グランデってなに?
グランデは王様が
スペイン貴族
に与える「最大の
個人の尊厳
」です。貴族にとって超ウルトラな名誉。
爵位と一緒に子、孫、…が
世襲
。
王様はグランデの貴族を「mi Primo:私の従兄弟」、それ以外の貴族を「mi Pariente:私の親戚」と呼んで区別してます。
wikipedia
王族の面前に出た貴族は王様から「着帽のままでオケ」「着席のままでオケ」と声をかけられるとグランデになります。
その後グランデの特権が「課税の免除」「逮捕の免除」、…どーんどん拡大。
お陰様で王様への忠誠を捨てるグランデまで出てきちゃった。ってことで、1470年代後半
カトリック両王
が特権を減らします。
+
グランデの皆さん(元ネタがスペイン語なので訳は超テキトー)
グランデの誕生
1369年庶子トラスタマラ伯は義弟
王ペドロ1世
を倒して
王エンリケ2世
になりました(1351-1369年:
Castilian Civil War
)。
トレド家、メンドーサ家、ラ・セルダ家、…がトラスタマラ伯を支援。
下克上を助けてくれた皆さんにお礼を!ってことで、新興貴族(Nobleza Nueva)が誕生します。
15世紀スペインの政治が混乱する中で勝ち残った新興貴族の特権はどーんどん拡大します(711-1492年:
Reconquista
)。
この特権を持つ貴族がグランデ(Grandes del reino)と呼ばれたの。
その後スペインの政治はだんだん安定。
君主制
の政治を目指す王様にとって「この特権」が邪魔になってきちゃいます。
インファンタド公(サンティリャーナ侯)…ビセンテやエボリ大公夫人はここ
1559年Ruy Gómez de Silvaが王フェリペ2世からエボリ大公を拝受。
?年Ruy Gómez de Silvaが王フェリペ2世からグランデを拝受。
1572年Ruy Gómez de Silvaが王フェリペ2世から
パストラーナ公
を拝受。
アスコリ大公…アロンソはここ
レイバ家
は
ナバラ
のJuan Martínez(1350-1384年)から発祥したスペインの貴族です。
Juan MartínezはLeyva領主Sancho e di Aldonza Lopez de Avellaneda(
signore
di Leyva:21世紀の
ラ・リオハ州
Leiva
)の息子。
レイバ家は資料によって年代、お名前、爵位がビミョーに違うのでビシっとは分かりませんでした。
アロンソ・デ・レイバの系図は
Genealogía familiar
(Alonso Martinez de Leyva)さんを参考にしました。
これによるとAlonso Martinez de Leyvaの父親Sancho Martinez de Leyvaは
Ocaña隊の
指揮官
(Comendador de Ocaña)
ガレー船の将官(General de las galeras de España)
ナバラの副王
(1575年)
Alonso Martinez de Leyvaは
ミラノの守備隊長(Capitán General de la Caballería de Milán)
Alcuesca隊の指揮官(Comendador de Alcuesca)
妻Mariana Suarez de Mendoza y de la Cerda、息子Sancho Martinez de Leyvaです。
パルマ公…ラウルの母方はここ
ちなみに神聖ローマ皇帝
カール5世
(王フェリペ2世の父親)もパルマとPiacenzaを狙ってました。
ローマ教皇Paul IIIは血縁を結ぶコトでこれを回避。
ってことで、1538年14歳のOttavio Farneseと
Margaret of Parma
(王フェリペ2世の義理姉)が結婚します。
+
ポルトガル王の最有力候補になった息子Ranuccio I Farnese
独身の王エンリケ1世は枢機卿を辞めて結婚しようとします。子供ナシだと
アヴィス王朝
が終わっちゃうもんね。
でもスペイン王
フェリペ2世
に気を遣ったローマ教皇
グレゴリウス13世
が辞任を拒否。
1580年1月31日王エンリケ1世は子供ナシであーっという間に死亡。ポルトガルはまたまた次の王位継承でゴタゴタしちゃいます。
次の王様は誰?
ポルトガル議会(the Regency of the Kingdom)は「次の王様=ポルトガルの独立を持続できる王様」について話し合います。
候補者はこちらの皆さん。
スペイン王フェリペ2世は「
イベリア半島の統合
=
西ゴート王国
の復活」を目論んで王位継承を強く主張してます。
最有力候補はネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの息子ラヌッチョ1世・ファルネーゼ(11歳)です。
でもネーデルラント総督パルマ公は王フェリペ2世の家臣。
ってことで、王フェリペ2世に気を遣って息子ラヌッチョ1世・ファルネーゼの王位継承を積極的に主張しませんでした。
カタリナ・デ・ポルトガル(40歳)も王位継承を強く主張します。
ちなみに夫ブラガンサ公
ジョアン1世
(初代
王ジョアン1世
の庶子ブラガンサ公
アフォンソ1世
の血筋)も王位継承権アリ。
夫婦揃って王位継承権アリの優良株です。
ブラジル副王(the Vice-Kingdom of Brazil)。
キリスト騎士団
長(Grand-Master of the Order of Christ)。
私船のインド貿易許可。
王フェリペ2世の息子
ディエゴ・デ・アウストリア
とブラガンサ公の娘の結婚。
王フェリペ2世は「カタリナ・デ・ポルトガルを辞退させるぜ!」と夫ブラガンサ公をこちらで買収しようとします。
でも夫ブラガンサ公は買収を拒否。
残念ながらカタリナ・デ・ポルトガルは「女性」「次女」がネックになって王位継承の競争から脱落しました。
サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトも王位継承を主張します。
でもサヴォイア公は1536年以降フランスに占領されちゃった領地の回復を願ってずーっと王フェリペ2世に仕えてるの。
お陰様で領地もジワジワ回復中。ってことで、すぐ辞退します。
スペイン王フェリペ2世vsポルトガル王アントニオ1世(庶子アントニオ・デ・ポルトガル)
庶子アントニオ・デ・ポルトガル(
王マヌエル1世
の孫)も王位継承を強く主張します。
でも庶子だから王位継承権ナシ(王位継承権が超弱い)。
実は
王セバスティアン1世
が死亡したときも王位継承を主張してポルトガル議会に却下されちゃいました。
14世紀ポルトガルは王位継承を争って内戦になったコトがあります(1383–1385年:
Portuguese interregnum
)。
なんやかんやでスペインを撃退した庶子ジョアンが初代
王ジョアン1世
に即位。
庶子アントニオは「この状況に似てませんかー!?」と訴えて支持をゲト。1580年7月24日「王アントニオ1世」を宣言します。
王フェリペ2世の領地(1580年)
「イベリア半島の統合」の終了
「イベリア半島の統合」でポルトガル領をゲトしたスペインは「
太陽の沈まない帝国
」になります。
王フェリペ2世はポルトガルの独立(法律、通貨、政府)を持続。
ポルトガルの貴族たちをスペイン宮廷で優遇。なんと「首都を
リスボン
に移す?」なんて提案もありました。
スペインとポルトガルの貿易ルート(16世紀)
でもポルトガルの利益はジワジワ減少していきます。台頭するイングランドやオランダがポルトガル領を攻撃し始めたの。
おまけにスペイン王
フェリペ4世
はポルトガルの独立をスルー。
1640年Win-Winな関係が終わったポルトガルは勝手にブラガンサ公ジョアン2世をポルトガル王
ジョアン4世
にしちゃいます(1640–1668年:
Portuguese Restoration War
)。
アルバ公…ラウルの父方はここ
トレド家(またはアルバレス・デ・トレド家)
は13世紀
カスティーリャ王朝
から発祥したスペインの貴族です。
1085年から連続で
トレド
市長に就任してジワジワ台頭。
最初に姓「Álvarez de Toledo」を名乗ったのはJuan Álvarez de Toledo(Álvaro Ibáñez y de Juana García Carrilloの息子)だそーです。
メディナ・シドーニア公
スペインのグランデ。1455年カスティーリャ王フアン2世がニエブラ伯フアン・アロンソ・ペレス・デ・グスマン(Juan Alonso Pérez de Guzmán y Suárez de Figueroa)に初代公位を授けたことに始まる。
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最終更新:2017年06月27日 13:55