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【キリスト教】ユダと聖人 - (2015/10/09 (金) 18:21:09) のソース

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※聖人は拷問された人が多いです。拷問系が苦手な方はアッチコッチに残酷な画があるのでご注意下さい。

*十二使徒(The twelve apostles)

使徒はイエス・キリストの教え(福音)を広める宣教者。十二使徒はイエスが選んだ12人の使徒です。
イスカリオテのユダは12番目の使徒。
でもイエスを裏切って十二使徒から除外されちゃいました。ユダの欠員補充にマティアを12番目の使徒にする場合もあり。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Apostle_(Christian)]]

|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[ペトロ(ペテロ)>https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Peter]]|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ペトロの兄弟[[アンデレ>https://en.wikipedia.org/wiki/Andrew_the_Apostle]]|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:大ヤコブ[[ゼベダイの子ヤコブ>https://en.wikipedia.org/wiki/James,_son_of_Zebedee]]|
|&ref(十二使徒(ペトロ).JPG)|&ref(十二使徒(アンデレ).JPG)|&ref(十二使徒(ゼベダイの子ヤコブ).JPG)|
|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:大ヤコブの兄弟[[ヨハネ>https://en.wikipedia.org/wiki/John_the_Apostle]]|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[フィリポ>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_the_Apostle]]|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[バルトロマイ>https://en.wikipedia.org/wiki/Bartholomew_the_Apostle]]|
|&ref(十二使徒(ヨハネ).JPG)|&ref(十二使徒(フィリポ).JPG)|&ref(十二使徒(バルトロマイ).JPG)|
|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[トマス>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_the_Apostle]]|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[マタイ>https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_the_Apostle]]|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:小ヤコブ[[アルファイの子ヤコブ>https://en.wikipedia.org/wiki/James,_son_of_Alphaeus]]|
|&ref(十二使徒(トマス).JPG)|&ref(十二使徒(マタイ).JPG)|&ref(十二使徒(アルファイの子ヤコブ).JPG)|
|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[タダイ>https://en.wikipedia.org/wiki/Jude_the_Apostle]]|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[熱心党のシモン>https://en.wikipedia.org/wiki/Simon_the_Zealot]]|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ユダの欠員補充[[マティア>https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Matthias]]|
|&ref(十二使徒(タダイ).JPG)|&ref(十二使徒(熱心党のシモン).JPG)|&ref(十二使徒(マティア).JPG)|

こちらは[[Jacob de Gheyn II>https://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_de_Gheyn_II]]画「Christ, the Apostles, and Saint Paul」(1596年:ネーデルラント)です。
ユダは描いてナイっぽい。
皆さんの持ち物は聖人の生涯、職業、使命を現すシンボル[[アトリビュート>https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_symbolism]](attribute)。1人で複数、他の人と重複してます。


**12番目の使徒ユダ

イスカリオテのユダはイエスを裏切って自殺した12番目の使徒です。裏切った動機は[[新約聖書>https://en.wikipedia.org/wiki/New_Testament]]の中では明記されてません。
うーん、重要じゃないの?
皆さん「イエスに失望」「お金が欲しかった」「実は神の使わした者」…と推測。自殺も「首つり」「飛び降り」…統一してないです。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Judas_Iscariot]]

&ref(十二使徒_ユダ.JPG)[[マールテン・ド・フォス>https://en.wikipedia.org/wiki/Marten_de_Vos]]画「最後の晩餐」

#region(close,ユダの超ざっくりなお話)

最後の晩餐の場所は新約聖書の中に明記されてません。
とりあえず[[マルコによる福音書>https://en.wikipedia.org/wiki/Gospel_of_Mark]]の記述から推測して「シオン山にある家の[[The Upper Room>https://en.wikipedia.org/wiki/Cenacle]]」ってことになってるらしい。
[[聖マルコ教会>https://en.wikipedia.org/wiki/St._Mark%E2%80%99s_Monastery,_Jerusalem]]が建てられた場所も候補地の1つです。
&italic(){&color(silver){そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。 ~マルコによる福音書第14章13-16~}}

&ref(十二使徒_ユダ(お話し).JPG)
左側:新約聖書の地図[[エルサレム>https://en.wikipedia.org/wiki/Jerusalem]]
右側:イエスに接吻するユダ([[Altlerchenfelder church>https://de.wikipedia.org/wiki/Altlerchenfelder_Pfarrkirche]]の回廊)

+ユダは役人達の所へ行き「イエスを引き渡しまっせ」と約束。役人は「んじゃ、お礼に銀貨三十枚あげます」と約束。
+最後の晩餐。イエスは食事中に「この中の一人が裏切る」と予告。ユダはシラをきる。
+食べ終わった一同は[[ゲッセマネの園>https://en.wikipedia.org/wiki/Gethsemane]]に行ってお祈り。
+そこにユダが役人を引き連れて登場。ユダはイエスに接吻、これは「この人がイエス」の合図。イエスは逮捕される。
+罪悪感にさいなまれたユダは「俺はなんてコトしたんだぁ!罪のない人を売ってしまったぁ!」と出頭。役人に「そんなの知らん。自己責任でしょ?」とスルーされて、銀貨三十枚を神殿に投げ入れて首つり自殺。
+イエスは裁判で死刑宣告。翌朝[[ゴルゴタの丘>https://en.wikipedia.org/wiki/Calvary]]で磔刑される。

#endregion

#region(close,ユダの赤髪)

[[最後の晩餐>https://en.wikipedia.org/wiki/Last_Supper]]は大勢の画家が描いてます。ユダの邪悪や裏切りの象徴は「頭に光冠がない」「黄色の服を着てる」「猫と一緒」…。
「[[赤髪>https://en.wikipedia.org/wiki/Red_hair]]」もその1つ。
理由は分からなかったげど、全世界的に最も珍しい髪の色なんだそうです。

&ref(十二使徒_ユダ(赤髪:Joan de Joanes).JPG)[[Joan de Joanes>https://en.wikipedia.org/wiki/Vicente_Juan_Masip]]画「The Last Supper」(1562年)

&ref(十二使徒_ユダ(赤髪:Domenico Ghirlandaio).JPG)[[ドメニコ・ギルランダイオ>https://en.wikipedia.org/wiki/Domenico_Ghirlandaio]]画「[[最後の晩餐>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Last_Supper_(Ghirlandaio)]]」(1486年頃:[[Couvent San Marco>https://fr.wikipedia.org/wiki/Couvent_San_Marco]])

&ref(十二使徒_ユダ(赤髪:Moulins Cathedral).JPG)[[Moulins Cathedral>https://en.wikipedia.org/wiki/Moulins_Cathedral]]

#blockquote(){&u(){&bold(){ちなみにイエスにベタベタしてるのは使徒ヨハネ}}

著者不明「[[ヨハネによる福音書>https://en.wikipedia.org/wiki/Gospel_of_John]]」には「イエスの愛しておられた弟子」が登場します。具体的なお名前が明記されてない。
とりあえず世間一般的にこの弟子はヨハネで認知。
著者はたぶんキリスト教ヨハネ派の誰かだから「ヨハネage=イエスの愛しておられた弟子」ってコトらしいです。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Disciple_whom_Jesus_loved]]

&ref(十二使徒_ユダ(赤髪_ベタベタ).JPG)[[レオナルド・ダ・ヴィンチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Leonardo_da_Vinci]]画「[[最後の晩餐>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Last_Supper_(Leonardo_da_Vinci)]]」(1494–1499年)

&italic(){&color(silver){イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロ(=ペトロ)は彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。 ~ヨハネによる福音書第13章21-26~}}

&ref(十二使徒_ユダ(赤髪_ベタベタ2).JPG)[[Giacomo Raffaelli>https://en.wikipedia.org/wiki/Giacomo_Raffaelli]]によるコピー

ちなみにレオナルド・ダ・ヴィンチは裏切り者ユダを他の使徒達と区別しないで平等に描いてます。そーゆー画もあるのね。
区別は銀貨の入った銭袋を握ってるくらい。
ユダだけ顔に陰が入ってるらしいけど分かりませんでした。倒れてるのは塩壺、灰皿みたいのはフィンガーボウル。
}

#endregion

#region(close,なんで猫が邪悪なの!?)

実は聖書に猫が登場するのは[[エレミヤの手紙>https://en.wikipedia.org/wiki/Letter_of_Jeremiah]]の1回だけです。猫は悪いコトなんてぜーんぜんしてないモブキャラ。
でも「最後の晩餐」で猫は不義と悪の象徴としてご使用。
どうして邪悪になっちゃったんでしょね? ってことで、猫がらみのお話しをちょびっと調べてみました。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_animals_in_the_Bible]]

&ref(十二使徒_ユダ(猫).JPG)ドメニコ・ギルランダイオ画「最後の晩餐」

&italic(){&color(silver){祭司たちは必要以上にともし火をともしますが、神々の像はそのともし火一つ見ることができないのです。神々の像は、あたかも神殿の梁のようなもので、よく言われるように、その内部は虫に食われています。地からわいた虫が体や衣をかじっても、何も 感じません。その顔は神殿に漂う煙で黒ずんでいます。その体や頭の上を、こうもりやつばめ、小鳥が飛び交い、猫までやって来ます。このようなことで、それらの像が神でないことは分かるはずですから、恐れてはなりません。 ~エレミヤの手紙第1章18-22~}}

#blockquote(){&u(){&bold(){魔女と猫}}

魔女は占い、おまじない、民間療法(イングランドの[[カニングフォーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Cunning_folk]]とか)など[[魔女術>https://en.wikipedia.org/wiki/Witchcraft]]を使う人達です。
15-18世紀に「悪魔の崇拝者」としてビシバシ[[魔女狩り>https://en.wikipedia.org/wiki/Witch-hunt]]。
イギリスの魔女狩りは1735年[[Witchcraft Act of 1735>https://en.wikipedia.org/wiki/Witchcraft_Act_1735]]で終了。でも18世紀後半までポツポツと魔女狩りが続きました。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Witch_trials_in_the_early_modern_period]]

&ref(十二使徒_ユダ(猫_魔女と猫).JPG)[[Jan Mandijn>https://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Mandijn]]画「The Witches Cove」(16世紀:ネーデルラント)

ヨーロッパの[[民間伝承>https://en.wikipedia.org/wiki/Folklore]]で猫([[黒猫>https://en.wikipedia.org/wiki/Black_cat]])は人間に変身してスパイする魔女や[[デーモン>https://en.wikipedia.org/wiki/Demon]]の[[使い魔>https://en.wikipedia.org/wiki/Familiar_spirit]]として登場します。
例えば[[ケルト神話>https://en.wikipedia.org/wiki/Celtic_mythology]]では魔女が猫[[ケット・シー>https://en.wikipedia.org/wiki/Cat_s%C3%ACth]]に変身。
[[ヴァイキング>https://en.wikipedia.org/wiki/Vikings]]みたいに「ネズミ取り」として大切にする場合もあるけど、どちらかと言えば「凶悪」「不運」シンボルです。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Cultural_depictions_of_cats]]

&ref(十二使徒_ユダ(猫_魔女と猫2).JPG)修道女と[[スピンドル>https://en.wikipedia.org/wiki/Spindle_(textiles)]]で遊ぶペットの猫(14世紀:[[Stowe MS 17>https://en.wikipedia.org/wiki/Stowe_manuscripts]])

[[ウイリアム・ボールドウィン>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Baldwin_(author)]]著「[[猫にご用心>https://en.wikipedia.org/wiki/Beware_the_Cat]]」(1561年:イングランド)には魔女と猫の一節があります。
&italic(){&color(silver){that a Cat hath nine lives, that is to say, a witch may take on her a Cats body nine times.}}
&italic(){&color(silver){猫には9つの命がある、すなわち魔女はその猫の体を9回使うことが許されるのだ。}}
この本は初期の猫ホラー短編小説。実はカトリック教会への批判をほのめかしてる小説だそうです。
}

#blockquote(){&u(){&bold(){猫を敵認定したキリスト教会}}

一部の歴史家によると最初に[[黒猫>https://en.wikipedia.org/wiki/Black_cat]]を非難したのは13世紀ローマ教皇[[グレゴリウス9世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Gregory_IX]]の教皇勅書[[Vox in Rama>https://en.wikipedia.org/wiki/Vox_in_Rama]]です。
黒猫はサタンの化身であーる!
19世紀前半まで黒猫は処刑されまくって激減。この激減が14世紀[[黒死病>https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Death]]の悪化の一因になったかもしれないそうです。

&ref(十二使徒_ユダ(猫_敵認定).JPG)[[Giorgio Vasari>https://en.wikipedia.org/wiki/Giorgio_Vasari]]画「Gregoire IX excommuniant Frederic II」(?年:[[バチカン宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Apostolic_Palace]])

ちなみにローマ教皇グレゴリウス9世は「やりたい放題の異端審問」を「キッチリ裁判する異端審問」に改革してます。
異端審問官は大学で神学や法律を学んだ[[ドミニコ会>https://en.wikipedia.org/wiki/Dominican_Order]]か[[フランシスコ会>https://en.wikipedia.org/wiki/Franciscan]]の修道士。
魔女も異常気象、不作、大飢饉、パンデミック…になると異端審問(魔女狩り)の対象になっちゃいます。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Inquisition]]
}

#endregion


**ついでに北欧神話のロキ

ロキは北欧神話(キリスト教とはまったく関係ない神様達のお話し)に登場する美形の神様です。
邪悪な気質で気が変わりやすく狡猾さでは誰にも引けを取らない。いつも嘘をつく。

[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Loki]]

&ref(北欧神話のロキ.JPG)Arthur Rackham画「Loki and the Rhinemaidens」

#region(close,ロキの超ざっくりなお話)

&ref(北欧神話のロキ(北欧神話).JPG)[[Peter Nicolai Arbo>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Nicolai_Arbo]]画「Åsgårdsreien:a Norse version of [[Wild Hunt>https://en.wikipedia.org/wiki/Wild_Hunt]]」(1872年)

むかし、むかし、天界に神族と巨人族が住んでました。

神族と巨人族のハーフ&bold(){ロキ}は、神族で一番エラい&bold(){神様オーディン}に気に入られて神族の国に住んでいました。
厄介ごとも起こすけど、自慢の知恵で神様達を助けたり良いコトもやってました。子供もたくさん作りました。なんか雌馬に変身して馬も産んだみたいです。

ある日、神族の国では神族のアイドル&bold(){神様バルドル}に色んなものを投げつけるゲームが流行ってました。
石も包丁もアレコレが「彼を怪我させない」と約束してたからです。弱点を見つけた&bold(){ロキ}は、仲間はずれの&bold(){神様ヘズ}をそそのかして&bold(){バルドル}を殺させました。

それを自慢しちゃった&bold(){ロキ}は、ついでに神様達の恥ずかしい過去も暴露して洞穴に幽閉されました。
洞穴での日々はとても苦しいものでした。巨大な岩に&bold(){息子ナリ}の腸で縛られ、上から蛇の毒が落ちてくるのです。毒が頭にあたると、あまりの苦痛に絶叫しました。絶叫で地上が揺れました。

その頃、洞穴の外は極寒異常気象に突入していました。世界終末の日[[ラグナロク>https://en.wikipedia.org/wiki/Ragnar%C3%B6k]]が近づいていたのです。
なんかよく分からないけど&bold(){ロキ}は幽閉から抜け出せました。ご立腹の&bold(){ロキ}は巨人族を率いて神族を滅ぼすために出陣しました。そして宿敵&bold(){神様ヘイムダル}と相打ちに倒れました。

神族も巨人族も大勢死んで世界が滅亡。
その後、神様達の息子(若い世代の神様達)が中心となって新しい世界が始まります。

#endregion


*ヨナ書のヨナ

ヨナは旧約聖書[[ヨナ書>http://en.wikipedia.org/wiki/Book_of_Jonah]]に登場する[[ガテヘペル>http://en.wikipedia.org/wiki/Gath-hepher]](イスラエル)出身の預言者です。お父さんは[[アミッタイ>>http://en.wikipedia.org/wiki/Amittai]]。
列王記下14章23-25節の「預言者ヨナが『イスラエルの土地が回復する』って言ってた。そのとーりになった」にも登場。
作者不明のヨナ書はたぶん紀元前5世紀後半~4世紀前半に書かれたものです。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Jonah]]

&ref(ヨナ書のヨナ.JPG)[[カンタベリー大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Canterbury_Cathedral]]「The Corona Redemption Window」

ヨナ書の中では「神様から逃げたヨナがクジ引きに当選して嵐の海へドッボーン。クジラがパクッ」ってトコが有名です。
[[カルロ・コッローディ>https://en.wikipedia.org/wiki/Carlo_Collodi]]著[[ピノッキオの冒険>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Adventures_of_Pinocchio]](1883年)は関係あるのかなぁ?
作者死亡のため真相は不明。ちょびっと調べてみたらベスト回答は「おそらく関係あるでしょう」だそうです。

#region(close,ヨナ書1章)

[[イスラエル王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Israel_(Samaria)]](紀元前930年イスラエル王国と[[ユダ王国>ユダ王国]]に分裂)は紀元前720年[[アッシリア帝国>https://en.wikipedia.org/wiki/Neo-Assyrian_Empire]]に滅ぼされました。
ってことで、ヨナは敵地[[ニネベ>http://en.wikipedia.org/wiki/Nineveh]](アッシリア帝国の首都)へ行くのがイヤなの。
[[タルシシ>http://en.wikipedia.org/wiki/Tarshish]]は解明されてない謎の地。[[タルテッソス>https://en.wikipedia.org/wiki/Tartessos]](スペインのアンダルシア州)じゃないかって解釈する人もいます。

&ref(ヨナ書のヨナ(第1章).JPG)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Map of the Assyrian Empire, 750-625 BC」

+主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、
+「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。
+しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立って[[ヨッパ>http://en.wikipedia.org/wiki/Jaffa]]に下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。
+時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。
+それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。
+そこで船長は来て、彼に言った、「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」。
+やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。
+そこで人々はヨナに言った、「この災がだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」。
+ヨナは彼らに言った、「わたしは[[ヘブルびと>http://en.wikipedia.org/wiki/Jews]]です。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。
+そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。
+人々は彼に言った、「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」。それは海がますます荒れてきたからである。
+ヨナは彼らに言った、「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」。
+しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。
+そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。
+&bold(){そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。}すると海の荒れるのがやんだ。
+そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。
+主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。

#endregion

#region(close,ヨナ書2章)

&ref(ヨナ書のヨナ(第2章).JPG)クジラからオエッと吐き出されたヨナ([[Pieter Lastman>https://en.wikipedia.org/wiki/Pieter_Lastman]]画「Jonah and the Whale」)

+ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、
+言った、「&bold(){わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。}&bold(){わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。}
+あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。
+わたしは言った、『&bold(){わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか}』。
+水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。
+わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。&bold(){しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。}
+&bold(){わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。}
+むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。
+しかし&bold(){わたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある}」。
+主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。

#endregion

#region(close,ヨナ書3章)

&ref(ヨナ書のヨナ(第3章).JPG)ニネベで神様の言葉を伝えるヨナ([[Gustave Doré>https://no.wikipedia.org/wiki/Gustave_Dor%C3%A9]]画「Jonah Preaches to the Ninevites」)

+時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、
+「立って、あの大きな町[[ニネベ>https://no.wikipedia.org/wiki/Ninive]]に行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
+そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。
+ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
+そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。
+このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。
+また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。
+人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
+あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。
+神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

#endregion

#region(close,ヨナ書4章)

&ref(ヨナ書のヨナ(第4章).JPG)神様にトウゴマ(ひょうたん)を枯らされたヨナ(Caspar Luiken著「Historiae Celebriores Veteris Testamenti Iconibus Repræsentatæ Et Ad excitandas bonas meditationes selectis Epigrammatibus exornatæ」)

+ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、
+主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。
+それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。
+主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。
+そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。
+時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
+ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
+やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
+しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
+主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
+ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

#endregion


*列王記のエリシャ

エリシャは旧約聖書[[列王記>http://en.wikipedia.org/wiki/Books_of_Kings]]に登場する[[アベルメホラ>http://en.wikipedia.org/wiki/Abel-meholah]](ヨルダン川の近くにあった村)出身の預言者です。お父さんはシャパテ。
子供に「はげ頭」と呼ばれたせいかハゲの画が多い?
いっぱい奇跡を起こして人助けしてます。イスラエル王[[ヨアシュ>http://en.wikipedia.org/wiki/Jehoash_of_Israel]]は不治の病にかかったエリシャに「わが父よ…」と涙を流してます。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Elisha]]

&ref(列王記のエリシャ.JPG)Frederic Leighton画「Elisha Raising the Son of the Shunamite」(1881年)

#region(close,列王記下4章(子供のお話なのでご注意ください))

&ref(列王記のエリシャ(列王記下4章:8節).JPG)Jan Pynas画「Elisha and the Shunammite woman」(1600-1635年)

8.ある日&bold(){エリシャ}は[[シュネム>http://en.wikipedia.org/wiki/Shunem]]へ行ったが、そこにひとりの裕福な婦人がいて、しきりに彼に食事をすすめたので、彼はそこを通るごとに、そこに寄って食事をした。
9.その女は夫に言った、「いつもわたしたちの所を通るあの人は確かに神の聖なる人です。
10.わたしたちは屋上に壁のある一つの小さいへやを造り、そこに寝台と机といすと燭台とを彼のために備えましょう。そうすれば彼がわたしたちの所に来るとき、そこに、はいることができます」。
 
11.さて、ある日&bold(){エリシャ}はそこにきて、そのへやにはいり、そこに休んだが、
12.彼はそのしもべ[[ゲハジ>http://en.wikipedia.org/wiki/Gehazi]]に「このシュネムの女を呼んできなさい」と言った。彼がその女を呼ぶと、彼女はきて&bold(){エリシャ}の前に立ったので、
13.&bold(){エリシャ}は&bold(){ゲハジ}に言った、「彼女に言いなさい、『あなたはこんなにねんごろに、わたしたちのために心を用いられたが、あなたのためには何をしたらよいでしょうか。王または軍勢の長にあなたの事をよろしく頼むことをお望みですか』」。彼女は答えて言った、「わたしは自分の民のうちに住んでいます」。
14.&bold(){エリシャ}は言った、「それでは彼女のために何をしようか」。&bold(){ゲハジ}は言った、「彼女には子供がなく、その夫は老いています」。
15.すると&bold(){エリシャ}が「彼女を呼びなさい」と言ったので、彼女を呼ぶと、来て戸口に立った。
16.&bold(){エリシャ}は言った、「来年の今ごろ、あなたはひとりの子を抱くでしょう」。彼女は言った、「いいえ、わが主よ、神の人よ、はしためを欺かないでください」。
17.しかし女はついに身ごもって、&bold(){エリシャ}が彼女に言ったように、次の年のそのころに子を産んだ。

&ref(列王記のエリシャ(列王記下4章:18節).JPG)[[Gerbrand van den Eeckhout>http://en.wikipedia.org/wiki/Gerbrand_van_den_Eeckhout]]作「The Prophet Elisha and the Woman of Shunem」(1664年)
 
18.その子が成長して、ある日、刈入れびとの所へ出ていって、父のもとへ行ったが、
19.父にむかって「頭が、頭が」と言ったので、父はしもべに「彼を母のもとへ背負っていきなさい」と言った。
20.彼を背負って母のもとへ行くと、昼まで母のひざの上にすわっていたが、ついに死んだ。
21.母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
22.そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
23.夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。
24.そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。

25.こうして彼女は出発して[[カルメル山>http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Carmel]]へ行き、神の人の所へ行った。神の人は彼女の近づいてくるのを見て、しもべ&bold(){ゲハジ}に言った、「向こうから、あのシュネムの女が来る。
26.すぐ走って行って、彼女を迎えて言いなさい、『あなたは無事ですか。あなたの夫は無事ですか。あなたの子供は無事ですか』」。彼女は答えた、「無事です」。
27.ところが彼女は山にきて、神の人の所へくると&bold(){エリシャ}の足にすがりついた。&bold(){ゲハジ}が彼女を追いのけようと近よった時、神の人は言った、「かまわずにおきなさい。彼女は心に苦しみがあるのだから。主はそれを隠して、まだわたしにお告げにならないのだ」。
28.そこで彼女は言った、「わたしがあなたに子を求めましたか。わたしを欺かないでくださいと言ったではありませんか」。
29.&bold(){エリシャ}は&bold(){ゲハジ}に言った、「腰をひきからげ、わたしのつえを手に持って行きなさい。だれに会っても、あいさつしてはならない。またあなたにあいさつする者があっても、それに答えてはならない。わたしのつえを子供の顔の上に置きなさい」。
30.子供の母は言った、「主は生きておられます。あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そこで&bold(){エリシャ}はついに立ちあがって彼女のあとについて行った。
31.&bold(){ゲハジ}は彼らの先に行って、つえを子供の顔の上に置いたが、なんの声もなく、生きかえったしるしもなかったので、帰ってきて&bold(){エリシャ}に会い、彼に告げて「子供はまだ目をさましません」と言った。

&ref(列王記のエリシャ(列王記下4章:32節).JPG)[[Benjamin West>https://en.wikipedia.org/wiki/Benjamin_West]]画「Elisha Raising the Shunammite’s Son」(1765年)
 
32.&bold(){エリシャ}が家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
33.彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
34.&bold(){そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。}
35.こうして&bold(){エリシャ}は再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。
36.&bold(){エリシャ}はただちに&bold(){ゲハジ}を呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくると&bold(){エリシャ}は言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
37.彼女ははいってきて、&bold(){エリシャ}の足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。 

#endregion


*聖人

キリスト教では「神様=崇拝(拝む)」「聖人=崇敬(うやまう)」です。カトリック教会の聖人は[[殉教>http://en.wikipedia.org/wiki/Martyr]]や[[奇跡>http://en.wikipedia.org/wiki/Miracle]]を起こした信者達。
各地の司教が推薦してローマ教皇庁が調査。
信仰の模範にふさわしいと認定されたらローマ教皇が[[列聖>http://en.wikipedia.org/wiki/Canonization]](信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位にあげる)を宣言します。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_saints]]

&ref(聖人.JPG)宣教師フランシスコ・ザビエル

英国国教会が追加した聖人はピューリタン革命で処刑されたイングランド王[[チャールズ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_I_of_England]]だけです。
だれが列聖を宣言したんでしょ?
ちなみに戦国時代の日本にやって来た宣教師[[フランシスコ・ザビエル>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Xavier]]も日本のカトリック限定守護聖人です。

#region(close,カトリック教会の聖人への道のり)

[[列聖>https://en.wikipedia.org/wiki/Canonization]]は[[ローマ教皇庁>https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Curia]](バチカン)の[[列聖省>https://en.wikipedia.org/wiki/Congregation_for_the_Causes_of_Saints]]が調査して認定します。列聖省は1969年ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_John_Paul_II]]が設立。
認定されるまでのステップは4段階。
F&B時代は1588年ローマ教皇[[シクストゥス5世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Sixtus_V]]が設立した[[礼部聖省>https://en.wikipedia.org/wiki/Sacred_Congregation_of_Rites]]が認定してます。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Congregation_for_the_Causes_of_Saints]]

|BGCOLOR(lightgrey):1|[[神の僕>https://en.wikipedia.org/wiki/Servant_of_God]]&br()英語:Servant of God&br()スペイン語:Siervo de Dios|列聖省の調査対象になった人&br()・亡くなったAさんを「立派な信者でした」と思ったら列聖省に調査を申請します。&br()・教区の司教はAさんの生涯を調査。列聖省は司教が提出した書類をチェックします。&br()・列聖省が「Aさんは&bold(){列福に値する}」と判断したら「神の僕」として更に調査します。|
|BGCOLOR(lightgrey):2|[[尊者>https://en.wikipedia.org/wiki/Venerable]]&br()英語:Venerable&br()スペイン語:Venerable|列聖省が「生涯が英雄的、福音的な生き方」と認定した人&br()・綿密な調査で列聖省が「Aさんは尊者に値する」と判断したら「尊者」を宣言します。|
|BGCOLOR(lightgrey):3.[[列福>https://en.wikipedia.org/wiki/Beatification]]|[[福者>https://es.wikipedia.org/wiki/Beato]]&br()英語:Blessed&br()スペイン語:Beato|列聖省が「徳ある行為あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられる」と認定した人&br()・Aさんは生前に奇跡を起こしてなくちゃいけません。&br()・Aさんが殉教の場合は奇跡を起こしてなくてもオケです。&br()・調査は通常Aさんの死後5年経ってから始めます。|
|BGCOLOR(lightgrey):4.[[列聖>https://en.wikipedia.org/wiki/Canonization]]|[[聖人>https://en.wikipedia.org/wiki/Saint]]&br()英語:Saint&br()スペイン語:Santo|列聖省が「生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行」と認定した人&br()・列福後もAさんは奇跡を起こしてなくちゃいけません。&br()・調査は通常Aさんの死後5年経ってから始めます。|

#blockquote(){&u(){&bold(){列福と列聖の認定}}

列福や列聖の認定には調査委員会の厳密な調査、専門委員会(列聖省)や枢機卿委員会の承認で数十年~数百年かかります。
最後にローマ教皇が「列福の教令/列聖の教令」へ署名。
Aさんは「尊者から福者/福者から聖者」にランクアップします。列聖式は[[サン・ピエトロ大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/St._Peter%27s_Basilica]]で盛大にお祝い。

&ref(聖人(道のり).JPG)
左側:[[ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の列福式>https://en.wikipedia.org/wiki/Beatification_of_Pope_John_Paul_II]](2011年5月1日)
左側:[[ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とヨハネ23世の列聖式>https://en.wikipedia.org/wiki/Canonization_of_Pope_John_XXIII_and_Pope_John_Paul_II]](2014年4月27日)

大量に「列聖の教令」へ署名したのはローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_John_Paul_II]](在位:1978-2005年)の483名です。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も死後は聖者。
死後1ヶ月で調査を開始して死後9年25日で列聖されました。ちなみに2002年[[カトリック教会の性的虐待事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Catholic_Church_sexual_abuse_cases]]が発覚。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_canonizations]]

&ref(聖人(道のり2).JPG)ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と福者[[マザー・テレサ>https://en.wikipedia.org/wiki/Mother_Teresa]](1986年)

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が起こした奇跡は
・パーキンソン病のフランスの修道女Marie Simon Pierreさんが奇跡的に治癒→列福に認定
・2011年5月1日脳動脈瘤のコスタリカ出身の女性Floribeth Mora Diazさんが奇跡的に回復→列聖に認定
}

#blockquote(){&u(){&bold(){Pre-Congregation}}

初期のキリスト教~11世紀の列福や列聖は地元の司教、[[首座主教>https://en.wikipedia.org/wiki/Primate_(bishop)]]、[[総主教>https://en.wikipedia.org/wiki/Patriarch]]が認定してます(Pre-Congregation)。
11世紀末になるとバチカンの議会で認定に変更。
ローマ教皇が列福や列聖の認定権限を限定化したっぽいです。1588年からは専門部署[[礼部聖省>https://en.wikipedia.org/wiki/Sacred_Congregation_of_Rites]]が認定。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Pre-congregational_saint]]

&ref(聖人(道のり:Pre-Congregation).JPG)聖人の没年

年代毎の福者と聖者はこちら[[Chronological list of saints and blesseds>https://en.wikipedia.org/wiki/Chronological_list_of_saints_and_blesseds]]をどうぞ。
すごい大勢いるのね。
リストは450年以前は[[List of early Christian saints>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_early_Christian_saints]]。450年以降は[[List of saints>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_saints]]で見れます。
}

#endregion

#region(close,聖人を忘れないための祝日)

聖人にはそれぞれの「Feast:祝日」があって皆さん盛大にお祝いします。祝日はカレンダー[[聖人暦>https://en.wikipedia.org/wiki/Calendar_of_saints]]に登録。
んが、2000年もたてば祝日だらけ…。
カトリック教会は[[第2バチカン公会議>https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Vatican_Council]](1962-1965年)で実在がはっきりしない聖人を聖人暦からリストラしました。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/General_Roman_Calendar]](カトリック教会の聖人暦)
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Calendar_of_saints_%28Church_of_England%29]](英国国教会の聖人暦)

&ref(聖人(聖名祝日).JPG)バレンタインデーの聖ウァレンティヌス([[聖プラッセーデ聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Santa_Prassede]]:ローマ)

なんと![[聖ウァレンティヌス>http://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Valentine]](聖人暦:2月14日)も正体不明で1969年カトリック教会の聖人暦から削除されちゃってます。
リストラされた聖人達は[[諸聖人の日>http://en.wikipedia.org/wiki/All_Saints%27_Day]]でまとめてお祝い。
ローカル聖人暦でお祝いもオケ。ちなみに[[聖サンタ・マリア・イン・コスメディン教会>https://en.wikipedia.org/wiki/Santa_Maria_in_Cosmedin]]に聖ウァレンティヌスの頭蓋骨があります。

#endregion


**聖ヤコブ…英語:James, son of Zebedee、スペイン語:Santiago de Zebedeo(????-44年頃)

聖ヤコブは十二使徒の1番目の使徒ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)です。イエスの死後はエルサレムで布教活動。
ローマ帝国ユダヤ属州の統治者[[アグリッパ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Herod_Agrippa]]に捕らえて斬首。
遺体はなんやかんやでスペインに到着。ってことで、聖ヤコブはスペインの[[守護聖人>https://en.wikipedia.org/wiki/Patron_saint]]になります♥
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/James,_son_of_Zebedee]]

|&ref(十二使徒(ゼベダイの子ヤコブ).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):出身地|ガリラヤの[[ベツサイダ>https://en.wikipedia.org/wiki/Bethsaida]]|
|~|BGCOLOR(lightgrey):列聖|Pre-Congregation|
|~|BGCOLOR(lightgrey):崇敬|全てのキリスト教|
|~|BGCOLOR(lightgrey):有名な聖堂|[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Santiago_de_Compostela_Cathedral]](スペイン)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):祝日|7月25日|
|~|BGCOLOR(lightgrey):守護聖人|スペイン、グアテマラ、…&br()馬術、毛皮商人、獣医師、薬剤師、…|
|~|BGCOLOR(lightgrey):アトリビュート|ホタテ貝殻、鍵、剣、[[巡礼者の帽子>https://en.wikipedia.org/wiki/Pilgrim%27s_hat]]、[[巡礼者の杖>https://en.wikipedia.org/wiki/Pilgrim%27s_staff]]、[[聖ヤコブの十字架>https://en.wikipedia.org/wiki/Cross_of_Saint_James]]、…|

英語名「James」はギリシャ語:Ἰάκωβος→ラテン語:Iacobus(Jacob)→イタリア語:Giacomo→フランス語:Jacquesが由来です。
スペイン語「Santiago」は聖人の接頭辞Sant(聖)。
あとSantiagoの「Tiago」は「Diego」とも書きます。F&Bに登場する[[ディエゴ・デ・バルデス>https://pl.wikipedia.org/wiki/Diego_Flores_de_Valdez]]のディエゴもコレなのかなあ?

#region(close,スペインと聖ヤコブ)

スペインの古い言い伝えでは、聖ヤコブはイベリア半島で布教活動。でも数人が改宗しただけでちっとも上手くいきません。
西暦40年1月2日[[エブロ川>https://en.wikipedia.org/wiki/Ebro]]([[サラゴサ>https://en.wikipedia.org/wiki/Zaragoza]])の岸辺に聖母マリアが降臨([[ピラールの聖母>https://en.wikipedia.org/wiki/Our_Lady_of_the_Pillar]])。
聖母マリアに「いずれ皆さんこの[[ピラール>https://en.wikipedia.org/wiki/Column]]くらい固く信じるからへーきへーき」と言われた聖ヤコブはユダヤに戻ります。

&ref(聖人_聖ヤコブ(スペイン).JPG)
左側:たぶん「ピラールの聖母」(17世紀)
右側:[[Francisco Ribalta>https://en.wikipedia.org/wiki/Francisco_Ribalta]]画「The Discovery of the Body of Saint James」(1603年)

戻った聖ヤコブは統治者アグリッパ1世に捕らえて斬首されます。聖ヤコブの遺体は弟子達が船でイベリア半島へ。
[[パドロン>https://en.wikipedia.org/wiki/Padr%C3%B3n]]([[ガリシア>https://en.wikipedia.org/wiki/Galicia_(Spain)]])に到着して[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ>https://en.wikipedia.org/wiki/Santiago_de_Compostela]]に埋葬。
聖ヤコブの遺体は天使が舵の付いてない船に乗せて[[イリア・フラビア>https://en.wikipedia.org/wiki/Iria_Flavia]](ガリシア)に漂着ってパターンもあります。

#blockquote(){&u(){&bold(){なんでホタテ貝殻がアトリビュートなの?}}

神話によると聖ヤコブとホタテ貝殻の関係はこんな感じです。
・聖ヤコブの遺体を運ぶ弟子達の船はスペイン沖で嵐に遭って遺体が海に中へドボーン。しばらくしてガリシアに漂着した遺体はホタテ貝でカバーされてたので無傷だった。
・浜辺で結婚式を挙げてると聖ヤコブの遺体を運ぶ天使の船が接近。若い花婿を乗せた馬が船にビックリして海に中へドボーン。しばらくして花婿と馬が救出されるとホタテ貝でカバーされてたので無傷だった。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Camino_de_Santiago]]

&ref(聖人_聖ヤコブ(スペイン:ホタテ貝殻).JPG)
左側:サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂
右側:巡礼者の杖と帽子

ってことで、[[ホタテ貝殻>https://en.wikipedia.org/wiki/Scallop]]は「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」のシンボルです。
多くの巡礼者は巡礼を始める時にホタテ貝殻を「巡礼者の目印」として帽子、洋服、杖、バックパック、…に装着。
中世の頃は教会、城、修道院が訪れた巡礼者にホタテ貝殻1すくい分の食料や飲み物を施してました。

&ref(聖人_聖ヤコブ(スペイン:ホタテ貝殻2).JPG)サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(1648年)
}

#blockquote(){&u(){&bold(){サンティアゴ騎士団もホタテ貝殻}}

サンティアゴ騎士団は12世紀「サンティアゴ・デ…の巡礼者の保護」「全キリスト教徒の擁護」を目的に誕生しました。
騎士は[[王旗>https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_standard]]と白い[[ケープ>https://en.wikipedia.org/wiki/Cape]]を装備。
王旗は[[十字架>https://en.wikipedia.org/wiki/Cross]]の真ん中やアームの先端に[[ジェームスホタテ貝殻>https://en.wikipedia.org/wiki/Pecten_jacobaeus]]が付いてます。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Santiago]]

&ref(聖人_聖ヤコブ(スペイン:サンティアゴ騎士団).JPG)[[聖母マリアのカンティガ集>https://en.wikipedia.org/wiki/Cantigas_de_Santa_Maria]](13世紀)

サンティアゴ騎士団のシンボルは赤い[[クロス・フローリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Cross_fleury]]([[紋章>https://en.wikipedia.org/wiki/Crosses_in_heraldry]])の先っぽが剣になった[[聖ヤコブの十字架>https://en.wikipedia.org/wiki/Cross_of_Saint_James]]です。
3本の[[フルール・ド・リス(アヤメ)>https://en.wikipedia.org/wiki/Fleur-de-lis]]は「汚れなき名誉」。
剣は「聖ヤコブが剣で斬首されて[[殉教>https://en.wikipedia.org/wiki/Martyr]]=キリストの名において剣を取る=騎士道的な品性」を意味してます。

&ref(聖人_聖ヤコブ(スペイン:サンティアゴ騎士団2).JPG)
左側:サンティアゴ騎士団の紋章([[ウクレス修道院>https://es.wikipedia.org/wiki/Monasterio_de_Ucl%C3%A9s]])
右側:[[Jan Gossaert>https://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Gossaert]]画「Portrait of Francisco de los Cobos y Molina 」(1530-1532年頃)

先っぽの剣は[[十字軍の遠征>https://en.wikipedia.org/wiki/Crusades]](11世紀~)で騎士が毎日の礼拝に小さな十字架を地面に刺して祈ったからと言われてます。
ホタテ貝殻はペンダントとかになってるっぽい。
右側のスペイン王[[カルロス1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_V,_Holy_Roman_Emperor]]の秘書[[Francisco de los Cobos y Molina>https://en.wikipedia.org/wiki/Francisco_de_los_Cobos_y_Molina]]は1519年サンティアゴ騎士団を拝命してます。
}

#endregion

#region(close,なんでスペインの守護聖人なの?)

大昔のイベリア半島は[[西ゴート王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Visigothic_Kingdom]]が支配してました。でも超イケイケのイスラム教徒[[ウマイヤ朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Umayyad_Caliphate]]に負けて711年滅亡。
イベリア半島を取り戻すぞー!レコンキスタだー!
ってことで、アストゥリアス地方に逃れた西ゴート王国の貴族[[ペラーヨ>https://en.wikipedia.org/wiki/Pelagius_of_Asturias]]は718年[[アストゥリアス王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Asturias]]を建国します。

&ref(聖人_聖ヤコブ(守護聖人).JPG)750年のイベリア半島

[[レコンキスタ>https://en.wikipedia.org/wiki/Reconquista]](718-1492年)はイスラム教徒[[ムーア人>https://en.wikipedia.org/wiki/Moors]]に征服されたイベリア半島をキリスト教徒が奪還する戦いです。
詳細は[[【海軍と騎士団】レコンキスタとイスラム文化>【海軍と騎士団】レコンキスタとイスラム文化]]をどうぞ。
キリスト教徒の皆さんが頑張ってガンガン取り返したので1469年スペイン王国と1139年ポルトガル王国が誕生します。

#blockquote(){&u(){&bold(){レコンキスタの真っ最中に聖ヤコブの骨を発見}}

伝説によると、船でガリシアに辿り着いた聖ヤコブのお墓は3世紀[[ローマ帝国>https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Empire]]に壊されて分からなくなっちゃいます。
814年The hermit Pelagius(星?)が奇妙にビカビカして聖ヤコブの墓を発見。
[[イリア・フラビア>https://en.wikipedia.org/wiki/Iria_Flavia]](ガリシア)の[[司教Theodemar>https://en.wikipedia.org/wiki/Theodemar_of_Iria]]は「奇跡だ!奇跡!」と[[王アルフォンソ2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Alfonso_II_of_Asturias]](在位:791-842年)に報告。
ってことで、王様はそこに礼拝堂を建設します。
ちなみにその後礼拝堂は教会になり、イスラム教徒に壊され、…サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂になります。

&ref(聖人_聖ヤコブ(守護聖人:骨).JPG)「Giacomo di Nicola da Recanati, Trasporto del corpo di San Giacomo, dalla chiesa di San Giacomo di Camerino」

伝説が誕生したのは建国したてのアストゥリアス王国がまだガッチリ樹立されてなかったからです。
レコンキスタ中にアタフタしてる場合じゃない!
ってことで、王アルフォンソ2世は「聖ヤコブの骨を発見」を断言。発見は皆さんに支持されてガッチリ樹立に一役買います。
}

#blockquote(){&u(){&bold(){レコンキスタの真っ最中に聖ヤコブが降臨}}

[[クラビホの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Clavijo]]はアストゥリアス王[[ラミロ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Ramiro_I_of_Asturias]](在位:842–850年)がイスラム教徒[[コルドバ首長国>https://en.wikipedia.org/wiki/Emirate_of_C%C3%B3rdoba]]と戦う伝説です。
コルドバ首長国はウマイヤ朝の行政区。
キリスト教徒がビシバシやられてると白馬に乗った[[聖ヤコブ・マタモロス>https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_James_Matamoros]]が突然登場して王ラミロ1世を勝利へ導きます。

&ref(聖人_聖ヤコブ(守護聖人:降臨).JPG)
左側:814年のイベリア半島
右側:[[José Casado del Alisal>https://en.wikipedia.org/wiki/Jos%C3%A9_Casado_del_Alisal]]画「Santiago en la Batalla de Clavijo」(1885年)

聖ヤコブ・マタモロスは「サンティアゴ・マタモロス(Santiago Matamoros)」としてスペインの守護聖人になります。
Matamorosは「mata(matar):殺す+moros:ムーア人」って意味。
サンティアゴ・マタモロスが守護聖人になってスペイン軍の[[閧の声>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_cry]]「サンティアゴ!」が誕生します。

&ref(聖人_聖ヤコブ(守護聖人:降臨2).JPG)マタドールJose Maria Manzanaresさん

ぜんぜん関係ないけどmataのついでに、スペインの闘牛士は「[[マタドール>https://en.wikipedia.org/wiki/Torero]](matador=mata+dor)」です。
衣装は金銀のスパコールで装飾された[[光の衣裳>https://en.wikipedia.org/wiki/Traje_de_luces]]。
短いジャケットはChaquetilla、お尻がキュッとするタイツはTaleguilla。赤いマントは[[ムレタ>https://en.wikipedia.org/wiki/Muleta]]、剣は[[エストック>https://en.wikipedia.org/wiki/Estoc]]です。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish-style_bullfighting]]
}

#blockquote(){&u(){&bold(){スペイン軍の心を1つにする閧の声「サンティアゴ!」}}

レコンキスタ(718-1492年)と[[スペイン帝国>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Empire]](1492-1898年)のスペイン軍の閧の声は「サンティアゴ!」です。
初めてのご使用はたぶん1212年レコンキスタのターニングポイント[[ナバス・デ・トロサの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Las_Navas_de_Tolosa]]。
スペイン帝国では特に騎兵隊や[[コンキスタドール>https://en.wikipedia.org/wiki/Conquistador]](アメリカ大陸の探検家)が好んでご使用してます。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Santiago!]]

&ref(聖人_聖ヤコブ(守護聖人:閧の声).JPG)ナバス・デ・トロサの戦い([[Palacio de Navarra>https://es.wikipedia.org/wiki/Palacio_de_Navarra]]の絨毯)

閧の声には「Santiago!:聖ヤコブ!」「¡Santiago y cierra, España!:聖ヤコブの御加護を!スペイン軍突撃!」があります。
日本語の訳は参考程度ね。
ちなみに日本の閧の声は「[[バンザイ>https://en.wikipedia.org/wiki/Banzai_charge]]」だそうです。うーん、個人的には勝ち鬨「えいえい」「おー!」の方がシックリかな。
}

#endregion


**聖ニコラス…ミラのニコラオス(270-343年)

聖ニコラスは若い頃からとーっても信心深かった[[ミラ>https://en.wikipedia.org/wiki/Myra]]の司教です。325年[[ニカイア信条>https://en.wikipedia.org/wiki/Nicene_Creed]]に署名した司教の1人。
沢山の奇跡を起こしたので別名Nikolaos the Wonderworker(奇跡を行なう人)。
弱者を助けるときはいつも「人に知られないようにこっそり」します。ってことで、サンタクロースのモデルになったっぽい。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Nicholas]]

|&ref(聖人_聖ニコラス.JPG)|BGCOLOR(lightgrey):出身地|ローマ帝国リュキア属州[[パタラ>https://en.wikipedia.org/wiki/Patara,_Lycia]](トルコ)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):列聖|Pre-Congregation|
|~|BGCOLOR(lightgrey):崇敬|全てのキリスト教|
|~|BGCOLOR(lightgrey):有名な聖堂|[[サン・ニコラ教会>https://en.wikipedia.org/wiki/Basilica_di_San_Nicola]](イタリア)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):祝日|12月6日|
|~|BGCOLOR(lightgrey):守護聖人|水夫、漁師、子供、弓術、無実の被告人、後悔中の泥棒、商人、桶屋、…|
|~|BGCOLOR(lightgrey):アトリビュート|司教の[[祭服>https://en.wikipedia.org/wiki/Vestment]]、…|
画:聖ニコラスのペンダント(21世紀:通販)

#region(close,なんで水夫の守護聖人なの?)

聖ニコラスの海運がらみの伝説は「嵐を静めた」「死んだ水夫を生き返らせた」…兎にも角にもピンチの水夫を助けます。
ってことで、聖ニコラスは水夫の守護聖人。
ちなみにギリシアでは[[ポセイドン>https://en.wikipedia.org/wiki/Poseidon]]のキリスト教徒バージョン「海の支配者」って扱い。[[ギリシャ海軍>https://en.wikipedia.org/wiki/Hellenic_Navy]]の守護聖人です。

&ref(聖人_聖ニコラス(守護聖人).JPG)[[St Dominic's priory church>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Dominic%27s_Priory_Church]](ロンドン)

日本の航海の神様は船霊(ふなだま)や船に祀る艦内神社です。
船霊は女の神様で762年嵐に遭った遣渤海使([[渤海>https://en.wikipedia.org/wiki/Balhae]]に派遣した使節)の船「能登」を無事に帰国させた記録あり。
艦内神社に祀る神様は船によってイロイロだそうです。

#blockquote(){&u(){&bold(){超ざっくりな水夫にまつわる伝説の1つ}}

聖ニコラスの海運がらみの画はアッチコッチの国でたーくさんあります。スペインの画を探したけど見つけられなかったorz
こちらの画は嵐に遭って沈没しそうな船。
聖ニコラスが登場して船を救出。左下の女性は[[人魚>https://en.wikipedia.org/wiki/Mermaid]]らしい。人魚はときどき嵐や難破に関係します。

&ref(聖人_聖ニコラス(守護聖人:伝説).JPG)[[Bicci di Lorenzo>https://en.wikipedia.org/wiki/Bicci_di_Lorenzo]]画「St Nicholas of Bari Banishing the Storm」(1433-35年:イタリア)

若い聖ニコラスは大修道院長の叔父と一緒に聖地[[ベツレヘム>https://en.wikipedia.org/wiki/Bethlehem]]へ巡礼の旅に出ます。
2人はエジプト船に乗ります。
水夫達は誰も聖ニコラスのことを知りません。

船が出航した初日に聖ニコラスは「船が嵐に遭って全員がヤバイ」という夢を見ます。
朝目が覚めると水夫に「猛烈な嵐が来てる」と訴えます。
でも水夫達は「(エジプトの)神様が俺達を護ってくれるからへーきへーき」と言って聖ニコラスの言葉を信じません。

すぐ空は暗くなり、船の周りに強風が吹き荒れます。
船ヤバイ!全員ヤバイ!
帆を降ろしても相変わらず全部ヤバイです。マストも折れそうなくらいヤバイです。

1人の水夫がマストに登って折れないようにロープを張ります。そしてマストから下りるとき滑り落ちて死にます。
聖ニコラスは祈ります。
すると嵐が静まり、死んだ水夫が「ちょっと寝てました」って感じに生き返ります。

水夫達は聖ニコラスに感謝します。船は無事に聖地へ到着します。
そして2人はイエスが歩いた聖地を巡礼します。
シオン山にある最後の晩餐の部屋にも行っちゃってます。鍵の掛かった重い扉は聖ニコラスが近づくと勝手に開きます。
}

#endregion

#region(close,ウィンチェスター大聖堂の洗礼盤に彫られた伝説(子供のお話なのでご注意ください))

1150年頃に作られた[[ウィンチェスター大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Winchester_Cathedral]](イギリス)の[[洗礼盤>https://en.wikipedia.org/wiki/Baptismal_font]]には聖ニコラスが奇跡を起こした伝説が彫られてます。
洗礼盤はキリスト教の[[洗礼>https://en.wikipedia.org/wiki/Baptism]]で使う[[聖水>https://en.wikipedia.org/wiki/Holy_water]]が入った器。
東面のハトは「聖霊や魂」、北面の獣(たぶんライオン)は「強さ」の象徴っぽいです。

&ref(聖人_聖ニコラス(ウィンチェスター大聖堂).JPG)洗礼盤

#blockquote(){&u(){&bold(){超ざっくりな伝説}}

ウィンチェスター大聖堂の洗礼盤に彫られた聖ニコラスの伝説はアレコレ調べたけど皆さんビミョーに内容が違います。
どれが正解か分からない…。
超ざっくりな伝説はこんな感じです。

|&ref(聖人_聖ニコラス(ウィンチェスター大聖堂:西左).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):西面(左側)|
|~|肉屋のオッサンは夜中に迷子になった3人の男の子を保護します。&br()「うへへ、子供達をソーセージにするぜ」&br()そして眠った子供達の首を斧で切り落として体を塩漬け樽に入れます。&br()お仕事が終わったとき、一夜の宿を探す聖ニコラスが現れます。&br()「塩漬け樽に入った3人の男の子を夕食に出して下さい」&br()オッサンはビックリ!&br()良心の痛みを感じて聖ニコラスに全てを打ち明けます。&br()聖ニコラスは子供達を生き返らせて、その後保護者になります。|
|&ref(聖人_聖ニコラス(ウィンチェスター大聖堂:西右).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):西面(右側)|
|~|子供がいない貴族は聖ニコラスに誓います。&br()「もし息子(相続人)を授かったら金のカップを贈ります」&br()貴族に男の子が生まれます。&br()作った金のカップ1号は素晴らしい出来で、貴族は惜しくなります。&br()「うへへ、小さな金のカップ2号を作って献上しようっと」&br()貴族は2号を献上するために息子と一緒に海を渡ります。&br()船が嵐に遭い1号を持った息子は海中にさらわれます。&br()貴族は悲嘆に暮れながら聖ニコラスの教会に2号を献上します。&br()祭壇に置かれた2号は下に落ちます。何度やっても落ちます。&br()すると目の前に1号を持った息子が現れます(聖ニコラスが海中から救い出して陸地に運んだの)。&br()感謝した貴族は聖ニコラスに1号と2号を献上します。|
|&ref(聖人_聖ニコラス(ウィンチェスター大聖堂:南).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):南面|
|~|お貧乏な貴族は教会の前にいる聖ニコラスに跪きます。&br()「私は3人の娘に持参金も持たせてあげられなくて情けないです」&br()聖ニコラスは彼に金貨の入ったお財布を与えます。&br()金貨は彼の左手から右手をスルーと通過します。&br()そして貴族と手を繋いでた娘の手にスルーと渡ります。&br()タカを抱いた青年は娘の1人と結婚するために持参金を待ってます。|
}

#endregion


**サラゴサの聖ヴィセンテ(???-304年頃)

聖ヴィセンテは[[サラゴサ大司教区>https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Catholic_Archdiocese_of_Zaragoza]]の助祭です。ローマ帝国の[[皇帝ディオクレティアヌス>https://en.wikipedia.org/wiki/Diocletian]]は増加するキリスト教徒を迫害。
ってことで、捕らえられ殉教(スペイン初の殉教者)。
皆さんが崇敬してるので各地に聖ヴィセンテのお名前が付いてます。[[サン・ヴィセンテ島>https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Vincent_(Antilles)]]は[[コロンブス>https://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Columbus]]が1月22日に発見したから。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Vincent_of_Saragossa]]

|&ref(聖人_聖ヴィセンテ.JPG)|BGCOLOR(lightgrey):出身地|ローマ帝国ヒスパニア・タッラコネンシス属州[[ウエスカ>https://en.wikipedia.org/wiki/Huesca]](スペイン)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):列聖|Pre-Congregation|
|~|BGCOLOR(lightgrey):崇敬|カトリック教会|
|~|BGCOLOR(lightgrey):有名な聖堂|[[リスボン大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Lisbon_Cathedral]](ポルトガル)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):祝日|1月22日|
|~|BGCOLOR(lightgrey):守護聖人|[[リスボン>https://en.wikipedia.org/wiki/Lisbon]]、[[バレンシア>https://en.wikipedia.org/wiki/Valencia]]、[[ヴィチェンツァ>https://en.wikipedia.org/wiki/Vicenza]]、…&br()ワイン醸造者、ビネガー醸造者、…|
|~|BGCOLOR(lightgrey):アトリビュート|祭服、殉教者の道具(拷問の道具)、…|
画:[[Bernat Martorell>https://en.wikipedia.org/wiki/Bernat_Martorell]]画「Altarpiece of Saint Vincent」(1438-1440年頃:スペイン)

#region(close,皇帝ディオクレティアヌスの「最後の大迫害」)

大昔のヨーロッパは[[ローマ帝国>https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Empire]](紀元前27世紀-395年)が支配してました。でも領土が広大すぎて国はガタガタ。
皇帝ディオクレティアヌス(在位:284-305年)は混乱を収拾するために帝権を強化。
285年ローマ帝国の領土を分割統治する[[テトラルキア(四帝分治制)>https://en.wikipedia.org/wiki/Tetrarchy]]を開始します。ガチガチに統治してガタガタ言わせないぜ!
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Roman_Empire]]

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(皇帝ディオクレティアヌス).JPG)293-305年のローマ帝国

テトラルキアは293年2人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)が東西を分割統治する「四帝分治制」になります。
ちなみに395年ローマ帝国は東西に分裂。
その後、西ローマ帝国は[[西ゴート王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Visigothic_Kingdom]]達に、東ローマ帝国はイスラム教徒の[[オスマン帝国>https://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire]]に滅ぼされます。

#blockquote(){&u(){&bold(){皇帝ディオクレティアヌスの「最後の大迫害」}}

皇帝ディオクレティアヌスのガチガチ統治は宗教も「皇帝崇拝(神様[[ジュピター>https://en.wikipedia.org/wiki/Jupiter_(mythology)]]と皇帝の結合)」に統一します。
ローマ帝国全土に広がるキリスト教やユダヤ教は邪魔。
303年「皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒に法的権利ナシ」と迫害を開始。皇帝崇拝オケにしたユダヤ教徒は迫害を免れます。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Diocletianic_Persecution]]

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(皇帝ディオクレティアヌス:最後の大迫害).JPG)[[ディオクレティアヌス宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Diocletian%27s_Palace]](1993年:クロアチア紙幣500クーナ)

ってことで、皇帝ディオクレティアヌス、[[副帝ガレリウス>https://en.wikipedia.org/wiki/Galerius]]、[[正帝マクシミアヌス>https://en.wikipedia.org/wiki/Maximian]]はキリスト教徒をガンガン迫害します。
[[副帝コンスタンティウス>https://en.wikipedia.org/wiki/Constantius_Chlorus]]は手を抜いてたっぽい。
キリスト教徒を非難してるけど実はキリスト教徒なんじゃない?ってウワサがあります。

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(皇帝ディオクレティアヌス:最後の大迫害2).JPG)[[Jan Luyken>https://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Luyken]]画「la Persecuzione degli imperatori Diocleziano e Massimiano nell'anno 301」(1686年:オランダ)

副帝コンスタンティウスの息子[[皇帝コンスタンティヌス1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Constantine_the_Great]](在位:306-337年)は313年キリスト教を公認します。
キリスト教の影響力は増大。
なんやかんやで[[皇帝テオドシウス1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Theodosius_I]](在位:379-395年)は392年キリスト教をローマ帝国の国教にします。
}

#endregion

#region(close,サン・ヴィセンテ岬にまつわる聖ヴィセンテの超ざっくりな伝説)

[[サン・ヴィセンテ岬>https://en.wikipedia.org/wiki/Cape_St._Vincent]](ポルトガル)も聖ヴィセンテのお名前が付いた地名の1つ。その由来は伝説として残ってます。
あとやたらと登場する大カラス(レイヴン)はワタリガラス。
[[聖書で活躍してるカラス>http://en.wikipedia.org/wiki/Cultural_depictions_of_ravens]]で、ゴミ置き場を荒らすハシブトガラスとは別人でございます。

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(サン・ヴィセンテ岬).JPG)
左側:サン・ヴィセンテ岬
右側:[[Théodule Ribot>https://en.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9odule_Ribot]]画「Saint Vincent」(19世紀:フランス)

#blockquote(){&u(){&bold(){超ざっくりな伝説}}

こちらは[[Ermita de Santa María del Monte>https://es.wikipedia.org/wiki/Ermita_de_Santa_Mar%C3%ADa_del_Monte]]の祭壇画「Frontal de Altar dedicado a San Vicente diácono」(8世紀末)です。
全12枚に聖ヴィセンテの生涯を描写。
21世紀はウエスカ郡議会[[Diputación Provincial de Huesca>https://es.wikipedia.org/wiki/Diputaci%C3%B3n_Provincial_de_Huesca]]の1階に展示されてます。

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(サン・ヴィセンテ岬:伝説).JPG)

聖ヴィセンテはサラゴサの司教[[ヴァレリウス>https://en.wikipedia.org/wiki/Valerius_of_Saragossa]]から教育を受けて助祭に任命されます。
司教ヴァレリウスが言語障害になるとスポークスマンになります。
皇帝ディオクレティアヌスの「最後の大迫害」で知事Daciano(El prefecto Daciano)は2人を捕らえます。

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(サン・ヴィセンテ岬:伝説2).JPG)

捕らえられた聖ヴィセンテは鞭(scourge)や焼き網(gridiron)で激しい拷問を受けて力尽きます。
遺体は放置されます。
大カラスが遺体をハゲワシから守ります。
(ヴィセンテは大カラスにご飯をあげたりして可愛がっていた。という伝説もあります。)

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(サン・ヴィセンテ岬:伝説3).JPG)

聖ヴィセンテを支持する人々は遺体を[[サン・ヴィセンテ岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Cape_St._Vincent]]に運んで霊廟を建てます。
大カラスの群れが霊廟を守ります。
(遺体は海に放り込まれてサン・ヴィセンテ岬に着いた。という伝説もあります。)

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(サン・ヴィセンテ岬:伝説4).JPG) 

1173年ポルトガル王アフォンソ1世は聖ヴィセンテの遺体を掘り出して船でリスボンへ運びます。
大カラスの群れが船を守ります。
遺体は[[サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院>http://en.wikipedia.org/wiki/Monastery_of_S%C3%A3o_Vicente_de_Fora]]に祀られます。
(王はリスボンでの戦い(レコンキスタ)に勝利したら遺体を教会に祀る誓いを立てた。という伝説もあります。)
(リスボンに流れ着いた遺体を大カラスが引き上げた。という伝説もあります。)
}

#blockquote(){&u(){&bold(){リスボンの紋章も聖ヴィセンテ}}

聖ヴィセンテが捕らえられた様子はローマのキリスト教詩人[[ルデンティウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Prudentius]]著「carmen(抒情詩)」に書かれてます。
[[リスボンの紋章>http://en.wikipedia.org/wiki/Coat_of_arms_of_Lisbon]]は聖ヴィセンテが船でリスボンへ運ばれるトコ。
紋章が描かれた白黒の[[リスボンの旗>http://en.wikipedia.org/wiki/Coat_of_arms_of_Lisbon]]は中世から使われてるヨーロッパで現役最古の旗の1つです。

&ref(聖人_聖ヴィセンテ(サン・ヴィセンテ岬:紋章).JPG)リスボンの旗(リスボン市役所)
}

#endregion


**アビラの聖ヴィセンテ(???-306年頃)

聖ヴィセンテは皇帝ディオクレティアヌスの「皇帝崇拝」文書の署名を拒否して兄弟SabinaとCristetaと一緒に殉教します。 
3人の遺体は岩の下へ。
1062年レコンキスタで[[アビラ>https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%81vila,_Spain]]がヤバくなったので遺骨は[[Monastery of San Pedro de Arlanza>https://en.wikipedia.org/wiki/Monastery_of_San_Pedro_de_Arlanza]]へ避難。1175年元の場所へ戻ります。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/San_Vicente,_%C3%81vila]]

|&ref(聖人_アビラの聖ヴィセンテ.JPG)|BGCOLOR(lightgrey):出身地||
|~|BGCOLOR(lightgrey):列聖||
|~|BGCOLOR(lightgrey):崇敬||
|~|BGCOLOR(lightgrey):有名な聖堂|[[アビラの聖ヴィセンテ教会>https://en.wikipedia.org/wiki/San_Vicente,_%C3%81vila]]|
|~|BGCOLOR(lightgrey):祝日||
|~|BGCOLOR(lightgrey):守護聖人||
|~|BGCOLOR(lightgrey):アトリビュート||

#region(close,聖ヴィセンテの超ざっくりな伝説)

[[アビラの聖ヴィセンテ教会>https://en.wikipedia.org/wiki/San_Vicente,_%C3%81vila]]は3人の遺体が埋められた岩の上に建てられた聖堂です。
レコンキスタの前線が南下して「アビラからイスラム教徒を追い出したぜ!」になった1130年頃から建築を開始して12世紀に完成。
聖ヴィセンテのお墓には彼の生涯が描かれてます。他の2人の姉妹はどうなったんでしょね?
[[wikipedia>https://es.wikipedia.org/wiki/Cenotafio_de_los_santos_Vicente,_Sabina_y_Cristeta]]

&ref(聖人_アビラの聖ヴィセンテ(伝説).JPG)
左側:アビラの聖ヴィセンテ教会
右側:聖ヴィセンテのお墓(アビラの聖ヴィセンテ教会)

#blockquote(){&u(){&bold(){聖ヴィセンテのお墓に描かれてる超ざっくりな伝説}}

こちらは聖ヴィセンテのお墓に描かれてる伝説。実際の画はちゃんと色つきです。
大人の事情で両面とも画の右端は省略。
あと南面でいきなり登場してヘビに首を絞められるユダヤ人は迫害者に聖ヴィセンテ達の情報を提供を売った人です。

&ref(聖人_アビラの聖ヴィセンテ(伝説:お墓北面).JPG)北面

+捕らえられた聖ヴィセンテは手錠をかけられて知事Daciano(El pretor Daciano)の前へ連行されます。
+刑務所で聖ヴィセンテは「なにがなんでも私はキリスト教徒。皇帝崇拝なんてお断りでーす!」の証に足跡を残します。
+刑務所に2人の姉妹が訪れて聖ヴィセンテに「3人でここから逃げましょ」と頼みます。
+Dacianoは逃げた聖ヴィセンテ達の追跡を命じます。
+馬に乗った兵士は聖ヴィセンテ達を追います。
+馬に乗った聖ヴィセンテ達はアビラの方へ逃げます。

&ref(聖人_アビラの聖ヴィセンテ(伝説:お墓南面).JPG)南面

+兵士に捕らえられた聖ヴィセンテ達は服を脱がされます。
+聖ヴィセンテ達は磔にされます。
+2人の天使が聖ヴィセンテ達の魂をリネンに乗せて空へ連れて行きます。遺体は岩の下へ埋められます。
+聖ヴィセンテ達の遺体からニョロニョロ現れたヘビはユダヤ人の首を絞めます。ユダヤ人は神様に許しを乞います。
+反省したユダヤ人は「聖ヴィセンテ達の遺体をちゃんと埋葬しよう!」と寺院を建てる決意をします。
}

#endregion


**聖イシドロ農夫(1070–1130年)

聖イシドロ農夫Isidro de Merlo y Quintanaはマドリードの裕福な地主に雇われて一生懸命働いた貧しい農夫です。
お名前は両親の守護聖人[[セビリャの聖イシドロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Isidore_of_Seville]]から。
畑を耕してると天使がお手伝いしました。地主の娘も生き返らせました。枯れ地に泉も湧かしました。井戸の水も復活させました。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Isidore_the_Farmer]]

|&ref(聖人_聖イシドロ農夫.JPG,,height=200)|BGCOLOR(lightgrey):出身地|カスティーリャ王国[[マドリード>https://en.wikipedia.org/wiki/Madrid]](スペイン)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):列聖|1622年(ローマ教皇[[グレゴリウス15世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Gregory_XV]])|
|~|BGCOLOR(lightgrey):崇敬|カトリック教会|
|~|BGCOLOR(lightgrey):有名な聖堂|[[サン・イシドロ教会>https://en.wikipedia.org/wiki/San_Isidro_Church,_Madrid]](マドリード)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):祝日|5月15日(スペイン)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):守護聖人|マドリード、[[サン・イシドロ>https://en.wikipedia.org/wiki/San_Isidro,_Buenos_Aires]](アルゼンチン)、[[ラ・セイバ>https://en.wikipedia.org/wiki/La_Ceiba]](キューバ)、…。&br()農業、農民、日雇い労働者、…。|
|~|BGCOLOR(lightgrey):アトリビュート||

ちなみにセビリャの聖イシドロ(560–636年:スペイン)は1598年列聖(ローマ教皇[[クレメンス8世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Clement_VIII]])された聖人です。
後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の1人。
なんと「インターネット利用者とプログラマー」の守護聖人です。ほえー。

#region(close,聖イシドロが亡くなった後も続く奇跡)

ある日スペイン王[[フェリペ3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_III_of_Spain]](王フェリペ2世の息子)は死にそうなヤバイ病気にかかります。
ってことで、[[Church of San Andrés>https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_San_Andr%C3%A9s_(Madrid)]]にある聖イシドロの遺体を王様の部屋に移動。
すると病気がスッキリ完治。歴史的に病気になった王族の皆さんが聖人の治癒力に頼るのはよくある話しだそうです。

&ref(聖人_聖イシドロ農夫(奇跡).JPG)[[Alonso Sánchez Coello>https://en.wikipedia.org/wiki/Alonso_S%C3%A1nchez_Coello]]画「King Philip II of Spain banqueting with his family and courtiers(The Royal feast)」(1579年)

感謝した王様は聖イシドロの古い[[聖遺物箱>https://en.wikipedia.org/wiki/Reliquary]]を高価な銀製の聖遺物箱に変えます。そしてローマ教皇庁へ[[列福>https://en.wikipedia.org/wiki/Beatification]]を申請。
1619年列福(ローマ教皇[[パウルス5世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Paul_V]])へ登録。
1622年[[イグナチオ・デ・ロヨラ>https://en.wikipedia.org/wiki/Ignatius_of_Loyola]]、[[フランシスコ・ザビエル>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Xavier]]、[[アビラのテレサ>https://en.wikipedia.org/wiki/Teresa_of_%C3%81vila]]、[[フィリッポ・ネリ>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Neri]]と一緒に列聖されます。

#endregion


**アヴィラの聖テレサ(1515-1582年)

聖者の生き様に魅了され、全開で実行した修道女。苦行したり、女子修道院を建てたり、カルメル会から迫害もされてます。
父の家系はおそらくユダヤ教からの改宗者(コンベルソ)。
エボリ大公夫人ともトラブってたみたいです。トラブルの内容はスペイン語版に書いてるっぽいけど、スペイン語ちんぷんかんぷん。
[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Teresa_of_%C3%81vila]]

|&ref(聖人_聖テレサ.JPG,,height=200)|BGCOLOR(lightgrey):出身地|カスティーリャ(スペインのカスティーリャ・イ・レオン州)のアビラ|
|~|BGCOLOR(lightgrey):列聖|1622年(ローマ教皇グレゴリウス15世)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):崇敬|カトリック教会|
|~|BGCOLOR(lightgrey):有名な聖堂|Convent of the Annunciation(スペインのアルバ・デ・トルメスにある女子修道院)|
|~|BGCOLOR(lightgrey):祝日|10月15日|
|~|BGCOLOR(lightgrey):守護聖人|病気(スペイン)。病気、チェス、レースを編む人、両親を失った人、優雅になりたい人、修道会の修道士…(クロアチア)。|

※コンベルソ
15世紀アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世(フェリペ2世の祖先)はイベリア半島に住むイスラム教徒とユダヤ教徒の排除を開始。政権中枢に入り込んでいた有力ユダヤ人達はキリスト教に改宗して生き残った。
クリストファー・コロンブスやミゲル・デ・セルバンテスもコンベルソの家系だったという説がある。

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