スペイン帝国
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スペイン
アロンソの領地リオハは
ラ・リオハ州
に丸印つけてます。リオハ・ワインの生産地として有名だからこれかなぁって。
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レイノサ(レイノーサ)
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レイノサの風景
+
レイノサのロスコ
レイノサのパン・トルティージャ(Pantortilla:砂糖シロップのかかったパイ)は「食べずして去ることなかれ」だそうです。
こちらはパン・トルティージャをロスコ(Rosco:ドーナッツ)に焼いたもの。
えーっと、念のため「食べずして去ることなかれ」は欧州のご感想です。日本人の味覚じゃないので要チェック項目かも。
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ロスコ
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中はこんな感じ
東方三賢者の日(1月6日)にはソラマメの入ったロスコを食べて、当たった人が来年のロスコを買ってくることになります。
~
バスク美食倶楽部
さんより~
リオハ
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ナバレテ
の風景
+
リオハのワイン
ヨーロッパのワインはBC11世紀移住してきた
フェニキア人
が造って、古代ローマ人が葡萄園をガンガン拡大したのが始まりです。
ワイン歴史家Roger Dionは「ボルドーに住みついたローマ人が植えた品種がリオハの葡萄園の原種」と推測。
1991年最上質ワインの
DOCa
(国立原産地呼称庁のワインの格付け)に認定されてます。
wikipedia
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地下のセラーも有名みたい
製品の差別化もバッチリだ!
もっちろん巡礼者の評判にただ胡座をかいてるだけじゃございません。
1560年から差別化戦略(21世紀だとこーゆーけど、F&B時代は何て言うんでしょね?)で品質の維持&保証もしてます。
葡萄はリオハのものだけを使用する。
ワインを輸出するBota bag(スペイン特有のヤギ革ワイン運搬袋)には商標を付ける。
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ワイン運搬袋
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21世紀の商標
ピレネー山脈
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+
イバニェタ峠
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手前がイバニェタ峠の道?
イバニェタ峠は1813年
ロンセスバーリェスの戦い
(
スペイン独立戦争
)でイギリスとフランスの戦場になります。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト曰く「L'Afrique commence aux Pyrénées」。
なに言ってんだこのカエル野郎ですよね!王フェリペ2世は草葉の陰からビシッと怒った方がいいと思う。
カディス
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+
ガンガンやっちゃった「スペイン王の髭焦がし」
1587年女王エリザベス1世はサー・フランシスに「スペイン軍の準備状況調査・供給源の破壊・港と艦隊の攻撃」を命令します。
でも出港した7日後に「港と艦隊への攻撃」をキャンセル。なぜ?
結局カディス湾(小さい湾)にいたサー・フランシスには届かずガンガンやっちゃいます。お陰様でアルマダの海戦は1年延期。
wikipedia
こんな感じ
イングランド
4月12日
4部隊でプリマスを出港。 ●
エリザベス・ボナベンチャー号
:司令官サー・フランシスの指揮下 ●
ゴールデン・ライオン号
:副司令官ウィリアム・バロウズの指揮下 ●
レインボウ号
:船長Bellingham ●
ドレッドノート号
:船長Thomas Fenner
ガリシア
沖で嵐に遭遇。数日間続いて小型船1隻が沈没。
出会ったオランダ船が「カディス~リスボンの一帯で艦隊を絶賛準備中」と情報提供。
カディス
4月19日
夕暮れカディス湾(小さい湾)へ進入。 夜カディス市長から連絡を受けた
メディナ=シドニア公
が
サンルーカル
から到着。指揮権を引き継ぐ。 スペイン艦隊は邪魔されて出港不可。とりあえず海岸からの砲撃でイングランド艦隊の上陸は阻止。
4月29日 ~5月1日
29日夜カディス湾襲の撃を開始。1日夜明け撤退。 3日間で23~33隻のスペイン船を破壊、4隻の船を拿捕。
リスボン
5月中旬
サグレス、Baleeira、Beliche、サン・ヴィセンテ岬の要塞を襲撃、出会った輸送船&漁船も襲撃。
カスカイス
(リスボンの近所)でサンタ・クルズ侯爵
アルバロ・デ・バサン
に囚人交換を提案。 サンタ・クルズ侯爵はそういう状況を想定して無くて交渉決裂。 ってことでカディスからの追跡艦隊が来る前に退散。
アゾレス諸島
6月初め
副司令官ウィリアム・バロウズはテルセイラ島行きを危険&不必要と反対。 ってことでバロウズを解任&拘禁、その後イングランドへ送り返した。
6月8日
サンミゲル島近所でインド諸国帰りのポルトガル武装商船『the São Filipe号』を拿捕。 積荷は金、スパイス、絹(£108,000相当)。
イングランド
7月6日
イングランド帰国。 収益配分は女王50%、サー・フランシス10%、残り出資者。
※他にも水を補給したり、乗組員降ろしたり…いろいろありました。数字は資料によってびみょーに違います。
16世紀のカディス
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1572年より前
リスボン
リスボンは1255年からポルトガル(F&B時代は王フェリペ2世が統治中)の首都です。
ヨーロッパのハブ港で、アフリカやインドから運ばれたスパイス・奴隷・砂糖・織物…は全部リスボンに到着。
1588年5月28日スペイン艦隊アルマダはここから出航します。
wikipedia
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16世紀のリスボン
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1598年
+
ちょびっとだけど街はこんな感じ
リスボンは1755年
リスボン地震
で多くの建物が崩壊したので21世紀の街とはだいぶ違います。
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リスボン(1650年)
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リベイラ宮殿と通商院(
ブラガンサ王朝
時代)
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コルメシオ広場
(1650年)
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造船所(15世紀)
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港(1592年)
海軍本部ってどこにあるんですかー!?
海軍本部が何者でどこにあるのかぜーんぜん分かりませんでした。ポルトガル語オテアゲデスorz
とりあえずテージョ川沿いにある立派な建物は
通商院
と
食料庫
っぽい。
通商院はポルトガル植民地を統括する組織だし、造船所(The Ribeira das Naus shipyard)の隣にあるし…アヤシイ感じしませんか?
wikipedia(リスボンの地図)
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1598年
サン・ヴィセンテの塔(ベレンの塔)
サン・ヴィセンテの塔は16世紀ポルトガル王マヌエル1世がヴァスコ・ダ・ガマの世界一周を記念して作った要塞です。
テージョ川を出入りする船を監視。
wikipedia
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マドリード
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16世紀のマドリード
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マドリード王宮
F&B時代のマドリード王宮は、9世紀スペイン征服中のイスラム教徒ムーア人が要塞として建築したアルカサル城です。
1537年
王カルロス1世
(王フェリペ2世の父親)はここを王宮に改造。
王フェリペ2世は首都をマドリードに遷都して、アルカサル城を本格的な王宮に大改造してます。
wikipedia
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+
平面図
こちらは建築家
Juan Gómez de Mora
が1636年改造したアルカサル城です。
王の宮殿はムーア人が建築。王室礼拝堂はカスティーリャ王フアン2世が増築。女王の宮殿・王カルロス1世の塔・金色の塔は王カルロス1世と王フェリペ2世が増築。北のギャラリー・王のギャラリー・女王の塔は王フェリペ3世と王フェリペ4世が増築。
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デスカルサス・レアレス修道院
デスカルサス・レアレス修道院は1559年建築の
クララ童貞会
女子修道院。以前は王子フェリペ2世一家が暮らした宮殿がありました。
ポルトガル王家の嫁
フアナ・デ・アウストリア
(王フェリペ2世の妹)は夫が亡くなり、スペインに帰国して修道院を創設。
未亡人や未婚の貴族達に大人気。皆様の持参金も集まってヨーロッパの裕福な修道院の1つになります。
wikipedia
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マドリード周辺
うーん、アビラとパストラーナ城がとっても遠い…どっちかです。
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グアダラマ山脈
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東西南北をグアダラマ山脈で囲まれたエル・エスコリアル宮殿は
アバントス山
の麓にあります。
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山脈とエル・エスコリアル宮殿
エル・エスコリアル宮殿(正式名:エル・エスコリアル・サン・ロレンソ修道院)
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+
平面図
修道院は聖ロレンソ(鉄格子の上で火あぶり)にちなんで格子状に設計。
パティオ
があると通風や採光が良くなります。
建物は東京ドーム2.5個分(50坪の一戸建て:201軒、70平米のマンション:476戸)の広さで、部屋は300以上。
うーん、資料によって部屋の使い方がびみょーに違う。間取りの名称はアヤシイです。
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a.王フェリペ2世の宮殿(Palacio de Felipe II)
a1
王女
イサベル
の寝室と礼拝室
a2
パティオ(Patio de los Mascarones)
a3
謁見の間(Throne Room)
a4
王フェリペ2世の寝室と礼拝室
b.王族の居住区(後にブルボン家スペイン王の宮殿)
b1
警備室
b2
戦いの間(Sala de las Batallas)
b3
王の台所
c.大聖堂(Basilica)
c1
主祭壇と祭壇画(
El Retablo
) 地下:王家の霊廟
c2
聖具室
c3
上部:パイプオルガン
c4
告解室?(Sala de los Secretos)
c5
アトリウム(柱廊に囲まれた中庭)
c6
鐘楼
c7
待合室(Ante-room)
c8
諸王の中庭
d.修道院(El Monasterio)
d1
地下?:王族の霊廟
d2
福音伝導者の中庭(Patio de los Evangelistas)
d3
回廊(Galería de Convalecientes)
d4
修道士の集会所
d5
談話室?
d6
旧・教会
d7
修道士の中庭(Jardín de Frailes)
d8
クロークルーム
d9
病室
d10
台所
d11
食堂
e.神学校(al Real Colegio Alfonso XII)
e1
レクレーションルーム
e2
食堂
e3
台所
e4
教室
e5
寄宿舎
f.入り口
f1
2階:図書館(La Real Biblioteca)
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a.王フェリペ2世の宮殿
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b2.戦いの間
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c.大聖堂
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d.修道院
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f1.図書館
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庭
パストラーナ(訳はテキトー)
1569年王フェリペ2世の重臣エボリ大公
ルイ・ゴメス・デ・シルバ
(エボリ大公夫人の夫)がパストラーナを購入しました。
王フェリペ2世は感謝の印に「
パストラーナ公爵
」の爵位をプレゼント。
パストラーナは
公爵領
になります。1573年からRuy II Gómez de Silva y Mendoza(エボリ大公夫人の息子)の公爵領です。
wikipedia
+
パストラーナ城
パストラーナ城
は
ルネサンス建築
の要塞です。16世紀パストラーナ市壁(walls of Pastrana)の近くに建築されたんだって。
王フェリペ2世がエボリ大公夫人アナ・デ・メンドーサを幽閉したので有名。
東塔にあるエボリ大公夫人の幽閉部屋は別名「the Chamber of the Golden Grille:黄金格子の部屋 」と呼ばれてます。
~
Tourism in Spain
(Ducal Palace of Pastrana)さんより~
なんでエボリ大公夫人アナ・デ・メンドーサは幽閉されたの?
エボリ大公夫人の幽閉部屋
不審を抱いた王フェリペ2世は秘書官アントニオ・ペレスとエボリ大公夫人を逮捕します。
エボリ大公夫人は
Torremocha城
(マドリード)に幽閉。
1581年パストラーナ城に移されます。ちなみに元・秘書官アントニオは刑務所(マドリード)で絶賛拷問中。
鉄格子の窓とエントランス上のバルコニー
幽閉生活のエボリ大公夫人は1日1時間だけバルコニー(Plaza de la Hora)に出ることが許されます。
1590年元・秘書官アントニオが刑務所を脱獄。
王フェリペ2世の命令でエボリ大公夫人の部屋のドアと窓に鉄格子がセット。幽閉生活13年目の1592年死亡します。
アビラ
+
アビラの市壁
市壁の建築は1090年に始まったけど12世紀に大部分を再建築したっぽいです。11-14世紀の間に完成。
全長2,516m、平均幅3m、平均高さ12mの石の壁。
33基の
側防塔
(見張りの塔)と9基の
ゲート・タワー
(エントランスの塔)で壁を繋げてます。
アビラの聖ヴィセンテ教会
殉教者ヴィセンテはローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスに迫害されて、遺体は岩中に埋めらました。
1175年その上に教会を建築。
wikipedia
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聖ヴィセンテのお墓
ネーデルラント
ネーデルラント(Low Countries:低地の国々)は個別の国が集まった地域。21世紀のベルギー、オランダ、ルクセンブルクです。
F&B時代はスペインと北部7州(オランダ)で
八十年戦争
(1568–1648年)の真っ最中。
南部は
スペイン領ネーデルラント
。北部7州は1579年
ユトレヒト同盟
を結んでスペインに徹底抗戦してます。
wikipedia
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+
海の乞食団
海の乞食団は乞食党が作った私掠船集団。1569年リーダのオラニエ公
ウィレム1世
が有名な船乗りに
私掠免許
を交付しました。
スペインの船や街をビシバシ襲撃。イングランドやラ・ロシェル(フランス)も海の乞食団を応援。
襲撃されたスペインも
ダンケルク私掠船
(1577-1583年)で反撃してます。ちなみにサー・フランシス・ドレイク達は
海の犬
。
wikipedia
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Hendrick Cornelisz Vroom
画「スペインのガレー船に突っ込む海の乞食団」(1617年:オランダ)
アントウェルペン/アントワープ
アントウェルペンは16世紀前半に国際経済で繁栄した大都市です。
イングランド・ヴェネツィア・スペイン・ポルトガル・ユダヤ…多くの外国商人が住み、何百の船、何千の荷馬車が往来。
スペイン王フェリペ2世の統治によって街ボロボロ、経済ボロボロ。(カトリックを強制された貴族・プロテスタントが反乱→1568年八十年戦争→アントウェルペンは1585年降伏)
迫害されたプロテスタントは北部7州(オランダ)へ亡命、国際経済の繁栄も一緒に亡命。
wikipedia
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16世紀
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1598年
※ものすごーくお世話になったサイト。詳細はこちらをご覧下さい。
最終更新:2017年05月29日 19:21