兵の声は幸村の耳には届かない。ぼんやりと散る桜を見上げる。
ひらひらと桜が舞う。もうそんな季節なのだ。
川中島に軍を進めたのは年が明ける前だった。初雪が舞う中、政宗と桜を見るまでには
戻ると約束した。
ところが戦は長引き、桜は既に散るような季節。
(約束を違えるなど、あってはならぬこと。しかし……)
上田の桜はどうだろう。山桜の類ならまだ残っているだろうが、川べりの桜はもう散って
葉が萌えているだろう。あれは散るのが早い。
川べりの桜がどれほど美しいのかを語ったことがある。
春になったら花見でもしようと微笑む姿を励みに、心理戦となった川中島を乗り越える
ことができた。
幸村の正室は、奥州の名門、伊達家の息女である。
色々と事情があって伊達政宗と名乗り家督を継いで奥州を治めていたのだが、昨年豊臣に
よって滅ぼされた。そのまま豊臣の側室に入るところを豊臣の手から奪い、秋の終わりに
祝言に持ち込んだ。
一緒になって驚いたのは、為政者としての能や溢れるような知性や一騎当千の武や傾国傾城の
美貌よりも、凝りすぎるくらい凝り性な性分だった。
武将というものは、武力も当然ながら歌舞音曲などの芸術や和歌や漢詩などの文学にも
明るくなければならない。政宗も当然のようにそれら一通りを習っており、どれもこれも
見事なものだった。
祝言の翌日、信玄と「藤原定家と源実朝の評価について」を語り合ったこともある。
付き合わされた幸村は、半分も理解できなかった。二人とも文人としての素養は一級品で
あり、どちらも「同等に語り合える仲間」が欲しかったらしい。夫を差し置いて主君と
夜通し盛り上がる妻、という構図はひそかに悲しかった。
「よい女じゃ。わしの側室に迎えたいわい」という冗談に対して「絹を裂く音を毎日聞かせてくれたり
罪人を焼き殺す刑罰を毎日してくれたり緊急の報せに使う狼煙を毎日上げてくれたりするなら
考えてもいい」と答え、真に受けた幸村が慌てるのを尻目に信玄は「なるほど、顰め面が
一番美しいわけだ」と言って豪快に笑った。
なんのことかさっぱり分からない。あとで全部傾国の美女の好みだと聞いた。「全部史記
に載ってるぜ」とのこと。顰め面が綺麗な女性というのも、国を傾けた女らしい。
知的なやり取りと褒めていいのかオタク過ぎると眉をひそめればいいのか本気で悩んだ。
変わった部分は他にも沢山ある。鮭の皮が好きだったり煙草を嗜んだり、厠に籠って考え事をしたり。
かなり長時間籠るので、倒れたのではないかと戸をぶち破ったことがある。厠の片隅で
床几に座って書類を睨んでおり、「どうした?」とこちらが心配されてしまった。
少しずつ上田や真田の習慣に慣れればいいと思っていたが、彼女が慣れるまでに自分が
慣れてしまいそうだ。
桜が舞う。陽光が眩しくて手をかざした。
何かと凝りまくる妻のことだ。きっと凝りまくった花見の準備をしていただろう。
実家を失い、彼女には寄る辺がない。幸村しか頼れるものがない。
約束を破れば、幸村を信じられなくなってしまうのではないだろうかと不安になる。
山がところどころ桜の色に染まっている。まだ山桜は散っていないのだから、
政宗をそこまで連れて行けばいい。
しかし、約束したのは上田の川辺。馬に乗ったり山に登ったりして行くような場所に
わざわざ花見に行くというのは気が引けたし、言い訳がましい。
「……どうすればよいのやら」
ふわり、と最後の花弁が舞う。肩についた花弁を指で摘み、幸村はため息をついた。
花影ワヤン3
ひらひらと桜が舞う。もうそんな季節なのだ。
川中島に軍を進めたのは年が明ける前だった。初雪が舞う中、政宗と桜を見るまでには
戻ると約束した。
ところが戦は長引き、桜は既に散るような季節。
(約束を違えるなど、あってはならぬこと。しかし……)
上田の桜はどうだろう。山桜の類ならまだ残っているだろうが、川べりの桜はもう散って
葉が萌えているだろう。あれは散るのが早い。
川べりの桜がどれほど美しいのかを語ったことがある。
春になったら花見でもしようと微笑む姿を励みに、心理戦となった川中島を乗り越える
ことができた。
幸村の正室は、奥州の名門、伊達家の息女である。
色々と事情があって伊達政宗と名乗り家督を継いで奥州を治めていたのだが、昨年豊臣に
よって滅ぼされた。そのまま豊臣の側室に入るところを豊臣の手から奪い、秋の終わりに
祝言に持ち込んだ。
一緒になって驚いたのは、為政者としての能や溢れるような知性や一騎当千の武や傾国傾城の
美貌よりも、凝りすぎるくらい凝り性な性分だった。
武将というものは、武力も当然ながら歌舞音曲などの芸術や和歌や漢詩などの文学にも
明るくなければならない。政宗も当然のようにそれら一通りを習っており、どれもこれも
見事なものだった。
祝言の翌日、信玄と「藤原定家と源実朝の評価について」を語り合ったこともある。
付き合わされた幸村は、半分も理解できなかった。二人とも文人としての素養は一級品で
あり、どちらも「同等に語り合える仲間」が欲しかったらしい。夫を差し置いて主君と
夜通し盛り上がる妻、という構図はひそかに悲しかった。
「よい女じゃ。わしの側室に迎えたいわい」という冗談に対して「絹を裂く音を毎日聞かせてくれたり
罪人を焼き殺す刑罰を毎日してくれたり緊急の報せに使う狼煙を毎日上げてくれたりするなら
考えてもいい」と答え、真に受けた幸村が慌てるのを尻目に信玄は「なるほど、顰め面が
一番美しいわけだ」と言って豪快に笑った。
なんのことかさっぱり分からない。あとで全部傾国の美女の好みだと聞いた。「全部史記
に載ってるぜ」とのこと。顰め面が綺麗な女性というのも、国を傾けた女らしい。
知的なやり取りと褒めていいのかオタク過ぎると眉をひそめればいいのか本気で悩んだ。
変わった部分は他にも沢山ある。鮭の皮が好きだったり煙草を嗜んだり、厠に籠って考え事をしたり。
かなり長時間籠るので、倒れたのではないかと戸をぶち破ったことがある。厠の片隅で
床几に座って書類を睨んでおり、「どうした?」とこちらが心配されてしまった。
少しずつ上田や真田の習慣に慣れればいいと思っていたが、彼女が慣れるまでに自分が
慣れてしまいそうだ。
桜が舞う。陽光が眩しくて手をかざした。
何かと凝りまくる妻のことだ。きっと凝りまくった花見の準備をしていただろう。
実家を失い、彼女には寄る辺がない。幸村しか頼れるものがない。
約束を破れば、幸村を信じられなくなってしまうのではないだろうかと不安になる。
山がところどころ桜の色に染まっている。まだ山桜は散っていないのだから、
政宗をそこまで連れて行けばいい。
しかし、約束したのは上田の川辺。馬に乗ったり山に登ったりして行くような場所に
わざわざ花見に行くというのは気が引けたし、言い訳がましい。
「……どうすればよいのやら」
ふわり、と最後の花弁が舞う。肩についた花弁を指で摘み、幸村はため息をついた。
花影ワヤン3




