グランデってなに?


グランデは王様が スペイン貴族 に与える「最大の 個人の尊厳 」です。貴族にとって超ウルトラな名誉。
爵位と一緒に子、孫、…が 世襲
王様はグランデの貴族を「mi Primo:私の従兄弟」、それ以外の貴族を「mi Pariente:私の親戚」と呼んで区別してます。
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王族の面前に出た貴族は王様から「着帽のままでオケ」「着席のままでオケ」と声をかけられるとグランデになります。
その後グランデの特権が「課税の免除」「逮捕の免除」、…どーんどん拡大。
お陰様で王様への忠誠を捨てるグランデまで出てきちゃった。ってことで、1470年代後半 カトリック両王 が特権を減らします。

+ グランデの皆さん(元ネタがスペイン語なので訳は超テキトー)
16世紀のグランデは公式文書ナシでビシッと分からないそーです。こちらは 1520年の推測グランデ (F&Bに登場する人だけ)。
ちなみに王様は 王カルロス1世 (王フェリペ2世の父親)。
詳細は Francisco Fernández de Bethencourt 著「Historia genealógica y heráldica de la monarquía española, Casa Real y Grandes de España」(1897年頃)をどうぞ。
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メディナ・シドーニア公
グスマン家
1396年頃 Juan Alonso de Guzmán がNiebla伯を拝受
アルバ公
トレド家
1366年 Garci Álvarez de Toledo Señores de Oropesa を拝受
インファンタド公
メンドーサ家
1332年 Gonzalo Yáñez de Mendoza がSeñores de Álavaを拝受
メディナセリ公
ラ・セルダ家
1368年 Bernal de Foix がメディナ・セリ伯を拝受

グランデの誕生

1369年庶子トラスタマラ伯は義弟 王ペドロ1世 を倒して 王エンリケ2世 になりました(1351-1369年: Castilian Civil War )。
トレド家、メンドーサ家、ラ・セルダ家、…がトラスタマラ伯を支援。
下克上を助けてくれた皆さんにお礼を!ってことで、新興貴族(Nobleza Nueva)が誕生します。


15世紀スペインの政治が混乱する中で勝ち残った新興貴族の特権はどーんどん拡大します(711-1492年: Reconquista )。
この特権を持つ貴族がグランデ(Grandes del reino)と呼ばれたの。
その後スペインの政治はだんだん安定。 君主制 の政治を目指す王様にとって「この特権」が邪魔になってきちゃいます。





インファンタド公(サンティリャーナ侯)…ビセンテやエボリ大公夫人はここ


メンドーサ家 アラバ Íñigo López (1040–1076年頃)から発祥したスペインの貴族です。14-17世紀宮廷で最有力な貴族の1つ。
スペインとアメリカ大陸で20以上の上流貴族に枝分かれしたメンドーサ家の主流は本家筋 インファンタド公
ちなみに1625年第6代インファンタド公女 Ana de Mendoza y Enríquez de Cabrera は領地800に家臣8万人以上を所有してます。
F&B時代は第5代インファンタド公 Íñigo López de Mendoza y Mendoza です。王フェリペ2世の寵臣。
息子Diego Hurtado de Mendoza y Enriquez de Cabrera(父親より前に死亡)がいたっぽい。この人がサンティリャーナ侯かしら?
2人の娘IsabelとMencíaは フェリア公 アルバ公 に嫁いでます。


エボリ大公夫人 Ana de Mendoza de la Cerda y de Silva Cifuentes は枢機卿 Pedro González de Mendoza から連なる分家筋です。
ちなみに「la Cerda」は ラ・セルダ家 のコト。
カスティーリャ王 アルフォンソ10世 の息子 Ferdinand de la Cerda からの血筋で本家筋の皆さんは メディナセリ公 です。
エボリ大公 Ruy Gómez de Silva はポルトガル系 シルバ家 です。
1526年スペイン王 カルロス1世 に嫁ぐ イサベル・デ・ポルトゥガル (王フェリペ2世の両親)に付き添ってスペインへ移住。
王フェリペ2世の 小姓 になったのが縁で2人は親友になります。
  • 1559年Ruy Gómez de Silvaが王フェリペ2世からエボリ大公を拝受。
  • ?年Ruy Gómez de Silvaが王フェリペ2世からグランデを拝受。
  • 1572年Ruy Gómez de Silvaが王フェリペ2世から パストラーナ公 を拝受。
F&B時代は第2代パストラーナ公Ruy II Gómez de Silva y Mendozaです。メリート大公とエボリ大公は継承してないっぽい?
フランカヴィッラ公 Diego de Silva y Mendoza が継承( De Silva Fernández de Híjar Portugal家 )。
Anaは メディナ・シドーニア公 に嫁いでます。


アスコリ大公…アロンソはここ


レイバ家 ナバラ のJuan Martínez(1350-1384年)から発祥したスペインの貴族です。
Juan MartínezはLeyva領主Sancho e di Aldonza Lopez de Avellaneda( signore di Leyva:21世紀の ラ・リオハ州 Leiva )の息子。
  • ?年 Antonio de Leyva が?からアスコリ大公(príncipe de Áscoli)を拝受。
レイバ家は資料によって年代、お名前、爵位がビミョーに違うのでビシっとは分かりませんでした。


アロンソ・デ・レイバの系図は Genealogía familiar (Alonso Martinez de Leyva)さんを参考にしました。
これによるとAlonso Martinez de Leyvaの父親Sancho Martinez de Leyvaは
Alonso Martinez de Leyvaは
  • ミラノの守備隊長(Capitán General de la Caballería de Milán)
  • Alcuesca隊の指揮官(Comendador de Alcuesca)
妻Mariana Suarez de Mendoza y de la Cerda、息子Sancho Martinez de Leyvaです。


パルマ公…ラウルの母方はここ


ファルネーゼ家 はイタリアから発祥した有力貴族です。15世紀傭兵隊長 Ranuccio Farnese il Vecchio からイケイケがスタート。
孫Alessandro Farneseがローマ教皇 Paul III になってもっとイケイケ。
ローマ教皇Paul IIIは権力を利用してファルネーゼ家の勢力と財産をガンガン増やします。
ちなみに神聖ローマ皇帝 カール5世 (王フェリペ2世の父親)もパルマとPiacenzaを狙ってました。
ローマ教皇Paul IIIは血縁を結ぶコトでこれを回避。
ってことで、1538年14歳のOttavio Farneseと Margaret of Parma (王フェリペ2世の義理姉)が結婚します。


F&B時代は ネーデルラント総督 第3代パルマ公 Alexander Farnese (王フェリペ2世の甥)です。
1565年 Maria of Guimarães (ポルトガル王 マヌエル1世 の孫)と結婚。
王族と結婚したけど 紋章 ポルトガルの紋章 (5個の inescutcheon :小さい盾)を決してご使用しませんでした。

+ ポルトガル王の最有力候補になった息子Ranuccio I Farnese
1578年ポルトガル王 セバスティアン1世 が子供ナシ(=王位継承者ナシ)で戦死します(1578年: Battle of Alcácer Quibir )。
ってことで、ポルトガルは次の王位継承でゴタゴタ。
ゴタゴタの中で王セバスティアン1世の摂政だった 枢機卿 エンリケが 王エンリケ1世 になります。
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独身の王エンリケ1世は枢機卿を辞めて結婚しようとします。子供ナシだと アヴィス王朝 が終わっちゃうもんね。
でもスペイン王 フェリペ2世 に気を遣ったローマ教皇 グレゴリウス13世 が辞任を拒否。
1580年1月31日王エンリケ1世は子供ナシであーっという間に死亡。ポルトガルはまたまた次の王位継承でゴタゴタしちゃいます。

次の王様は誰?

ポルトガル議会(the Regency of the Kingdom)は「次の王様=ポルトガルの独立を持続できる王様」について話し合います。
候補者はこちらの皆さん。
スペイン王フェリペ2世は「 イベリア半島の統合 西ゴート王国 の復活」を目論んで王位継承を強く主張してます。

ラヌッチョ1世・ファルネーゼ 父親:パルマ公 アレッサンドロ・ファルネーゼ
母親: マリア・デ・ポルトガル
長子相続 の正当な王位継承者
カタリナ・デ・ポルトガル 父親:ギマランイス公 ドゥアルテ
母親: イザベル・デ・ブラガンサ
ポルトガル在住で年齢もオケ
スペイン王 フェリペ2世 父親:神聖ローマ皇帝 カール5世
母親: イサベル・デ・ポルトガル
外国人だからダメダメ
庶子 アントニオ・デ・ポルトガル
(ポルトガル王アントニオ1世)
父親:ベージャ公 ルイス
母親:愛人ヴィオランテ・ゴメス
王位継承権ナシだからダメ
サヴォイア公 エマヌエーレ・フィリベルト 父親:サヴォイア公 カルロ3世
母親: ベアトリーチェ・デ・ポルトガル

最有力候補はネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの息子ラヌッチョ1世・ファルネーゼ(11歳)です。
でもネーデルラント総督パルマ公は王フェリペ2世の家臣。
ってことで、王フェリペ2世に気を遣って息子ラヌッチョ1世・ファルネーゼの王位継承を積極的に主張しませんでした。

カタリナ・デ・ポルトガル(40歳)も王位継承を強く主張します。
ちなみに夫ブラガンサ公 ジョアン1世 (初代 王ジョアン1世 の庶子ブラガンサ公 アフォンソ1世 の血筋)も王位継承権アリ。
夫婦揃って王位継承権アリの優良株です。
王フェリペ2世は「カタリナ・デ・ポルトガルを辞退させるぜ!」と夫ブラガンサ公をこちらで買収しようとします。
でも夫ブラガンサ公は買収を拒否。
残念ながらカタリナ・デ・ポルトガルは「女性」「次女」がネックになって王位継承の競争から脱落しました。

サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトも王位継承を主張します。
でもサヴォイア公は1536年以降フランスに占領されちゃった領地の回復を願ってずーっと王フェリペ2世に仕えてるの。
お陰様で領地もジワジワ回復中。ってことで、すぐ辞退します。

スペイン王フェリペ2世vsポルトガル王アントニオ1世(庶子アントニオ・デ・ポルトガル)

庶子アントニオ・デ・ポルトガル( 王マヌエル1世 の孫)も王位継承を強く主張します。
でも庶子だから王位継承権ナシ(王位継承権が超弱い)。
実は 王セバスティアン1世 が死亡したときも王位継承を主張してポルトガル議会に却下されちゃいました。

14世紀ポルトガルは王位継承を争って内戦になったコトがあります(1383–1385年: Portuguese interregnum )。
なんやかんやでスペインを撃退した庶子ジョアンが初代 王ジョアン1世 に即位。
庶子アントニオは「この状況に似てませんかー!?」と訴えて支持をゲト。1580年7月24日「王アントニオ1世」を宣言します。

王フェリペ2世の領地(1580年)

王フェリペ2世は「イケイケのスペインと併合した方が儲かるんじゃね?」と考える貴族たちの支持をゲトします。
ってことで、庶子アントニオを打倒(1580–1583年: War of the Portuguese Succession )。
1581年 ポルトガル議会 に承認されてポルトガル王に即位します。念願の「 イベリア半島の統合 」であーる♥

ちなみに庶子アントニオの「王アントニオ1世」は20日で終了しちゃいました(1580年: Battle of Alcântara )。
その後 アゾレス諸島 、フランス、イングランドへ亡命。
王フェリペ2世が送った暗殺者から逃げながら1589年 アルマダの反撃 にも参加。1595年パリ(フランス)で死亡します。

「イベリア半島の統合」の終了

「イベリア半島の統合」でポルトガル領をゲトしたスペインは「 太陽の沈まない帝国 」になります。
王フェリペ2世はポルトガルの独立(法律、通貨、政府)を持続。
ポルトガルの貴族たちをスペイン宮廷で優遇。なんと「首都を リスボン に移す?」なんて提案もありました。

スペインとポルトガルの貿易ルート(16世紀)

でもポルトガルの利益はジワジワ減少していきます。台頭するイングランドやオランダがポルトガル領を攻撃し始めたの。
おまけにスペイン王 フェリペ4世 はポルトガルの独立をスルー。
1640年Win-Winな関係が終わったポルトガルは勝手にブラガンサ公ジョアン2世をポルトガル王 ジョアン4世 にしちゃいます(1640–1668年: Portuguese Restoration War )。



アルバ公…ラウルの父方はここ


トレド家(またはアルバレス・デ・トレド家) は13世紀 カスティーリャ王朝 から発祥したスペインの貴族です。
1085年から連続で トレド 市長に就任してジワジワ台頭。
最初に姓「Álvarez de Toledo」を名乗ったのはJuan Álvarez de Toledo(Álvaro Ibáñez y de Juana García Carrilloの息子)だそーです。


F&B時代は第5代アルバ公 Antonio Álvarez de Toledo (第3代アルバ公 Fernando Álvarez de Toledo の孫)です。
子供ナシの第4代アルバ公 Fadrique Álvarez de Toledo から爵位を継承。
母親 Brianda de Beaumont からもアレコレ爵位を継承。この辺の詳細はぜーんぜん分からなかったです。


メディナ・シドーニア公


スペインのグランデ。1455年カスティーリャ王フアン2世がニエブラ伯フアン・アロンソ・ペレス・デ・グスマン(Juan Alonso Pérez de Guzmán y Suárez de Figueroa)に初代公位を授けたことに始まる。
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最終更新:2017年06月27日 13:55