スペイン王フェリペ2世の系図
王フェリペ2世の家族
名前 |
在位 |
フェリペ2世の |
備考 |
カルロス1世/神聖ローマ皇帝カール5世 (1500-1558) |
1516-1556(40年) |
父 |
ヨーロッパ王族の血筋が集まったサラブレット。必然的に領土も集まった、神聖ローマ皇帝になってもっと集まった。 広大な領土をたくみに統治した有能な君主で、生涯かけてヨーロッパ全土から北アフリカまで駆け回った。1556年長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ、自ら退位してユステ修道院に隠棲した。 |
フェリペ2世 (1556-1598) |
1556-1598(42年) |
- |
1580年ポルトガル王位を継承して領土が追加され『太陽の沈まぬスペイン帝国』を実現。 領土各地に副王を置く中央集権体制を整え、ほとんど宮殿に籠って政務に専念した「書類王」。「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」という烈々なカトリック教徒で、カトリックによる国家統合を理想とした。 |
フェリペ3世 (1578-1621) |
1598-1621(23年) |
子 |
スペイン帝国を担うには力不足な「怠惰王」で、スペイン帝国は衰退への道を歩み始めた。 |
フェリペ2世の有能な兄弟
名前 |
フェリペ2世の |
備考 |
マリア・デ・アブスブルゴ(1528-1603) |
妹 |
1548年従兄・神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と結婚。 父カルロス1世の要請により、不在時のスペイン摂政を勤めた。1552年ウィーンへ移住、1582年夫が亡くなるとスペインへ帰国し「異教徒のいない国に住めてとても幸せ」と言ったらしい。国政に出しゃばることはなかった。 |
フアナ・デ・アウストリア(1535-1573) |
妹 |
1552年従弟・ポルトガル王太子ジョアン・マヌエルと結婚。1554年夫死亡。 兄フェリペ2世の要請により、不在時のスペイン摂政を勤めた。←スペイン王父カルロス1世はヨーロッパ偵察で不在、フェリペ2世もイングランド女王メアリー1世と結婚して不在の間。 |
ドン・フアン・デ・アウストリア(1547-発疹チフス:1578) |
異母弟 |
母親は父カルロス1世の愛人バルバラ・ブロムベルク。庶子。 ドン・フアンが13歳の時、フェリペ2世は宮殿に迎え王族として認知したが「殿下」という呼称は認めなかった。レパント海戦など数々の武名を馳せ、ネーデルラント総督を務めた。 |
フェリペ2世の短命な夫婦&遺伝子が心配な子供
妻 |
名前 |
結婚 |
フェリペ2世の |
備考 |
◎ |
マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル(1527-産褥死:1545) |
1543-1545(2年) |
従妹 |
母親はフェリペ2世の叔母カタリナ・デ・アウストリア。 ドン・カルロスを出産した数日後に死亡。 |
|
ドン・カルロス・デ・アウストリア(1545-牢死:1568) |
- |
子 |
高尚な事に興味を示したことはなく、食べることにしか感心がない。子供のように愚かしい質問ばかりする。断絶状態の父に反逆し、ネーデルランドに行こうとして逮捕監禁され牢死。 |
◎ |
イングランド女王メアリー1世(1516-卵巣腫瘍:1558) |
1554-1558(4年) |
親戚 |
母親はフェリペ2世の大叔母キャサリン・オブ・アラゴン。 結婚後は2人でイングランドを統治したが、フェリペ2世がスペイン王に即位してスペインへ帰国。一緒に住んだ時期は約2年、子供ナシ。 |
◎ |
エリザベート・ド・ヴァロワ(ス:イサベル・デ・バロイス)(1545-1568) |
1559-1568(9年) |
- |
父親はフランス王アンリ2世。 イングランド王エドワード6世が亡くなり婚約解消。フェリペ2世の息子ドン・カルロス・デ・アウストリアと婚約。が、カトー・カンブレジ条約の証としてフェリペ2世と結婚。 |
|
イサベル・クララ・エウヘニア(1566-1633) |
- |
子 |
イタリア語で書かれた書類の翻訳など、スペイン語しか話せない父を亡くなるまで補佐した。1599年従兄アルブレヒトと結婚し、スペイン領ネーデルラントを共同統治者。2人が治めていた時代はネーデルラントの黄金時代と呼ばれた。 |
◎ |
アナ・デ・アウストリア(1549-伝染病:1580) |
1570-1580(10年) |
姪 |
母親はフェリペ2世の妹マリア・デ・アブスブルゴ。 |
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フェリペ3世(1578-1621) |
- |
子 |
フェリペ2世待望の男児。次のスペイン王。 |
王フェリペ2世の領地
※スペイン帝国…本国、植民地、属領の総称。
※インディアス…スペイン人が発見・征服・植民した地域の総称。
+
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なんでネーデルラントはスペイン領なの? |
1519年王カルロス1世(王フェリペ2世の父親)は
神聖ローマ皇帝
カール5世に即位。西・中央・南ヨーロッパを支配しちゃいます。
ちなみに皇帝カール5世の称号はこーんなに長いの。
カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公(prince)、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主。
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+
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なんでポルトガルはスペイン領なの? |
独身の王エンリケ1世は枢機卿を辞めて結婚しようとします。子供ナシだと
アヴィス王朝
が終わっちゃうもんね。
でもスペイン王
フェリペ2世
に気を遣ったローマ教皇
グレゴリウス13世
が辞任を拒否。
1580年1月31日王エンリケ1世は子供ナシであーっという間に死亡。ポルトガルはまたまた次の王位継承でゴタゴタしちゃいます。
次の王様は誰?
ポルトガル議会(the Regency of the Kingdom)は「次の王様=ポルトガルの独立を持続できる王様」について話し合います。
候補者はこちらの皆さん。
スペイン王フェリペ2世は「
イベリア半島の統合
=
西ゴート王国
の復活」を目論んで王位継承を強く主張してます。
最有力候補はネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの息子ラヌッチョ1世・ファルネーゼ(11歳)です。
でもネーデルラント総督パルマ公は王フェリペ2世の家臣。
ってことで、王フェリペ2世に気を遣って息子ラヌッチョ1世・ファルネーゼの王位継承を積極的に主張しませんでした。
カタリナ・デ・ポルトガル(40歳)も王位継承を強く主張します。
ちなみに夫ブラガンサ公
ジョアン1世
(初代
王ジョアン1世
の庶子ブラガンサ公
アフォンソ1世
の血筋)も王位継承権アリ。
夫婦揃って王位継承権アリの優良株です。
- ブラジル副王(the Vice-Kingdom of Brazil)。
-
キリスト騎士団
長(Grand-Master of the Order of Christ)。
- 私船のインド貿易許可。
- 王フェリペ2世の息子
ディエゴ・デ・アウストリア
とブラガンサ公の娘の結婚。
王フェリペ2世は「カタリナ・デ・ポルトガルを辞退させるぜ!」と夫ブラガンサ公をこちらで買収しようとします。
でも夫ブラガンサ公は買収を拒否。
残念ながらカタリナ・デ・ポルトガルは「女性」「次女」がネックになって王位継承の競争から脱落しました。
サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトも王位継承を主張します。
でもサヴォイア公は1536年以降フランスに占領されちゃった領地の回復を願ってずーっと王フェリペ2世に仕えてるの。
お陰様で領地もジワジワ回復中。ってことで、すぐ辞退します。
スペイン王フェリペ2世vsポルトガル王アントニオ1世(庶子アントニオ・デ・ポルトガル)
庶子アントニオ・デ・ポルトガル(
王マヌエル1世
の孫)も王位継承を強く主張します。
でも庶子だから王位継承権ナシ(王位継承権が超弱い)。
実は
王セバスティアン1世
が死亡したときも王位継承を主張してポルトガル議会に却下されちゃいました。
14世紀ポルトガルは王位継承を争って内戦になったコトがあります(1383–1385年:
Portuguese interregnum
)。
なんやかんやでスペインを撃退した庶子ジョアンが初代
王ジョアン1世
に即位。
庶子アントニオは「この状況に似てませんかー!?」と訴えて支持をゲト。1580年7月24日「王アントニオ1世」を宣言します。
 王フェリペ2世の領地(1580年)
「イベリア半島の統合」の終了
「イベリア半島の統合」でポルトガル領をゲトしたスペインは「
太陽の沈まない帝国
」になります。
王フェリペ2世はポルトガルの独立(法律、通貨、政府)を持続。
ポルトガルの貴族たちをスペイン宮廷で優遇。なんと「首都を
リスボン
に移す?」なんて提案もありました。
 スペインとポルトガルの貿易ルート(16世紀)
でもポルトガルの利益はジワジワ減少していきます。台頭するイングランドやオランダがポルトガル領を攻撃し始めたの。
おまけにスペイン王
フェリペ4世
はポルトガルの独立をスルー。
1640年Win-Winな関係が終わったポルトガルは勝手にブラガンサ公ジョアン2世をポルトガル王
ジョアン4世
にしちゃいます(1640–1668年:
Portuguese Restoration War
)。
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最終更新:2017年06月15日 15:32