eind 1578
ちなみにパルマ公はジャンブルーの戦いで圧倒的に勝利しました。このままじゃ「第2ブリュッセル同盟」がヤバイ!
女王エリザベス1世は「第2ブリュッセル同盟」にお金と軍を派遣。
お陰様で軍を再編成した「第2ブリュッセル同盟」はレイメーナムの戦いに勝利。でもパルマ公の再征服は止まりませーん。
wikipedia
「第2ブリュッセル同盟」の終了(1579年1月6日:アラス同盟)
「第2ブリュッセル同盟」の中にはカトリック教会が大好き過ぎて信仰の自由にご不満の地域もいます。
総督パルマ公はこーゆー地域と個別に交渉。
ってことで、1579年1月6日ネーデルラント南部(フランス側)が「アラス同盟」でスペイン側へ寝返えっちゃいます。
wikipedia
王フェリペ2世と総督ドン・フアンを受け入れるコト。
政治は八十年戦争の前の状態に戻すコト。
スペイン以外の軍は置かないコト。
他の宗教は廃止。カトリック教会を唯一の宗教とするコト。
ちなみにお隣のフランスもカトリック教会とユグノーが絶賛戦争中です(1562–1598年:
ユグノー戦争
)。
寝返りにはその辺のご事情もあったのかしら?
5月王フェリペ2世に忠誠を誓います(Treaty of Arras)。パルマ公は「アラス同盟」を拠点にネーデルラントの再征服を開始。
「第2ブリュッセル同盟」の終了(1579年1月23日:ユトレヒト同盟)
1579年1月23日「アラス同盟」に反応したネーデルラント北部は「ユトレヒト同盟」で一致団結します。
もっちろん王フェリペ2世は認めない。
スペインが認めるのは1609年までお待ち下さい(1609-1621年:
12年間の休戦
)。
wikipedia
州に自治権があるコト(「ヘントの和約」)。
信仰の自由
を尊重するコト。
ちなみに最初に署名したのは
ホラント伯領
、
ゼーラント伯領
、
ユトレヒト領
の一部、
フローニンゲン領
の一部だけです。
鬼の居ぬ間に大急ぎで作った「ヘントの和約」に議論の余地があったの。
皆さんがアレコレ妥協して徐々に署名する地域が増えていきます。最終的なネーデルラントはこんな感じに分離。
Map Union of Arras and Utrecht 1579
+
「北部:ネーデルラント連邦共和国 」「南部:スペイン領ネーデルラント 」に分離(1581年:統治権否認令)
ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼはネーデルラントをビシバシ再征服していきます。
このままじゃ「ユトレヒト同盟」も再征服されちゃう!
ネーデルラント北部は「穏健派カトリック教徒の信頼をゲトして一致団結」が完敗を避ける唯一の方法だと考えます。
wikipedia
ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼと母親パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリア(王フェリペ2世の異母姉)
アンジュー公フランソワ
アンジュー公
フランソワ
(フランス王
アンリ3世
の弟)は王位継承者です。もし王アンリ3世が死んだらフランス王になる予定。
そしてフランスはご近所のスペインと仲が悪い。
wikipedia
女王エリザベス1世「スペインを牽制するためにアンジュー公との結婚交渉を始めるぢゃ」
アンジュー公「女王エリザベス1世にカエルのイヤリングをプレゼント♥」
反乱軍リーダのオラニエ公「アンジュー公を俺たちの
王様っぽいヤツ
にしたらイングランドと同盟できるんじゃね?」
作者不明「Queen Elizabeth I Feeds the Dutch Cow」(1585年頃)
「ネーデルラント連邦共和国」の誕生(1581年:統治権否認令)
ネーデルラント北部の中にはまだ王フェリペ2世に本気で忠誠を誓ってる領主たち(magistrates)もいます。
でも再征服を狙う王フェリペ2世はもはや敵。
もし「新しい王様」を任命してもこーゆー人たちは見せかけの忠誠しか誓えません。禍根を残すコトになっちゃうの。
ってことで、1581年6月14日三部会(連邦議会)は「そうだ!王座は空席にしよう♥」と発表します(統治権否認令)。
王フェリペ2世は「ancient rights:王様と民の契約(
社会契約
)」の義務を怠って民を苦しめた。「ユトレヒト同盟」の民は王フェリペ2世への忠誠から解放される。
民の国は民が統治する。
もし民が王様を必要だと思ったら候補者を立ててもオケ。
最終更新:2017年06月01日 09:55